趣味と実益 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

 第32回は「細川忠興」さんでした。
 実は、コヤブ歴史堂の“なぞ”と“伝説”があるのですが… ゲストが西川忠志さんのときは視聴率が高いそうです。
 実際、コヤブ歴史堂最高視聴率の回は、この「細川忠興」さんのときでした。

 さてさて、唐突な話ですが…

 日本の妖怪は、よく“油”をすすります。

 え? なんのこと? と、思われるかもしれませんが、神社などには夜になると石灯籠に灯明がともります。
 これがまた暗闇を強調し、昔のことですから、なんとも不気味な雰囲気を醸し出します。その闇の中から魔物があらわれ、石灯籠の油をぺろ~りぺろり…

 ぎゃ~ こわいっ

 と、なりそうですが…

 行燈や石灯籠の油を妖怪が舐める、というのは「理由」があるんです。

 神社の灯明の油、実はよく盗まれました。近隣の貧しい農民や、浮浪者たちは、夜中になるとこっそりあらわれ、神社の灯明を盗みにきたのです。
 ぼろをまとって貧しい人びと。髪をふりみだした女性… 暗闇と灯明の中で、不気味に浮かび上がる姿を「妖怪」と見間違えたところから

 灯明を舐める妖怪

 が生まれたといいます。

 明智光秀が、浪人時代、ある神社で、「夜中になると妖怪が油を舐めにくる」という噂を聞きつけました。

 「よし。イッパツ妖怪退治をしてやろう…」

 後に知将と知られる明智光秀も、若いころは、乱世の武士。これくらいの勇気はあったでしょうし、何よりも“名”をあげるチャンス…

 夜中になるのを待って、その神社にむかう…
 やがて、暗闇から“魔物”があらわれ、油をぺろりぺろり… と、思ったら、なんと一人の男が灯篭の油を盗みにきていた…

 「こんなことだろうと思った。」

 と、その男に話しかけると、なんとそれが後の細川藤孝。細川忠興の父だったわけです。

 以上は、小説やドラマなどにも取り上げられることがある、明智光秀と細川藤孝の“出会い”のエピソードでした。

 細川藤孝は、“放浪の将軍”足利義昭に仕えており、室町幕府の再興を計ろうとしていた時期でした。
 実際、このころ困窮し、神社の油を盗んで読書をしていた、という話があって、こちらのほうは事実だそうです。

 この出会いはほんとかウソか微妙なところですが、二人は“親友”となります。

 で、明智光秀は、自分の娘、玉(後の細川ガラシア)と細川藤孝の息子、忠興との“縁組”を約束し、実際に二人を婚姻させます。

 さて、織田信長が明智光秀に倒される本能寺の変が起こりました。これが1852年。
 細川藤孝は49才、そして忠興は20才です。

 この時代は10代で婚姻しますから、30才くらいですと、孫がいる武将もいたくらい。
 忠興は、歳をとってから生まれた子、ということになりそうです。

 本能寺の変が起こったとき、誰もが、細川藤孝・忠興父子は、明智光秀の味方をすると考えていました。
 光秀と藤孝の日頃の交友、そして忠興の妻が光秀の娘、という婚姻関係から考えると(戦国時代のならいから考えても)、細川は明智派であってもおかしくはありません。

 ところが、細川父子は光秀には味方しませんでした。

 本能寺の変後の光秀の失敗の二大要素は、じつに「秀吉が思った以上に早く中国地方から大軍を率いてもどってきたこと(中国大返し)」と、「細川父子が光秀の味方をしなかったこと」と言われています。

 細川藤孝は、本能寺の変を聞くと、ただちに出家し(幽斎と号し)、家督を息子の忠興に譲ってしまいます。
 後に「信長への忠誠からその死に殉じた」「光秀に味方しないということを鮮明にした」と評価され、忠興も妻の玉を、自分の近くから遠くへやってしまっていますから、「縁戚にあっても光秀には味方しない」と宣言したのだ、と、言われるところです。

 でもなぁ… それは後の展開からの後づけで…
 これってなかなか、素晴らしい、見事な「保身術」ですよね。

 もし、光秀が勝っていたとしても

 「信長に仕えた自分が細川家の当主のままだと光秀さんに疑われる可能性があったでしょ。だから光秀のさんの娘を妻としている忠興に譲ったんです。」

 とも藤孝は言い訳できるし、

 「妻は光秀さんの娘。敵に奪われてはいけないから遠くに隠しておきました。」

 とも忠興は言い訳ができます。

 「後から」、わたしたち父子は光秀の味方をしなかったんですよ、と、「弁解」できるような処置を素早くとった、ともいえるんですよね…

 本能寺の変が起こる。
 秀吉と光秀が決戦をする。
 どっちが勝か、はっきりするまで態度を保留する。

 そのため最上の策だと思うのです。

 ただ、この“策”の前提にあるのは、「秀吉が大軍を率いて戻ってきている」「秀吉・光秀決戦がある」ということを事前に知っていた、からこそできる芸当です。

 他の武将は、各方面で釘づけになっていて動けないが、秀吉は戻ってこられる…

 それを「探知」していたのが“細川ネットワーク”です。

 細川藤孝は、戦国時代にありなが、一流の教養人(和歌の研究者)としても有名で、宮中の貴族などとは和歌を通じた交流があったのです。
 教養人の「集まり」は、情報交換の場でもありました。そして忠興もまた、「茶の湯」のたしなみがあり、後年、千利休の弟子にまでなります。

 和歌や茶の湯の趣味人、細川家には、多くの商人、貴族と交流がありました。

 信長軍団は、その遠征の規模が大きくなるにつれ、その前線に大量の物資を輸送する「兵站」を商人たちにまかせています。
 また、貴族や僧侶たちは、いろいろな各方面の情報を交流を通じて知っています。

 本能寺の変が起こった段階で、どの武将が、もっともはやく京都にもどってこれるのか、その兵站システムをフル活用して「大返し」ができるのが誰なのか、細川藤孝にはすぐに想像がついたのでしょう。

 二人の決戦を見極めてから行動する

 細川父子は、このための「行動」を速やかにとったのだと思います。
 どちらが勝ってもどのようにでも説明できる…

 秀吉勝利のシナリオで後に行動した… と、考えてみるともおもしろいかもしれません。

 細川父子は、戦国時代の“綱渡り師”とでもいうべき、独特の才能がありました。

 秀吉政権にあっては、千利休の弟子に忠興はなります。もちろん秀吉に関する情報は利休を通じて得ることができます。
 後継ぎがなく、次は甥の秀次が継ぐ… いちはやく察知した忠興は、豊臣秀次に仕えるようになり、その忠勤ぶりが評価され、黄金を秀次から下賜されます。

 ところが秀吉と淀との間に秀頼が生まれる… 秀頼が後継ぎになり、秀次が切腹させられて、秀次派とみられるようになると、「黄金はもらったのではないっ 借りただけだから返済する」と言って黄金を用意します。

 ところがこの黄金。当時の豊臣政権の実力者、徳川家康に借りて返済しているんですよね。
 これもなかなかよく考えていると思いませんか? 大名の細川家がわざわざ家康に金、借りに行きます?

 「わざとカリをつくる」
 「家康はカシをつくったと思う」「家康は忠興はおれの言うこと聞くだろうと思う」
 「言われたら家康に従う」

 「負債」をわざとつくることで家康に接近して、そのまま家康派に移行しやすくしておく…

 これはもうお見事、としかいいようのない“芸”です。

 カシをつくったと思わせて、すすんで利用されるようにもっていく…

(上司にゴマすりたいと考えているあなた、細川方式は有効ですよ。)

 節目節目で、細川が権力闘争の中で遊泳できたのは、和歌・茶道などの趣味をうまく活用したからです。

 趣味は実益をもたらします。
 趣味「を」するのではなく、趣味「で」何かをすれば、です。