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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

193】WGIPは「戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付ける宣伝計画」ではない(その3)

 

「GHQの『WGIP』はラジオ放送によっても行なわれた。」(P423)

 

と説明されていますが、WGIPの施策はそんなに広範なものではありませんでした。

ラジオ放送と新聞だけなんです。

百田氏は、思い違い(思い込み)をされていて、WGIPは「検閲」「教職追放」「公職追放」とは関係がありません。これらは「戦争責任を伝える計画」には含まれていません。

というのも、WGIPはアメリカ太平洋陸軍に、1945年9月に設置されたCIE(民間情報教育局)が担当しているからです。まだGHQは発足していません。設立の経緯から、CIEはGHQの一組織になったものの、教育・情報を担当に専従しています。

 

WGIPの施策のうち、「新聞」は「太平洋戦争史」の連載です。

連載期間は194512月8日から17日。

そしてラジオ放送の「真相はこうだ」の放送期間は、194512月9日から翌2月10日。

ちなみに、「真相はこうだ質問箱」は1946年1月18日から2月8日。そして「真相箱」は1946年2月17日から1129日です。

 

不思議なのは百田氏が新聞連載の「太平洋戦争史」に触れられていないことです。

こちらは活字で文字にも残ります。聞き流されたラジオなどよりも「有効」だったはずです。新聞すべてに掲載されましたが、当時の新聞は紙不足から二面しかありませんでしたから、一面に掲載された「太平洋戦争史」は多くの目にとまりました。

しかも、これ、1946年4月から高山書店で歴史教科書として使用されました。

 

さて、「真相はこうだ」の話をする前にどうしても明らかにしておかなくてはならないことがあります。CIE(民間情報教育局)が進めたWGIPは、「洗脳」といった一方的なものではなく、しかも、新聞などの言論機関に対して、強圧的に活動をしていない、ということです。

CIE(民間教育情報局)は、そもそも矛盾をかかえていて、メディアを利用した情報発信は、メディアがCIEの意に沿った報道を行わせる必要があります。

これはアメリカが日本に除去しようとした軍国主義、移植しようとした民主主義に反します。局長のケネス=ダイスは、これにとくに配慮することにつとめ、

 

「我々は、サイドラインを引き、ゴールを設け、ボールをトスする。彼らがそのボールを拾い上げ、それを持って走る。彼らがボールを落としたり、倒れたりしたときには助ける。しかし我々は特にプレーに加わるわけではない。」

『ウォー・ギルト・プログラム GHQ情報教育政策の実像』(賀茂道子・法政大学出版局)

 

という方針をとっていました。実際、「太平洋戦争史」は、各新聞社に掲載を強制しましたが、なんと編集はまったく自由で、記事ネタの提供、というのに等しいものでした。朝日・毎日・読売の3社比較では、CIEが提供した「太平洋戦争史」の説明のうち、朝日は約17%、毎日は約12%、読売は約19%を削除しています。

削除した箇所は、「マニラの虐殺写真」、軍国主義者への非難などでした。

これらに対してCIEは注文をつけたり指導、処罰をしたりなど一切おこなっていません。

 

CIEの進めた「戦争責任を伝える計画」(WGIP)の実施の性格はこのようなもので、「メディア統制」といっても、書き換えを強要したり、出版禁止を命じたりした戦前の日本のものとは大きく異なるところです。

これらに比べれば、戦前の日本の言論統制、メディアへの弾圧、プロパガンダによる「洗脳の深さ」のほうがはるかに「恐ろしい」はずなのに、『日本国紀』はそれらについては一切説明されていません。

 

「新聞連載『太平洋戦争史』の比較調査-占領初期の新聞連載とその役割について」

(三井愛子・『評論・社会科学101号』)

192】WGIPは「戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付ける宣伝計画」ではない(その2)

 

「GHQの検閲は個人の手紙や電話にまで及んだ。進駐軍の残虐行為を手紙に書いたことで、逮捕された者もいる。スターリン時代のソ連ほどではなかったが、戦後の日本に言論の自由はまったくなかった。」(P422)

 

と説明されていますが、「検閲」が個人の手紙・電話に及ぶ、あるいは「戦後の日本に言論の自由はまったくなかった。」というような表現をされてしまいますと、戦前・戦後を実際に暮らしたことがない若者は大きな勘違いをしてしまいます。

あまりに誇張と事実の一面しか語られていません。

もちろん、信書・通信の自由を犯すことなどは許されませんが、これらGHQの「検閲」の目的と方法はどのようなものだったのでしょうか。

 

「これらの検閲を、日本語が堪能ではないGHQのメンバーだけで行なえたはずがない。」と説明されている通り、日本人の「検閲官」がいました。東京中央郵便局には600人ほどが手紙の検閲をおこなっています。

GHQの検閲済の印鑑が押された手紙なども多数ありますし、現在も所持されている方もおられます。

この検閲を統括したのがGHQの民間検閲局(CCD)です。

その詳細を説明するために、WGIPの目標についてまず、説明します。

「戦争責任を日本国民にどのようにして伝えていくか」ということを実現するために示したことは、

① 日本人を知る。

② 軍事的敗北をわからせる。

③ 日本軍の行った残虐行為を伝える。

④ 戦争の実態を伝える。

⑤ 東京裁判を受け入れさせる。

の5つです。

 

①の「日本人を知る」というところから入っているのがおもしろいところです。

民間情報教育局の企画作戦課長となったブラッドフォード=スミスは、戦時中から対日心理戦を担当した人物で、捕虜の日記や尋問を通じて、どのようなプロパガンダを兵士に対して行えば戦意を喪失して降伏するかを調べ、「投降ビラ」に反映させる、という仕事をしていました。

彼が学んだことは、「虚構」「誇張」はかえって疑いや反発をまねく、つまりウソは見破られる、ということで「戦闘状況」を正確に示す、ということでした。

アメリカ人には日本人は不可解で、文化・慣習などまったく異質…

よって、まず、これを知る、ということもWGIP(戦争責任を伝える計画)に含まれていたことは理解できます。

さて、CCD(民間検閲局)の目的は、

「最終目標は、日本人の思考を把握し、政策の立案や占領政策に生かすことである。」

と記されています。この点、CCDはWGIPの目的を実行していたことがわかります。

「検閲」を通じて、当時の日本人の意識、占領に対する民間人の考え方を集めて、占領政策に反映していきました。

一番大きなことは「天皇」についてです。これによって日本人の多くが天皇制の存続をのぞみ、天皇がナチス=ドイツのヒトラーのような存在ではなかったことがわかりました。

実際、マッカーサーが「天皇制」の存続を決めています。

そして次に、進駐軍に対してどのような印象を持っているか、ということで、日本人の多くが好意的で協力的であることもわかり、占領軍の規模・予算を縮小しても大丈夫であるという確信を得ます。

実際、進駐軍は当初約50万人でしたが、1948年には約10万人に削減されました。

さて、CCD(民間検閲局)のもとで進められた郵便検閲ですが、「日本人協力者」の証言が、近年になって出てくるようになり、NHKの「クローズアップ現代」でも取り上げられていました。

いったい何を検閲していたか、というと「検閲キーワード」は「闇市」及びそれを意味する類語・隠語でした。

 

武器や軍需物資が闇市に出回っていないか、食料品や生活必需品が闇取引されていないか、ということを監視し、占領下の物価安定を図るのが目的でした。

とくに生活必需品に対する民衆の不満は占領政策にとっては見過ごせない「世論」です。アメリカの占領政策に対する他国の干渉をまねき、アメリカ本国の世論などにも影響を与えかねないからです。

「闇市」という言葉を手紙で見つけると、それを報告します。するとただちに日本の警察に通報され、その手紙を書いた人物が取り調べられる…

その「日本人検閲官」は「うしろめたさ」を感じていたという告白をされています。

 

「検閲」や「表現の自由」の弾圧はゆるされるべきものではありません。

その目的や結果がどうであれ、私はけっして肯定はしません。

しかし、一面的な「言論弾圧」を強調し、「言論の自由」が無かったと説明されるのは誤りです。

敗戦直後の1945年9月には『日米会話手帳』という簡単な文例をかかげたわずか32ページ本が売られ、1ヶ月で400万部の大ヒットとなります。

もちろん、この段階ではWGIPなどはこれに関与することができるわけでもありません。194512月に来日したアメリカ人記者マーク=ゲインの記した『ニッポン日記』(筑摩書房)を読めば、完全に瓦礫とかした町の中で、生き生きと生活する日本人の様子がみてとれ、進駐軍に対して従順で好意的であったことがわかります。

「陽気で」「いたずらっ子のような」アメリカ人のイメージは、米軍兵士たちが子どもたちに配るチョコレートやガムとともに広がっていきました。

占領軍への批判は厳しく取り締まられていましたが、総動員体制下のさまざまな規制は撤廃され、戦後の厳しく(無意味な)精神論に基づく「縛り」から解放され、文化・言論は自由な雰囲気が広がります。

映画や歌謡曲は、明るい未来や青春、恋愛を題材にし、「のど自慢」「素人演芸会」のような視聴者参加の番組がラジオに流れます。1946年からは国民体育大会が始まり、プロ野球も復活です。これらすべて戦時中に禁止、制限されていたことばかり…

「戦後の日本に言論の自由はまったくなかった」などは、とても大多数の一般庶民の意識ではありません。

しかし、これは都市部およびその周辺であったことも忘れてはなりません。

農村では(あるいは都市部の特定の階層の中では)戦前からの家父長制が残り、1946年4月には婦人参政権が認められた総選挙で39人の女性議員が誕生しましたが、まだ女性は家庭にいるべし、という考え方が根強く残っていました。

 

「検閲や焚書を含む、これらの言論弾圧は『ポツダム宣言』に違反する行為であった。『ポツダム宣言』の第十項には、『言論、宗教および、思想の自由ならびに基本的人権は確立されるべきである』と記されている。つまりGHQは明白な『ポツダム宣言』違反を犯しているにもかかわらず、当時の日本人は一言の抵抗すらできなかった。」(P423)

 

という説明は著しい曲解です。

GHQが検閲・出版禁止をおこなったのは戦時中、「言論、宗教および、思想の自由ならびに基本的人権」を阻害・弾圧していたこと、及び戦後に残るそれらの阻害要因の除去です。

 

「ちなみに『大東亜戦争』という言葉も使用を禁止された。(P423)

「この時の恐怖が国民の心の中に深く残ったためか、七十年後の現在でも、マスメディアは決して『大東亜戦争』とは表記せず、国民の多くにも『大東亜戦争』と言うのも躊躇する空気がある。」

「いかにGHQの検閲、処罰が恐ろしかったかがわかるであろう。」

 

と説明されていますが、戦後の一般市民の感覚・空気をまったく反映されていません。

「大東亜戦争」という呼称を用いない、ということになっても大部分の庶民は、恐怖はおろか何とも思っていませんでした。

処罰を恐れるほど「大東亜戦争」という呼称にこだわるのは、限られた階層・思想の持ち主だけです。

むしろ戦時中、「大東亜戦争」を連呼され、「大東亜共栄圏」をうたい、国家総動員体制の下、苦しい生活に耐えた日々を思い出す言葉として使いたくない、という人々も少なからずいたことを忘れてはいけません。

 

191】WGIPは「戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付ける宣伝計画」ではない(その1)

 

「もう一つ、GHQが行なった対日占領政策の中で問題にしたいのが、日本国民に『罪の意識』を徹底的に植え付ける『ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム』(WGIP:War Guilt Information Program)である。これはわかりやすくいえば『戦争についての罪悪感を、日本人の心に植え付けるための宣伝計画』である。」(P421)

 

と説明されていますが、まず単純な「誤訳」というか、「超訳」としか言いようがありません。

War Guilt Information Program”をどう訳したら「戦争についての罪悪感を、日本人に植え付けるための宣伝計画」となるんでしょうか…

単純に、これがWGIPを示す文書である、という英文を読んでも、「日本人の心に植え付ける」という表現は一切出てきません。

War Guilt”も、戦争の罪悪感、と、訳せないわけではないのですが、個人的な感覚だと、「戦争責任」というイメージにしか思えないのです。

たとえば、ヴェルサイユ条約の英訳にも“War Guilt Claus”が使用されているんですが、これ、第231項ですが、ふつう「戦争の罪悪感条項」なんて訳していません。「戦争責任条項」ですよ。

War Guilt Information Program”は、「戦争責任を伝える計画」という感じで、「戦争についての罪悪感を、日本人の心に植え付けるための宣伝計画」というような陰謀めいたおどろおどろしい感じはまったくしません。

ネット上に揚げられている英文を読んでも、どんな「洗脳」計画や手順が記されているのかと思ったら、メディアへの対策が記されていて、新聞・ラジオの他、映画について、戦争責任に対する世論形成をどうすすめていくかを考えよう、と書いているだけです。

例えば、原爆に対する批判に対してはどうするか、アメリカ国民の不信をまねくようなことがマスメディアに出ると早期の平和条約に支障が出る、とか、そんなところです。

 

「これは日本人の精神を粉々にし、二度とアメリカに戦いを挑んでこないようにするためのものであった。東京裁判もこの一つである。」(P421)

 

と主張されていますが、「日本人の精神を粉々」にするようなものは何も書かれていません。百田氏は原文を読まれているのでしょうか… 読まれていないなら是非読んでほしいと思います。

東京裁判を新聞報道するにあたっての民間諜報局の付帯意見、という程度のものですよ。ちょっと訳してみましょうか。

 

発・第二幕僚本部 宛・民間情報教育局 1948年3月

1 基本的に表題計画に同意。特にその目的や計画についての基本的な考え方、実行

 される基本的な手法について同意する。

2 用いられる特定の手法や手段についての批判的意見は以下に示す。

a.新聞報道

(1)海外のニュースの量および日本人の示す明白な興味を参考にして、国際極東軍事裁判の判決の後、速やかに適切な量の新聞用紙が各新聞社に提供されるようにすべし。

(2)検察側の最終弁論の内容全文は、弁護側の最終弁論の内容とともに同一紙面に印刷され、すべての事実が歪曲なく提供されていることと、この裁判の判決が確固たる法的根拠に基づくものであることが強調されるように配慮すべし。

 

aの2項が「それらしい」感じがしないわけではありませんが、正直、この程度のもので「日本人の精神を粉々」にした、「日本人の精神を見事に破壊した」計画だとはとても断言できないと思います。これくらいのことはするでしょう。

日本人の歴史著述のパラダイムを変えたと主張したいならば、WGIP以外のものを根拠にされたほうがよいと思います。

 

「GHQは思想や言論を管理し、出版物の検閲を行ない、意に沿わぬ新聞や書物を発行した新聞社や出版社を厳しく処罰した。禁止項目は全部で三十もあった。」(P421)

 

と説明されていますが、まず、プレスコードを示した上で、非公表の禁止項目が30あるとされていますが、まぁ、そんなもんでしょう、としか言いようがありません。

公開した「プレスコード」に対して、検閲する側の施行細則が当然必要ですし、ポツダム宣言を履行する占領軍としてはこれくらいのことは詳細に記します。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12434285816.html

 

以下は蛇足ですが…

 

P421P422にかけての説明中の「GHQ」という部分を「政府や軍部」に、「擁護」を「批判」、「進駐軍」を「日本軍」、「戦後」を「戦時中」に置き換えてみるとなかなかおもしろいですよ。

 

「『政府や軍部』は思想や言論を管理し、出版物の検閲を行ない、意に沿わぬ新聞や書物を発行した新聞社や出版社を厳しく処罰した。」

「日本の戦争や戦犯を『批判』することも禁じられた。新聞や雑誌にこうした記事が載れば、全面的に書き換えを命じられた。」

「『政府や軍部』の検閲は個人の手紙や電話にまで及んだ。『日本軍』の残虐行為を手紙に書いたことで、逮捕された者もいる。」

「スターリン時代のソ連ほどではなかったが、『戦時中』の日本に言論の自由はまったくなかった。」

 

満州事変以降、全体主義的思潮が一般の人々にも浸透し、思想統制が強化され、政府や軍部の言論統制とプロパガンダが激しくなります。治安維持法も強化され、特別高等警察も設けられました。GHQの言論統制を厳しく批判する百田氏は、なぜかまったく政府や軍部のこれらの統制について言及されていません。同じ「質」「量」で説明してほしかったところです。

190天皇は閣僚たちの意見を聞いているだけではなく、自らの意見を口にすることはあった

 

「大日本帝国憲法の基本原則は、統治権は天皇が総攬するが、実際の政治は政府が行なうということであった。よって『君臨すれども親裁せず』というのが昭和天皇の政治姿勢であった。」(P418)

 

基本的には、この説明は正しいように思いますが、これは少し不正確な説明です。大日本帝国憲法では、やはり主権が天皇にあり、その主権の下、立法・行政・司法の三権が存在し、それぞれが天皇を補佐することとされています。

何より、「内閣」という規定が大日本帝国憲法にはありません。各国務大臣は個別に、議会に対してではなく、天皇に対してのみ責任を負うものでした。

天皇は統治権のすべてを握る総覧者で、文武官の任免、陸海軍の統帥、宣戦・講和、条約の締結などはすべて議会が関与できない天皇大権です。

 

「これまで述べてきたように、昭和天皇は御前会議の場でも基本的に閣僚たちの意見を聞いているだけで、自らの意見を口にすることはなかった。そして内閣の決めたことに対して異議を挟まなかった。」(P419)

 

と説明されていますが、これは誤りです。

「張作霖爆殺事件」を境にして、「意見」を言うが「拒否」や「命令」をしなくなった、と昭和天皇自ら『昭和天皇独白録』で説明されています。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12449390632.html

 

また、統帥権者としては、マレー半島の攻撃に対して、タイの領域を通過することを認めない、という指示も出されていますし、沖縄戦などに関して軍部に意見も述べられています。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12448424691.html

 

「昭和天皇がその生涯において、政治的な決断(親裁)を下したのは、二・二六事件と終戦の時だけである。」(P419)

 

と説明されていますが、近現代史の一般論としては「張作霖爆殺事件」「二・二六事件」「終戦」の3回を指摘するのが一般的です。

とくに先ほども述べたように「親裁はしないが意見を言う」ように変わった分岐点ともいえるべき「張作霖爆殺事件」に言及すべきだったと思います。

 

この三つは、それぞれ性格が異なるもので、「張作霖爆殺事件」については行政のトップとして、「二・二六事件」については統帥権者として、「終戦」に関しては統治者としての意思表示でした。

 

「天皇の戦争責任」を否定するために、「天皇は君臨すれども親裁せず」、「聞いているだけで意見を口にしない」と強調されているのかもしれませんが、天皇は「親裁」もされていますし、「意見」は述べられています。「聞いているだけ」というのは著しく誤った説明ですし、様々な局面での天皇のご判断を蔑ろにする説明です。

GHQやマッカーサーが「天皇の戦争責任」を不問にしているのは、外交的理由もありますが、戦争中の天皇の行動、そして述べられた「意見」など、膨大な資料・証言調査によって判断し、それを連合国代表・極東委員会も理解したからです。

 

満州事変以後、戦争の拡大に関しては明確に天皇に対しては事後報告ばかりでした。逐一について天皇のご発言の記録はありませんが、回想・断片の記録からわかるものはたくさんあります。

十五年戦争開始の契機となった南満州鉄道爆破事件も、その直後の軍事行動も天皇命令で始まったものではありません。

朝鮮軍の単独越境も事後報告で、「此度ハ致方ナキモ将来充分注意セヨ」と述べられています。1931年9月21日、金谷参謀総長は朝鮮軍の「不始末」を天皇に詫びることになりました。

また、同日、若槻礼次郎首相に「満州事件ノ拡大セザル様トノ閣議の趣は適当」と政府の不拡大方針を支持され、翌22日にも「行動ヲ拡大セザル様」と奈良武次侍従武官長に命じています。

「此度ハ致方ナキモ将来充分注意セヨ」という注意だけでは不十分ではなかったかという意見もありますが、昭和天皇のご判断を歪めたのは軍部からの情報の(意図的ともいえる)不正確さにありました。

それより前、奈良侍従武官長が天皇に「此上積局的軍隊ノ進出ハアルマジク、支那側ノ対抗モアルマジク」と満州事変に対する楽観論を説明していたからです。

このように、統帥部は、軍事行動の事後報告、不正確な情報を以後繰り返していくことになります。

天皇が直接軍事行動を命令したことは確認できず、事後の報告がほとんどで、それに対する次の判断も、誤った情報によって歪められていく、ということが多数ありました。

『牧野伸顕日記』『奈良武次日記』には、戦線が拡大していくありさまを懸念されていることが読み取れますが、奈良は情勢を楽観視していて、天皇の情勢判断を誤らせていたことがわかります。

10月8日、天皇は「本庄司令官ノ声明及布告ハ内政不干渉ノ嫌アリ」と本庄が示した張学良政権に対する否認声明を批判されてもいます。

「出先軍部ト外務官吏トノ間ノ意見ノ相違ハ、陸軍ハ満蒙ヲ独立セトメ其政権ト交渉セントスルニ反シ外務側ハ其独立政権ヲ好マザル点ニアリト認ム。此点陸軍ノ意見適当ナラザル様思ハル。其積リニテ陸軍中央部ニ注意スルヨウニ」と述べられています。

満蒙独立論を「適当ナラザル」とし、内政干渉を強く嫌悪されていたこともわかります。

19311223日、犬養毅首相兼外務大臣に対しても「錦州不攻撃の方針」を示され、さらに「国際間の信義を尊重すべき」と諭されています。翌年1月11日にも「支那ノ云ヒ分モ少シハ通シテ遣ル方可然」と攻撃の不拡大、国際関係の重視、中国との協調を示されています。

この後も、日中戦争や太平洋戦争、沖縄戦、そして終戦において天皇はその都度、判断され、意見も述べられていて「聞いていただけ」ということは史料的に確認できません。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12445761012.html

 

マッカーサーは、確かに1945年9月の天皇との面会で、昭和天皇のお人柄に感銘を受け、昭和天皇のご覚悟を知ったことは間違いないでしょうが、それによって天皇の戦争責任を免じようと考えたわけではありません。

その後の、日本の占領政策に天皇を利用しようという方針を立てたうえで、さきに述べたように、戦争の節目で、国際協調の立場を考え、不拡大や回避を試みようとされるも、軍部の不正確な情報で判断を歪められてきた、という事実に基づいて「戦争の責任はない」としたのです。

昭和天皇の言動、判断については、もちろん軍部の行動を後押しするようなものも散見できますが、GHQの下した天皇は戦犯者ではない、という判断はマッカーサー個人の感想によるものではなく、調査を含めた総合的な判断でした。

189】ローマ教皇庁の靖国神社に関する見解には背景がある。

 

「ブルーノ・ビッテル神父はマッカーサーに次のように進言したと伝えられている。『いかなる国家も、その国家のために死んだ人々に対して、敬意をはらう権利と義務があるといえる。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。(中略)もし、靖國神社を焼き払ったとすれば、その行為は、アメリカ軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残るであろう。』」(P416P417)

 

と説明されていますが、実はこのビッテル神父の話は史料的にはまったく確認できない俗説であることがわかっています。GHQの資料の中に無いのです。ビッデルとマッカーサーのやりとりの間に残された文書、手紙などに見当たりません。マッカーサーの副官ウィラーからビッテルに送付した覚書すら存在しません。皮肉ではなく、それが存在すれば是非見てみたいと思っています。

(『靖国』中村直文・NHK取材班・日本放送出版協会)

 

「またローマ法王庁も『(靖國神社は)市民的儀礼の場所であり、宗教的崇拝の場ではない』という公式見解を示している。」(P417)

 

と説明されていますが、これは1936年5月26日付の「第1聖省訓令」の「一部分」だけの抜き取りです。(   )内にわざわざ「靖國神社は」と記されていますが、これも少し恣意的です。これは「カトリック教徒の神社参拝」全体についての見解で、靖國神社だけに対しての見解ではないからです。

 

「政府によって国家神道の神社として管理されている神社において通常なされる儀式は(政府が数回にわたって行った明らかな宣言から確実にわかる通り)国家当局者によって、単なる愛国のしるし、すなわち皇室や国の恩人たちに対する尊敬のしるしと見なされている。」(西山俊彦・「神社参拝と宗教的行為の規定の恣意性」より)

 

というのが聖訓令なのですが、「政府によって国家神道の神社として管理されている神社において」という部分が「条件」なのです。

しかも、1936年という時期が問題で、日本の司教が、「ある事件」に対してローマ法王庁の見解を求めたことに対する「回答」であることも忘れてはいけません。

 

この「ある事件」が、1932年5月の「上智大学生靖国神社参拝拒否事件」です。

学校教練のために、大学には陸軍将校が派遣されていました。この将校が、学生60人を率いて靖国に参拝しようとしたところ、2人が参拝を見送りました。

これを問題視した陸軍は、学校教練将校の引き上げを示唆します。

普通ならば、はい、どうぞ、となりそうですが、「学校教練」を履修すると兵役が10ヶ月短縮されるのです。大学にとっては、これは生徒募集の面からも重要なもので、陸軍が大学という教育機関に対する思想・言論統制をおこなう「武器」にもなっていました。

日本カトリック教会のシャンボン教区長は、ただちに文部大臣に参拝の意義を確認しました。目的は「宗教行為ではなく儀式にすぎない」という回答を得るためでした。この一言があればカトリックとしても「参拝」を「儀式」と解釈できます。

文部次官からの回答は「参拝は忠君・愛国のためである」というものでした。

カトリック教会側は、これをもって靖国参拝は宗教行為ではないとしました。

ところがさらに『報知新聞』(10月1日)がこの問題を取り上げ、カトリック教会への非難が高まりました。カトリック教会は12月、『カトリック的国家観』を出版し、愛国・忠君のための神社参拝を許容すべきことを明らかにします。

これによって陸軍は、陸軍将校を上智大学に戻し、日本カトリック教会はこの危機を脱しました。

こうして、これらを追認する形で、聖省訓令が出されたのです。

これは19511127日付の「第2聖省訓令」でも確認されていますが、「政府によって国家神道の神社として管理されている神社において通常なされる儀式は…」という条件に、現在の靖國神社は該当していない、という事実も忘れてはいけません。

 

「今日、靖國神社の存在を認めない日本人が一部にいるが、ビッテル神父の言葉を噛みしめてもらいたいものだ。」(P417)

 

現在は、靖國神社は一宗教法人です。存在を認めない、というのは明白に憲法違反で信教の自由に反することで、国家神道から離れた以上、存在は認められてしかるべきです。ただ、ビッテル神父の「存在しない言葉」を噛みしめるよりも、軍国主義に利用された神道や、軍部の「恫喝」に近い指導で信仰心を抑圧された「上智大学事件」に代表されるような事件があった事実も同時に噛みしめたいものです。

 

「中国と韓国が、日本国首相の靖國神社参拝を非難・反対することを外交カードとし始めたが、これは明らかな内政干渉である。」(P417)

 

これには私は同意できます。

ただ信仰の自由はもちろんありますが、思想・信条の自由もあります。「情けないのは、日本国内に中国と韓国に同調するマスメディアや団体が少なくないことだ。」と「情けない」ことであるとは思いません。

神道を軍国主義として利用していたこと、支配地域での神社参拝などを強制された人々の気持ちも十分理解を示すべきでしょう。靖国神社の首相参拝に反対する人々が「中国と韓国に同調する」意見を持っているとも限りません。

 

「『国のために戦って亡くなった兵士を弔う』行為は、どの国にもあるが、日本人は昔から敵国の兵士をも弔っている。」(P417)

 

と説明され、蒙古襲来の後の円覚寺の話、朝鮮出兵の折も、各地で死んだ敵兵を埋葬している話、日露戦争の戦死したロシア兵の礼拝堂建設の話などが続きます。

靖國神社の話の流れで、この話が出てきたのはやや唐突で戸惑いをおぼえました。

「亡くなった者には、もはや敵味方の区別はない。死者はすべて成仏する」という仏教精神と「死者を鞭打たない」という心理については、まったく同感で、私個人は「すばらしい日本人の美徳」と考えています。

ただ、「対照的に、敵の死体さえも陵辱を加える(時には墓から引きずり出してまで)という他国の人々に、靖國神社を非難などされたくはない。」(P418)の説明に違和感をおぼえます。

靖國神社を非難している方々のご意見は、「亡くなった者には、敵味方の区別はない。死者はすべて成仏する」という日本の文化・哲学を批判しているものではありません。

そもそも「この話」と「靖國神社」はよく考えると別の文脈で説明されたほうがよかった気がします(靖國神社を仏教精神で説明するのも違和感がありますし…)。

 

「靖國神社」には「鎮霊社」がありますが建立は1965年で、「昔から敵国の兵士を弔っている」とは言えません。本殿主神にはもちろん敵兵はいません。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12438697737.html

円覚寺や日露戦争の戦没者の礼拝堂とは、性格の違うもので、別々にご意見を主張されたほうがよかったように思います。