『日本国紀』読書ノート(190) | こはにわ歴史堂のブログ

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

190天皇は閣僚たちの意見を聞いているだけではなく、自らの意見を口にすることはあった

 

「大日本帝国憲法の基本原則は、統治権は天皇が総攬するが、実際の政治は政府が行なうということであった。よって『君臨すれども親裁せず』というのが昭和天皇の政治姿勢であった。」(P418)

 

基本的には、この説明は正しいように思いますが、これは少し不正確な説明です。大日本帝国憲法では、やはり主権が天皇にあり、その主権の下、立法・行政・司法の三権が存在し、それぞれが天皇を補佐することとされています。

何より、「内閣」という規定が大日本帝国憲法にはありません。各国務大臣は個別に、議会に対してではなく、天皇に対してのみ責任を負うものでした。

天皇は統治権のすべてを握る総覧者で、文武官の任免、陸海軍の統帥、宣戦・講和、条約の締結などはすべて議会が関与できない天皇大権です。

 

「これまで述べてきたように、昭和天皇は御前会議の場でも基本的に閣僚たちの意見を聞いているだけで、自らの意見を口にすることはなかった。そして内閣の決めたことに対して異議を挟まなかった。」(P419)

 

と説明されていますが、これは誤りです。

「張作霖爆殺事件」を境にして、「意見」を言うが「拒否」や「命令」をしなくなった、と昭和天皇自ら『昭和天皇独白録』で説明されています。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12449390632.html

 

また、統帥権者としては、マレー半島の攻撃に対して、タイの領域を通過することを認めない、という指示も出されていますし、沖縄戦などに関して軍部に意見も述べられています。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12448424691.html

 

「昭和天皇がその生涯において、政治的な決断(親裁)を下したのは、二・二六事件と終戦の時だけである。」(P419)

 

と説明されていますが、近現代史の一般論としては「張作霖爆殺事件」「二・二六事件」「終戦」の3回を指摘するのが一般的です。

とくに先ほども述べたように「親裁はしないが意見を言う」ように変わった分岐点ともいえるべき「張作霖爆殺事件」に言及すべきだったと思います。

 

この三つは、それぞれ性格が異なるもので、「張作霖爆殺事件」については行政のトップとして、「二・二六事件」については統帥権者として、「終戦」に関しては統治者としての意思表示でした。

 

「天皇の戦争責任」を否定するために、「天皇は君臨すれども親裁せず」、「聞いているだけで意見を口にしない」と強調されているのかもしれませんが、天皇は「親裁」もされていますし、「意見」は述べられています。「聞いているだけ」というのは著しく誤った説明ですし、様々な局面での天皇のご判断を蔑ろにする説明です。

GHQやマッカーサーが「天皇の戦争責任」を不問にしているのは、外交的理由もありますが、戦争中の天皇の行動、そして述べられた「意見」など、膨大な資料・証言調査によって判断し、それを連合国代表・極東委員会も理解したからです。

 

満州事変以後、戦争の拡大に関しては明確に天皇に対しては事後報告ばかりでした。逐一について天皇のご発言の記録はありませんが、回想・断片の記録からわかるものはたくさんあります。

十五年戦争開始の契機となった南満州鉄道爆破事件も、その直後の軍事行動も天皇命令で始まったものではありません。

朝鮮軍の単独越境も事後報告で、「此度ハ致方ナキモ将来充分注意セヨ」と述べられています。1931年9月21日、金谷参謀総長は朝鮮軍の「不始末」を天皇に詫びることになりました。

また、同日、若槻礼次郎首相に「満州事件ノ拡大セザル様トノ閣議の趣は適当」と政府の不拡大方針を支持され、翌22日にも「行動ヲ拡大セザル様」と奈良武次侍従武官長に命じています。

「此度ハ致方ナキモ将来充分注意セヨ」という注意だけでは不十分ではなかったかという意見もありますが、昭和天皇のご判断を歪めたのは軍部からの情報の(意図的ともいえる)不正確さにありました。

それより前、奈良侍従武官長が天皇に「此上積局的軍隊ノ進出ハアルマジク、支那側ノ対抗モアルマジク」と満州事変に対する楽観論を説明していたからです。

このように、統帥部は、軍事行動の事後報告、不正確な情報を以後繰り返していくことになります。

天皇が直接軍事行動を命令したことは確認できず、事後の報告がほとんどで、それに対する次の判断も、誤った情報によって歪められていく、ということが多数ありました。

『牧野伸顕日記』『奈良武次日記』には、戦線が拡大していくありさまを懸念されていることが読み取れますが、奈良は情勢を楽観視していて、天皇の情勢判断を誤らせていたことがわかります。

10月8日、天皇は「本庄司令官ノ声明及布告ハ内政不干渉ノ嫌アリ」と本庄が示した張学良政権に対する否認声明を批判されてもいます。

「出先軍部ト外務官吏トノ間ノ意見ノ相違ハ、陸軍ハ満蒙ヲ独立セトメ其政権ト交渉セントスルニ反シ外務側ハ其独立政権ヲ好マザル点ニアリト認ム。此点陸軍ノ意見適当ナラザル様思ハル。其積リニテ陸軍中央部ニ注意スルヨウニ」と述べられています。

満蒙独立論を「適当ナラザル」とし、内政干渉を強く嫌悪されていたこともわかります。

19311223日、犬養毅首相兼外務大臣に対しても「錦州不攻撃の方針」を示され、さらに「国際間の信義を尊重すべき」と諭されています。翌年1月11日にも「支那ノ云ヒ分モ少シハ通シテ遣ル方可然」と攻撃の不拡大、国際関係の重視、中国との協調を示されています。

この後も、日中戦争や太平洋戦争、沖縄戦、そして終戦において天皇はその都度、判断され、意見も述べられていて「聞いていただけ」ということは史料的に確認できません。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12445761012.html

 

マッカーサーは、確かに1945年9月の天皇との面会で、昭和天皇のお人柄に感銘を受け、昭和天皇のご覚悟を知ったことは間違いないでしょうが、それによって天皇の戦争責任を免じようと考えたわけではありません。

その後の、日本の占領政策に天皇を利用しようという方針を立てたうえで、さきに述べたように、戦争の節目で、国際協調の立場を考え、不拡大や回避を試みようとされるも、軍部の不正確な情報で判断を歪められてきた、という事実に基づいて「戦争の責任はない」としたのです。

昭和天皇の言動、判断については、もちろん軍部の行動を後押しするようなものも散見できますが、GHQの下した天皇は戦犯者ではない、という判断はマッカーサー個人の感想によるものではなく、調査を含めた総合的な判断でした。