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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

188】近代になって戦勝国が敗戦国の兵士に残虐な仕打ちをした例は日本軍も該当する。

 

「満州では、ソ連軍が武装解除した日本軍兵士を五十七万五千人も捕虜とし、厳寒のシベリアで何年にもわたって、満足な食事も休養も与えずに奴隷的労働をさせた。その結果、約五万五千人の兵士が命を落とした。」(P415)

 

もちろん、この「五十七万五千人」の中には満州国の民間人、満蒙開拓団の人々も含まれています。

1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下されました。トルーマン大統領は、この爆弾が原子爆弾であることを明らかにし、ポツダム宣言を受諾しなければ原爆攻撃を続行することを予告しています。

東郷外相からこの声明を聞いた天皇は、8月8日、終戦工作を急ぐように命じました。

こうして9日、最高戦争指導会議が開かれます。

しかし陸軍はこれを原子爆弾であることを頑迷に認めませんでした。

8月8日、ソ連への特使派遣の回答を待っていたモスクワの佐藤大使がモロトフ外相から通告されたのは、翌9日からソ連は日本と戦争状態に入る、ということでした。

同日未明、中国東北部から樺太にいたる範囲で、いっせいにソ連軍が動きました。

満州では、関東軍は前線から一斉に撤退し、東南部の山岳地帯に立てこもり持久戦をとろうとしましたが、その結果、最前線の守備隊はもちろん100万人をこえる民間人がおきざりにされています。

 

「悲惨な目に遭ったのは兵士だけではない。満州や朝鮮半島にいた日本の民間人は、現地人に財産を奪われただけでなく、虐殺、暴行、強制連行などに遭い、祖国の地を踏めない者も少なくなかった。最も残酷な目に遭ったのは女性たちで、現地人やソ連兵らによる度重なる強姦を受けた。そのために自殺した女性が数多くいた。」(P415)

 

という説明にあるように、民間人の異様な被害の拡大は、民間人や関連施設を守るべき関東軍が真っ先に撤退したことが原因の一つです。

在留自国人の保護を名目に派遣された軍隊が、在留自国人を保護することはなかった、ということを示すよい例でしょう。

 

「近代になって、戦勝国が敗戦国の兵士にこれほど残虐な仕打ちをした例はない。そこには白人種の黄色人種への差別意識に加えて、緒戦において日本軍に完膚なきまでに打ち破られたことへの報復という意味合いもあった。」(P415)

 

「日本軍に完膚なきまでに打ち破られたことへの報復」云々は百田氏の想像にすぎませんが、「戦勝国が敗戦国の兵士にこれほど残虐な仕打ちをした例はない」ということはありません。

日本の被害例のみを一方的に説明するのはどうでしょうか。

19461210日の東京裁判ではフィリピンの検事によってフィリピン各地で日本軍が捕虜や市民に対しておこなった残虐行為が冒頭陳述で説明されています。とくに「バターン死の行進」として知られた捕虜の虐待、抗日分子とされたフィリピン人への拷問が次々と告発されています。

1216日からはシンガポール、ビルマなど21地域についての日本軍の残虐行為が証言されました。

一例としては、後に「戦場にかける橋」でもとりあげられた「泰緬鉄道」で強制労働させられた捕虜の証言がありました。

これらの残虐行為の立証は1947年1月17日まで続いています。さらに個人追加証拠提出を行って1月31日まで検察側の立証は続きました。「戦勝国が敗戦国の兵士にこれほど残虐な仕打ちをした例」は日本軍にも見られました。

戦争の直接的な被害者は、敗者にも勝者にも当然みられるものです。どちらか一方の側から戦争の説明は、歴史にはなりません。

 

「戦後、朝鮮半島を経由して帰国した女性の多くが強姦によって妊娠あるいは性病感染させられており、そのため日本政府は、昭和二一年(一九四六)三月に福岡県筑紫郡二日市町(現在の筑紫野市)に二日市保養所を設置し、引き揚げ女性の堕胎手術や性病治療を行なった。二日市保養所は翌年秋に閉鎖されたが、その間に五百人以上の女性が堕胎手術を受けたといわれている(公にできない手術のため、詳細な記録は残されていない)。なお聞き取り調査によると、女性らを強姦して妊娠させた加害者で圧倒的に多かったのは朝鮮人であった。」(P416)

 

「五百人以上の女性が堕胎手術を受けている」と説明し、「加害者で圧倒的に多かったのは朝鮮人であった」と説明するのは不正確です。

医務主任橋爪将の報告書(「橋爪報告」)で報告されている加害者は47人。このうち28人が朝鮮人、ソ連人が8人、中国人が6人、台湾人1人、フィリピン人1人でした。

前から申しますように、一部で全体を語る、ということは誤解をまねく歴史著述と言えます。「わかっている加害者47人のうち28人が朝鮮人であった」と数字を明記すべきだと思います。

そもそも、加害者は「誰か」が問題なのはわかりますが、「何人か」ということに意味があるのでしょうか。朝鮮半島を経由して避難、引き上げをしているのですから朝鮮人が多いこの数字に違和感はありません。

このような説明は偏見を助長してしまうだけだと思います。

引き上げ女性たちの治療にあたったMRU(移動医療局)によると、京城(現ソウル)から釜山までの調査対象855人中強姦被害者70人、性病罹患者15人と、全体の1割が性的被害を受けていたことがわかっています。朝鮮半島を経由し、移動距離が長くなるほど被害は多くなるでしょう。

ドイツの東欧からの引き上げ・避難女性の場合も同様でした。

187】東京裁判は「報復措置」の一つではない。

 

「極東国際軍事裁判」と題してP413からP414にかけて説明が行われています。

まず、冒頭、「連合国軍は占領と同時に日本に対して様々な報復措置を行なったが、その最初は『極東国際軍事裁判』(東京裁判)であった。」と説明されています。

 

「報復」と考えていたのは、アジア太平洋戦争中の戦争指導者たちです。

終戦末期から彼らは「戦犯」となることをおそれ、ポツダム宣言に対して「戦争犯罪人の裁判は日本の手でおこなう」という条件を付けようとしていたことからも明らかです。

ポツダム宣言に第6項に「日本国民ヲ欺瞞シ之ヲして世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ、永久ニ除去セラレザルベカラズ」とし、さらに第10項には「吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ、又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザル…」と明言し、「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ、厳重ナル処罰ヲ加へラルベシ」としています。

ポツダム宣言を日本は受け入れ、降伏文書に調印したのです。日本政府はこれを履行する義務があり、GHQとマッカーサーにはこれらの占領目的を達成する責務がありました。これを「様々な報復措置」と説明するのは一方的です。

 

「これは裁判という名前は付いてはいたが、『罪刑法定主義』という近代刑法の大原則に反する論外なものであった。わかりやすくいえば、東京裁判では、過去の日本の行為を、後から新たに国際法らしきものをでっちあげて裁いたものだった(事後法)による判決。」(P413)

 

と説明されています。

これはもっともよく説明される「東京裁判」批判の一つです。

実は、「国際法」というものは、いわゆる各国の個別の法とは異なり、普遍的なものにしかもともと適用できないものです。国の伝統・文化・価値観によって成立している法は、刑罰・罪状について、同じ犯罪でも刑罰は異なります。

よって、「罪刑法定原則」というのは適用しにくいもので、人権や平和、侵略、など「抽象的なもの」を対象にするしかありませんでした。

日本の戦争が国際的にみれば三国同盟によってナチス・ドイツの「追随者」(新体制運動にも表れている)としての戦争とみなされ、1945年6月のロンドン会議においてドイツの方式に倣って戦争責任を裁くことが決まりました。

「戦争指導者の戦争責任」を裁く「先例」は実は第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約第227条にあり、これに基づいてドイツ皇帝を裁く特別法廷が開催される予定でした。しかし皇帝の亡命先のオランダが引き渡しを拒否したため、開催されなかっただけです。

東京裁判で、日本側弁護人高柳賢三は、パリ不戦条約の「国際紛争解決のための戦争の否定」は「自衛戦争」には該当しないと主張をしていますが、戦争の計画・準備・開始・遂行、及びその共同謀議は、国際法に反する、という考え方は第一次世界大戦後、ひろく国際的には通用していた考え方で、具体的な刑事罰をともなっていなかっただけなのです。

「人道に対する罪」「平和に対する罪」は、国際法上は、第一次世界大戦後、国際的な合意として存在していたといえます。

「判決文」は、「本裁判所には平和に対する罪などを定めた裁判所条例を審査する権限はない」という立場をとり、55の訴因のうち、判決で認定を与えられた訴因は10にしぼられ、そのうち8つは「平和に対する罪」に属するもので、残りの2つは「通例の戦争犯罪・人道に対する罪」でした。

絞首刑判決を受けた、板垣征四郎・木村兵太郎・土肥原賢二・東条英機・広田弘毅・松井石根・武藤章の7人は、訴因第54条の「通例の戦争犯罪を命令、授権もしくは許可した罪」か、訴因第55条の「故意または不注意によって戦争法規違反の防止義務を怠った罪」のいずれかで有罪と認定されました。

「侵略戦争の共同謀議」はなく、「日本軍の犯した残虐行為に対して責任を負うべき地位にあった」という点で有罪となっています。

この点、ナチスの戦犯とは明確に異なるところで、日本側の弁護団の主張は通っているというべきでしょう。

 

「ただ、この裁判の判事の中で国際法の専門家であったインドのラダ・ビノード・パール判事は、戦勝国によって作られた事後法で裁くことは国際法に反するという理由などで、被告全員の無罪を主張している。」(P414)

 

これもよく取り上げられる言説ですが…

パール判事が問題にしたのは、「本裁判所には平和に対する罪などを定めた裁判所条例を審査する権限はない」という考え方で、「審査する権限はある」という点を主張し、東京裁判が国際法上に立脚しているか議論すべきと主張したのです。

訴因5455に関して言うと、パール判事は、「南京大虐殺」を東京裁判で認定していて、「パールが東京裁判は国際法に反すると主張した」という方々はこの点をなぜか触れられません。

インドのパール判事とフィリピンのジェラニラ判事は東京裁判では「異質」の存在でした。

ジェラニア判事はパール判事の意見を非難し、判決の量刑は寛大すぎて犯された罪の重大さに適していない、とより重い刑を主張し、原爆などに関してもパール判事は、原爆投下は戦争犯罪だ、と訴えたのに対して、ジェラニラ判事は原爆の使用は正当だと主張しています。

アジアの判事の判決がこのように大きく二つに分かれた点が興味深いところです。

 

私も、実は東京裁判にはいくつかの点で疑問を感じている一人です。日本の戦争指導者たちに「戦争責任」があったことは間違いなく、東条英機もこの点ははっきりと口供書で主張しています。しかし、以下の点で疑問を感じざるをえません。

検察官が、イギリス・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・中国など「被害国」から選ばれているのはわかりますが、判事を選出した11ヵ国に第二次世界大戦中の中立国から1ヵ国も選ばれていません。

そして28人の被告をみればわかるように、軍で被告とされたのは陸軍に偏っているということ(半数近くが陸軍軍人)、太平洋戦争開始時の閣僚の比率が高いということです。財閥関係者は逮捕されたものの、戦犯としては訴追を免れています。

 

以下は蛇足ですが…

(以下『東京裁判』赤澤史朗・岩波ブックレット「シリーズ昭和史№10」による)

 

「死刑判決を受けた七人の『A級戦犯』は、昭和二十三年(一九四八)十二月二十三日、絞首刑で処刑された。この日は皇太子の誕生日であったが、この日を処刑の日に選んだところに、連合国の根深く陰湿な悪意がうかがえる。」(P414)

 

と百田氏は説明されているのですが…

実は、東京裁判の「判決」後、処刑までには以下の経緯がありました。

弁護団はマッカーサーに「再審査」の申し立てをおこなっていることをご存知でしょうか。マッカーサーはこれを受け入れ、19481123日、裁判当事国11ヵ国の代表を集めて意見聴取しました。ここでカナダ・インド・オランダの代表は被告たちの減刑を求めています。しかし、他の8ヵ国は判決を支持しました。

こうしてマッカーサーは、1124日に「一週間以内に」刑を執行することを命じました。

ところが弁護団は粘ります。1129日、アメリカ連邦裁判所に訴えたのです。

これによって刑の執行は一時延期されました。しかし、アメリカ最高裁判所は、連合国の機関として設けられた軍事法廷は管轄外である、としてこの訴えを退けました。これが1220日です。

1124日の段階で、マッカーサーの決定を受け入れていたら、「皇太子の誕生日」が処刑の日にならなかったのに… という話です。

186】日本国憲法の制定に関する説明が一面的で誤りを含んでいる。

 

「同年十月、GHQは日本政府に対し、大日本帝国憲法を改正して新憲法を作るように指示した。これは実質的には帝国憲法破棄の命令に近かった。幣原喜重郎内閣は改正の草案を作ったが、発表前に毎日新聞社に内容をスクープされてしまう。草案の中に『天皇の統治権』を認める条文があるのを見たマッカーサーは不快感を示し、GHQ民政局に独自の憲法草案の作成を命じた。」(P411)

 

「改正の草案」というのは松本試案のことです。

194510月末、松本蒸治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会が草案作成に入りますが、その議論と過程はまったく明らかにされず、草案は松本がほとんど一人で起草したものです。できたものは、明治憲法とほぼ同じ内容で、日本政府が自ら民主的憲法の草案を作ることを期待したマッカーサーは失望しました。

(『マッカーサーの二千日』袖井林二郎・中公文庫)

 

「ハリー・S・トルーマン政権の方針に基づいて民政局のメンバー二十五人が都内の図書館で、アメリカの独立宣言文やドイツのワイマール憲法、ソ連のスターリン憲法などから都合のいい文章を抜き書きして草案をまとめあげさせた。メンバーの中に憲法学を修めた者は一人もいなかった。」(P411)

 

と説明されていますが、誤りです。また、意図的かご存知無いのかわかりませんが、GHQ案作成に至る過程が大きく抜け落ちています。

このまま読めば、お手軽につぎはぎの、粗雑な作成の印象を与えかねません。ネット上の言説にもよく似た説明がみられますが、独立宣言文の精神は反映されているとは言えますが、同じような説明、そのままの引用は日本国憲法には見られません。ワイマール憲法に関しては後ほど説明しますが、GHQ案には反映されていません。

また、スターリン憲法のどの箇所から抜き書きされているというのでしょうか。

もし、「両性の平等」や「勤労の権利・義務」のことをおっしゃっているのだとしたらトンチンカンなご指摘だと思います。男女の平等や勤労の権利・義務は基本的人権の中の普遍的原理で、スターリン憲法に記されているからスターリン憲法の影響を受けている、というならば、民主主義国家すべての憲法がスターリン憲法の影響を受けていると言わねばなりません。

 

マッカーサーが憲法改正を示唆した段階で、政党や団体、あるいは個人がさまざまな憲法草案を作成しました。

① 保守党政党の自由党・改進党の案

② 憲法懇談会案(社会党・文化人グループ)

③ 共産党案

④ 憲法研究会の案(憲法学者のグループ)

このうち①は明治憲法とほぼ同じで松本試案とあまり変わっていません。②は天皇の統治権を制限して天皇制を存続させるものでした。③は天皇制廃止と共和政を定めたものでした。

そして④は天皇制存続と国民主権、そして天皇は「国家的儀礼」を執り行うというものでした。

GHQは④を高く評価し、GHQ案作成の下敷きにしています。

「都合のいい」抜き書きでもありませんし、④を下敷きにしているので、メンバーに「憲法学を修めた者」がいないこともあまり問題にはなりません。

 

「本来、憲法というものは、その国の持つ伝統、国家観、宗教観を含む多くの価値観が色濃く反映されたものであって然るべきだ。ところが日本国憲法には、第一条に『天皇』のことが書かれている以外、日本らしさを感じさせる条文はない。」(P411)

 

と説明されていますが、一般的な憲法の考え方とは異なる独特な説明です。

憲法は、そもそも司法・行政・立法を制限するものであって、「普遍的な原理」を説くものです。

実際、大日本帝国憲法は、ドイツやフランス、ベルギーの君主権の強い憲法を手本にしたもので、「日本らしさ」はありませんでした。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12438712957.html

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12440382945.html

 

「GHQはこの憲法草案を強引に日本側に押しつけた。内閣は大いに動揺したが、草案を呑まなければ天皇の戦争責任追及に及ぶであろうことは誰もが容易に推測できた。」(P412)

 

と説明されていますが、GHQやマッカーサーの意図を曲解しています。

 

ソ連は、軍政下に置いてドイツのような「分割占領」を企図していましたが、アメリカと「取引」をし、極東におけるアメリカの優越権をみとめる代わりに、ソ連は東ヨーロッパ・バルカンにおける優越権をみとめさせました。

その前提に、アメリカは「ソ連を含む『連合国』が介入しなくても日本は自ら民主化できる。」という形式でアメリカ主導の間接統治をおこなっているのです。

ポツダム宣言の要求に合致し、連合国を納得させる憲法を日本政府が作らなければ、ソ連の介入を許すことにもなりかねません。

単に「天皇の戦争責任」に及ぶ問題ではなかったのです。

 

「GHQはこの憲法草案を強引に日本側に押しつけた。」と説明されていますが、これも適切な説明とは言えません。

①GHQ案には、「一院制」が記されていましたが、幣原喜重郎は「二院制」の意義を粘り強く説明し、GHQは「二院制」に変更しています。

②また、「土地の国有化」も記されていました。もちろん、これも拒否し、「土地国有化条項」は削除されました。

③「外国人の人権を保障する条項」がありましたが、日本政府はこの条項を削除させています。

④また、「地方自治」も、連邦制に近いような地方分権が記されていましたが、改正されています。

 

日本政府は何回もGHQと交渉してこれらの修正をおこなっています。

こうして「政府案」がつくられ、婦人参政権が認められた選挙で選ばれた議員からなる帝国議会に提出されました。

帝国議会での審議は100日に及び、議会でも多数修正されています。

 

①「国民主権」が明文化されたのは議会においてです。

②さらには第25条の生存権規定は、議会で挿入されたものでこれはGHQ案には存在しません。ですから、「ワイマール憲法」「などから都合のいい文章を抜き書きして草案をまとめあげさせた」という説明は誤りです。

これだけではありません。

③GHQ案には義務教育の年限が定められておらず、規定が曖昧でしたが、議会において「その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」というように明記され、現在の第26条ができました。

『日本国紀』の憲法草案作成過程、日本国憲法の成立に関する説明はあまりに単純であるとしか言いようがありません。

194610月、極東委員会は憲法施行後、1年後2年以内に憲法の再検討の機会を与える決定までしています。しかし、吉田茂内閣は「再検討」せず、1949年4月、吉田首相は国会で憲法は修正しないと答弁しました。

 

「ここで、読者に絶対に知っておいていただきたいことがある。アメリカを含む世界四十四ヵ国が調印している『ハーグ陸戦条約』には、『戦勝国が敗戦国の法律を変えることは許されない』と書かれている。つまり、GHQが日本の憲法草案を作ったというこの行為自体が、明確に国際条約違反なのである。」(P413)

 

と説明されていますが、そんなことはありません。

まず「戦勝国が敗戦国の法律を変えることは許されない」などとは記されてはいません。第43条には「国の権力が事実上占領者の手に移った上は、占領者は絶対的な支障が無い限り、占領地の現行上の法律を尊重して、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保するため、施せる一切の手段を尽くさなければならない。」とありますが、そもそもハーグ陸戦条約は、「陸戦の法規慣例に関する条約」であって戦時国際法なのです。第43条の適用は戦争中の占領者に対してです。交戦後の占領には適用されないのです。日本国憲法が制定されているのは、ポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印された後で、ハーグ陸戦条約は無関係です。

もし仮に、降伏後の「占領」にも適用されると解釈したとしても、降伏文書は特別法となります。「特別法は一般法を破る」という原則がありますからポツダム宣言・降伏文書がハーグ陸戦条約より優先されます。

日本国憲法の草案作成がハーグ陸戦条約に違反するなどという言説を唱える法学者はほとんどいません。

ハーグ陸戦条約の誤解、誤用がみられます。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12448562098.html

 

以下は蛇足ですが。

 

「この時、草案を受け入れた幣原内閣は、後に『憲法第九条は私がマッカーサーに進言した』と語っているが、それはあり得ない。」(P412)

 

おそらく古関影一の『日本国憲法の誕生』(岩波書店)増補改訂版による内容をふまえたものでしょう。

1951年5月、マッカーサーが議会の証言で「第9条は幣原の提案だった」と証言、64年出版の『マッカーサー回想録』でも1946年1月に「幣原が、日本は軍事機構を一切持たないことを決めたい、と提案した」と記されています。

これが「幣原説」なのですが、私も、これは少し不自然に感じていました。憲法制定からあまりに後から出てきた話で、マッカーサーの議会証言は、大統領との確執、共和党と民主党の対立が背景にあって、ちょっと作為的なものが多いからです。

『日本国憲法の誕生』では、当時の史料や幣原以外の閣僚の反応などから「マッカーサー説」を採用していて、私もこれに同意したいと思っています。

ただ、単にマッカーサーが指示した、ということにとどまらず、終戦直前、「国体護持」のためには「戦争を放棄する平和国家」を唱えなくてはならないという動きがみられたこと、戦後も旧軍部が憲法制定に一定の影響を及ぼしていたことが史料的に説明されていてたいへん興味深く読めました。

マッカーサー説、幣原説、という二項対立的な説明から現在の研究では抜け出しつつあります。

 

185GHQによる「間接統治」の意味を誤解している。

 

「日本はこの敗戦によって、立ち直れないほどの大きなダメージを蒙った。もはや世界五大国の面影は跡形もなかった。その上アメリカ政府は、日本の基礎工業の七五パーセントを撤去、電力生産の五〇パーセントを除去という過酷な政策を取ろうとしていた。日本と日本国民の未来は暗澹たるものだった。」(P410)

 

と説明されていますが、これだけだと言葉足らずで、アメリカの占領政策を誤解されてしまいます。

「日本の基礎工業の七五パーセントを撤去」と説明されていますが、これは軍需工業及びその下請け関連企業の解体が多くを占めています。当初は、賠償のために必要最低限の生産ができる程度に日本の工業生産を抑えることも考えられていましたが、日本の経済復興に力点を置く政策(経済安定九原則)に転換されました。

 

「電力生産の五〇パーセントを除去」という説明も一面的です。

そもそも、1936年以降、軍部は経済のさまざまな分野、とくに電力や重工業分野を国家統制下に置く計画を進めていました。1937年、日中戦争がはじまると、国家総動員体制が提唱され、1938年には国家総動員法が成立します。

そして電力も国家体制下に置かれ、日本全国の電力会社の出資、現物提供、合併によって特殊会社「日本発送電」が設立されました。経営に関する最高意思決定は内閣が行う、事実上の国営会社といえました。

戦後、あたりまえですが、日本は著しい電力不足になります。戦時中は、電気も国家統制下にあったので、国民は節電などを強制され、送電もコントロールされましたが戦後、「経済の民主化」のもと、財閥同様、日本発送電も解体されました。

これを「五〇パーセントを除去」と説明されているわけで、もちろん、「除去」された後に「再編」されているので、基礎工業にせよ、電力生産にせよ、「未来は暗澹たるもの」ではけっしてありません。

この説明では、GHQの経済政策に誤った印象を与えてしまいます。

 

「GHQの最大目的は、日本を二度とアメリカに歯向かえない国に改造することだった。」(P410)

 

とありますが、不正確な説明です。GHQの目的に「アメリカに歯向かえない国にする」という項目はありません。

史料的にはこのような説明はできません。

「降伏後に於ける米国の初期対日方針」にはこう明記されています。

 

「日本が再び世界の平和及び安全に対する脅威とならないためのできるだけ大きい保証を与え、又、日本が終局的には国際社会に責任あり且つ平和的な一員として参加することを日本に許すような諸条件を育成する。」

 

これを読めば、占領から独立まで、概ねこの方針で諸改革が進み、独立後、1956年の国際連合加盟が実現している流れと合致していることがわかります。。

以上のように、占領目的は、「日本の非軍事化」と「民主化」の二つが大きな柱です。

連合国軍の進駐受け入れ、日本軍の速やかな武装解除は、連合国軍が驚くほどスムーズに進み、降伏文書調印が円滑に実現しました。

治安維持法、特別高等警察、という戦前の抑圧的諸法・諸制度を撤廃し、政治犯を釈放することが指示されます。これらは「アメリカに歯向かう力」とは無関係で、「日本国民を抑圧していた制度」の廃止でしかありません。

東久邇宮内閣は、これを実行不能として総辞職し、かわって幣原喜重郎内閣が成立するのです。

教科書で「アメリカや東アジア地域にとって日本が再び脅威となるのを防ぐ」と説明されている(『詳説日本史B』山川出版・P371)のは、根拠の無いことではなく、史料に基づいて説明しようとしていることの反映です。

 

「占領政策は狡猾で、表向きはGHQの指令・勧告によって日本政府が政治を行なう間接統治の形式をとったが、重要な事項に関する権限はほとんど与えなかった。」(P410)

 

と説明され、「狡猾な」あるいは「権限はほとんど与えなかった」と、強圧的・専制的なGHQのイメージを強調されています。

当時の国際的な状況をご存知ならばこのような表現はありえませんし、「狡猾な」の意味合いも、日本に対してではなく、冷戦で対立するソ連に対してのことであったことがわかります。

そもそも、ドイツは軍政下に置かれ、いわゆる直接統治的な「支配」を受けたのに、日本はどうして間接統治だったのでしょうか。

日本は間接統治によって分割占領を免れた、という前提を忘れてはいけません。

日本は連合国で構成される極東委員会によって作成される政策に基づき、連合国軍最高司令官が管理します。この委員会は、アメリカ・ソ連・イギリス・オランダ・フランス・カナダ・中国・フィリピン・インド・ビルマ・パキスタン・オーストラリア・ニュージーランドなどで構成されていました。しかし、政策決定はアメリカが握っていました。

大戦末期、日本に宣戦して千島・樺太を占領したソ連は、当然日本の占領にも参加しようとしましたが、もし、軍政下に置かれると、ドイツ同様、分割占領の可能性が高くなります。

アメリカは、それを回避するために、アメリカ単独の軍政ではなく、間接統治という形式をとり、それを運営する極東委員会にソ連を参加させて他国と並列させ、その発言権を弱める方式をとったのです。

その見返りとして、アメリカは、ソ連のバルカン・東ヨーロッパの管理における優越権をみとめ、アメリカはソ連にアメリカは日本が管理する優越権をみとめさせたのです。

「狡猾な」というのはこのことであって、日本はこれによって東半分の赤化(社会主義国化)を免れたと言っても過言ではありません。

ドイツの軍政下、日本の間接統治、には当時の国際関係(冷戦)と深い関わりがあったことを忘れてはいけません。

 

「重要な事項に関する権限はほとんど与えなかった。」と説明されていますが、実際は、日本がポツダム宣言を受諾したにも関わらず、それに「反する抵抗」を示したときに具体的に「権限が与え」られなくなっただけです。ですから「ポツダム宣言に反する項目に関する権限はほとんど与えなかった」というのが正確で、それ以外のことに関しては、GHQは意外にも寛容でした。GHQを皇居内や東京大学内に設置することに日本政府が反対すると、これを受け入れ、堀端の第一生命ビルを選定していますし、占領政策用に接収した公共施設などは、地元の市議会の要望・反対で撤回している例もみられます。

例えば、大阪市中央公会堂集会室は、市議会の反対を受け入れて接収を撤回しました。

 

『戦後変革<日本の歴史31>』(大江志乃夫・小学館)

『戦後秘史』(大森実・講談社文庫)

『日本占領の研究』(C・F・サムス 竹前栄治訳編・東京大学出版会)

『占領と戦後政策』(「シリーズ昭和史№9」竹前栄治・岩波ブックレット)

 

184】ポツダム宣言と日本の降伏について誤解している。

 

ポツダム宣言は「日本『軍』に無条件降伏を迫る文書であった。」と説明されています。続けて、

 

「『ポツダム宣言』の第十三項には、『我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し』とあり、無条件降伏の対象はあくまで『日本軍』であって、日本国となっていない。したがって『ポツダム宣言』受諾は『有条件降伏である』と捉えるべきであろう。」(P409)

 

あたかも「軍」が降伏したのであって「日本」は降伏していないかにのよう説明ですが、誤りです。

インターネット上にはこのような言説が記されていますが、「ポツダム宣言」受諾に至る経緯、またその後の外交、政府の見解をご存知無いだけでしょう。

じつはこの話は、ポツダム宣言が出されてからすでに「解決」している話で、今ごろこのような話が出てくるのは正直驚いています。

まず、「無条件降伏」というのは、降伏した側が条件を付けない、という意味です。

日本は「国体護持を条件に受け入れる」ことを議論しましたから、この点を指摘して「有条件を要求した」と言えますが、連合軍側の回答は、

 

「降伏の瞬間から天皇及び日本政府の国を統治する権限は連合国最高司令官に従属“subject to”するものとする。」

「日本の究極の政治形態は、ポツダム宣言に従い、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されるべきである。」

 

というものでした(バーンズ国務長官の回答文)

これ、日本の要求に応えていないようにも見えますが、前者を読めば、占領下でも天皇が残ることがわかりますし、後者を読めば、国民がのぞめば天皇制が存続することがわかります。

これに対して、軍部は“subject to”を「隷属する」と訳して抵抗し、外交部は「管理下に置かれる」と訳して反論しています。結局、8月14日に再び御前会議が開かれますが天皇が、「敵は国体を認めると思う。之に付いては不安は毛頭ない」と冷静で的確な判断を示されています。

連合国側の「外交的示唆」、メッセージをちゃんとくみ取っておられていて、この点、軍部の頑迷な主張とは一線を画していたことがわかります。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12449390632.html

 

9月2日、戦艦ミズーリ上で調印された降伏文書は無条件降伏を布告しつつ、「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施するため、適当と認める措置をとる連合国最高司令官に従属するものとする」と明記されています。

 

その後も、無条件降伏は軍だけでなく日本国の降伏であったことは何度も確認されています。

 

19491126日衆議院予算委員会での吉田首相の答弁です。

 

「…この間もよく申したのでありますが、日本国は無条件降伏をしたのである。そしてポツダム宣言その他は米国政府としては無条件降伏をした日本がヤルタ協定あるいはポツダム宣言といいますか、それらに基いて権利を主張することは認められない、こう思つております。繰返して申しますが、日本としては権利として主張することはできないと思います。」

 

1950年2月6日衆議院予算委員会での吉田首相の答弁でも、

 

「お答えいたしますが、先ほども申した通り、今日日本はまだ独立を回復せず、かたがた独立して外交交渉に当たる地位にありませんから、従って、今お話のようなポツダム宣言に違反した条項があるその場合に、政府としては権利として交渉することはできません。」

 

また、19511024日平和条約及び日米安全保障条約特別委員会での西村熊雄条約局長の答弁でも

 

「日本は連合国がポツダム宣言という形で提示いたしました戦争終結の条件を無条件で受けて終戦いたしたのであります。無条件降伏というのは、戦勝国が提示した条件に何ら条件をつけずに降伏したという意味であります。」

 

1953年4月8日、最高裁判所でも判決が出ています。

 

「…昭和二〇年勅令第五四二号は、わが国の無条件降伏に伴う連合国の占領管理に基いて制定されたものである。世人周知のごとく、わが国はポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印して、連合国に無条件降伏をした。その結果連合国軍最高司令官は、降伏条件を実施するため適当と認める措置をとる権限を有し、この限りにおいてわが国の統治の権限は連合国軍最高司令官の制限の下に置かれることになつた。」

 

さて、敗戦直後の様子がP408~P410にかてけ説明されています。

 

「日本はこの戦争で甚大な犠牲を払った。約七千三百万の人口のうち約三百十何人の尊い命が失われた(内訳は民間人が約八十万人、兵士が約二百三十万人である。)また南樺太、台湾、朝鮮半島の領土を失い、満州、中国、東南アジアにおける、公民含めたすべての資産・施設は没収された。」(P409)

 

一方的な日本の「被害」が説明されていますが、逆はどうだったのでしょう。日本軍によって失われた「尊い命」や、日本が接収した資産・施設はどれほどだったのでしょうか。

「大東亜戦争」という名称を使用する以上、日本がこれらの与えた被害について言及が無いことは一面的です。

 

「全国で二百以上の都市が空襲に遭い、東京、大阪、名古屋、福岡、札幌をはじめとする主要都市は軒並み焼き尽くされ、多くの公共施設、それに民間の会社、工場、ビルなどが焼失した、」(P409)

 

とありますが、以前に説明したように、「札幌」は幸い、被害はありましたが焼き尽くされてはいません。ここは神戸、川崎などを揚げてほしかったところです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12448562098.html

 

「民家も約二百二十三万戸が焼かれ、夥しい人が家を失った、政府も自治体も一戸の仮設住宅さえ作ることができず、焼け出された人々はトタンや焼け残った木材で雨露をしのぐバラックを建てて生活した。」(P409P410)

 

驚くべきは、このような状況にあったにもかかわらず、終戦直前まで軍部は本土決戦を要求し、さらに政府と軍部は「国体護持」を主張して昭和天皇に「御聖断」を二度もおこなわせたことです。

 

「日本という国の二千年余の歴史の中でも、未曾有の大敗北であった。しかも外国の軍隊に国土を占領され、主権も外交権も奪われるという屈辱そのものだった。」(P408)

 

と説明されていますが、このことを日本にもたらした政府や軍部に関しては言及がありません。また、日本が軍隊を派遣して東南アジア諸国を占領し、軍政をしいて主権・外交権を奪った、ということも忘れてはならない視点です。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12447389146.html

 

その点、「戦争と敗戦が日本人に与えた悲しみと苦しみは計り知れない」と説明するならば、「大東亜戦争がアジアに与えた悲しみと苦しみも計り知れない」と説明したほうが適切だったかもしれません。