人参様エンジョイ配合
なんだかんだで毎日が楽しくてたまらないね。人参様のおかげだよ。人参様はおれの脊椎に突き刺さってるんだけど、もう駄目だ。さて、毎日が楽しいよ。楽しくてたまらないよ。楽しさ過剰だ。とどのつまり結局毎日最高さ。それだけ。それだけが言いたかっただけで後のことは知らないよ。知ったこっちゃないんだ。
灰皿と灰とけむ猫(5)
何故ピアスをつけようと思ったのかは当時の尚自身よくわからなかった。ただ漠然とピアスをつけたくなった。耳に穴をあけたくなった。痛みが欲しかった。精神的に上向きになりつつある尚だったが肉体はまだ傷つきたかったのだろう。しかし自殺を選択する意思はない。そこでピアスだ。尚は自殺をピアスの痛みに仮託したのだ。昼頃起き出した尚は昨日の残りのインスタント焼きそばをかき込むとここに来る車中でウィンドウに写る自分越しにぼんやりと見ていた駅前通りへと向かった。
それは引っ越して初めての近所散策だったのだが尚にはそんな感慨などまるでない。尚の足は一直線に朝五時からやっている大型チェーン店のディスカウントストアに吸い込まれていった。ピアッサーは思ったより安く手に入れることが出来た。穴を空ける装置とピアスが一体になった優れものだ。学校に隠れてピアスホールを空ける中学生みたく嬉しくなった自分を意識しつつ尚は行きよりも足早に部屋に帰った。だが簡単に帰れなかった。道に迷ったわけではない。共同玄関の鍵が閉められていた。尚は部屋の南京錠の鍵しかもっていなかったのだ。どうすればいいのだろう、という気持ちと、オナニーしている途中で来客が来た時のようなおあずけ感をくらい、あまつさえ最近のもうどうにでもなってしまえという感情に支配されている尚は冷静な判断を下すことが出来なかった。この場合の冷静な判断とは勝手口みたいな玄関の横にぶら下がるように付けられた小さなチャイムを鳴らすことであったろう、そのチャイムは壊れていて使いものにならないことを知るのはすぐのことだが。
こんなこと大家に説明されていない。どうしよう。そうだ自分の部屋の窓ガラスをぶち破ってしまえ。尚の出した答えはこのようなものであった。尚の部屋は二階であるからして窓ガラスをぶち破る決意と同時に都市型ロッククライマーこと蜘蛛男のように伊那荘の外壁をよじ登る決意をしたのである。尚には自分の部屋によじ登る目算がついていた。部屋は炊事場の上にあり、部屋の窓もその面にある。換気扇やLPガスのボンベを足場にすれば十分によじ登れるはずである、と。
尚は伊那荘の敷地内に入りぐるりと伊那荘の外壁を半周すると近所の目など気にすることもなくロッククライミングを開始。炊事場の窓ガラスのサッシに左足をかけ右足で大地を蹴り一気に換気扇の枠に手をかけて体を固定、出来るはずが尚の体捌きは自分が思っていたよりも鈍重で尚の手は体重を支えることもなく、バランスを失った尚の左足は伸びたまんま地に着き衝撃は尚の股関節へと流れ、ずでんどう、と、尻餅を着いた。
「なあぁ」尚が引っ越して来て初めて発した言葉であった。
言葉にならない声を上げる尚。痛みに麻痺しているのはあくまで尚の精神であって肉体ではなかったようで高校の時の体育祭で棒倒しの棒から叩き落とされた時以来の衝撃に身をよじる。かといって誰かが助けてくれるはずもなく、尚が落ちたのは伊那荘を取り囲むコンクリート壁の内側、ましてや部屋に帰れるというわけもない。尚は痛みと付き合えるようになると再度伊那荘に挑戦した。今度はコンクリート壁に登りそこからLPガスのボンベ上に移動し二階の窓の鉄柵によじ登る算段だ。換気扇に手をつけた時に付いた油汚れが滑り止め代わり。今度は鈍重な体を不器用ながら操ることに成功し落ちることなく鉄柵に手をかけるに至った。よし、あとは…どうしよう。尚は動けなくなった。バカだ。鉄柵に手をかけてもよじ登って体を二階へと導く術がないことに気づいたのだ。尚の目には出っ張った鉄柵がオーバーハングしてる絶壁に見えないこともなかった。それに尚の部屋の鉄柵は尚の体重を支えるには頼りなさげで手をかけるとギィギィ鳴いた。尚はしばらくガスボンベの上で固まっていた。
このまま泥棒ごっこをしていてもどうしようもない。ようやく尚は、地に足を着けた思考回路の下、地に足を着けた。その時、ガラリガラガラ、炊事場の窓が開いた。尚はぎょっとして阿呆丸出しの顔をして窓を見る。窓には同じく阿呆な顔したおっさんがいた。おっさんというには老けじじいというには若い微妙なお年頃のおっさんだ。見つめ合う二人、数瞬後尚は、ああここから入れば良かったな、と、確かにその通りではあるがこの状況にはそぐわないことを思った。
「なんだお前は。泥棒か?」尚と呼吸を忘れたかのように見つめ合っていたおっさんがようやく我を取り戻した。
「ああ、いえ、部屋に入ろうと思いましてね」
「やっぱり泥棒か。泥棒なんぞやるのは俺の知ったこっちゃねえが狙うならもっとまともな所を狙え。こんなところに金目のものがあると思うか?まだガキが作った秘密基地の方があるだろうよ」
「いえ違います。鍵が、玄関に鍵が掛かってまして」尚は泥棒ではないので別段慌てることもなく、むしろ焦りや緊張や中の住人にアクセス出来た安堵やらがこの状況を楽しむ客観的視点を作ってた。
「そりゃ鍵は掛かってるだろうよ。俺が掛けたからな。金目のものは無いが他人に勝手に入られるのは嫌だからな」
このおっさんは話が長い、と、悟るのは後々の話だ。おっさんは生活保護で生活しており、社会というものから閉ざされたのか閉じこもっているのか、とにかく話し相手というものがいないのでたまの来客、尚や宅配便業者や役所の人間がくるとここぞとばかりに会話をする癖がある。
「あなたが掛けたんですか?ああでも良かった」
「俺は良くない。考えてもみろ。遅めの昼食を取ろうとキッチンに来てみればなにやら外で物音がする。窓を開けたら泥棒がいた俺の気持ちってやつをよ。大体お前はなんだ?」
「なんだ、って今更、ああいや、泥棒ではないです」
「じゃああいつの仲間か?」
「はぁ?あいつ?あの、昨日ここに引っ越して来た者ですが」
「引っ越して来ただと?」
「まあ一応」
「…そういえばそんなことになってたな。なんだよ。確かアマガワ」
「挨拶が遅れました。雨野川と言います」尚が引っ越して来た時他の住人は二人とも留守だったのだ。
「そうだそうだ。そんな名前だったな。なるほど確かにあんたは泥棒じゃなさそうだ。俺は隣の部屋の蜂谷(はちや)だ。よろしく。しかし一体あんた何をしとるんだね」おっさんは微笑しながら言った。
「はぁ、玄関に鍵が掛かっていたのでどうしたものかと」
「鍵は俺が掛けたからな」
「鍵あるんですか?だけどまだ門限って時間でもないし」
「ああ、まあ、とにかく玄関に行きな。中に入りたいんだろ?」
そう言い残しておっさんは窓を閉めた。キュルキュルガララと音を出す窓に尚は「堅そうな窓だな」と思った。
言われた通りに玄関まで来た尚、しかし玄関は相も変わらず鍵が掛かっている。開けてくれるんじゃなかったのか?尚は何が何やらわからない。
「おーい」
上方から声がする。見上げると二階の部屋、尚の隣、の窓からおっさんが顔を出している。
「今から鍵を渡すから開けて入ってくれ」
おっさんは紐が付いた鍵をスルスルと尚の前に降ろした。なんだこのシステムは。尚は浮かんだ疑問をぶつける前に言われた通り鍵を開けた。鍵を開けたのを確認するとおっさんは紐を手繰り、
「これから鍵が掛かっている時は俺を呼べ」と、言って窓を閉めてしまった。
そんなヒーローみたいなことを言われても。わけがわからない尚が茫然としていると再度二階の窓が開き、「入ったら鍵掛けてな」と、言って再度閉められた。
中に入り鍵を掛け、おっさんに挨拶の一つでもしなければなとおっさんの部屋をノックする。
「なんだい?」ドアが開かれおっさんが現れた。初めておっさんの全姿を見たが、上は白い下着シャツに腹巻き下はステテコと、完璧なバカボンのパパスタイルであった。少し衝撃を受けた尚であったが、「先程はどうも」と、一応、謝意を示す。
「いいんだよ。とにかく鍵が掛かってる時は呼んでくれればああするから」手を横に振りながらおっさんは言う。
「はぁ」なんでそういう風になっているのか、また合い鍵を作ってはいけないのかをいきなり聞くのはいけないような気がして、
「あの、引っ越しの蕎麦があるので持ってきます」と、言うと、
「ああ、引っ越し蕎麦ね。だけど悪い、俺蕎麦がアレルギーで食えないんだよ」おっさんは苦笑して言った。
「ああ、では何か違うものを」
「ああいやいや、いいよ。蕎麦が食えないのは俺の都合だからね、気持ちだけ受け取っておくよ。ま、そんな肩肘張らずによ。ここに居れば嫌でも顔をつきあわすことになるんだからお互い気楽にやっていこう。な。じゃ、なんかあったらまた」
おっさんは尚の来訪が面倒くさいかの如く早口で言いきりドアを閉めた。そんなものかと思った尚は、ようやく、部屋に帰る。部屋に入りピアスが入ったビニール袋を卓の上に置くとあることを思い出した。確かおっさんは昼食を作る途中だった筈。いや既に作り終わっていて部屋に運んだのかもしれない。しかし自分が伊那荘の裏手に回った時炊事場に人の気配はなかったしおっさんが炊事場に居ればすぐに自分の存在に気づくであろう。おっさんの部屋からは食事の匂いもしなかった。俺が出した物音に気づいたから炊事場にやって来たということだろう。やはりしばらくしてもおっさんが炊事場に向かう様子はない。そしてあの部屋に帰った後の面倒くさそうな対応。嫌なことに思い至った尚はげんなりした。
ピアスを空けるウキウキ気分がげんなり感で相殺されてしまった尚は冷めた頭脳により消毒液を買い忘れていたことに気づいた。今すぐ買いに出かけるのは問題があるだろうと、しばし時間をとり買いに出かける。そんなに時間はかかっていないが玄関には鍵が掛かっている。時間をとって正解だ。この時玄関横のチャイムがその意味を為していないことと玄関を強くノックするとおっさんが顔を出すことを知る。出てきたおっさんは妙にすっきりした顔で、尚が何度もすみません、と言うと、構わないよまったく構わないからいつでも出かけてくれ、と言った。この鍵システムであるが実はなんてことはない、言うなればただの“防犯”であり、今まで三つある合い鍵のうち二つを定期的に来客が訪れるおっさんが来客用と自分用に持っていただけ、もう一つはもちろんもう一人の住人、であることを知るのは少し後の話でその時に合い鍵を手に入れることになる。
兎にも角にも夜、尚はピアスを空けて昨日までの自分に区切りをつけた。ピアスを空けるときの痛みはやはり多少怖かったのだが精神は痛みを欲しているので問題ではない。耳たぶを思いっきり抓られたような痛みと嬉しさと共に尚は新しい自分のステージへと進むのであった。
それは引っ越して初めての近所散策だったのだが尚にはそんな感慨などまるでない。尚の足は一直線に朝五時からやっている大型チェーン店のディスカウントストアに吸い込まれていった。ピアッサーは思ったより安く手に入れることが出来た。穴を空ける装置とピアスが一体になった優れものだ。学校に隠れてピアスホールを空ける中学生みたく嬉しくなった自分を意識しつつ尚は行きよりも足早に部屋に帰った。だが簡単に帰れなかった。道に迷ったわけではない。共同玄関の鍵が閉められていた。尚は部屋の南京錠の鍵しかもっていなかったのだ。どうすればいいのだろう、という気持ちと、オナニーしている途中で来客が来た時のようなおあずけ感をくらい、あまつさえ最近のもうどうにでもなってしまえという感情に支配されている尚は冷静な判断を下すことが出来なかった。この場合の冷静な判断とは勝手口みたいな玄関の横にぶら下がるように付けられた小さなチャイムを鳴らすことであったろう、そのチャイムは壊れていて使いものにならないことを知るのはすぐのことだが。
こんなこと大家に説明されていない。どうしよう。そうだ自分の部屋の窓ガラスをぶち破ってしまえ。尚の出した答えはこのようなものであった。尚の部屋は二階であるからして窓ガラスをぶち破る決意と同時に都市型ロッククライマーこと蜘蛛男のように伊那荘の外壁をよじ登る決意をしたのである。尚には自分の部屋によじ登る目算がついていた。部屋は炊事場の上にあり、部屋の窓もその面にある。換気扇やLPガスのボンベを足場にすれば十分によじ登れるはずである、と。
尚は伊那荘の敷地内に入りぐるりと伊那荘の外壁を半周すると近所の目など気にすることもなくロッククライミングを開始。炊事場の窓ガラスのサッシに左足をかけ右足で大地を蹴り一気に換気扇の枠に手をかけて体を固定、出来るはずが尚の体捌きは自分が思っていたよりも鈍重で尚の手は体重を支えることもなく、バランスを失った尚の左足は伸びたまんま地に着き衝撃は尚の股関節へと流れ、ずでんどう、と、尻餅を着いた。
「なあぁ」尚が引っ越して来て初めて発した言葉であった。
言葉にならない声を上げる尚。痛みに麻痺しているのはあくまで尚の精神であって肉体ではなかったようで高校の時の体育祭で棒倒しの棒から叩き落とされた時以来の衝撃に身をよじる。かといって誰かが助けてくれるはずもなく、尚が落ちたのは伊那荘を取り囲むコンクリート壁の内側、ましてや部屋に帰れるというわけもない。尚は痛みと付き合えるようになると再度伊那荘に挑戦した。今度はコンクリート壁に登りそこからLPガスのボンベ上に移動し二階の窓の鉄柵によじ登る算段だ。換気扇に手をつけた時に付いた油汚れが滑り止め代わり。今度は鈍重な体を不器用ながら操ることに成功し落ちることなく鉄柵に手をかけるに至った。よし、あとは…どうしよう。尚は動けなくなった。バカだ。鉄柵に手をかけてもよじ登って体を二階へと導く術がないことに気づいたのだ。尚の目には出っ張った鉄柵がオーバーハングしてる絶壁に見えないこともなかった。それに尚の部屋の鉄柵は尚の体重を支えるには頼りなさげで手をかけるとギィギィ鳴いた。尚はしばらくガスボンベの上で固まっていた。
このまま泥棒ごっこをしていてもどうしようもない。ようやく尚は、地に足を着けた思考回路の下、地に足を着けた。その時、ガラリガラガラ、炊事場の窓が開いた。尚はぎょっとして阿呆丸出しの顔をして窓を見る。窓には同じく阿呆な顔したおっさんがいた。おっさんというには老けじじいというには若い微妙なお年頃のおっさんだ。見つめ合う二人、数瞬後尚は、ああここから入れば良かったな、と、確かにその通りではあるがこの状況にはそぐわないことを思った。
「なんだお前は。泥棒か?」尚と呼吸を忘れたかのように見つめ合っていたおっさんがようやく我を取り戻した。
「ああ、いえ、部屋に入ろうと思いましてね」
「やっぱり泥棒か。泥棒なんぞやるのは俺の知ったこっちゃねえが狙うならもっとまともな所を狙え。こんなところに金目のものがあると思うか?まだガキが作った秘密基地の方があるだろうよ」
「いえ違います。鍵が、玄関に鍵が掛かってまして」尚は泥棒ではないので別段慌てることもなく、むしろ焦りや緊張や中の住人にアクセス出来た安堵やらがこの状況を楽しむ客観的視点を作ってた。
「そりゃ鍵は掛かってるだろうよ。俺が掛けたからな。金目のものは無いが他人に勝手に入られるのは嫌だからな」
このおっさんは話が長い、と、悟るのは後々の話だ。おっさんは生活保護で生活しており、社会というものから閉ざされたのか閉じこもっているのか、とにかく話し相手というものがいないのでたまの来客、尚や宅配便業者や役所の人間がくるとここぞとばかりに会話をする癖がある。
「あなたが掛けたんですか?ああでも良かった」
「俺は良くない。考えてもみろ。遅めの昼食を取ろうとキッチンに来てみればなにやら外で物音がする。窓を開けたら泥棒がいた俺の気持ちってやつをよ。大体お前はなんだ?」
「なんだ、って今更、ああいや、泥棒ではないです」
「じゃああいつの仲間か?」
「はぁ?あいつ?あの、昨日ここに引っ越して来た者ですが」
「引っ越して来ただと?」
「まあ一応」
「…そういえばそんなことになってたな。なんだよ。確かアマガワ」
「挨拶が遅れました。雨野川と言います」尚が引っ越して来た時他の住人は二人とも留守だったのだ。
「そうだそうだ。そんな名前だったな。なるほど確かにあんたは泥棒じゃなさそうだ。俺は隣の部屋の蜂谷(はちや)だ。よろしく。しかし一体あんた何をしとるんだね」おっさんは微笑しながら言った。
「はぁ、玄関に鍵が掛かっていたのでどうしたものかと」
「鍵は俺が掛けたからな」
「鍵あるんですか?だけどまだ門限って時間でもないし」
「ああ、まあ、とにかく玄関に行きな。中に入りたいんだろ?」
そう言い残しておっさんは窓を閉めた。キュルキュルガララと音を出す窓に尚は「堅そうな窓だな」と思った。
言われた通りに玄関まで来た尚、しかし玄関は相も変わらず鍵が掛かっている。開けてくれるんじゃなかったのか?尚は何が何やらわからない。
「おーい」
上方から声がする。見上げると二階の部屋、尚の隣、の窓からおっさんが顔を出している。
「今から鍵を渡すから開けて入ってくれ」
おっさんは紐が付いた鍵をスルスルと尚の前に降ろした。なんだこのシステムは。尚は浮かんだ疑問をぶつける前に言われた通り鍵を開けた。鍵を開けたのを確認するとおっさんは紐を手繰り、
「これから鍵が掛かっている時は俺を呼べ」と、言って窓を閉めてしまった。
そんなヒーローみたいなことを言われても。わけがわからない尚が茫然としていると再度二階の窓が開き、「入ったら鍵掛けてな」と、言って再度閉められた。
中に入り鍵を掛け、おっさんに挨拶の一つでもしなければなとおっさんの部屋をノックする。
「なんだい?」ドアが開かれおっさんが現れた。初めておっさんの全姿を見たが、上は白い下着シャツに腹巻き下はステテコと、完璧なバカボンのパパスタイルであった。少し衝撃を受けた尚であったが、「先程はどうも」と、一応、謝意を示す。
「いいんだよ。とにかく鍵が掛かってる時は呼んでくれればああするから」手を横に振りながらおっさんは言う。
「はぁ」なんでそういう風になっているのか、また合い鍵を作ってはいけないのかをいきなり聞くのはいけないような気がして、
「あの、引っ越しの蕎麦があるので持ってきます」と、言うと、
「ああ、引っ越し蕎麦ね。だけど悪い、俺蕎麦がアレルギーで食えないんだよ」おっさんは苦笑して言った。
「ああ、では何か違うものを」
「ああいやいや、いいよ。蕎麦が食えないのは俺の都合だからね、気持ちだけ受け取っておくよ。ま、そんな肩肘張らずによ。ここに居れば嫌でも顔をつきあわすことになるんだからお互い気楽にやっていこう。な。じゃ、なんかあったらまた」
おっさんは尚の来訪が面倒くさいかの如く早口で言いきりドアを閉めた。そんなものかと思った尚は、ようやく、部屋に帰る。部屋に入りピアスが入ったビニール袋を卓の上に置くとあることを思い出した。確かおっさんは昼食を作る途中だった筈。いや既に作り終わっていて部屋に運んだのかもしれない。しかし自分が伊那荘の裏手に回った時炊事場に人の気配はなかったしおっさんが炊事場に居ればすぐに自分の存在に気づくであろう。おっさんの部屋からは食事の匂いもしなかった。俺が出した物音に気づいたから炊事場にやって来たということだろう。やはりしばらくしてもおっさんが炊事場に向かう様子はない。そしてあの部屋に帰った後の面倒くさそうな対応。嫌なことに思い至った尚はげんなりした。
ピアスを空けるウキウキ気分がげんなり感で相殺されてしまった尚は冷めた頭脳により消毒液を買い忘れていたことに気づいた。今すぐ買いに出かけるのは問題があるだろうと、しばし時間をとり買いに出かける。そんなに時間はかかっていないが玄関には鍵が掛かっている。時間をとって正解だ。この時玄関横のチャイムがその意味を為していないことと玄関を強くノックするとおっさんが顔を出すことを知る。出てきたおっさんは妙にすっきりした顔で、尚が何度もすみません、と言うと、構わないよまったく構わないからいつでも出かけてくれ、と言った。この鍵システムであるが実はなんてことはない、言うなればただの“防犯”であり、今まで三つある合い鍵のうち二つを定期的に来客が訪れるおっさんが来客用と自分用に持っていただけ、もう一つはもちろんもう一人の住人、であることを知るのは少し後の話でその時に合い鍵を手に入れることになる。
兎にも角にも夜、尚はピアスを空けて昨日までの自分に区切りをつけた。ピアスを空けるときの痛みはやはり多少怖かったのだが精神は痛みを欲しているので問題ではない。耳たぶを思いっきり抓られたような痛みと嬉しさと共に尚は新しい自分のステージへと進むのであった。
スターに謝ることから始めよう
某プロボクサーが映画イキガミを観たらしい。本人もブログで綴っているようにこの映画は観た人を、自分だったらどうするのかな、という気持ちにさせるもののようだ。まあそれは設定をみれば当たり前だろう。はて、おれはイキガミに関してCMでちらりと観た程度の知識しかないのに内容が鮮明に浮かび上がるのはなぜだろうか。まあいいや。で、某ボクサーはおれだったらどうするかなぁ?と書き記しているのだが、お前はイキガミもらったことあるだろ!などと言っている人は世の中に五億人ぐらいいるのだろうなと思ったよ。おれは思ったよ。こう思ったしああ思ったよ。うん。そうも思ったよ。
ボツ台本八百長問題
「あまり真剣に話す問題じゃないことは確かだからとりとめもまとまりもなく」
『おれも八百長問題を取り上げなきゃならない』
「別に頼まれたわけでもあるまいに」
『さて八百長だ。気をつけなくてはいけないのは八百長と八百八町は違うということだ』
「銭形平次になってしまうものな。花のお江戸の八百八町♪」
『おや?今疑問に思ったが、誰が呼んだか誰が呼んだか銭形平次♪ってどういう意味だろうか』
「なるほど、二通りあるな、誰も呼んでいないのにいつの間にか事件に絡んでくる平次と」
『それは嫌だな。なんでお前ここにいるの?みたいなさ』
「ああ、その感は否めないな。それは嫌だ。ということはもう一つの、誰かが銭形平次を銭形平次と名付けたということか」
『そうであろう。銭形の平次って誰かが呼ばないと銭形平次ではなかったということであろうよ』
「所詮奴は一介の岡っ引き。同心のパシリさ。身分なんてないから名字など公式には名乗れなかったのであろう。あだ名が銭形平次ってわけだな」
『そうさ。もし銭形平次の第一発見者が罰当たりの平次やお賽銭職人の平次などと名付けていたらと思うと、これはことだぜ』
「その可能性も無きにしも非ずだったわけだ」
『ま、フィクションなわけだが』
「だな」
『解決した問題に口を挟むのもなんだがさっきおれは、なんでお前ここにいるの?と善良な町民の気持ちで言ったわけだが、誰が呼んだ、と言ったのが悪人だとしたらどうだろうという考えが浮かんでしまった』
「なるほど、確かに解決した問題であるし悪人にとっていつの間にかいたら困る存在だからな」
『悪人が開く合コンに』
「賭場ではないのか」
『合コンにいつの間にか平次がいたら王様ゲームどころではないさ』
「日頃の悪行を忘れ王様を目指す楽しい一時が一瞬で崩壊することうけあいだな」
『参加費小銭でしか払わないしな』
「しかも投げつけてきやがる」
『王様だーれだ、…はい、…なぬ平次!』
「よくぞそこまで気づかれなかったな」
『えー、5番と6番打ち首』
「KYってやつだな」
『悪行に関係のない善良な町娘を打ち首にしてしまう可能性も省みず平次は王の権利を一網打尽とばかりに嬉々として行使するのであった』
「中世ヨーロッパの放蕩貴族みたいだな」
『ところでなんの話だっけか』
「八百長だ」
『八百長か、おれあんま話たくないんだよね』
「話さなきゃならないといったのはお前だ」
『渡辺淳一みたいになりたくないからな』
「作家らしからぬ八百長批評だったからな。公務員だったら税金泥棒と叫ばれてるところだ」
『そのうち相撲界のセックスものでも書くんだろどうせ』
「どうせな」
『ホモの力士が場所中に組み合った瞬間イってしまうとかな』
「それは見るに耐えないな」
『へなへなへな、さ』
「へなへなへな、と膝を着いてしまうな、それは」
『まわしから色々飛び出るしな』
「色々飛び出ちゃうのかい?それは見るに耐えないな」
『さ、八百長だ』
「待ってたよ」
『語源の蘊蓄や定義は置いといて、今話題になってるのはいわゆる星を買うというやつだな』
「ああ、対戦相手に金や物品などの報酬を渡し負けてくれることを頼むのだな。逆に負ける側が買わないかと持ちかけたり」
『大問題にしてやりたいな』
「もうなってるさ」
『しかしおれは八百長が行われていても、行われているだろうが、特になにも思わないしましてや怒る気にもならないな。別に相撲に興味ないし』
「それを言ってはおしまいさ」
『八百長といえばイタリアセリエAサッカーでもよく起こるだろう?』
「詳しいことは知らないがそうらしいな」
『ちゃんとしたスポーツでも起こるものなのさ。人間が関与している限りな』
「しかしあれは賭けの対象であるということもあるが」
『相撲で賭けが行われているかどうかはさておき、人間てのは先に結末を知りたがるものなのさ』
「本のあとがきや結びを先に読む人も多いと聞くしな」
『真剣勝負の勝ち負けってのはどうしようもないぐらい不安がつくまとうものさ。しかし最初から勝ち負けが決まっていれば安心だからな。主人公は生きているという結末を知っておけば主人公がどんなピンチになろうが神の視点で読めるからな。占いや風水も同じだよ』
「未来に起こるであろうことを知りたい、知っておきたいということだ」
『そう。スマトラの津波のときに動物達は山の上に避難したという話があるが、ひょっとしたら未来を知りたい、決定づけたいというのはそういった人間が失った動物的勘の名残なのかもしれない。未来を予測することで生活に安定を求める、天気予報と農業の関係などまさにそれだが、ということよりももっと深いもの』
「本能というわけか。沈没する船からはネズミがいなくなるみたいな」
『未来というのは闇さ。虚空だよ。あってないようなものさ。だけど一つだけ道しるべがある。死という淡い光さ。でも死の位置はわからない。あいつらは点滅してしかも移動しているからな。あんな遠くにあったのに気がつけば真後ろにあったりする。まあ、死とは当人にとって最も意外な時にやってくる、というアフォリズムがあるが、普段はその死の光さえ見えないことにしているのだがな。そんな不安だらけの闇の中でマッチの一本もつけたくなるのさ。それは出来る範囲での未来の結末の操作でありメメント・モリでさえ所詮はマッチさ。ま、照らす度に違う光景が浮かび上がるのだがね』
「過去は過ぎ去りもう無い、未来来たらず未だ無い、という昔の坊主の言葉を思い出したよ」
『過去と未来と現在は繋がっているかもしれないが決して互いを反射することはないのさ』
「パラレルワールドの原理のようなものだな。例えば今おれが突然奇声をあげたとする。するとおれが奇声をあげた未来とあげてない未来に分かれる。未来と言ったがそれは現在進行形で平行世界の名の通り無数に分かれ現在を進行している。パラレルワールドにも未来や過去は無い。あるのはただ現在という点だけ。常に世界は分かれているからマッチをつけて周りを確認しても毎回違うものが見える、と」
『とりとめのない話さ』
「とりとめのない話だな」
『世界5分前仮説という倫理の命題のような、知ったこっちゃないやい、という話さ』
「ああ。しかし八百長の話がとんだところに来たもんだ」
『八百長か、そんなことまともに話たくないのさ。女学生に笑われてしまうよ』
「ああ。わかったよ」
『しかし八百長ってあいつらはそんなに金持ちなのかい?』
「仮に横綱が星を買う金額を80万だとすると」
『ドルかい?』
「円さ。今はなんといっても円さ」
『なるほどな』
「仮に80万円だとする。そして一場所に十番八百長したら800万円になる」
『ま、八百長ならぬ八百万ということだな』
「神事ということか。この罰当たりめ」
『罰当たりさ』
「ふふ」
『グッバイ』
「ダスビダーニァ」
終わり
『おれも八百長問題を取り上げなきゃならない』
「別に頼まれたわけでもあるまいに」
『さて八百長だ。気をつけなくてはいけないのは八百長と八百八町は違うということだ』
「銭形平次になってしまうものな。花のお江戸の八百八町♪」
『おや?今疑問に思ったが、誰が呼んだか誰が呼んだか銭形平次♪ってどういう意味だろうか』
「なるほど、二通りあるな、誰も呼んでいないのにいつの間にか事件に絡んでくる平次と」
『それは嫌だな。なんでお前ここにいるの?みたいなさ』
「ああ、その感は否めないな。それは嫌だ。ということはもう一つの、誰かが銭形平次を銭形平次と名付けたということか」
『そうであろう。銭形の平次って誰かが呼ばないと銭形平次ではなかったということであろうよ』
「所詮奴は一介の岡っ引き。同心のパシリさ。身分なんてないから名字など公式には名乗れなかったのであろう。あだ名が銭形平次ってわけだな」
『そうさ。もし銭形平次の第一発見者が罰当たりの平次やお賽銭職人の平次などと名付けていたらと思うと、これはことだぜ』
「その可能性も無きにしも非ずだったわけだ」
『ま、フィクションなわけだが』
「だな」
『解決した問題に口を挟むのもなんだがさっきおれは、なんでお前ここにいるの?と善良な町民の気持ちで言ったわけだが、誰が呼んだ、と言ったのが悪人だとしたらどうだろうという考えが浮かんでしまった』
「なるほど、確かに解決した問題であるし悪人にとっていつの間にかいたら困る存在だからな」
『悪人が開く合コンに』
「賭場ではないのか」
『合コンにいつの間にか平次がいたら王様ゲームどころではないさ』
「日頃の悪行を忘れ王様を目指す楽しい一時が一瞬で崩壊することうけあいだな」
『参加費小銭でしか払わないしな』
「しかも投げつけてきやがる」
『王様だーれだ、…はい、…なぬ平次!』
「よくぞそこまで気づかれなかったな」
『えー、5番と6番打ち首』
「KYってやつだな」
『悪行に関係のない善良な町娘を打ち首にしてしまう可能性も省みず平次は王の権利を一網打尽とばかりに嬉々として行使するのであった』
「中世ヨーロッパの放蕩貴族みたいだな」
『ところでなんの話だっけか』
「八百長だ」
『八百長か、おれあんま話たくないんだよね』
「話さなきゃならないといったのはお前だ」
『渡辺淳一みたいになりたくないからな』
「作家らしからぬ八百長批評だったからな。公務員だったら税金泥棒と叫ばれてるところだ」
『そのうち相撲界のセックスものでも書くんだろどうせ』
「どうせな」
『ホモの力士が場所中に組み合った瞬間イってしまうとかな』
「それは見るに耐えないな」
『へなへなへな、さ』
「へなへなへな、と膝を着いてしまうな、それは」
『まわしから色々飛び出るしな』
「色々飛び出ちゃうのかい?それは見るに耐えないな」
『さ、八百長だ』
「待ってたよ」
『語源の蘊蓄や定義は置いといて、今話題になってるのはいわゆる星を買うというやつだな』
「ああ、対戦相手に金や物品などの報酬を渡し負けてくれることを頼むのだな。逆に負ける側が買わないかと持ちかけたり」
『大問題にしてやりたいな』
「もうなってるさ」
『しかしおれは八百長が行われていても、行われているだろうが、特になにも思わないしましてや怒る気にもならないな。別に相撲に興味ないし』
「それを言ってはおしまいさ」
『八百長といえばイタリアセリエAサッカーでもよく起こるだろう?』
「詳しいことは知らないがそうらしいな」
『ちゃんとしたスポーツでも起こるものなのさ。人間が関与している限りな』
「しかしあれは賭けの対象であるということもあるが」
『相撲で賭けが行われているかどうかはさておき、人間てのは先に結末を知りたがるものなのさ』
「本のあとがきや結びを先に読む人も多いと聞くしな」
『真剣勝負の勝ち負けってのはどうしようもないぐらい不安がつくまとうものさ。しかし最初から勝ち負けが決まっていれば安心だからな。主人公は生きているという結末を知っておけば主人公がどんなピンチになろうが神の視点で読めるからな。占いや風水も同じだよ』
「未来に起こるであろうことを知りたい、知っておきたいということだ」
『そう。スマトラの津波のときに動物達は山の上に避難したという話があるが、ひょっとしたら未来を知りたい、決定づけたいというのはそういった人間が失った動物的勘の名残なのかもしれない。未来を予測することで生活に安定を求める、天気予報と農業の関係などまさにそれだが、ということよりももっと深いもの』
「本能というわけか。沈没する船からはネズミがいなくなるみたいな」
『未来というのは闇さ。虚空だよ。あってないようなものさ。だけど一つだけ道しるべがある。死という淡い光さ。でも死の位置はわからない。あいつらは点滅してしかも移動しているからな。あんな遠くにあったのに気がつけば真後ろにあったりする。まあ、死とは当人にとって最も意外な時にやってくる、というアフォリズムがあるが、普段はその死の光さえ見えないことにしているのだがな。そんな不安だらけの闇の中でマッチの一本もつけたくなるのさ。それは出来る範囲での未来の結末の操作でありメメント・モリでさえ所詮はマッチさ。ま、照らす度に違う光景が浮かび上がるのだがね』
「過去は過ぎ去りもう無い、未来来たらず未だ無い、という昔の坊主の言葉を思い出したよ」
『過去と未来と現在は繋がっているかもしれないが決して互いを反射することはないのさ』
「パラレルワールドの原理のようなものだな。例えば今おれが突然奇声をあげたとする。するとおれが奇声をあげた未来とあげてない未来に分かれる。未来と言ったがそれは現在進行形で平行世界の名の通り無数に分かれ現在を進行している。パラレルワールドにも未来や過去は無い。あるのはただ現在という点だけ。常に世界は分かれているからマッチをつけて周りを確認しても毎回違うものが見える、と」
『とりとめのない話さ』
「とりとめのない話だな」
『世界5分前仮説という倫理の命題のような、知ったこっちゃないやい、という話さ』
「ああ。しかし八百長の話がとんだところに来たもんだ」
『八百長か、そんなことまともに話たくないのさ。女学生に笑われてしまうよ』
「ああ。わかったよ」
『しかし八百長ってあいつらはそんなに金持ちなのかい?』
「仮に横綱が星を買う金額を80万だとすると」
『ドルかい?』
「円さ。今はなんといっても円さ」
『なるほどな』
「仮に80万円だとする。そして一場所に十番八百長したら800万円になる」
『ま、八百長ならぬ八百万ということだな』
「神事ということか。この罰当たりめ」
『罰当たりさ』
「ふふ」
『グッバイ』
「ダスビダーニァ」
終わり