灰皿と灰とけむ猫(5) | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

灰皿と灰とけむ猫(5)

何故ピアスをつけようと思ったのかは当時の尚自身よくわからなかった。ただ漠然とピアスをつけたくなった。耳に穴をあけたくなった。痛みが欲しかった。精神的に上向きになりつつある尚だったが肉体はまだ傷つきたかったのだろう。しかし自殺を選択する意思はない。そこでピアスだ。尚は自殺をピアスの痛みに仮託したのだ。昼頃起き出した尚は昨日の残りのインスタント焼きそばをかき込むとここに来る車中でウィンドウに写る自分越しにぼんやりと見ていた駅前通りへと向かった。
それは引っ越して初めての近所散策だったのだが尚にはそんな感慨などまるでない。尚の足は一直線に朝五時からやっている大型チェーン店のディスカウントストアに吸い込まれていった。ピアッサーは思ったより安く手に入れることが出来た。穴を空ける装置とピアスが一体になった優れものだ。学校に隠れてピアスホールを空ける中学生みたく嬉しくなった自分を意識しつつ尚は行きよりも足早に部屋に帰った。だが簡単に帰れなかった。道に迷ったわけではない。共同玄関の鍵が閉められていた。尚は部屋の南京錠の鍵しかもっていなかったのだ。どうすればいいのだろう、という気持ちと、オナニーしている途中で来客が来た時のようなおあずけ感をくらい、あまつさえ最近のもうどうにでもなってしまえという感情に支配されている尚は冷静な判断を下すことが出来なかった。この場合の冷静な判断とは勝手口みたいな玄関の横にぶら下がるように付けられた小さなチャイムを鳴らすことであったろう、そのチャイムは壊れていて使いものにならないことを知るのはすぐのことだが。
こんなこと大家に説明されていない。どうしよう。そうだ自分の部屋の窓ガラスをぶち破ってしまえ。尚の出した答えはこのようなものであった。尚の部屋は二階であるからして窓ガラスをぶち破る決意と同時に都市型ロッククライマーこと蜘蛛男のように伊那荘の外壁をよじ登る決意をしたのである。尚には自分の部屋によじ登る目算がついていた。部屋は炊事場の上にあり、部屋の窓もその面にある。換気扇やLPガスのボンベを足場にすれば十分によじ登れるはずである、と。
尚は伊那荘の敷地内に入りぐるりと伊那荘の外壁を半周すると近所の目など気にすることもなくロッククライミングを開始。炊事場の窓ガラスのサッシに左足をかけ右足で大地を蹴り一気に換気扇の枠に手をかけて体を固定、出来るはずが尚の体捌きは自分が思っていたよりも鈍重で尚の手は体重を支えることもなく、バランスを失った尚の左足は伸びたまんま地に着き衝撃は尚の股関節へと流れ、ずでんどう、と、尻餅を着いた。
「なあぁ」尚が引っ越して来て初めて発した言葉であった。
言葉にならない声を上げる尚。痛みに麻痺しているのはあくまで尚の精神であって肉体ではなかったようで高校の時の体育祭で棒倒しの棒から叩き落とされた時以来の衝撃に身をよじる。かといって誰かが助けてくれるはずもなく、尚が落ちたのは伊那荘を取り囲むコンクリート壁の内側、ましてや部屋に帰れるというわけもない。尚は痛みと付き合えるようになると再度伊那荘に挑戦した。今度はコンクリート壁に登りそこからLPガスのボンベ上に移動し二階の窓の鉄柵によじ登る算段だ。換気扇に手をつけた時に付いた油汚れが滑り止め代わり。今度は鈍重な体を不器用ながら操ることに成功し落ちることなく鉄柵に手をかけるに至った。よし、あとは…どうしよう。尚は動けなくなった。バカだ。鉄柵に手をかけてもよじ登って体を二階へと導く術がないことに気づいたのだ。尚の目には出っ張った鉄柵がオーバーハングしてる絶壁に見えないこともなかった。それに尚の部屋の鉄柵は尚の体重を支えるには頼りなさげで手をかけるとギィギィ鳴いた。尚はしばらくガスボンベの上で固まっていた。
このまま泥棒ごっこをしていてもどうしようもない。ようやく尚は、地に足を着けた思考回路の下、地に足を着けた。その時、ガラリガラガラ、炊事場の窓が開いた。尚はぎょっとして阿呆丸出しの顔をして窓を見る。窓には同じく阿呆な顔したおっさんがいた。おっさんというには老けじじいというには若い微妙なお年頃のおっさんだ。見つめ合う二人、数瞬後尚は、ああここから入れば良かったな、と、確かにその通りではあるがこの状況にはそぐわないことを思った。
「なんだお前は。泥棒か?」尚と呼吸を忘れたかのように見つめ合っていたおっさんがようやく我を取り戻した。
「ああ、いえ、部屋に入ろうと思いましてね」
「やっぱり泥棒か。泥棒なんぞやるのは俺の知ったこっちゃねえが狙うならもっとまともな所を狙え。こんなところに金目のものがあると思うか?まだガキが作った秘密基地の方があるだろうよ」
「いえ違います。鍵が、玄関に鍵が掛かってまして」尚は泥棒ではないので別段慌てることもなく、むしろ焦りや緊張や中の住人にアクセス出来た安堵やらがこの状況を楽しむ客観的視点を作ってた。
「そりゃ鍵は掛かってるだろうよ。俺が掛けたからな。金目のものは無いが他人に勝手に入られるのは嫌だからな」
このおっさんは話が長い、と、悟るのは後々の話だ。おっさんは生活保護で生活しており、社会というものから閉ざされたのか閉じこもっているのか、とにかく話し相手というものがいないのでたまの来客、尚や宅配便業者や役所の人間がくるとここぞとばかりに会話をする癖がある。
「あなたが掛けたんですか?ああでも良かった」
「俺は良くない。考えてもみろ。遅めの昼食を取ろうとキッチンに来てみればなにやら外で物音がする。窓を開けたら泥棒がいた俺の気持ちってやつをよ。大体お前はなんだ?」
「なんだ、って今更、ああいや、泥棒ではないです」
「じゃああいつの仲間か?」
「はぁ?あいつ?あの、昨日ここに引っ越して来た者ですが」
「引っ越して来ただと?」
「まあ一応」
「…そういえばそんなことになってたな。なんだよ。確かアマガワ」
「挨拶が遅れました。雨野川と言います」尚が引っ越して来た時他の住人は二人とも留守だったのだ。
「そうだそうだ。そんな名前だったな。なるほど確かにあんたは泥棒じゃなさそうだ。俺は隣の部屋の蜂谷(はちや)だ。よろしく。しかし一体あんた何をしとるんだね」おっさんは微笑しながら言った。
「はぁ、玄関に鍵が掛かっていたのでどうしたものかと」
「鍵は俺が掛けたからな」
「鍵あるんですか?だけどまだ門限って時間でもないし」
「ああ、まあ、とにかく玄関に行きな。中に入りたいんだろ?」
そう言い残しておっさんは窓を閉めた。キュルキュルガララと音を出す窓に尚は「堅そうな窓だな」と思った。
言われた通りに玄関まで来た尚、しかし玄関は相も変わらず鍵が掛かっている。開けてくれるんじゃなかったのか?尚は何が何やらわからない。
「おーい」
上方から声がする。見上げると二階の部屋、尚の隣、の窓からおっさんが顔を出している。
「今から鍵を渡すから開けて入ってくれ」
おっさんは紐が付いた鍵をスルスルと尚の前に降ろした。なんだこのシステムは。尚は浮かんだ疑問をぶつける前に言われた通り鍵を開けた。鍵を開けたのを確認するとおっさんは紐を手繰り、
「これから鍵が掛かっている時は俺を呼べ」と、言って窓を閉めてしまった。
そんなヒーローみたいなことを言われても。わけがわからない尚が茫然としていると再度二階の窓が開き、「入ったら鍵掛けてな」と、言って再度閉められた。
中に入り鍵を掛け、おっさんに挨拶の一つでもしなければなとおっさんの部屋をノックする。
「なんだい?」ドアが開かれおっさんが現れた。初めておっさんの全姿を見たが、上は白い下着シャツに腹巻き下はステテコと、完璧なバカボンのパパスタイルであった。少し衝撃を受けた尚であったが、「先程はどうも」と、一応、謝意を示す。
「いいんだよ。とにかく鍵が掛かってる時は呼んでくれればああするから」手を横に振りながらおっさんは言う。
「はぁ」なんでそういう風になっているのか、また合い鍵を作ってはいけないのかをいきなり聞くのはいけないような気がして、
「あの、引っ越しの蕎麦があるので持ってきます」と、言うと、
「ああ、引っ越し蕎麦ね。だけど悪い、俺蕎麦がアレルギーで食えないんだよ」おっさんは苦笑して言った。
「ああ、では何か違うものを」
「ああいやいや、いいよ。蕎麦が食えないのは俺の都合だからね、気持ちだけ受け取っておくよ。ま、そんな肩肘張らずによ。ここに居れば嫌でも顔をつきあわすことになるんだからお互い気楽にやっていこう。な。じゃ、なんかあったらまた」
おっさんは尚の来訪が面倒くさいかの如く早口で言いきりドアを閉めた。そんなものかと思った尚は、ようやく、部屋に帰る。部屋に入りピアスが入ったビニール袋を卓の上に置くとあることを思い出した。確かおっさんは昼食を作る途中だった筈。いや既に作り終わっていて部屋に運んだのかもしれない。しかし自分が伊那荘の裏手に回った時炊事場に人の気配はなかったしおっさんが炊事場に居ればすぐに自分の存在に気づくであろう。おっさんの部屋からは食事の匂いもしなかった。俺が出した物音に気づいたから炊事場にやって来たということだろう。やはりしばらくしてもおっさんが炊事場に向かう様子はない。そしてあの部屋に帰った後の面倒くさそうな対応。嫌なことに思い至った尚はげんなりした。
ピアスを空けるウキウキ気分がげんなり感で相殺されてしまった尚は冷めた頭脳により消毒液を買い忘れていたことに気づいた。今すぐ買いに出かけるのは問題があるだろうと、しばし時間をとり買いに出かける。そんなに時間はかかっていないが玄関には鍵が掛かっている。時間をとって正解だ。この時玄関横のチャイムがその意味を為していないことと玄関を強くノックするとおっさんが顔を出すことを知る。出てきたおっさんは妙にすっきりした顔で、尚が何度もすみません、と言うと、構わないよまったく構わないからいつでも出かけてくれ、と言った。この鍵システムであるが実はなんてことはない、言うなればただの“防犯”であり、今まで三つある合い鍵のうち二つを定期的に来客が訪れるおっさんが来客用と自分用に持っていただけ、もう一つはもちろんもう一人の住人、であることを知るのは少し後の話でその時に合い鍵を手に入れることになる。
兎にも角にも夜、尚はピアスを空けて昨日までの自分に区切りをつけた。ピアスを空けるときの痛みはやはり多少怖かったのだが精神は痛みを欲しているので問題ではない。耳たぶを思いっきり抓られたような痛みと嬉しさと共に尚は新しい自分のステージへと進むのであった。