目標の大会では決勝戦で負けてしまっていたが、教え子たちが韓国に渡って“日の丸”を背負い良い結果を出せたこと、、、障害者バレーボ―ル「わかふじ大会」で大人の審判役員と同じレベルで小学生が審判(ラインジャッジ)をやれせてもらうなどと、、、前例に無い貴重な経験が次から次へと続いていたので、周りに立つ波風はむしろ気持ちがいいくらいだった。 子供たちや親には、以前から目標の大会が過ぎた夏の後半からは、小学生特別ルールによるバレーは止め、来年の中学生から行うバレーボールのルールに倣った練習をしていくことを伝えてあったので、予定通りローテーションや新ルールの勉強を始めた。 子どもたちっていうのは、新しいことには目を輝かせて取組み、、、審判の面白さを知った子どもたちだけに飲み込みも早く、、、教えている私も楽しかった。 世間では、ローテーションは難しい、、、とか、、、こんがらがっちゃうとか、、言われていたが、本来、一個ずつ時計回りに回っていくだけだから、格好つけて変な移動を教えなければ何でもないのに、、、っとよく思っていた。 





秋になると2回目の全国大会出場を賭けた大会が始まった。今まで殆どの大会では中部地区予選1位で県大会に進んできたが、さすがに我がチームだけ、ローテーションをして、エース2人を表と裏に分けてしまっていたので今度ばかりは負けてしまい中部3位での県大会出場となった。前回の県大会の決勝戦で負けた相手には負けたくなかったので、ローテーションを止め、小学生特別ルールに戻そうかっと一瞬思ったが、、、、やっぱり、、、やめた。 その代り、完全にそのチームを想定し練習した。 私と同じ名前の監督が率いる強豪チームも怖かったんだが、その頃には、その監督からも声をかけていただき、練習に呼ばれるようになり、子供や私までも指導していただくこともあった。 当然、したたかな私は、そのチームの普段の見える練習や試合開始前の練習方法まで全く同じことができるまで調べ、子供たちと練習の練習をして、、、実際に試合で見せてびっくりさせようかと、、、詰まらぬことまで考えていた。





県大会の当日になってみると、ローテーションで前衛エース一枚で戦っているのに、子供たちはのびのび出来て、、、しまいにはバックアタックと前衛とのコラボ、、、みたいな攻撃や、Aクイック、ブロード、、、、サーブは、体を低くしてフローター、、、次はオーバーハンドサーブに切り替えて、、、次は5m下がって、、、次は、ジャンピングフローター、、、次はジャンプサーブ(ドライブ)っと、、、。何故か、負けそうで負けなくて、、、前回の覇者である浜北も破り、、、あっという間に又、決勝戦まで行ってしまった。 相手は、予想していた私と同じ名前の監督が率いるチームだった。 周りで見ている観客も役員関係者も気がつかなかったようだが、試合開始前の練習も公式練習も全く同じ練習を両チームが行っていて、、、相手チームの子供たちは、「あ、あれ?」、、、みたいな顔をしていた。 実際、試合をしてみるとさすが相手チーム監督は一枚も二枚も私より上で、、、途中から、、、やっぱ、、、ローテーやめよっか?、、、と頭をよぎったが、、、、結局、当然だが最後まで通し、、、負けた。 2回連続、準優勝だった。

勝てば全国大会。でも、まさか、準優勝まで勝ち上がれるとは思っていなかったので、この子供たちの凄さにびっくりしてしまうばかりだった。 コートの外から見ていて、どのくらいの人が我がチームだけ、セッターが立ち足を気にしているのか、アタックラインを気にしてローテーションをしているのか、、、を解っていただろうか?でも、そんなことはどうでもよかった。 また、やってもうたんです。誰もやるわけがない、、、ローテーションで準優勝を


多分、いや、間違いなく、県で?日本で、、、一番上手にラインジャッジできる子供たちは、、、相変わらず決勝戦まで勝ちあがってしまうので、、、負け審をやらない訳ですから、、、嫌み抜きで、そのラインジャッジの勇志を見せることはできなく、、、複雑気持ちだったのは、私だけじゃなく、子供たちもそうだったのかもしれない。











この年には、嫌な思い出が幾つかあった。 市内で夏休みリーグという試合を毎年行っていて、この大会の勝者が体協主催の県民スポーツ祭の県大会市の代表として参加できるのだが、たまたま、この年は第8回日韓スポーツ交流事業というものがあり、担当県が我が静岡県であり、嬉しいことに我がチームから2名が県代表(日本代表)に選ばれ、練習に参加していたため、試合日程が合わず、夏休みリーグの競技委員長に連絡して日程や時間の調整をして試合をすることをお願いしていた。 当然、競技委員長は快く受けてくれたのだが、何故か、スポ少協会役員からOKが貰えず、選手が揃わないまま、大会に参加し、、、負け、当然だが県大会の切符は他所のチームへと、、、。 これを耳にした県小学生の協会の役員たちが、「おまえら市は、いったいどうなっているのだ!」っと私に詰め寄ってきたが、、、私自身どうすることもできず、諦めるしかなかった。 後から分かったことだが、県民スポーツ祭も日韓交流事業も共に日体協が主催の大会で何ともお粗末な大人たちの取扱いだったのだ。 それからというもの、私自身はもちろん、チームの子供たち、保護者はスポ少協会や市の協会へ不信感が募り、嫌な空気のまま市内大会に参加することになっていた。 


バレーボール審判物語「ホイッスル」&トリックスターの血-日韓スポーツ交流事業バレーボール大会


その後、日韓交流事業のバレーボール大会に参加したうちのチームの子供たちは、韓国会場の大会に行き、良い成績を挙げて来たようだった。 大会前には“40歳前後の監督”っといわれていたため、少し打診も受けたが、、、その後、しゃらくさい若造に声がかかることはなかった。



大会が無い日曜日は、東海大学リーグ女子2部や障害者バレーの審判を何回か、やらせてもらっていて、、審判も一生懸命こなしていたが、この頃から子供たちの審判が飛躍的上手くなってきていて、特にラインジャッジは、県の審判員と変わらないくらい上達していた。 このことは明夫さんも知っていて、、、いつか、子供たちにラインジャッジを、、、っと、真面目に考えてくれていたようだった。 そして、それから間もなく実現することになった。 障害者バレー「わかふじ大会」が草薙総合体育館で行われることになり、、、県の審判員と一緒に小学生がフラッグを振ることになった。但し、この参加にもひと悶着あって、、、この頃から何から何まで毎週のようにスポ少協会、県協会の行事にすべて参加する必要があるのか、疑問を抱いていた私は、大会をキャンセルするなどはしないが、団として他の行事に参加することがあってもいいのではないか、、っと。 実際、その「わかふじ大会」の日には、選抜に選ばれた選手の合宿1日目に当たり、、、チームとして、この審判のチャンスというか、障害者バレーの補助スタッフとを天秤にかけ、、、選抜合宿の内容は普段の練習試合よりも内容が薄かったことも分かっていたので、、、1日目(半日)を休み2日目からの参加にしてもらった。 「わかふじ大会」には、元バレーボール協会員だった焼津市長県知事もいらっしゃって、、、盛大に行われ、、、日協B級がラインジャッジのミスをする中、子供たちは見事に、、、正確に、、、こなすことができたのであった。 しかし、当然ではあるが、私への風当たりは一段と強まり、スポ少の協会はもちろん、チームの判断で県の行事に半日参加させなかったことで悪い印象は県の小学生協会までへと飛び火してった。 それから何年かして、指導内容や子供に怪我を負わせたこにより、協会から離れることになるが一番の原因は、この頃の風当たりが問題の根本だったのかもしれなかった。 この「わかふじ大会」が終わった時に保護者から、「障害者スポーツ大会に子供たちが参加できて本当によかった、いい経験ができた」っと、、、握手を求められたことが私自身に何よりも救いとなっていた。 








2003年の審判の活動報告書を見ると前年の2002年には1大会しか参加できなかったブロック大会9大会も参加し、県大会以下の試合も含めると主審45回、副審10回、記録員21回、ラインジャッジ8回、、、っと。 前年は、主審7回、副審7回、記録員3回ラインジャッジ0回で試合は小学生の地区大会から県大会、東海大会までで、、、一年後に高校の地区大会や東海大会、大學リーグ、6人制総合、国体、サマーリーグ、Vリーグ、ワールドカップっと、、、その差は歴然でまさに激動の年だった。 しかし、その翌年の2004年は、4つのブロック大会に参加したものの県大会以下の試合を含め、主審39回、副審22回、記録員1回、ラインジャッジ3回、、、っと、ガクんと減っていた。 

この2004年は、自分が初めて低学年から指導し続けてきた子供たちの最高学年(6年生)の年であり、子供たち、保護者をはじめ、自分自身も共に目標に掲げた“県大会優勝して全国大会に向かう”待ちに待った年だったのです。 無理に審判を減らしたわけではなかったが、必然的にというか、大会が重なる場合は監督を優先した結果だった。

目標の大会に負けたら坊主になると豪語し、立ち向かったが、結果は県大会決勝戦で敗退、準優勝。 コーチを始めたころ、いつかは勝ち上がってテレビで放映される決勝戦の舞台に立ち、掛川城北の監督のように、大いに喜ぶぞって思っていたことは実現できたが、最後の勝利という喜びは味わえなかった。 縁なのか、このとき坊主を賭けたのは、その目標だった城北の監督から「負けたら坊主になれるか」っと言われたからだった。 

決勝戦では負けたものの、子供たちは想像を絶するくらいボールに喰らいつき、普段以上の成果を発揮していた。 しかし、新米監督の力不足は否めなかった。 お粗末な監督だったが、、、試合が終わった瞬間、相手監督と抱き合い、お互いにをたたえ合った時の感情と子供たち、保護者の皆さんにへの感謝の気持ちは今も忘れられない。 そして、当然だが、翌日には坊主で練習に参加した。

準優勝ということで三重県で行われた東海大会に参加することができたが、目標を失ったチームは、いまいち踏ん張りが効かず、良い成績を上げることはできなかった。この結果は、子供たちのメンタルなことより、監督自身の精神的な弱さの現れだったと、、、今になってはっきりと解る。当然、この監督の弱さが決勝戦での敗者へと導かれる大きな原因のひとつに間違いないのであろう。 一緒に練習してきた三重県、愛知県、神奈川県、山梨県、千葉県、埼玉県、岐阜県のチームは皆、県大会を優勝して全国大会へと駒を進め、それぞれ、優秀な成績を挙げたのであった。

ワールドカップの興奮醒めやまぬ中、翌日から平然と少年団の監督をいつも通りにこなし、、、指導者と審判員の平常運転に戻った。 10日後には、中部小学生の大会の審判をこなし、確か、その次の週末だったか、『障害者バレーボール』っていう大会の審判をやることになった、、、話には聞いていたが、実際に目にするのは初めてで、聴覚障害者のバレーと精神障害のバレーとに分かれていた。 一見、私たち健常者とは、違いが見えないが、聴覚に障害があることから、喋ることが上手くできなくて、聞き取りにくかった。 担当?の先生に伺ってみると、生まれた時から聞こえない子は、音ってーものが分からないから、声もうまく出せないけど、病気や怪我など、何らかの原因で大きくなってから聞こえなくなった子は、ある程度喋れるらしい。 バレーボールに関しては、聴覚障害の選手は健常者と変わらぬプレーがしっかりと出来ていたし、ルール自体、全く同じバレーだった。 しかし、精神障害のバレーも方は、ソフトバレーボールを使ったものであれっ?と思った。 喋り方も普通だし、ある意味、聴覚障害の方より健常者に見えていたが、、、このルールでやらなくてはならないっという内容からして、精神に障害があるってことは、大変なことなんだっと、、、、この歳になって、改めて考えさせられた。 





笛の吹き方、審判のシグナルを大げさに解り易く、でも、とるべき反則はしっかりと取り、、、そして、精神障害バレーの方は、安全に楽しく試合ができることを最優先して、反則よりも、スムーズにプレーができることを最優先した。 ある意味、この精神障害バレーでの審判員の気持ちっというか、スタンスが、、、、ギスギスしていてた、形やらルール重視し過ぎたり、反則とるのが仕事、、、、みたいなオゴリ高ぶり、傲慢な間違った感覚から目を覚まさせてくれた。 おまけに試合の運営では、主審、副審、記録員、アシスタントスコアラー、ラインジャッジと全てを順にやらなければならなかったので、練習といっては失礼だが絶好の練習にはなったのは間違えない事実だった。 




そして、これを機に毎回、障害者バレーの審判を県の審判員が率先して審判をやらせてもらうようになっていった。 最初にいろいろ教えてくれたお爺さんが実は、県のデフ(聴覚障害)バレーの監督で、おまけに名誉審判員。 その後も何かと公私ともにお世話になる事になり、手話などもこの旭名先生に教えていただいた。 そして、翌年には、全国大会に向けた、デフバレーの東海・北信越ブロックの決勝の審判台の上に乗ることになっていた。



 

 2日目は、さすがに昨日よりは落ち着いてできた。でも、完全に100点満点だったわけではなく、見えないものは見えないし、判らんものは判らなかった。それでも、自分の中では、、、、よかったぁー、、、何とか、、、、、。ってーほっとしていた。 しかし、何日か経ってから一番体が大きい(上にも横にも)審判員の斧ちゃんがテレビ中継をDVDに焼いてくれて、、、自分の姿を見てみると、、、、唖然!、、、一日目も二日目も大差なく、、、あ~あ、所詮、俺ってこんな感じなんだ!ってガッカリさせられた。 



 この浜松での大会の最終日である2日目の今日は、ブラジル戦があり、、、在日ブラジルがたくさん住んでる、ここ浜松会場は完全なるブラジルのホームと化していた。観客席はブラジルカラーの黄色や緑色に染まり、太鼓やら笛やら鳴り物もかなり持ち込まれ、異様な熱気に包まれ、ほぼ満員状態、、、警備陣だけでは収拾がつかない恐れもあり、特別に審判も警護のお手伝いをすることになった。 「おいっ、ちょっとやべえーなぁ、、、暴動でもおきそうじゃねーかぁ!」、、、ブラジル人の中には、昔、学校で先生が持っていた声を大きくさせる拡声器まで待ちこまれていた。笛をピロピロあちこちで鳴らされており、、、試合に差しさわりが無いように(試合中の主審の吹笛がきこえるように)、笛を吹くのはやめてもらうようにゼスチャーで説明し、、、拡声器を持っている人にはどこかに持ち出してもらうか、そのままだと入場できないことを伝えた。 試合は何とか、揉め事も起こさずに終わったが、ブラジルが得点を取った時の騒ぎは、、、サッカーのサポーターのそれと同等か、上回るような騒ぎだった。


 こうして、2日間のバレーボールワールドカップ男子浜松会場での試合は終わった。全て初めての経験でしたが、個人的には何ともお粗末な出来で、とても人前でバレーボールワールドカップに参加したよ、、、なんて、言える状態ではなかった。でも、あれから何年も経った今だから言えるが、国体での記録員、ワールドカップのラインジャッジ、、、それぞれ、上手くできなかったからこそ、その後に特別に執着心を以って必死に取り組むことができ、何とか理解し、練習した結果、最終的には主審での判定がしっかりできるようになったんだと思う。




 それから、しばらく干されていたのか、ラインジャッジをする機会は減り、あっても、リザーバーぐらいだった。そして、それから1年後ぐらいに、ある意味地元である藤枝の県武道館で行われたVリーグ男子大会に久っ々に4番のラインジャッジで選ばれ、、、何でもない当たり前のことだが、ようやくしっかりしたライン判定ができた。 右側にいる主審とワンラリーごとアイコンタクトがとれ、緊張気味の3番のラインジャッジをカバーしながら試合をやりきれた時は、本当に嬉しかった。まぁ、実際、自分が上手かったのではなく、その時の主審のコンタクトの取り方、確認の仕方、声のかけ方など、、、想像を絶するくらい素晴らしい運営のお陰だったからだ。大阪の双子の国際審判員の一人だったのだが、その日の夜、その審判と一緒に美味しいお酒を飲めたことは一生忘れないだろう。そして、その日の試合終了後に大阪弁で声をかけられた君、助かったよ、、、ありがとう!って言葉も、、、。



 バレーボールワールドカップ男子・静岡会場の浜松アリーナ2日目、お客さんの入っていない会場は静まり返っているもののカラフルな椅子、垂れ幕などでオレンジ、ピンク、ブルー、、、っと華やかな印象がある。観客席の上部から下を覗くとコート周りでたくさんのスタッフが黙々と仕事をこなしている。 コート内で跪いている人は紺色のレフェリースラックスに静岡国体ブレイカーを羽織っているので多分、審判役員でラバー製のコートに貼られた白いラインテープの剥がれを修正しているのだろう。さあ、いかなきゃー、、、大きくため息を吐いて、観客席の階段を足早に降りていく。

おくりびとは物書きだった-浜松アリーナ



この静岡会場では、1日2試合、2日間で計4試合が行われることになっていた。初日の昨日、1試合ラインジャッジ(線審)をやらせてもらったが、ワンタッチの確認の不備から緊張は頂点にいってしまい、ボールを目で追ってしまって(ライン判定の際はボールを追っている目をボールから離し、ラインを見つめ、ボールの接点を判定しないと間違いが生じやすい)、目の前のイン・アウトまで誤審を、、、、。 明らかに未熟による失敗なのだから云い訳じみてしまうが、Vリーグの外人枠のトップ選手が6人全員みたいなチーム構成で、、、おまけにスパイクより遥かに速いジャンピングサーブで、、、一見、何でもないように見えるサービス時のエンドライン判定が、、、通常のスパイク時のライン判定よりもかなり難しかったのも事実であろう。しゃがみ込んで構えるのは格好が悪いっという指導だったが実際、2番、4番のラインジャッジに関してはかなり低く構えないと一瞬のうちにラインすれすれに通過するボールの接点を見ることは難しかった。





 何百人もの役員全員で行うミーティング後、審判役員控室に国内の審判員が昨日と同様に集まった。やはり昨日と同様、室内はギュウギュウ詰めだ。明夫さんが注意点を話した後、番長(審判委員長)に振り、そして、日本協会の国際審判員の先生からお言葉を、、、そして、、、明夫さんから本日、1試合目の審判割り当ての発表が始まった。1番ラインジャッジは、、、○○、、、、」、、、「ハイッ」、、、、立ち上がって、、、「よろしくお願いします」、、、「2番ラインジャッジは~」、、、、 1試合にリザーバーを含め5人を要するラインジャッジ、、、1日10人、2日で20人、、、、今回、準備出来ているラインジャッジは20名を遥かにを越えていて、、、昨日、失態を見せてしまった俺には到底、割り当てはないものと他人事のように思って割り当てを聞いていると、、、、・・・・ッジは~岡村○○!」、、、、「・・・・?エッ、あっ、は、ハイッ」、、、、、「よっ、よろしく、、、おっ、お願い、、、します」、、、「3番は・・・・」、、、、。



 な、なんてこった、、、マジかよぉ~、、、当然、みんな次は私だ!次は俺だ!って思っていた訳だから、、、、なんか、ちょっと気まずい雰囲気じゃないかと、、、勝手に思ってしまった。それにしても、、、明夫さんは、、、やってくれる。 試練に試練、、、言葉の解らん外国人の国際審判員にどうー説明するのか? 


 運悪くなのか、想定通りなのか、昨日、叱られた副審が本日の担当試合の主審だった。 後から聞いたところによるとやはり、主審からラインジャッジは大丈夫かと試合前に、、、明夫さんに確認があったようだが、明夫さんは英語に臆することなくいつもの笑顔、、「ノー、ノー」、、、「ノープロブレム!」、、、、っと。明夫さんにとってもある意味戦いの場であったことは間違いなかったのであろう。涙が出るほど、うれしい話だが、、、その時は、そんなことはつゆ知らず、再び動悸が高鳴って、、、黙ってトイレへと歩いていった。







 あっという間に試合は終わってしまった。まだ、気持ちは高ぶったままだ。賑やかな観客席の下を潜るように裏方さんが集まる会場外の控室前のフロアに向かった。試合終了後にラインジャッジ5名と記録員とアシスタントスコアラーはファーストレフリーとセカンドレフリーにご指導いただくために集まることになっていたのだ。ラインジャッジの4名は試合が終わったのにまだ、緊張が解けていないようで皆、顔が引きつっていた。もちろん俺もそうだと思う、、、。 


 記録員の問題は何回か確認動作が遅くなっただけだったので笑顔で返答されていて、、、ホッとしているようだった。 っが、しかし、ラインジャッジの番になったらファーストレフェリーは顔をしかめて話し出した。顔の前に右手を広げて左手でブラッシングの動作をして、、、話す言葉が判らなくてもワンタッチが分からないのは困るっていっていることはしっかり感じることができた。話の最後にしっかり俺の目を見つめられたので、ああ、俺のことだってまたまた、変な汗がでた。

 その後、日本の審判団が集まった場面でも個人的な中傷はされなかったが、やはり、ラインジャッジのワンタッチについて「もうちょっとしっかりしなければ、、、」、「なんで見えないんだ!」っと明夫さんは独り言のように繰り返していた。

 俺自身、緊張は解けてきていたが胸に何かが突っかかっているようで平常心にはなかなかなれなかった。そんな中、少し重くなった空気をとっぱらうかのように明夫さんが「さぁ、早く片付けて出かけるぞ」ってこれまた独り言のように声をあげた。

審判の世界では、良い審判員になるってことは、人一倍失敗して、人一倍嫌な思いもするってことがよく言われるが、これだけ失敗やいやな思いをすれば、さぞかし俺は良い審判になるのだろうっと、、、自分を励ます術はもう、こんなことを思うくらいしかなかった。ああ、穴があったら入りたいってこんな心境のことなんだろう。とにかく、今日のところは浜松アリーナから一刻も早く脱出せねば、、、。金魚のフンみたいにみんなについていって仲間の車に乗り込み、ワールドカップ会場である浜松アリーナから脱出していった。

昔、昔の話ですが、、、、藤原鎌足って知ってますか?教科書なんかでは、中臣鎌足とかって書かれたり、、、。



日本の歴史っていうのは残された文献を主に調べられているのですが、文献自体が改ざんされいたのですよ。最終的に改ざんしたのは、藤原鎌足自身ではありませんが、いろんな歴史書の前後を確認すれば、誰でもこの藤原鎌足の発想のもとに日本の歴史が歪められ、、、不必要な昔の話(日本にとってもっとも大事な時代)は、神話の世界に閉じ込め、自分に都合がいいように作られていったらしいのです。そして、最大の目的は、歴代の天皇家に自ら一族の血をいれること。言い方を変えれば日本を乗っ取ることだったように私自身は感じます。  


藤原氏は無事に皇族に入り込み、、、、その後、いく世代になっても藤原一族は日本で活躍し続けているのである。


乙巳の変壬申の乱の解釈の仕方、、、、矛盾だらけの天智天皇天武天皇、、、。



蘇我入鹿は本当に悪者か?(善)蘇我本家滅亡、呪う=(悪)藤原氏、中大兄皇子



近年、細かな史実が明らかになってくると日本の歴史が根源から変わってしまうのです。 教科書に載っている歴史も・・・・だった。」っと言い切れる現状では無くなりつつあるのです。




あなたの周りに「藤原さん」ってはびこってませんか?




バシィ」、、、、速い!Ⅴリーグの選手のスパイクより遥かに速いジャンプサーブだ。ネットを越えたかと思ったら一気にエンドライン後方の観客席へと飛んでいった。すかさず右手のフラッグを天井に突き上げた。ピィーーッアウト! 右前方にいるファーストレフェリーと目が合い、挙げた手を速やかに下ろした。ホッとする暇もなく今度は目の前にサーバーが来た。ボールリトリバーからボールを貰い、ボールを丹念に両手で磨くような仕草をしながらサーブを打つポジションに向かって行った。1番のラインジャッジがいるAコート左角の後方いっぱいまで下がって打つようである。1番のラインジャッジはその直ぐ左横に移動してサービスを待っている。後方から助走するジャンピングサーブなので俺の方は選手のラインクロスを確認しなくてはならない。ピィーサーバーよりラインに集中。あまり深く沈みこんで構えないように軽く膝を曲げるぐらいにする。バシッ ラインクロスは無い、急いでボールの行方を捜す、、、相手コートでレシーブされたボールは上手くセッターに返球され、、、っと思った瞬間、クイックでスパイクされ、目の前にボールが飛んできた

ピィーッしまった、、、ちょっと遅れたぁ、、、、バサッ!、、、何とか、フラッグはインを示せた。心臓の鼓動が聞こえてきそうなくらい高鳴ってるのが分かる。同時に観客席のざわめきは耳に入ってこなくなってきているようだ。ピィー頭の中はスローモーシャンなのに目の前では淡々とリズム良く試合は流れていっていた。「ピィー!」、、、「ピィー!」、、、「ピィー!」、、、とりあえず淡々と進んで行っていたその時、「ピィー!」、、、イン、、、、「おおお、、お?、、、コート上にいる2mを越える大男たちがこちらに向かって歩きながら手でジェスチャーを交えて、、、、「○×△□、×○×・・・・!!!!」フランス語?で、、、怒っているようである。さっきから少しボールを眼で追いすぎでボールがコートにつく瞬間が目が流れてしまっていてしっかり確認出来ていなかった。しまったぁー、、、やっちまったぁー、、、×!、、、ファーストレフリーと目が合いそっとフラッグを下げ、、、ファーストレフリーは選手たちをなだめながら俺の判定とは逆のジャッジを示した。お酒を飲んでも赤くなるような事はない、普段から顔色をあまり変えない俺だったが火を噴くほど顔が熱くなっているように感じた。

そのあと、何とか気を取り直して進めたが、完全なるワンタッチが判らなかったり、、、微妙な場面でフラッグを挙げれなかったりと散々だった。唯一、ほっと出来たのが時折ボールがネットのポールやマーカーに当たった時、4人のラインジャッジが息のぴったりあったフラッグを振るバサッ、バサッバサッっていう動作で観客たちが盛り上がり、試合中の選手たちのファインプレーの時を上回るくらいの拍手が起きた時ぐらいだった。

 こうして初めての、、、最悪の国際試合は始まった。「この分じゃ明日は振らせてもらえないだろな」っとがっかりしながらも同時に退避できることで少し心は和らいだようだった。