2003年の審判の活動報告書を見ると前年の2002年には1大会しか参加できなかったブロック大会9大会も参加し、県大会以下の試合も含めると主審45回、副審10回、記録員21回、ラインジャッジ8回、、、っと。 前年は、主審7回、副審7回、記録員3回ラインジャッジ0回で試合は小学生の地区大会から県大会、東海大会までで、、、一年後に高校の地区大会や東海大会、大學リーグ、6人制総合、国体、サマーリーグ、Vリーグ、ワールドカップっと、、、その差は歴然でまさに激動の年だった。 しかし、その翌年の2004年は、4つのブロック大会に参加したものの県大会以下の試合を含め、主審39回、副審22回、記録員1回、ラインジャッジ3回、、、っと、ガクんと減っていた。 

この2004年は、自分が初めて低学年から指導し続けてきた子供たちの最高学年(6年生)の年であり、子供たち、保護者をはじめ、自分自身も共に目標に掲げた“県大会優勝して全国大会に向かう”待ちに待った年だったのです。 無理に審判を減らしたわけではなかったが、必然的にというか、大会が重なる場合は監督を優先した結果だった。

目標の大会に負けたら坊主になると豪語し、立ち向かったが、結果は県大会決勝戦で敗退、準優勝。 コーチを始めたころ、いつかは勝ち上がってテレビで放映される決勝戦の舞台に立ち、掛川城北の監督のように、大いに喜ぶぞって思っていたことは実現できたが、最後の勝利という喜びは味わえなかった。 縁なのか、このとき坊主を賭けたのは、その目標だった城北の監督から「負けたら坊主になれるか」っと言われたからだった。 

決勝戦では負けたものの、子供たちは想像を絶するくらいボールに喰らいつき、普段以上の成果を発揮していた。 しかし、新米監督の力不足は否めなかった。 お粗末な監督だったが、、、試合が終わった瞬間、相手監督と抱き合い、お互いにをたたえ合った時の感情と子供たち、保護者の皆さんにへの感謝の気持ちは今も忘れられない。 そして、当然だが、翌日には坊主で練習に参加した。

準優勝ということで三重県で行われた東海大会に参加することができたが、目標を失ったチームは、いまいち踏ん張りが効かず、良い成績を上げることはできなかった。この結果は、子供たちのメンタルなことより、監督自身の精神的な弱さの現れだったと、、、今になってはっきりと解る。当然、この監督の弱さが決勝戦での敗者へと導かれる大きな原因のひとつに間違いないのであろう。 一緒に練習してきた三重県、愛知県、神奈川県、山梨県、千葉県、埼玉県、岐阜県のチームは皆、県大会を優勝して全国大会へと駒を進め、それぞれ、優秀な成績を挙げたのであった。