この年には、嫌な思い出が幾つかあった。 市内で夏休みリーグという試合を毎年行っていて、この大会の勝者が体協主催の県民スポーツ祭の県大会市の代表として参加できるのだが、たまたま、この年は第8回日韓スポーツ交流事業というものがあり、担当県が我が静岡県であり、嬉しいことに我がチームから2名が県代表(日本代表)に選ばれ、練習に参加していたため、試合日程が合わず、夏休みリーグの競技委員長に連絡して日程や時間の調整をして試合をすることをお願いしていた。 当然、競技委員長は快く受けてくれたのだが、何故か、スポ少協会役員からOKが貰えず、選手が揃わないまま、大会に参加し、、、負け、当然だが県大会の切符は他所のチームへと、、、。 これを耳にした県小学生の協会の役員たちが、「おまえら市は、いったいどうなっているのだ!」っと私に詰め寄ってきたが、、、私自身どうすることもできず、諦めるしかなかった。 後から分かったことだが、県民スポーツ祭も日韓交流事業も共に日体協が主催の大会で何ともお粗末な大人たちの取扱いだったのだ。 それからというもの、私自身はもちろん、チームの子供たち、保護者はスポ少協会や市の協会へ不信感が募り、嫌な空気のまま市内大会に参加することになっていた。 


バレーボール審判物語「ホイッスル」&トリックスターの血-日韓スポーツ交流事業バレーボール大会


その後、日韓交流事業のバレーボール大会に参加したうちのチームの子供たちは、韓国会場の大会に行き、良い成績を挙げて来たようだった。 大会前には“40歳前後の監督”っといわれていたため、少し打診も受けたが、、、その後、しゃらくさい若造に声がかかることはなかった。



大会が無い日曜日は、東海大学リーグ女子2部や障害者バレーの審判を何回か、やらせてもらっていて、、審判も一生懸命こなしていたが、この頃から子供たちの審判が飛躍的上手くなってきていて、特にラインジャッジは、県の審判員と変わらないくらい上達していた。 このことは明夫さんも知っていて、、、いつか、子供たちにラインジャッジを、、、っと、真面目に考えてくれていたようだった。 そして、それから間もなく実現することになった。 障害者バレー「わかふじ大会」が草薙総合体育館で行われることになり、、、県の審判員と一緒に小学生がフラッグを振ることになった。但し、この参加にもひと悶着あって、、、この頃から何から何まで毎週のようにスポ少協会、県協会の行事にすべて参加する必要があるのか、疑問を抱いていた私は、大会をキャンセルするなどはしないが、団として他の行事に参加することがあってもいいのではないか、、っと。 実際、その「わかふじ大会」の日には、選抜に選ばれた選手の合宿1日目に当たり、、、チームとして、この審判のチャンスというか、障害者バレーの補助スタッフとを天秤にかけ、、、選抜合宿の内容は普段の練習試合よりも内容が薄かったことも分かっていたので、、、1日目(半日)を休み2日目からの参加にしてもらった。 「わかふじ大会」には、元バレーボール協会員だった焼津市長県知事もいらっしゃって、、、盛大に行われ、、、日協B級がラインジャッジのミスをする中、子供たちは見事に、、、正確に、、、こなすことができたのであった。 しかし、当然ではあるが、私への風当たりは一段と強まり、スポ少の協会はもちろん、チームの判断で県の行事に半日参加させなかったことで悪い印象は県の小学生協会までへと飛び火してった。 それから何年かして、指導内容や子供に怪我を負わせたこにより、協会から離れることになるが一番の原因は、この頃の風当たりが問題の根本だったのかもしれなかった。 この「わかふじ大会」が終わった時に保護者から、「障害者スポーツ大会に子供たちが参加できて本当によかった、いい経験ができた」っと、、、握手を求められたことが私自身に何よりも救いとなっていた。