WBCの強化試合って、、、日本時間の何時にやんのかしん?



放映すんだろーなぁー

 何名かでひと組になって国旗を持っている高校生たちに続いて歩きだした。 その時、どんな音楽が流れていたかは、全く記憶がない。 スポットライトの当たったセンターコートに向かって色のついたラバー貼りのフリーゾーンを歩いている。 ネットを挟んで、向かって左側にファーストレフリー(主審)、右側がセカンドレフリー(副審)、その主副の横、左側には1番と2番のラインジャッジが、右側には3番と4番のラインジャッジが!その少し前に高校生たちがそれぞれの国旗を広げて持ち、選手はその横、エンドラインに向かって一列に並んでいる。 DJか、係員なのか、分らないが、国歌斉唱へと促されていった。


 いったん照明が落ちたが、片方のチームだけがスポットライトに当てられていた。 聴いたことのない国歌のメロディーに合わせて高校生たちは巧みに国旗を操り、上部に上げていった。 テレビで見る国旗掲揚は、国歌の流れる中、ポールを登っていくのがほとんどだったが、この何名かが国旗を手で持ち、角度を上げながら上部に掲げるこの方法は、なんか、いいじゃんって思えた。 スポットライトが移動して、もう1チームの国歌が流れだした。


 両チームの国歌斉唱が終わると再びセンターコートにライトが当たり、ファーストレフリーの吹笛で両チーム同士がコート中央で順に握手を交わしていった。 両コートの国旗を持った高校生と俺を含むラインジャッジは邪魔にならないようにコートから離れていった。


 一連のセレモニーが終わって、静まり返っていた観客席が再びざわつき出していた。 ラインジャッジの俺たちは試合開始までは記録席の後ろの付近(セカンドレフリーの後方)に5人が集まって(ラインジャッジ4人+リザーバー1人)、もう一度、細かなことを確認し合った。 「フラッグを振る場面では、軸が誰で、、、」、、、「2本で出す場合にはお互いにアイコンタクトをとってからフラッグを一緒に戻そう」、、、「落ち着いていこう、、、」、、、「緊張をほぐす為にも始めはエンドラインから中央付近までのインをバンバン振っていこう、、、」、、って、、、。


 再び、ファーストレフリーの吹笛で練習の終わりが告げられた。 ランジャッジの5人が手を合わせて、、、「よっしっ!」 、、、、掛け声をかけ、各ポジションに散らばった。 DJの掛け声と、コンサート並の音響の中、選手が紹介され始めた。 今自分は、端っこではあるがコート内に立っている。 落ち着いているのか、緊張の絶頂を迎えているのかさえ判らないくらい、頭の中は飛んでいたと思う。 両チームの選手紹介が終わり、、、自分の後ろにはボールリトリバーが副審から渡されたボールを持ち、片膝をついて息を呑んで待っていた。 ファーストレフリーに促され、サーバーがコートから出てこちらに向かってきた。  サーバーにボールが渡された。 審判台のファーストレフリーと目が合った。 そして、ファーストレフリーの腕が動くと同時にサービスが許可された。 ピィーー!!」  足を広げ、軽く膝を曲げ、右側の腰の横に準備されたフラッグを持つ手に汗を感じた。 さあ、始まりだ。

 

試合開始1時間前、控え室前の廊下が少し広くなっているところで試合開始前の該当審判によるミーティングが始められた。 アシスタントスコアラーと記録員、ラインジャッジの5名、モッパー8名、点字4名、ボールリトリバー6名が緊張した面持ちで目の前にいる2人の外人の話を聞いている。 聞いているといっても、英語をリスニングできる者はいないと思われるので、聞いているふり、理解しているかのようにみせていた。 


ファーストレフェリー(主審)をする外人は中東系な感じで、セカンドレフェリー(副審)は南米系のようだった。 どちらもこちらが英語を理解していないのを察して身振り手振り、分かりやすい単語をできるだけ聞き取りやすく話してくれていた。


ファーストレフェリーは、ラインジャッジの5名にだけに注意深く両手を使って、、、手のひらにシッカリ当たるボールタッチはどうでもいいから、指先に当たる細かなタッチを見ることを専念してほしいと説明しているようだった。


ラインジャッジの5名は、より緊張した感じで、、、とにかく皆、うなずいていた。


それから試合までの時間は、スペースを見つけてはラインジャッジ5名でフラッグを振る練習をしていた。 イン!アウト!ワンタッチ!そして、みんなで合わせてマーカー外の接触の際のフラッグを振る練習と、、、。 このフラッグを振ることは、ひとりだけでもうっかりして見過ごすと凄く目立つし、恥ずかしいんで、挙げる場合のリーダー的な人(接触の発見が上手な人)を決め、その人が軸になってみんなで続く、、、そして、4人揃ったのを確認して4人同時に下ろす。っといったことを何回も何回も練習していた。


更に予定の時間が近づくと入場の仕方についてもう一度確認した。 ファーストとセカンドそれぞれに2名ずつのラインジャッジが続き、その後に国旗を持った女子高生が並び、そして選手たちっといった感じに。 そして、コート上の並び方、国旗掲揚の仕方、、、、一連の試合開始前のセレモニーが終わった後の歩き方、流れ、をもう一度確認した。


いよいよ、試合開始直前!子供の頃から人前に出る機会が多く余り緊張をすることは少なかった俺。 最近、大きな試合で審判をやらせてもらうことが多くなり、この環境にもカナリ慣れてきていたはずなのに、、、、流石に今日は別のようで、心臓が飛び出しそうだった


係員からアリーナ内のフリーゾーン入口に当たる角付近に並ぶように指示があり、、、そこは既に満員電車状態になっていた。 しばらくすると2mを越える両国の選手たちが集まってきた。 彼らはどんなに込み合っていても胸から上の制空権は誰にも邪魔されず守っているようで、下にいるゴミゴミした日本人を気にすることなく、俺らの頭の上で選手同士話し合っていた。


DJの声が更にヒートアップしてきた。 メインの照明が落とされ、、、真っ暗な中に赤や青のレーザービームが飛び回り、、、音楽が始まり、、、、ついに歩き出すように指示が入った。





審判用に与えられた小さな会議室は、机はたたまれ、幾つもの椅子をビッシリ並ばせてある。 荷物も邪魔にならないように隅っこに追いやられ、、、、、おいっ、みんな、座ってろ! 、、、あっ、はいっ! 、、、、 部屋に入りきれなかった者たちも中に入り、座っていく、、、座れなかった数名は入口付近と椅子の後の方に立って並んでいる。 普段、Vリーグなどのときも20名そこそこでも窮屈になってしまう狭い部屋だったが、今日は30人をも遥かに越えているようだった。


みんな着慣れないスーツやジャケットを羽織り、、、スーツの左襟には、日本協会公認審判員の小さなバッチが着けられていた。A級色、B級色をしている。 よく使っている部屋だったが、さすが国際大会、いつもとは全然違う硬い雰囲気で、、、、重たい空気をかもし出し、みんなの口数を減らせていた。 


人気ブログランキングへ 並ばれた椅子の前には一列だけ机が用意されており、いつもVリーグでお世話になっている日本協会の国際審判員の先生と我が県の審判委員長と、、、、、、明夫さんがこちらを向いて座っている。


みんなが用意できたのを確認すると明夫さんが、左手に持った用紙を置き、姿勢を正して、、、おはようございます。、、、 から始まって、前列の先生方の紹介、続いて本日の流れを説明、、、そして、注意事項を話した。


明夫さんから促されて、日本協会所属の国際審判員の先生からお言葉をもらい、、、、最後に番長(県の審判委員長のことを番長と言っている)の怒っているのか?洒落で言っているのか?分からないがいつものような面白い挨拶でしめた。


左手の用紙を見つめながら、明夫さんが再び話し出した。 じゃー今から今日の割り当てを発表する 、、、シーーーン、、、、いつものことだがその日の試合に誰が何の仕事(審判)をするのかは直前まで発表されないのである。 国際大会にしても同じらしかった。 この浜松アリーナで開催されるワールドカップ男子は、1日2試合を2日間の計4試合が組まれている。 


主審、副審はFIVBの国際審判員(外人)が行い、基本的に日本協会A級審判員がスコアラー(記録員ともIFとも言う)とアシスタントスコアラーを勤め、B級審判員がラインジャッジ(線審)を行うことになっていた。 


ラインジャッジは4箇所を4名で行うが不測の事態に備え、リザーバー1名を含めた5名が選出されることになっている(Vリーグも同じ)。 そうすると1試合には、主副以外に7名が必要になるがその次の試合と掛け持ったりはしないので、その倍の14名は少なくとも必要になり、その審判員たちを指導する先生方も幾人もいるのである、、、審判員?審判団?の仕事には、それ以外にも、、、点字(得点)の係りに2箇所に2人ずつ4名、クイックモッパー2名、各コートにモッパーがそれぞれ3名ずつ計6名、ボールリトリバー6名と、、、計18名も必要で地元の高校生や大学生にやってもらうために、審判員が前日から指導し、執り行なっているのである。 


また、この国際大会ワールドカップでは、国旗掲揚を国歌に合わせ人間が行うために確か、6名ぐらいで1枚の大きな国旗を持ち(計12名)、主審、副審、ラインジャッジ4名、それと各チームの選手と共に音楽に合わせ旗を持ちながら行進し、そして、センターコート上に並び、国旗掲揚が始まると国歌に合わせ国旗を記録席側に少しずつ挙げていくといった超厳粛なことをしなければならなかったのです。


シーーーン、、、、、、まずは、ラインジャジ1番〇〇 、、、、、はいっ、宜しくお願いします 、、、、、呼ばれた者は起立して挨拶するようだ。、、、2番 ひろし  、、、はいっ、ヨロシク、お願いします! 、、、遂に来た、、、3番、、、、4番、、、リザーブ、、、記録、、、アシスタント、、、」 、、、、、。 


遂に来た、、、、待ちに待ったのか?、、、恐れていたのか?、、、緊張感は絶頂を迎えようと、、、胸に手を当てなくても鼓動が高鳴っているのが分かった。





 緊張した空気。 皆、口数が少なく、話すときは、かなーーーり小さな擦れたような声で、、、。 初めて来たホテルだったが、何か、格式があるっていうか、背筋がピンっとするっていうか、、、、白い大理石貼りが清潔感と明るさと気品をかもし出している。 地元出身の人に聞くと、結構、有名なホテルらしかったが、ホテル内が素晴らしいだけに玄関前のスペースの狭さと駐車場の狭さは、致命的のようにも思えた。


 今回、一緒に呼ばれた審判員15名ほどの最後尾に金魚の糞のようについて歩き、、、エレベーターに乗り、何階か分からなかったがカナリ上の階で降りた。 その階には、大会の関係者らしい、、、、背広を着慣れているような紳士 片手にハンバーガーでも持っていそうな、、、栗色で大きくカールした癖毛のような髪の毛は寝起き直後のようで、、、背広を脱ぎ、白いワイシャツの第一ボタンを窮屈そうに絞め、、、大きなお腹を突き出した、、、ベルトが周りきらないのか、サスペンダーでズボンを吊るした巨漢の男 が歩いていた。 当然というのは失礼だが、額には汗がにじみ出ていた。 顔は日本人のようだったが話し声からすると、英語やアメリカ訛り?の日本語を話していたようだったので日系かも知れないと思った。 他の人たちとのやり取りや対応を見ているとその太った男は結構、偉い立場の人のようだった。


にほんブログ村 バレーボールブログへ  予定の時間になったのか、前の人から歩き出し、部屋に案内されて行った。 部屋はコジンマリしており、部屋の中央に長テーブルが長方形を形どるように並び、その周りに置かれた椅子の片側に並んで腰掛けた。 しばらくすると反対側の空いているスペースにヘヤリキッドで七三にキッチリまとめられたA型っぽいスラッとした男性 が軽く会釈をしてから座った。 そして、続いて同じような感じの人がもうひとり部屋に入ってきて、やはり同じように軽く会釈して座った。 私たちは既に着席してしまっていたが、座ったままで頭を下げた。 この2人は、JVA(日本バレーボール協会) の人と、FIVB(国際バレーボール連盟) の人のようで、、、、話の始めに冗談のひとつも言わないまま、今から始まるレフェリークリニックの説明を端的にしてくれた。 話し終えた後、この2人は、やっぱりA型だろうなって再び思えた。 2人が立ち上がると私たちも続いて立ち上がり、部屋を後にして2人に続いて行った。 


 ホテル内の絨毯を敷き詰められたような廊下を歩いていくと奥に、両開きの大きな扉が開かれ中から光が漏れていた。 中に入ると、正方形の大きな部屋で、、、多分、結婚式などを行う部屋であろうと思えた。 この広い部屋の壁伝いの外側に部屋と同じように正方形にテーブルが並べられていた。 私たちは前方上座に向かって左側に並んで座った。 本来、新郎新婦がいるであろう並びには、先ほどのFIVBJVAの方々が座り、その右奥には、ジュリーと通訳らしい人がいた。

( ジュリー:Jury は元々、「陪審員」、「審査員」っという意味。バレーボールにおいて、試合の全ての責任を統括する責任者。場合によっては、主審の判定を覆すことができるが、実際には、不測の事態や分かりにくい判定が出た場合に主審の判定を補足して観客にマイクを使って説明したりすることが多い) 

そして、私たちの対面である上座に向かって右側には、各国から来た FIVBレフェリーが並んで座っていた。 対面といっても目の前の私たちとは4mぐらいも離れていた。 


 私たちには日本語を混ぜて話してくれていたが、基本的には、英語で話されていた。 これが緊張した空気になっていた原因のひとつであることは間違いない。 


 しばらく英語で何やら話された後、対面に座っている各国のレフェリーたちが、上手側から順に立ち上がって挨拶を始めた。 当然、イングリッシュのようである。  白人、南米っぽい人、日系っぽい人、???な人、、、。 続いて促されて、私たちも上手側からひとりずつ挨拶をするようである。 う~ん、、、どうしようか? Hero? My name is、、、、、? どうしよう? 、、、、、すると上手側に座っていた明夫さんが、、、立ち上がり、、、マイクを持ち、、、流暢とは言えないが、、、平然と英語で挨拶しだした、、、そして、こちら側を向き、右手を私たちにかざし、順に紹介していってくれ、私たちは一人ずつ紹介されると立ち上がり、一礼していった。

 さすが、親分!いや、明夫さん!カッコイイなぁーって真面目に感じた。 また、明夫さんのタドタドシイ英語のお陰で重たい空気が充満していた室内が少し、和やかになってもいた。 これこそ、リーダー!エンタティナー!英語に負けない日本人!だとも思えた。


  
   




紅色HERO (8)/高梨 みつば


 

 サブアリーナ設営後のラインジャッジの練習が終わり、メイン会場の様子を見に全員で移動すると、、、、何やら騒がしい?  完成された色鮮やかなラバー貼りのメインコートの上で誰かがバレーをやっているではないか? んん、 誰だ、あいつら?  いつの間に、体育館の空いているスペースにも新たなひな壇が作られ、コートの4隅に向かって僅かに歩くスペースがとられていた。 そんなスペースにも得点を示す小さめな電光掲示板が置かれ、その横には高さ2mをはるかに越える黒々とした巨大スピーカーがドォーーーンっと聳え立っていた。 コートの反対側をみると、もうひとつの巨大スピーカーが同じように黒い塗り壁のように聳えていた。


 逆側のアリーナ上部を見上げると、何メートル?いや、もっとそれ以上の巨大スクリーンが既に用意されており、今、コート上で行われているバレーが映し出されていた。 いつもテレビで観るバレーの試合と同じように、、、、、コート全体を映し、ボールの行方をとらえ、トスが揚がり、ブロックが跳び、スパイクが放たれる!・・・すると画面は打たれたボールをすかさず追い、、、次にブロックとスパイクとの攻防がスローモーションでリプレイされズームアップで映し出されている・・・んん、画面に映し出されているのは、補助役員(点字・ボールリトリバー・モッパー・他、、、を担当する)として参加してくれている地元の男子高校生たちではないか! 、、、、、「やられたぁー、、、いいなぁーあいつら!」 みんな真面目にひがんでしまっていたようだった。 



 次の瞬間、大音響がスピーカーから放たれた。 タイムアウトや試合間にDJのマイクと切り替わるときの音楽だ。 テレビなんかでは、ここで ニッポン、チャチャチャ、ニッポン、チャチャチャ、ニッポンなどと応援の声が入るのであろう。 つづいて、DJなのか、音響の担当者なのか、テレビ局の関係者なのか、マイクのテストが始まった。 高校生を使って行っていたカメラ振り?カメラワーク?が終わっていたので、我々もカラフルなフリーゾーンに入り、コートに向かった。 さぁ、どいた、どいたぁー、次の仕事に取り掛かるように! ひがみ根性丸出しで高校生に声をかけた。

 


 相変わらず、テレビ局の人たちは、音響の確認なのか、スクリーンの確認なのか、何本もあるコードを手繰っていた。 そんな中、今度は私たち審判団が、、、、、 「ふぁぁあぁぁ~ん!」 、、、、競技者交代やタイムアウトを取るときのスイッチと音の確認。 そして、「ぴりぃりりりりりぃー!」 、、、、スコアラーからの音の確認。 これまた強烈な耳を裂くような音だったが、みんな何食わぬ顔をしていて、コート上を陣取り、、、まるで、このコートは、おいら達のものだぁ-! とでも言わんばかりの空気を作っていた。



 もう夜には間違いないが、アリーナ内は煌々と照らされ、、、今がいったい何時なのか、昼なのか、夜なのか?になるような感じで、、、、多少興奮気味でいた。 どこもかしこも人が動き回っていて、今、会場設営をしている人数は300人いや、400をも越えているのかもしれなかった。 


 着々と色鮮やかなワールドカップ会場が出来上がりつつあり、体の奥底がゾクゾクしだしていた。 自分では見えないが多分、自分の顔は、引きつりながらも薄笑いでいたんじゃないかと思う。



人気ブログランキングへ  浜松アリーナも外観からは、重厚な要塞というか、ゴージャスな美術館のように見えた。 駐車場に車を停め、建物の向かって右側を建物沿いに歩いて行った。 明夫さんは、相変わらず裸足でサンダル 履きだ。 小さな入口があり、東側なのか、南側なのか、、、方角は判らなかった。 明夫さんに続いて、建物内に入っていくと、アリーナ内には、たくさんの人が動き回っていた。 



FIVB ワールドカップ2003  皆、個人を証明する顔写真入りのカードを首から提げていた。 役割によってそのカードの色は違うようだった。 時折、知っている人を見かけると、挨拶をしながら、まずはメインアリーナへと歩いていった。 いつものバレーの大会では、殆んどが協会関係者ばかりだったのだが、このときは、知らない人たちがいっぱい参加しているようだった。



・・・・・・・・・・・。」 、、、 すっげーーーっ 、、、いつものアリーナーとは違い、センターコートの周りはひな壇になった席が埋め尽くせられ、、、ピンクの椅子、コート外はブルーの床、コートもカラフルなラバーが貼りつくされていて、コートとフリーゾーンと綺麗に色で分けられていた。 


 もう、既にコートは張られていた。 会場内は、活気にあふれていて、たくさんの人が必死に動き回っていた。 たくさんの人が必死に仕事をしているのに、本来メインであるコートは中央で ” ここがセンターコートだ! ” っとカラフルな色合いでアピールしているようだったが、何故か、コート上には人は誰も居ず、ポツンと置き去りにされているようだった。 コート以外には、たくさんの人が居て、ひな壇になっている席に”ワールドカップ2003 ”っと書かれている幟(のぼり)みたいなものをつけようとしている。 テレビ放映があるのか、テレビ局の関係者も機材やコードの束を必死に運んでいた。


 にほんブログ村 バレーボールブログへ えーーーーっと、審判団は、どこかな? 携帯を手に取り、今、着きましたが、何処に居ます? 、、連絡をとると、、、サブアリーナに・・・。 、、、あっ、はい、じゃあ、今行きます。 場所が何処にあるか分からなかったが、返事だけして、、、横で話を聞いていた明夫さんが歩き出したので黙ってついていった。 


 サブアリーナには、審判団の男女がみんな集まっていた。 コートは張り終わったようで、一段落したのか、みんな笑顔でホッとしているようだった。 何人かがボールを持ち出してコートでバレーをやり出していた。 普段の大会で、審判団は、会場準備に終われているのでこんなに余裕があることはないが、さすが国際大会というだけあって各セクションに分かれ、役割を分担し、何日も前から準備していたので、一時ではあったが、そんな余裕が出来たのであろう。 そんなとき、おい、練習はいいのか! 、、、・・・・・・・。」 、、、、フラッグ持って来いよ!」 、、、あっ、はい!」 、、、ツルの一声によって1人が走り出す。、、、、はいっ、もって来ました!」 、、、袋に入ったフラッグを2セット持ってきたようだった。 あ、ありがとう、どぉ、貸して! 、、、ありがとう、貸して!」 、、、貸して、、、」 、、、あっという間に用意された8本のフラッグはみんなの手に渡っていった。 色のアルミ製のバーには、いフラッグが付いている。 握るところには、いゴム製のラバーが張られ滑り止めになっていた。 バサッ!バサッ!」 、、、バサッ!・・・・。」 、、、、あちらこちらでフラッグを振る音が鳴り出した。 俺も同じように、、、、、足を開き、、、、構え、、、、イン!、、左足を一歩、前に出すのと同時に、バサッ! フラッグをラインに向かって振りぬく、、右足も添えて、、顔は主審に向け。  足を開き、構え、、、アウト、左足を一歩、前に出すのと同時に、バサッ! フラッグを天井に向かって真っ直ぐ突き刺す、、右足も添えて、、、顔は主審に向け。  足を開き、構え、マーカー両足を一歩出すのと同時に左手はマーカー(アンテナ)を指差し、フラッグは1度真っ直ぐ上げてから左右に振るバサッ、バサッバサッ!、、、。 みんな、フラッグを振るときは真剣そのものだった。 

 今度は、全員でマーカー外のボールの接触を想定して合図と共に一斉にフラッグを振る練習をしだしていた。 試合中、そのボールの接触を1人だけ見つけられないことや、1人だけ遅れたりすることが、非常に恥ずかしく、嫌だったのである。 テレビではこの場面を放送することは殆んどありませんが、実際、ライブのバレーの試合では、4人のラインジャッジが息を合わせたかのように、4人同時にフラッグを振り上げ、バサッ、、、バサッバサッ!っと振れると選手のファインプレーの時と同じように、凄~い!わぁーーーーーっっと観客席がドヨメキ、一斉に拍手が鳴り響いたりもしているんです。 


 フラッグを握っていない何人かは、相変わらずコートでスパイクを打っている。 そんな時、おいっ、全員コートに入って試合しろ!」 、、、えっ?」 、、、、そして、順番にラインへ入れ!」 、、、あっ、はい!」 、、、意外な言葉にみんな一瞬、ハッとしていたが、ここに居るみんなは、元来バレー好きの集まり、喜んでコートに入り、、、、当然、今回ラインジャッジをやる予定の者は、フラッグを握り、お互いに、何番に入る?」 、、、1番?、3番?」 、、、2番?、4番?」 、、、っとポジションを確認しあって位置に着いた。 審判員の集まりですから当然、ピィーーーーッ!っと早速、吹笛がなり模擬試合が始まった。 

 

 気がつけば、明夫さんの足元には、いつの間にか靴下もレフェリーシューズも履かれていた。


 フロントガラスから見る外の景色は真っ暗。 でも、車内で緑色に輝くデジタルウオッチはまだ18:15を示していた。 バイパスは空いていて、車はスムーズに西に向かって走っている。 慣れない人の車の運転、助手席には明夫さんが裸足にサンダルを履き、足を組んで座っていた。 バイパスの折口を見つけ、下って行くと周りは、外灯も無い暗闇の田んぼ、、、田んぼ。 明夫さんの指示に従って車を進めると直ぐに目当ての体育館についた。 田んぼの中の体育館だったが、暗闇のせいか、一般的な体育館と違って重厚感があるように感じた。 ここは、以前、小学生の東海大会の決勝戦でIF(記録員)をやらせてもらった会場だったことを思い出した。 


 ひと気の無い、体育館に入っていくと真新しい白木のフロアが照明を浴び輝いていた。 中央にはコートが1面張られていて、2、3人の人がその近くでしゃがみ、何やら作業しているようだった。 よくみると、1人はマスキングテープ (元からあるラインを消すためのベージュ色のテープ)を貼り、もう1人は、アタックラインの延長破線 を貼っていた。 こんばんわ、私が声を掛けると作業しながらこちらを向いて、あっ、ありがとうございます。こんばんわ! 、、、続いて明夫さんが、おぅ、どうだ! 、、、今度は、作業を止め、立ち上がりながら、はい、一応、ここまで出来ましたが?、、、あぁ 、、、確認してもらえますか?、、、・・・・・・・。メジャーあるか? 、、、、は、はい、今・・・。」 


 この体育館は今回行われるワールドカップ2003練習コートに使うということなんで、協会の競技役員がコートを作っていたのである。 県内のメイン会場となる浜松アリーナに大勢の役員が行ってしまっているため、こちらの会場が手薄になるということで明夫さんと2人で先にこちらのコート作りを手伝ってから、浜松アリーナに向かうことに決めていたのである。


 コートはいいけど、ネットはダメだ! 、、、・・・・、はい! 、、、張り直すぞ! 今度は私が、あっ、はい!」 1度シッカリ完成し、マーカー も白いビニルテープで固定されていたが、もうテープを一度剥がして、そしてネットも外した。 支柱の高さもシッカリとメジャーで計ってから、ネットのワイヤーを掛けた。 クランクをグルグル回しワイヤーを巻きつけ、ワイヤーを強く張っていくと、硬い支柱は大きく曲がり、しなっていった。 ネットも強く、しかし形を崩さないように、、、引っ張ったときの伸びも計算して、、、、そして、コートは出来上がった。 少人数だったが連携してうまくできたようだった。  じゃあ、後は、任せたぞ! っと明夫さんは競技役員たちに声をかけ、、、次に私に向かって、おい、行くぞ! 、、、、、あっ、はい!」 そして、再び暗闇のバイパスに載り、みんなが集まっている浜松アリーナへと黒塗りのシーマを走らせた。


 全く経験の無い、初めての国際大会、ワールドカップ2003男子。 審判役員としてラインジャッジ(線審)をするかもしれなかった。 サマーリーグ男子、大学リーグ男子で多少練習し、なるべく早い球になれるように努力はしていたが、果たして上手くできるのか、期待と不安で普段より幾分鼓動が早くなっているようだった。


 

 自分が監督を務めていたチームは、近隣の大会では何とか、”優勝”という結果がたくさん残せてはいたが、他の地域の大会ではまだ、簡単に負けてしまうという一面もあった。  ノーブロック状態のような背の低いブロッカーの中、全員で”ボールを繋ぐ ” といったことは、そこそこ出来てはいたが、伝統なのか?身長の小さいちびっ子チームだったので、いくら運動神経があるレフトエースといっても、流石にちびっ子エースひとりでは厳しかった。 そんな中、そこそこ体が大きい(あくまでチーム内での話)色白で人見知りしそうな女の子が4年生になった頃、入団し、ライトフォワードのポジションにつくようになってはいたが、、、なかなか上手くできずいた。


 ”どうしたらスパイク動作を教えられるか?”っていつも考えていて、、、、まずは、最近で云うライトバックのスーパーエースポジションにつかせ、サーブレシーブを、、、、その後コート中央に上がったトスをバックアタックの要領で後ろから歩きながら、、、、しばらくするとドライブ回転のヒットを覚えだし、、、、次に軽くジャンプしてドライブ回転を、、、、またしばらくすると、助走の足取りが出来始め、、、、今度は手を振って幅跳びジャンプのようなバックアタックを、、、、ようやく形になってきたら通常のライト側の開いた位置から(右利きですが!)ストレート方向にスパイクを!、、、「助走の歩き出しは足の向きを外へ!」っとか、、、「助走の途中でステップを入れろ!」っとか、、、、そして、ようやくレフトオープンへ回り、元のエースを交え3人ぐらいで連続スパイクを!ひとり10本、3人で合わせて30本も連続で打てば、体はもうフラフラ、、、、それを毎日何セットか!、、、。

 その頃、御前崎にいる指導では有名な監督からも俺自身、指導を受けれるようになっており、期間を区切って、例えば、2000本スパイクさせる、、、とか目標を持つように!っと、教わっていて子供たちと必死に練習に打ち込んだ。 


 俺の指導っていうか、コーチングには、独自の方法っていうか、幾つかの決まりごとがあって、このスパイク練習には、決してセッターにトスを揚げさせない、基本的には全部、俺自身が手で投げることにしていた。 オープン、平行、Aクイック、Bクイック、Cクイック、Dクイック、ブロード、時間差、バックアタックって感じで色んなトスも! この独自のやり方には、ネットを挟まない対人サーブ練習」、、、「ネットと挟まないサーブレシーブ練習」、、、「膝をつかないから膝のサポーターは基本的に禁止、しかし、肘のサポーターはつけ、フライングレシーブを」、、、「ネットの高さは180cmでブロック練習、スパイク練習」、、、「指示は全てブロックサインで」、、、「相手側監督のタイムシグナルを確認して、副審の吹笛直後には相手の選手より早くベンチへ」、、、「両チームの選手交替には、ベンチ方向へ集合してタイムのように」、、、「ひとり2つの打ち方でサーブが打てるように、、、、他にもいろいろやりました、6年の県大会の準決勝だったか、よく指導を教わっていた、ある意味、目標であった御前崎チームとの戦いだったので”この御前崎チームの試合開始前から試合までに行う練習全てを調べ、日頃から練習して、その県大会の試合の際、両チームが全く同じ練習(少し独特なアップ)をして闘ったりもしていました。” 、、、ああ、そうだ、”6年の秋の県大会には、中学に向けてローテーションを勉強し始めていたので、負けてもいいからって地区予選からローテーションをして戦い、結果、またまた県大会決勝戦まで勝ち上がってしまったんです。” 流石に決勝に勝てば全国大会に行けたんで、ローテーションを止め、フリーポジションにしようかと一瞬揺らいだが、子供たちと確認して最後までローテーションで戦い、結果、準優勝に終わったりと、、、いろいろ、、、やりましたねぇー。。。



 この地域のバレーに何年間か、携わっていると面白いことに気がついてくる。 県小連(県小学生連盟)では確か、年生を対象にソフトバレーの大会を行っており、この大会での優劣・順位が最終的に2年後の最終学年である6年生大会の最終的な順位とほぼ同じようになっていたのである。 大会自体は、保護者もお手伝いしながら運営されており、やんわりした大会でしたが、観客席からは、各チームの指導者たちが、この学年は、アソコのチームが強くなるな! 、、、、っと、シビアに偵察していた。 実際のところ、当の俺自身もどんな結果になるか楽しみで保護者たちに監督を任せ、観客席から見守っていた。 しかし、想像していた結末とは違い、ひとつのブロック内で負けてしまったのである。 何故か、男子チームのブロック入れられ、その中の1番強い大井川の男子チームとフルセットジュースの末、敗退。 何とも、予想は外れてしまったが、その試合は、物凄く白熱した良い試合であったことは間違いなかった。 そして、100チームを超えるであろうその大会の優勝チームは、我がチームを負かしたその”大井川の男子チーム”であった。 


 4年生のソフトバレーの大会の結末は、その後の順位に関係するって、、、いきなり優勝チームとフルセットで負け、、、じゃあ、どうなる?、、、って思っていたが、このチームは、最終的に卒団するまで何かと男子チームとかかわりを持つことが多くなるのである。 1年後の5年生の大井川町長杯に優勝を目指すも、、、また、大井川男子チームのゾーンに、、、。 運動神経のある長身のエースから相変わらず男子らしい物凄いスパイクが、、、でも、、、小さな女の子たちはボールに喰らいつく、、、1年前のソフトバレーの大会のように白熱した試合だった。 でも結果は、前回と同じように敗退。 しかし、試合には負けてはしまったがこの試合は、うちのチームにとって素晴らしいことが起きたのである。 試合中に待ちに待ったうちのチームのライトエースがバシッ!バシッ!男子に負けないくらい強烈なスパイクを打ち始めたのであった。 この日を境にレフト、ライトのそれぞれのフォワードがAクイック、Bクイック、平行、、、オマケにボールを拾ったその体の動きを使って逆サイドで攻撃したり、もうひとりは別の場所で速攻っとか、、、ディフェンスもオフェンスも格段にアップし、、、何より、見ている人も、、、、プレーしている選手も、、、バレーがより面白くなったようだった


 その後、この男子との” ” は、愛知県を代表する毎年全国大会で好成績を挙げている有名な男子チームとお互いに行き来し、練習試合を繰り返すといったことへと変わっていった。 



 伊豆の先端、下田市白浜海岸で行われた、静岡国体(わかふじ国体)・夏季・男子ビーチバレーの審判役員の厳しい何日間から帰って、翌週は高校バレー選手権大会、そして、その翌週は、始めて東海大学リーグ女子の大会に参加させてもらった。 この日は、1日中、記録員のみ、3試合(5セットマッチ)を行い、国体ビーチでの記録員の失態の汚名返上するために、書くことは元より、記録員としてのハンドシグナル、スムースな運営、線の綺麗さ、間違いがひとつも無いこと、、、とにかく、記録員の仕事に没頭することに集中していた。


 その翌日からは、3週間連続で監督として小学生の大会に参加。 3週間連続といっても、3回ではなく、実際には、日々、練習しているので、毎日毎日、バレーバレーバレー、、、完全なるバレー漬けだった。  そして、10月の26日からは、再び、わかふじ国体(秋季大会)、女子少年の部(高校生)の審判員として参加することになる。 少年の部は、ブロック大会ではないので、各都道府県代表高校、全てが参加するというので、三島市内の宿舎は、満室御礼状態で県内役員で通える人、下っ端は、毎日毎日連続で4日間、三島まで通う羽目になっていた。当然、俺も藤枝の小野寺くんと一緒に毎日、国1を軽自動車で通うことなっていた。



三島・・・・わかふじ国体6人制少年の部(女子)  静岡の代表チームには、我が少年団出身者キャプテン として参加しており、その保護者らと会場で合いできれば試合には応援させてもらうよ!っと約束していたが、、、、関係のある高校の先生方だけが審判を変更して三島市民体育館へ応援に行かせてもらっており、、、、俺なんかは、まだ、どこの指導者なのか、とは先生方は、誰も知るわけも無かったので、応援に行かせてもらえなかった。 悔しかったが、とにかく自分はビーチでのミスを挽回するために、、、セカンドレフェリーの取り扱いの判らない先生方をフォローしながら、東レ体育館で必死にスコアラーの仕事に集中した。 

 余談だが、隣のコートでは、最近、全日本で活躍している木村さおり選手もキャプテンとして参加しており、多少、黄色い声援が聞こえてはいたが、、、、ケガなのか、イマイチ体調が良くないようだった。 

 そして、国体秋季大会では、大きなトラブルも無く何とか終了することができた。 国体というのは、47都道府県を順番に開催していくので、1周回るのに47年掛かるというわけで、この国体に参加する選手や県外から派遣されてくる役員以外で大会に役員として参加できるのは、権威や実績とかではなく、ただ、”廻り合わせ ” というか、”” なのである。 オマケにバレーの場合は、夏季大会と秋季大会との両方に参加するという珍しい状況にもあって、何とも嬉しい限りであった。


 その翌週には、小学生の秋の県大会が待っており、30周年記念大会ということだった。 本来なら6年生以下は、本大会には参加しないのだが、30周年記念大会ということで5年生チームも参加でき、我がチームも5年生ながら参加させて頂き、県大会まで勝ち上がることができた。 しかし、そうはいっても、周りは6年生であって流石に県大会には、1回戦で敗退した。 そして、こっそり計画していた、体育館横の町営温泉にみんなで浸かった。 



記念誌  この30周年記念というものにも、少し絡まなければならないことになっており、実行委員でもないのに県小学生バレー創立30周年記念誌”小学生バレーのあゆみ”の編纂に関与することになってしまった。 これには、少し訳があって、、、、昼間の仕事として依頼を受けるが、実行委員がカナリ簡単に考えていたようで、一部の資料のみで無理やり進め、、、、終いには、納期が無くなり、、、校正もしっかりできないまま、、、、実際には、文章から、内容の構成から、、、全て、俺一人で進めなくてはならなかった。 作るからには、他のセクション、団体の同じような記念誌を調べ、、、恥ずかしい物に仕上がったら何を言われるかも知れなかったので、、、最低限必要な、チーム紹介、小学生バレーのあゆみ、ルールの移り変わり、小学生バレーの現状、、、などなどを自分で作り、、、、そして、、、、実行委員に校正してもらい、、、直ちに発注、、、っと。 今考えれば、そんな立場ではないのに実に色んなことをやる羽目になっていたんだなぁーとつくづく思う。