伊豆の先端、下田市白浜海岸で行われた、静岡国体(わかふじ国体)・夏季・男子ビーチバレーの審判役員の厳しい何日間から帰って、翌週は高校バレー選手権大会、そして、その翌週は、始めて東海大学リーグ女子の大会に参加させてもらった。 この日は、1日中、記録員のみ、3試合(5セットマッチ)を行い、国体ビーチでの記録員の失態の汚名返上するために、書くことは元より、記録員としてのハンドシグナル、スムースな運営、線の綺麗さ、間違いがひとつも無いこと、、、とにかく、記録員の仕事に没頭することに集中していた。


 その翌日からは、3週間連続で監督として小学生の大会に参加。 3週間連続といっても、3回ではなく、実際には、日々、練習しているので、毎日毎日、バレーバレーバレー、、、完全なるバレー漬けだった。  そして、10月の26日からは、再び、わかふじ国体(秋季大会)、女子少年の部(高校生)の審判員として参加することになる。 少年の部は、ブロック大会ではないので、各都道府県代表高校、全てが参加するというので、三島市内の宿舎は、満室御礼状態で県内役員で通える人、下っ端は、毎日毎日連続で4日間、三島まで通う羽目になっていた。当然、俺も藤枝の小野寺くんと一緒に毎日、国1を軽自動車で通うことなっていた。



三島・・・・わかふじ国体6人制少年の部(女子)  静岡の代表チームには、我が少年団出身者キャプテン として参加しており、その保護者らと会場で合いできれば試合には応援させてもらうよ!っと約束していたが、、、、関係のある高校の先生方だけが審判を変更して三島市民体育館へ応援に行かせてもらっており、、、、俺なんかは、まだ、どこの指導者なのか、とは先生方は、誰も知るわけも無かったので、応援に行かせてもらえなかった。 悔しかったが、とにかく自分はビーチでのミスを挽回するために、、、セカンドレフェリーの取り扱いの判らない先生方をフォローしながら、東レ体育館で必死にスコアラーの仕事に集中した。 

 余談だが、隣のコートでは、最近、全日本で活躍している木村さおり選手もキャプテンとして参加しており、多少、黄色い声援が聞こえてはいたが、、、、ケガなのか、イマイチ体調が良くないようだった。 

 そして、国体秋季大会では、大きなトラブルも無く何とか終了することができた。 国体というのは、47都道府県を順番に開催していくので、1周回るのに47年掛かるというわけで、この国体に参加する選手や県外から派遣されてくる役員以外で大会に役員として参加できるのは、権威や実績とかではなく、ただ、”廻り合わせ ” というか、”” なのである。 オマケにバレーの場合は、夏季大会と秋季大会との両方に参加するという珍しい状況にもあって、何とも嬉しい限りであった。


 その翌週には、小学生の秋の県大会が待っており、30周年記念大会ということだった。 本来なら6年生以下は、本大会には参加しないのだが、30周年記念大会ということで5年生チームも参加でき、我がチームも5年生ながら参加させて頂き、県大会まで勝ち上がることができた。 しかし、そうはいっても、周りは6年生であって流石に県大会には、1回戦で敗退した。 そして、こっそり計画していた、体育館横の町営温泉にみんなで浸かった。 



記念誌  この30周年記念というものにも、少し絡まなければならないことになっており、実行委員でもないのに県小学生バレー創立30周年記念誌”小学生バレーのあゆみ”の編纂に関与することになってしまった。 これには、少し訳があって、、、、昼間の仕事として依頼を受けるが、実行委員がカナリ簡単に考えていたようで、一部の資料のみで無理やり進め、、、、終いには、納期が無くなり、、、校正もしっかりできないまま、、、、実際には、文章から、内容の構成から、、、全て、俺一人で進めなくてはならなかった。 作るからには、他のセクション、団体の同じような記念誌を調べ、、、恥ずかしい物に仕上がったら何を言われるかも知れなかったので、、、最低限必要な、チーム紹介、小学生バレーのあゆみ、ルールの移り変わり、小学生バレーの現状、、、などなどを自分で作り、、、、そして、、、、実行委員に校正してもらい、、、直ちに発注、、、っと。 今考えれば、そんな立場ではないのに実に色んなことをやる羽目になっていたんだなぁーとつくづく思う。