ちょっとしたことにも一喜一憂していた幼いあの頃。
昭和と共にあった、わたしたちの青い時代。
友人と楽しく過ごした日々、それでも話が好きな娘のことに及ぶと
とたんに話をはぐらかすか、無口になった遠い日。
親の締め付けに、こころ縛られ友人に投げかけた思い。
戸惑いながらも受け止めてくれた友は今も同じ距離を保ってくれています。
互いに髪は薄く、顔のしわは深く刻まれ腹は少し出て、
若い日の輝き、面影も翳りを見せ始めたこの頃。
(ヅラらしき髪型には気がついていますが、言えません!)
でもきっとその見返りに精神、魂は成長の階を糧として
魅力溢れる人間となっていることと願いたい。
わたしもそのようになっているのかというと、疑問符が付きます。
不完全な世です。ひとの心も日々に移ろい、不安定なものです。
不完全な世の中を創った「神」もきっと不完全だったに違いない。
・・と絶対的教義の在り方に、疑念を持ちつつ・・そういう自分もあり、
そんな「ゆるい」考えにも、・・・そう考える自分もあり、
そう考させる自分も、他人もありさ!
なんて思えたら、答えのない人生、楽じゃないかな?
電車に飛び込むよりはひとのこころに飛び込むほうが、
自分の心に叶うような気がします。
不安は常に付きまといますけれど・・・・。
不安定な不完全な自分を肯定できたら、
きっと何かが微笑んでくれそうな気がします。
そしてそれは時が過ぎ去ったときにしか実感できない
ことなのかも知れないのですが、
不完全な世界に自分の生きた足跡は残せそうな気がします。
その足跡は明日にも消えてなくなってしまうかも知れませんがうまくいけば
子々孫々の言葉、思いとして生き続けてくれるかもしれません。
それは取りも直さず、わたしたちが「生きていた」証にならないでしょうか?
でも究極的には、それすらも意味のないことですよね。(←何が言いたい)
旅に出てみたら ウイッシュ
ウイッシュ?









