幼い頃、夜見る夢で排水溝に吸い込まれ続ける夢を見たことがありました。

掃除機で吸い込まれ続け中のホースの中を延々滑り続ける夢を見たことがありました。

自分は無機物か何か、身動きが取れない中無造作に車に乗せられどこかに連れていかれる夢を見たことがありました。

 

 

無意識レベルでその手の癖に執着があったのでしょう。

私は無機物に一種の盲信のような想いを抱いています。

 

それ自身にどうこうする手立てはない、上位の存在によって運命が左右されるそんな刺激的な存在こそ”無機物”、或いはそれ単体では何もすることができないモノそのもの。

 

 

 

例えば人間たちに食われる食材たち。

確かに肉や魚と言った一般的な生物においては既に死を迎えている状態。

でもその先に待ち受ける運命は悲惨どころではありません。

切ったり煮込んだり、溶かしたりやりたい放題。

それに対して当然対抗することはありません。

植物系の野菜に対してもそう、一般的概念に基づく生命の終わりは迎えているが、その先の運命は残酷だと感じそれを刺激的に思うのです。

 

例えば椅子、トイレ、床、ベット、布団、枕、足ふきマット、アスファルト、砂利、砂、その他地面。

靴、風呂、鍋、挙げだしたらキリがない。

 

ありとあらゆるモノに対して、人間が起こす運命は人間の観点からしてとても残酷で刺激的だと感じるのです。

 

そう、その最たるものは例えば「ゴミ」が待ち受ける運命。

あるものはスクラップ、あるものは埋め立て、あるものは焼却。いずれにせよ生命体としての運命としてはどれも悲惨なものと感じられ、私としては刺激的なシチュエーションだと妄想するのです。

 

 

自分がゴミで今からゴミ処理場に運ばれ燃やされるかスクラップか、はたまたどこかに埋められるのか?

みたいな?

 

そんな何がどう転んでも現実には起こりえない狂気じみた妄想を私はするのです。

それこそが私の絶対に叶えることのできないフィクションの夢。

悔しいけど現実的じゃあない夢。

何かの事故で起こらない限り・・・

でもそんな死が万が一私の下に飛び込んだのなら快く受け入れ身を投じる勢いには陶酔しきっている狂気そのものです。

 

 

 

救いのない圧倒的絶望と地獄の待つ最悪の運命の理想郷ともいえる。

私の掲げる狂気的なドM精神の果てと言える妄想なのです!

私は人は真に人を救うことはできないと考えています。

 

どういうことかと言うと、所詮人間は一人ぼっちな生き物。

人類の進化の過程でいくら考える脳を活性化させようが、文明を発展させようが、組織を確立しようが・・・結局個人は個人。

 

1人1人の中に眠る意志はいつの時代も変わらない、『己の欲のみ』

自分の幸せしか考えない。

それは紆余曲折を経ていつの間にか他人の幸せにつながり、それが協調性という不確かな形になり変わっているだけ。

 

自分はこうしたい、相手はこうしたい。その連鎖が上手くかみ合った時人は『分かり合えた』と感じるだけ。

 

 

だって貴方は、無償の愛で人を生かそうと考え行動しますか?

それはその人のためにならないだの、非効率だの、怠惰だの言い訳なしに救済できますか?

真の意味の救いというのはそういうことを指すのです。

 

誰でも彼でも無償の愛で生かせろというわけではありません。

要するに、死しか頭にない人を本当に救うことができるのは『無償の愛』

無条件に全てを受け入れる心そのものだと言っているのです。

それが貴方には可能なのですか?と、そう言いたい。

 

人は生き物である以上食生活は欠かせません。

また、生き物である以上休息も必要でしょう。

環境次第では死に至るのでそこの管理調節も大切です。

 

これらすべてを無償でしてあげる人はこの世には存在しないと私は考えている、そういう話です。

 

勿論、いつか来るであろう社会復帰を夢見て支援をするというのとはまた別の話ですよ?

社会復帰が到底見込めない人を、ただ息するだけの人を、貴方は救いますか?

 

 

 

誰に救われることもないであろう、無価値の孤独に隠れ潜む思考はこうした思想を生み出し新たな『自殺願望』が生まれたのだと私は結論付けました。

 

無価値の孤独。

それは、あらゆる破滅への興味関心。

究極のドMの精神。

”犯罪行為後に待ち受けるであろう破滅の運命における精神的被虐体験”と”ありとあらゆる自殺の追体験願望における肉体的被虐体験”、”あらゆる他者からの加虐における肉体的被虐体験”

 

これらを求める心は、生きる価値のない勝手に孤独になっている残念な人間です。

何しろ、全ては未だ妄言でしかないのだから・・・

 

そんな人を救おうと、無償で救おうと、生かそうと考える酔狂な人間は居やしない。

私はそんな悲観的思考の末路にある『自殺願望者』です。

多分これからもバカみたいに同じことグダグダ言っていくと思いますww

本格的にフェチのお話に入ります。

 

本当に腹責めが好きで、腹パンだけじゃなくて蹴ったり、或いは道具を使ったりしてっていうのが良い。

経験はないけど、見るのはホント興奮する。

 

ただね、へその中いじくりまわすのは嫌い。あれ何なん?

って、腹責めloveの人に対して一般の人が思っていることだと思うのでこれ以上は言及控えます^^

 

 

あれだよね、殴られたいから殴っているんじゃなくて殴りたいから殴るが良い!!

で、自分としても殴られたいから殴ってもらうんじゃなくて、殴りたいから殴ってもらうがベスト。

蹴りも、道具使用についても同じ。

 

 

でさ、疑似体験的なことでよく引き合いに出されるのがボクシングとかの練習で使われるgutpunchと言われるもの、或いはボディ打ち。

そういう概念があるんだからそこで欲求満たせばいいじゃないかって思う人が大多数いると思いますが・・・

 

別に自分はボクシングがしたいわけじゃないし、興味はないので丁重にお断りしたいと思っていますし、ボクシングジム側も多分迷惑だと思ってるんでww

 

勿論仮に入るとしても、本音は伏せるつもりですがまぁ身体は正直なんでね~

ぶっちゃけどう出るかは未知数です。

 

見るだけで射精する人が経験したらねぇ~

思わず出ちゃったとかなら弁解の余地はあるかもしれないけど、故意だから質が悪いんじゃなかろうかと色々勘ぐる^^

 

 

ところでわたしが普段見ている腹責めの動画ですが・・・

打たれているところではなく、打っている側を見て興奮するのはMの気で良いんですかね?

時々混乱するんです。

でも、打たれて悶えているのを見て興奮するのは普通に考えてSが見るかw

と納得するんですが、打つ姿を見て興奮するときこう考えるんです。

 

もう少し抉るようなパンチが見たいな・・・とか?

もっとスピード感あるの欲しいな?とか・・・

壊す勢いでやっているの見たいなって・・・

そういう発想はサディストへの要求という点で言えばMの観点ですが、逆を言えばどう攻めようかというサディストの観点で物事を考えてるともいえるので、アレ?これどっちなんだ?と思うことがあります。

 

 

また、SとMは入れ替わることがあるとどっかで聞いたことがあるので尚更困惑。

情緒不安定な自分がサディストなど絶対にあってはいけない!

そういう硬い意志もあって、私はボクシングジムとかでの疑似的体験は断固反対しています。

打つ心配のない、フェチ活動に重視したもののみで満足感得られればいいのに~

なんて・・・・

 

 

まぁこういうくだらないお話を、今後はやっていこうと思います^^

人が人を殺す手段はいくらでもあります。

所謂臓器を破壊すればその機能は停止され血液の量が十分あろうとなかろうと死に至ることでしょう。

まぁ詳しいことは私はそれ系のスペシャリストではないので分かりませんが・・・

 

例えば刃物で人は刺し殺せます。

例えば鈍器で人は嬲り殺せます。

そういう簡単なお話。

 

で、私はそれをされることに興味を持っています。

それは何も私を殺してくれるかもしれない不特定多数のとち狂った人に向かって主張しているのではなく、そういう妄想をしてしまうおかしい人間だという自己紹介の一種だととらえていただければ幸いです。

 

例えばこういう妄想をします。

笑いながら刃物を何十何百と突き立て刺し殺すサイコパス野郎に殺されたいな~

 

例えばこういう妄想をします。

制止を聞かずひたすら鈍器で嬲って殺すサイコパス野郎に殺されたいな~

 

例えばこういう妄想をします。

玩具で遊ぶみたいに銃を乱射して銃殺。

 

例えばこういう妄想をします。

水に無理やり沈めて抗える環境の中力づくで溺死。

 

例えばこういう妄想をします。

どこかに閉じ込められ、餓死か毒殺か窒息か、凍死・・・

 

例えばこういう妄想をします。

車、トラック、電車、新幹線などに轢かれる。

 

例えばこういう妄想をします。

高い所から突き落とされるなど・・・

 

例えばこういう妄想をします。

生きたまま焼かれたり、潰されたり、埋められたり、、、

 

例えばこういう妄想をします。

感電死。

 

 

挙げだしたらキリがないですが、嫌な奴も中にはあるので別に殺されるのなら何でもいいというわけではありません。

今パッと嫌な奴は思いつかない・・・

あぁ、生きたまま食べられるとかは嫌ですね、引き裂かれるとか。

刺されるは良いのに何が違うの?っていうかもしれませんが、好みとは人それぞれあります。近いってだけで違うのです、別物です。

まぁそんなわけでそういう微妙な違いも含め、嫌なのものは確かにあるのでただの死にたがり屋とも違うんですよね~

 

だからといって自殺願望者というのも疑わしいし、殺人されたい人というのも正しい表現ではない。

しいて言うなら、私の望む方法で殺してほしいっていう癖?

それは他力本願の自殺願望っていうやつじゃないのか?ということになりますが、まぁ正解です。

 

だからどうしたっていう話ですが、つまり何が言いたいのかと言いますとね?

これ全て単なる妄想なのです、だから外から見たら何が起こっているのか分からない。

仕事ができないという実生活サイクルを送る中で支障をきたしてはいるものの、実害という実害は一切ないんですよね。

ただの『妄想』『願望』なのだから。

 

そういうわけで私は毎日生きづらい生活を送っているのです、という自己紹介をしたかったのです。

支離滅裂なご挨拶で新年のあいさつ申し上げます。

あけましておめでとうございます。

今年も精いっぱい生きられたらいいな。

生かせてください!!

 

ということでさっそく本題に入ろうと思うのですが、タイトルは正直関係ありません。

まぁ無いことは無いですが、婉曲表現と解釈していただければ幸いです。

どういうことかと言いますと、社会の歯車から外れた人間に生存権は果たしてあるのか否かという話でございます。

犯罪者であっても生きる権利はあるというような堅苦しい話をしたいわけではなく、気持ちの問題で問いかけてみたい。

 

例えばここに自殺志願者がいるとします。目の前で自殺行為をしました、第三者が止めて生きることを確保するという意味で救います。それは果たして自殺願望者の救済になるのか?

人によっては救われたいが為の策としてそういった行為を取ることがあると聞いたことがあります。しかし、またある人は本当にその運命を受け入れようと行動することもあります。そのどちらかなのかは本人に聞かないと分かりません。

では、聞くためにも生きさせることに意味はあるのか?

その人の死を求めたる理由を払しょくする手立てが本当にあるのであればそれは大層立派なことであると言えるでしょう。しかし、苦悩の連続苦痛の連続が続く未来の場合それは救済と言えるのだろうか?

 

いつまで生きていることが許されるのだろうって、そんな疑問が湧いてしまいます。

何故ならそういう状況下になった場合一般的な社会の歯車となって生きることは困難だと思えるからです。つまり、知らない誰かによって生かされる人生が始まる。

もしかしたら寿命で死ぬその瞬間までその生き方が続くかもしれない無限の地獄があるかもしれない人生が始まる。

 

 

例えばここに殺人願望者がいるとします。思想と準備はしていますが行為に及んではいません。辛うじて理性が働いてギリギリの状態を保てています、しかし心のコントロールが不安定でいつ狂ってもおかしくありません。そんな状態の人を生きるという形における救いというのは救済になるのか?

これもまた社会の歯車の中で生きていくことは困難を極めることでしょう、この場合も知らない誰かによって生かされることになるでしょう。

とち狂った思想との葛藤、社会に最低限順応しようという努力と抗いの葛藤、これもまた無限に続く地獄の人生が始まることでしょう。

 

 

社会の歯車で絶賛生きている皆様に問いたい。

正直どう思いますか?

 

え?タイトルとやっぱりずれている?

そうですね、ではこれはどうでしょう?

 

人のことをぶん殴りたい人って貴方の身の回りにいないと断言できますか?

貴方の身の回りにいる人の心は平穏を保てていると断言できますでしょうか?

 

見えない世界のことは誰にも分からない。

その上でこれです。

貴方にとって大事な人ならエゴで守ろうとしますか?それとも突き放しますか?

貴方が死ぬ瞬間まで守ろうと思いますか、それとも・・・

 

 

ということで今年も、どうぞよろしくお願いいたします!

情緒不安定?それこそが私の安定、では失礼します^^

虐められて、心が病んで、どうしようもなってどうのこうの展開において経験は無いが分からなくはない程度の正常な倫理観は備わっているつもりだ。

 

とはいえ、私は過去に虐められた経験があり更なるいじめを求めていた体質のせいで加害者を被害者に仕立て上げた狂人なので言えた義理ではないが・・・

というのも、自分のことをもっと虐めてほしくて相手を挑発するような真似をしたことがある。

その結果、求めていた通りの結果が起きた。

が、それは事が大事になったことを指し示す。

当然周りが気づきだし、加害者を糾弾。

被害者自ら作り出した加害者ではあるが、立場上被害者と言うことになっているため自分で作って自分で潰したという自分にとって最悪なシナリオ展開に終息した。

 

だからこそ、イジメの暴力の思想において2人の自分がいる。

1つは一般的な倫理観を持ち合わせている自分、もう1つはそれこそが私の求めていたものという感情で埋め尽くされる害悪思想の自分である。

 

 

 

私はどうすれば救われる?

死にたいほどに苦しい。

虐められている私が好き、イジメている誰かを見て自己投影している自分が好き、そんな害悪な人間は生きている価値はあるのか?

そんな自問自答が毎日繰り返し行われている。

 

ただでさえバグっているのに、更に脳がバグる連続。

 

 

私はただのMじゃない。

圧倒的悪意を以て敵意を以て暴力でねじ伏せられたい。

逃れられない苦しみを味わいたいという究極のMだ。

だからこそ害悪な思想が脳を支配する、破壊する。

でももう手遅れ、そんな思考に染まったが最期どうすることもできない。

 

ただただ他人に迷惑を掛けないように毎日毎時間毎分毎秒に気を遣って生きている。

この思想は口にしてはいけない、やってはいけない、そう言い聞かせている。

 

 

ただただ、ただただ・・・

この無限に続く苦しみの解放を私は知りたい。

よくニュースとかで犯罪を犯して今は反省しているみたいなのが流れると悪意を悪意と認識せずに悪意に手を染めるているのか!?って突っ込みたくなる。

 

犯す瞬間確実にその認識はあるはず、ならば反省せず自らの行為に誇りを持てとすら思う。

自分の行動に価値があると思ってやったのであればそれは至極当然の流れだと私は思っている。

 

 

だからますますわからないのが、著名人や有名人、芸能人、政治家、大物と言った人たちの不祥事。

何故やる?やる必要性があったのか?と・・・

正直私は「バレなきゃいい理論」は好きじゃない、バレるリスクを考えるべきだと思う。

次に、身代わりを立てるというあくどいやり方を考えるパターン。

これはドラマくらいしか見ないから現実にあるのか分からないが、トカゲのしっぽ切りのようなのは存在しているらしいのでまぁあながち嘘ではないと思うのであるという前提で話す。

それもまた私は嫌いだ。当人が自覚しているのならまだましだが、そうでないのは正直気の毒過ぎてみていられない。

 

 

 

正直なんの話をしているのかさっぱりわからないかもしれないが、要するに・・・

悪いことをするのであれば悪いことをしていると自覚したうえでやっていただきたい。そして社会のルールに則ってその先も生きてほしいと思っている。

 

バレなきゃいい、捏造すればいい、消せばいいなんて安易な発想で誤魔化そうとしている心理がどうしても理解できない。

どうあがいてもバレるものはバレるし、バレない先は冤罪の道。

それはまわりまわって自分に帰ってくる罠ですらある、いつか誰かの罪の冤罪にさらされる可能性を良しとする社会を作ろうとしていることを理解してくれと・・・

 

 

まぁ自爆テロ覚悟の犯罪者にとってはこの先の未来なんて知ったことじゃないんだろうけどww

 

 

 

後はそう、純粋なサイコパスっていうの?

そもそも悪いことと良いことの区別がつかないみたいなパターンについてはまた別の話ですよ?

それはそれで思うところがある。

私が「性悪説」を唱える所以でもあるのがこれです。

人の不幸をどこかフフッと笑ってしまう嗜虐的一面が全人類どこかしら、なにかしらあると考えているからです。

そしてその根底には隠されたエゴに塗れた実に利己的な欲望があると思っています。

 

人は何かしら行動を起こすとき無意識に見返りを求めます。

それは対人とは限りません、行動の結果そのものが見返りの場合も考えられます。

それは100%なんだから当然じゃないか?と思う人がいるかもしれませんが、ある1つの行動においてたった1つの結果しか存在しないなんてことはありません。

 

ある1つの行動における結果はいくらでも可能性は広がっていると考えています。

しかし、行動主にとって求めている答えは大抵1つ。

それを求めるがために行動したにもかかわらず何も得られなかった場合人は悔しがるでしょう。

それはある意味利己的な運命だと私は考えます。

 

だから何だっていう話ですが、まぁアレです。

人間欲望に忠実になれば世界滅亡なんて1日も必要ないという話です。

 

唐突に何を言っているのかって思うかもしれませんが、結構いたって大真面目な考察ですよ?

1人の人間が史上最悪の利己的欲望を満たそうと考え行動に移すという運命が存在するかもしれないって貴方は信じますか?ということです。

 

地球を破壊しかねない爆弾(これは比喩でも可です)をある人が稼働する可能性は0%という証明は不可能です。

人はいつでも人を滅ぼせる、滅ぼす必要性が無いから滅ぼさないだけ・・・

 

社会のルール、マナー、常識、道徳それらはとても曖昧過ぎる。

そして人間の行動原理を直接操作するものではなく人間の心理について操作を促す効果がもたされる可能性があるだけのもの。

 

その上で、「人の不幸は蜜の味」

最悪の運命を引くのは明日かもしれない、私は常日頃そう考えながら生きていますがその根底にはこの思想が眠っています。

そしてそれは私自身かもしれない・・・

 

規模の小さい人が人を滅ぼす利己的欲求、深層心理に問いかけてみると面白いことが分かるかもしれない。

人類皆殺人願望を持っている狂人の可能性は果たして0%か否か・・・

別に長々と話すことでもないんですが、まぁどうせなら事細かにと思って引き続き膝蹴りの魅力について語っていきます^^

 

と言っても、私自身格闘技関連はノータッチで何も知らんのですが・・・

とち狂った性癖がてら膝蹴りピンポイントで格闘家のレクチャー動画よく見ているおかげで俄か程度には知識がついた模様・・・まぁそんな話は糞どうでも良いんですがww

 

 

要するにどういう膝蹴りがいいのかということについて話そうかなと思い、par2を設けました。

膝蹴りと言っても、縦に前に突き出すタイプだとか、内側に蹴っていくタイプ、上に突き上げるタイプ、腹部に対してまっすぐ垂直に突き刺すタイプと色々あるわけですが、私の好みは最後に挙げた腹部に垂直に突き刺すような膝蹴りを指します。

 

サンドバッグなんかで首相撲を想定した連続膝蹴りを繰り出すときに恐らく真っ先に出てくるモーションかと思います・・・

 

そして、これは昨日話した内容になりますが・・・

その上で、殺人級のえげつない膝蹴りを何十発何百発も受け続けたいという願望を持っています。

それを叶える方法が1つあるのは分かります、自身もキックボクシングかムエタイか分からないが習えば嫌でも打撃を喰らうことができるでしょう。

 

でも、私は絶対に格闘技はやりたくない。

理由は殴る側に回りたくないという気持ちがあるからです。

それは人を殴るのは嫌だからなんていう聖人めいた臭い理由ではなく、理性の伴わない興奮状態になる可能性を苦慮しているからです。

 

まぁ早い話、人殺しの道具にさせないために私的ある種の自己防衛判断なのです。

これ別の機会に話そうかとも思いましたが、私は心のどこかに殺人願望にも似た異常な思想が見え隠れしています。

その上、心のコントロールが不安定。

この状態のままそういうことに携わることは危険だと思っているので視野に入れていません。

 

そう、全ては仮定でしかないただの推測の妄想話ではありますが、意思は確かにあると感じているのでどうしてもyesとは言えないのです。

 

あれ?これ何の話だっけ?

とまぁ、えっと・・・

そんなわけで、私は膝蹴りが大好物です。

願わくば私の被虐願望を叶えてくれる人がいればそれもお願いしたいくらいには病みつき。

 

まぁタイトルの通りです。

youtubeかfacebook、instagram或いはtiktokか、はたまたTwitter(X)・・・

はたまた海外の動画サイト等で日常的に私は「膝蹴り」について調べます。

 

具体的な明確な理由は分かっていませんww

 

 

分からないけど、所謂swing kneeという奴でしょうか?knee strike?knee drill?

サンドバッグ(heavybag)をガシッと掴んで素早く交互に膝をまっすぐ突き刺すムーブ全般、私を興奮させるんです。

 

膝蹴り受けたことないのに、受けたいなという願望が駄々洩れになっています。

確実に死ぬ破壊力抜群の膝蹴りを何十発何百発も喰らいたい、そんなとち狂った願望を持っている。

 

その過程に興奮で射精する話が出てきます。

まぁだからどうしたっていう話ですが、要はそんな特殊性癖を持っているということです。

 

 

ムエタイの膝蹴りに興奮し射精する変態、そういうことでどうぞよろしくお願いします^^