本日の御書です。

「年は、わかうなり福はかさなり候べし」(P1135四条金吾殿女房御返事)
(年はますます若くなり、福運はますます重なっていくであろう。)


先生のご指導
「妙法を修行する人は、年をとっても若々しくなり、福運も、ますます積み重なっていく、と。大聖人の仰せに絶対に嘘はない。また、法華経では『不老不死』と説く。これも、たゆみない仏道修行によって『鍛えぬかれた生命』をいうのではないだろうか。釈尊は高らかに宣言した。『つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、つねに死んでいる』(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波文庫)と。そのとおりである。勇猛精進の人は、永遠の仏の大生命力を全身に漲らせていける。反対に、要領だけの、インチキの人間は、『生きながら死んでいる』のである。」(1998年1月8日)


要領だけになっていないか。自分自身を見つめなおしたいと思います。
そしてヤング男子部のように、若々しく戦ってまいりたい。

本日の御書です。

「而るにさえもん(左衛門)殿は俗の中日本にはかたをならぶべき者もなき法華経の信者なり、(中略)今は左衛門殿を師とせさせ給いて法華経へみちびかれさせ給い候へ」(P1135四条金吾殿女房御返事)


あなたの旦那である四条金吾は、俗の中でも日本に肩を並べる者もいない法華経の信者である。その四条金吾を師匠として法華経に導いてもらいなさいとの仰せです。
よく日顕宗は、在家信者を師匠とするなどけしからん。僧侶を師と仰ぎなさいと主張します。しかし、大聖人の仰せを見れば、分かるとおり、在家・出家の違いではなく、法華経の強信者であるのかどうか、行動者であるのかどうかが師匠とする基準です。日本で肩を並べる者がいない四条金吾を師匠としなさいとの仰せを見るならば、世界中で肩を並べる者がいない広宣流布の大指導者である池田先生を師匠と仰ぐのは当然の帰結です。
誰にも文句を言われる筋合いはありません。

以前、対話した法華講員は、「学会の御本尊に何が不足しているのですか?」という私の質問に対して、口を滑らせたのか「魂を入れるんだ」と言った後に、必死になって訂正し、「いや、目に見えない何かですよ。私には恐れ多くて、分からないとしか言えません」と逃げていました。法華講お得意の逃げ口上ですね。「分かりません」とか「勉強不足です」と言えば、許してもらえるとでも思っているのでしょうか?
“勉強不足”の人間がよく御本尊を誹謗できたものです。私が許しても、御本尊様が許さないでしょう。せっかくですから、魂について考察してみます。

日顕宗では、開眼供養によって果たして誰の魂を入れるのでしょうか?
日顕、日如の魂でないことだけは確かでしょう。もし、入れるとしたら、日蓮大聖人の魂ということになるかと思いますが、大聖人の魂とは何でしょうか?

御金言を確認したいと思います。
「日蓮がたましひを・すみにそめながして・かきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮が、たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(P1124経王殿御返事)

つまり、大聖人の魂とは、南無妙法蓮華経以外にありません。
ご存知のとおり、日寛上人の御形木御本尊(創価学会の御本尊)のど真ん中には「南無妙法蓮華経」と書かれていますが、それでも彼らは、魂が無いと言い切れるのでしょうか?
ここまで説明しても強硬に魂が無いというのであれば、彼らは御本尊に書かれているものをたんなる文字としか思えていないということでしょう。大聖人が「文字と思食す事なかれ」(P469)と言われているにも関わらず、彼らは文字としか見えていない。結局、日顕宗は、その程度のレベルだから、祈りがまったく叶わないと言えるでしょう。

様々、見てきましたが要するに、日顕宗では“法主の有り難さ”を強調したいがために、すべてが満たされている御本尊に対して、“開眼供養”という形だけの儀式を執り行っていると言えそうです。
その証拠に創価学会の草創期に下付されていた御形木御本尊は、法道院という末寺で作られ、法主の開眼など無いまま、各末寺に発送されていました。
後年になって、日顕は、開眼供養の義を込めて丑寅勤行を行なっているので、本山を経由しなくても問題ないのだと“後だしジャンケン”のような主張をしています。温泉豪遊や芸者遊びなどで丑寅勤行をすっぽかしてきた法主がよく言うものだと思いますが、これこそ、法主が開眼供養しなくても(代理の人間が丑寅勤行を勤めることで)、事足りているという証拠になりますし、彼らの主張する開眼供養など、所詮その程度のものだということが分かります。
対話してきた法華講員も最終的には、御書によって、学会の御本尊をニセ本尊と証明することは、不可能だと認めていました。御書で証明できないのに、御本尊を偽物だと誹謗できる神経が私には理解できません。
日顕・日如を盲信し、日寛上人の御形木御本尊(創価学会の御本尊)を偽物だと誹謗し続けている末端の信者さんたちが本当に憐れですね。

本日の御書です。

「但し信心のよはきものをば法華経を持つ女人なれどもすつるとみえて候」(P1135四条金吾殿女房御返事)


これまで法華経を持った人の尊さを述べられてきましたが、信心が弱かったならば諸天に見捨てられてしまうだろうとの仰せです。
形だけでなく、本物の信心を磨く労作業に徹していくことが大事ですね。


先生のご指導
「仏法では、人間としての究極の偉さをどのように説くか。その最終的な尺度をどこにおくか。それは、結局『信心』の二字に帰結する。信心が強盛であるか否か。広布への勇気があるかどうか。行動しているのかどうか。いかなる幹部であろうと、信心がなくなれば広布の指導者ではない。社会的な肩書が何であろうと、真摯な実践がなければ信仰者ではない。そこには、決して真実の福徳は薫らない。いかなる人であれ、『信』を根幹にしていかなければ、すべては空転し、むなしく漂わざるをえないからである。」(1990年1月24日)

本日の御書です。

「一切の人はにくまばにくめ、釈迦仏多宝仏十方の諸仏乃至梵王帝釈日月等にだにもふびんとをもはれまいらせなばなにかくるしかるべき」

(P1135四条金吾殿女房御返事)
(一切の人は憎むなら憎め、釈尊、多宝如来、全宇宙の諸仏、梵天、帝釈天、日月天らに、不憫だと思われたならば、何を苦しむ必要があろうか。)


先生のご指導
「私どもの立場でいえば、日蓮大聖人のおほめをこうむり、けなげな信心だ、大切な門下だと思っていただけたならば、他はすべて、とるに足らない些事である。根本の基準は、あてにならない世間の眼ではない。仏法の世界の『仏眼』である。また法を中心とした『法眼』である。この一点に徹した人は強い。何ものにも粉動されない。ここに信仰者としての真髄の一念がある。その一念どおりに生ききっていく人は、その潔い人生が、人間としての勝利の姿となる。」(1988年10月12日)


誰も見ていないところで地道に行動できるかどうかは、心に師匠がいるかどうかで決まります。師匠を求め続ける人生を送りたいですね。

本日の御書です。

「此の経を持つ女人は一切の女人にすぎたるのみならず一切の男子にこえたりとみえて候」(P1134四条金吾殿女房御返事)


法華経を持った女性は、一切の女人に過ぎるだけでなく、一切の男子を超えた存在であるとの仰せです。当時の人々の常識をくつがえす発言だったのではないでしょうか?
現代の婦人部のパワー溢れる行動を見れば、大聖人の仰せに間違いはないと確信できますね。

本日の御書です。

「されば此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず法華経を持たせ給う人は一切衆生のしう(主)とこそ仏は御らん候らめ」

(P1134四条金吾殿女房御返事)


ひとたび法華経を持ったならば、男女僧尼の差はありません。誰もが尊い仏の当体なのです。御書を学べば学ぶほど、差別主義に凝り固まった日顕宗がどれだけ大聖人から、かけ離れた偏狭な宗派であるかが明らかになります。


先生のご指導
「男女間の差別など仏法の世界にはない。在家・出家の間にも、その尊さに差はないとの明文である。御書には、『日蓮の一門』『日蓮の一類』『日蓮の門下』『日蓮の弟子檀那等』など、繰り返し認めておられる。皆、大御本尊のもとに平等な仏子であり、広宣流布への同志である。これが大聖人の深きお心である。」(1990年1月24日)

本日の御書です。

「当世の天台宗の学者は天台の石塔の血脈を秘し失う故に天台の血脈相承の秘法を習い失いて我と一心三観の血脈とて我意に任せて書を造り錦の袋に入れて頚(くび)に懸け箱の底に埋めて高直(こうじき)に売る故に邪義国中に流布して天台の仏法破失するなり」(P532立正観抄)
(現在の天台宗の学者は、天台の石塔の血脈を失ってしまったので、天台の血脈相承の秘法(妙法の一言)を習うことなく、自分から『一心三観の血脈』と言い出して、自分勝手な心のままに文書を作り、錦でできた袋に入れて首にかけ、箱の底に埋めて高い値段で売っているのである。このために邪義が国中に流布して、天台の仏法は破壊され失われてしまった。)


先生のご指導
「根本の妙法を失い、己義を構える。その己義をありがたいものに見せるために、さまざまに飾り立てる。これが、正法堕落の方程式である。歴史の常である。内容のない場合ほど、それをさとらせまいと、さまざまにもったいぶる。悲しいことに、往々にして、そのトリックにだまされ、ありがたがり、“権威による救い”を高額を払ってでも求めようとする人々もいる。民衆は絶対に賢明にならねばならない。御書を学ばねばならない。それが『幸福』への“力”となる。悪を断ち切る“剣”となる。」(1992年1月12日)


御書を学ばねば騙されてしまいます。広宣流布の大指導者である池田先生から御書を学び、悪を断ち切る剣を磨いていきましょう。

本日の御書です。

「然りと雖(いえど)も汝が志神妙なれば其の名を出すなり一言(いちごん)の法是なり伝教大師の一心三観一言に伝うと書き給う是なり、問う未だ其の法体を聞かず如何、答う所詮一言とは妙法是なり」(P530立正観抄)


ここまで、「仏の境涯でなければ理解できないので言いません」と言われたり、「血脈相承を受けていないのでわからないのだ」と言われてきましたが、一心三観より勝れた法の正体をいよいよ明らかにされます。
あなたの法を求める志が素晴らしいので答えましょう。その法とは「一言の法」である。つまり「一言の法」とは妙法のことなのだと仰せになります。
血脈相承などを振りかざし、権威化していたのが当時の天台宗です。今の日顕宗とまったく同じ構造ですが、その秘伝化されてしまった仏法を大聖人は、民衆に開かれたものにしてくださいました。
結局、大聖人が伝えたかったものとは、一切衆生を救済できる妙法に他ならないのです。それを大聖人は、包み隠さず書き遺してくださっています。
その大聖人の御心を我が心として、宗教ルネサンスを断行しているのが創価学会です。

本日の御書です。

「問う名字を聞かずんば何を以て勝法有りと知ることを得んや、答う天台己証の法とは是なり、当世の学者は血脈相承を習い失う故に之を知らざるなり故に相構え相構えて秘す可く秘す可き法門なり」(P530立正観抄)


はっきりと法の正体を聞かなければ、勝れた法があると知ることはできないとの問いに対して、天台己証の法とはこのことであり、現代(鎌倉時代)の僧等は、血脈相承を失ってしまったので知らないのである。故にこれは、秘すべし秘すべしの法門であると大聖人は答えられます。
昨日に引き続き、日顕宗が引用したくなるような御文ですね。「血脈相承がなければ理解できないし、法主にだけ相承された秘密の法門があるんだ」ってね。
しかし、これもやはり切り文です。