以前、対話した法華講員は、「学会の御本尊に何が不足しているのですか?」という私の質問に対して、口を滑らせたのか「魂を入れるんだ」と言った後に、必死になって訂正し、「いや、目に見えない何かですよ。私には恐れ多くて、分からないとしか言えません」と逃げていました。法華講お得意の逃げ口上ですね。「分かりません」とか「勉強不足です」と言えば、許してもらえるとでも思っているのでしょうか?
“勉強不足”の人間がよく御本尊を誹謗できたものです。私が許しても、御本尊様が許さないでしょう。せっかくですから、魂について考察してみます。

日顕宗では、開眼供養によって果たして誰の魂を入れるのでしょうか?
日顕、日如の魂でないことだけは確かでしょう。もし、入れるとしたら、日蓮大聖人の魂ということになるかと思いますが、大聖人の魂とは何でしょうか?

御金言を確認したいと思います。
「日蓮がたましひを・すみにそめながして・かきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮が、たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(P1124経王殿御返事)

つまり、大聖人の魂とは、南無妙法蓮華経以外にありません。
ご存知のとおり、日寛上人の御形木御本尊(創価学会の御本尊)のど真ん中には「南無妙法蓮華経」と書かれていますが、それでも彼らは、魂が無いと言い切れるのでしょうか?
ここまで説明しても強硬に魂が無いというのであれば、彼らは御本尊に書かれているものをたんなる文字としか思えていないということでしょう。大聖人が「文字と思食す事なかれ」(P469)と言われているにも関わらず、彼らは文字としか見えていない。結局、日顕宗は、その程度のレベルだから、祈りがまったく叶わないと言えるでしょう。

様々、見てきましたが要するに、日顕宗では“法主の有り難さ”を強調したいがために、すべてが満たされている御本尊に対して、“開眼供養”という形だけの儀式を執り行っていると言えそうです。
その証拠に創価学会の草創期に下付されていた御形木御本尊は、法道院という末寺で作られ、法主の開眼など無いまま、各末寺に発送されていました。
後年になって、日顕は、開眼供養の義を込めて丑寅勤行を行なっているので、本山を経由しなくても問題ないのだと“後だしジャンケン”のような主張をしています。温泉豪遊や芸者遊びなどで丑寅勤行をすっぽかしてきた法主がよく言うものだと思いますが、これこそ、法主が開眼供養しなくても(代理の人間が丑寅勤行を勤めることで)、事足りているという証拠になりますし、彼らの主張する開眼供養など、所詮その程度のものだということが分かります。
対話してきた法華講員も最終的には、御書によって、学会の御本尊をニセ本尊と証明することは、不可能だと認めていました。御書で証明できないのに、御本尊を偽物だと誹謗できる神経が私には理解できません。
日顕・日如を盲信し、日寛上人の御形木御本尊(創価学会の御本尊)を偽物だと誹謗し続けている末端の信者さんたちが本当に憐れですね。