第704話


こんにちは

神仏の声を聴いて
皆様にお届けしております
菊水千鳳です


 さて、今回は読者の方からご質問が多かった
忌中、喪中の期間の参拝〉について
イザナミ(伊邪那美)さん、アメノウズメ(天宇受賣命天鈿女命)さんからの回答がありましたのでご紹介したいと思います。


イザナミさんを部屋にお呼び立てして、いきなり質問してみました。


やり取りは以下の通りです


質問1)
『神道では、極端に「死」を忌み嫌うようですが、神々にとっても やはり死は穢れとして嫌うのですか?』

回答1)
イザナミさん
【何故 人はそのように死にこだわるのか?

それは死に対する恐れから来ているのだろう
死がそんなに穢らわしいという感情は 死を忌むべきものとみなしているからではないのか?

そもそもワタシが死んだことで穢れ=(黄泉)の国に行ったものと書に記されているからであろう

ワタシの死は穢れではない
本当の穢れからは神は産まれない

死は尊いもの
この世の生を終え 
己に課した役割を全うし
都(みやこ)へ帰る旅立ちをいうのだ 

生を受けた者は必ず死ぬ 
それは運命(さだめ)であり
新たな旅立つことの意味である

死を免れたものはいない 

人は死を恐れる 
死を怖がる
忌み嫌うのは当然のことであろう
誰も死にたくはないわ
中には熾烈(しれつ)な環境の中に置かれ 死にたいと思う者もいるにせよ
それは別としてだがな

ふんどしのようなものしか履かなかった時代は
女子の生理を穢れとみなしてきたように
かつてのことがそのまま今の現実に当てはまるとは言い切れない面もあるということぞ


死への恐怖 

人は死を恐れた
なぜ死んだのか理由がわからなかった時代においては死人の出た家の者が(社に)上がり込んできたら どう思っただろう?

病(伝染病など)の穢れがついてはいないか? 死の原因が疫病だとしたら皆に蔓延してしまっては大変だ
だから様子を見るために(暫くは)遠ざけたりもしたのだ

死人が出た家族のものたちがその後 無事であることを確かめたりしたかったんじゃ
(昔は)死には色々な原因が隠されておったからな

今はほぼ全てが特定される時代だ
よって死が蔓延する恐れは無いだろう

死とは悲しみ  
別れでもある  

愛するその人への感情がつぶさに湧き出てくるであろう
憂いや悲しみが心を覆う時
心は落ち込む 
その悲しみを超えさせようと励ますのもワタシらにはしてやれることだろう

ただな 深い悲しみからは
すぐには救えんからの   
そうした場合 ワシらに頼らず お主達(=大切な方を喪(うしな)った方々ご自身)で心を切り替えよ 

お主達の心を整理してから
参拝に来た方が良いのかもしれんということじゃ
感情むき出しに参拝に来られても 周りの者はびっくりするだろうからな
そうした悲しみや動揺する心は
一種の穢れであるからな

よって(そうした)穢れがあまりに酷い時は 参拝は避けた方がいい
周りの者にも神社側にも迷惑がかかる
自らの心を清めてから来るといい

日本ではその風習(忌中、喪中)が既に定着しておる
それを守るのは自由であるぞ  構わん   
だが  ワタシらの目はそれとは異なる部分があることを承知されよ】


次回、質問2、3をご紹介します。


(島根の黄泉比良坂より↓↑)



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