※このブログはソーシャルゲーム・ステーションメモリーを絡めて展開します。不明な表現については無視してください。


Prologue



▲南伊豆のレリーフ地図


 「マスター。命令を

 ミオはいつも明確な指示を求めてくる。ヒューマノイドは配属された人と共に旅をして想い出をデータとして未来へ伝達する他、身近な駅に留まってそこを訪れる他のヒューマノイドと情報を交換する役割もある。

 なのでほかのヒューマノイドと交流する頻度が多いほど沢山の仕事をこなすことができる。

 

 駅ごとに沢山の仕事をこなしたヒューマノイドマスターが貼り出されるので、小生もそれなりにこの地道な活動を続けている。

 この仕事は要は他のマスターとの競い合いになるのでヒューマノイド達とチームを組んで戦略を考える必要がある。ミオは駅に留まってから、他のチームにそれを奪われないためのスキルに秀でているのでディフェンスの要なのである。


 「今日は伊豆へ行こう」

 「伊豆へ。それが命令?」


 高台を走る特急踊り子号の車窓に広がる波を湛えた紺碧の海の向うに伊豆大島の島影を望む。

 ミオは相変わらず無表情で言葉を発しないが、その瞳が水平線と空の溶け込むはるか彼方を懐かしそうに見つめているように思えた。

 蓮台寺ミオ、彼女は伊豆急行の車輌と蓮台寺駅をモチーフに創られたのだという。


▲蓮台寺駅とミオ


furrow.2 伊豆急行


 伊豆急行はそのほぼ全線が海を望む高台を走り、四季ごとに美しい自然景観を車窓に繰り広げるという列車に乗っているだけでも楽しく魅力的な路線である。

 沿線には、活発な火山活動が形づくった様々な自然景観や特殊な地形、数々の温泉という天恵に溢れ、これらが険しくも美しい海の景観と渾然一体になって織り成す旅はここならではの衝撃を与える。

 東京から近く手軽に訪れることができるため、多くの観光客がこの地にやってくるのもうなずけよう。


 しかし、変化に富んだ火山地帯の地形に路線を引くということはそれなりの苦労があったに違いない。またそれを維持しつづけるというのも大変な努力が求められることだろう。


 伊豆急行が開通したのは1961年と比較的新しい。火成岩の不安定な地層や温泉の噴き出すトラブル、落盤事故など、想像を絶する難工事だったらしい。

 同時に、ルートを確保するための用地が限られたスペースしかないため、沿線住民との折り合いや同時期に着工した国道との工事区間の重複など政治的な難題も多かったようである。


 全線の38%がトンネルでその数は29にも及ぶ。今や多くの住民や観光客にとってなくてはならない存在だが保線にも常に多くの資材が必要だろう。


▲伊豆急下田駅


furrow.3 伊豆急と東海バス


 伊豆急行は伊豆急下田が終点であるから、その先の南伊豆や西伊豆のエリアは公共交通機関としてはバスを利用することになる。

 そのネットワークは伊豆急グループの東海バスにより運行されているのだが、電車との接続も概ね良くて主だった観光地はほぼ網羅されている。


 また鉄道とバス共通の南伊豆フリー乗車券のような企画切符も季節に応じて発売されているので、結構便利に旅ができる。


 今回はその南伊豆フリー乗車券を利用して下田近辺の観光を楽しんだ後に、同じくフリーエリアにある西伊豆の雲見温泉を目指した。


▲弓ヶ浜海岸


 雲見温泉に直通するバスはないので、まずは伊豆急下田から蓮台寺を経由して西伊豆の山道を走り松崎町の中心にある終点の松崎バスターミナルで降りる。

 西伊豆ではここが東海バスの中心地となっていて、ここから各方面へのバスが発着している。

 乗り換えの合間に近くの海岸へ足を伸ばしてみた。交通の要衝ではあるが、穏やかな浜辺に人影はまばらで釣り人や犬を連れた姿は地元民と思われ静かで落ちついた景色に癒された。

 松崎にも温泉があって、伊東園グループの高層ホテルが近くに聳え立っていた。


 余談になるが、かつて伊豆箱根鉄道駿豆線の終点修善寺から西伊豆に鉄道を敷設する計画があったそうだが、それが実現していたらこの辺りの景色は相当変わっていただろう。


 松崎から雲見入谷ゆきのバスに乗ると、西伊豆の奇岩を車窓に眺めながら25分ほどで温泉へ到着する。


furrow.4 雲見温泉の泉質


 雲見温泉では富久三苑さんにご厄介になった。到着時刻が18時近かったのですぐに夕食をいただく。

 ここは料理が評判なので少し奮発したのだが、海の幸が沢山食卓に並んでびっくりするほど豪華であった。


▲富久三苑夕食


 東伊豆ではキンメ鯛が有名だが、西伊豆ではやや趣が変わって鮑の踊り焼きやイサキの刺身、カンパチの照焼きなどで種類も豊富である。温泉を堪能する前なのだが我慢できずにビールも頼んでしまった。


 雲見温泉の各旅館に供給される温泉はほぼすべて松崎三浦(さんぽ)地区に湧く複数の源泉と赤井浜に自噴するものの混合泉で富久三苑さんにも供給されている。


 ちなみに赤井浜には露天風呂があったので翌日訪れてみようと思っていたのだが、雨に見舞われたために断念せざるをぬこととなり、この露天風呂は残念なことに翌年閉鎖されてしまった。


 海辺の温泉なのだが、ナトリウムよりもカルシウムの方が上回るカルシウム、ナトリウム-塩化物泉で成分総量が12,000mg/ℓを超えて実に濃厚な湯である。



▲雲見温泉富久三苑の成分表


furrow.5 雲見温泉富久三苑の浴感


 濃厚な源泉が加水、循環なしで惜し気もなく掛け流される浴場は2箇所あり、共に札をつけて内側からロックすることで貸し切りにできる。

 源泉温度が50度と比較的高く、加水されていないためやや熱めの入り心地であった。それでもここのところ高温のあつ湯に続けて入る機会が多かったせいか、表示されている温度の割には長く入ることができたように思う。


▲雲見温泉富久三苑の内風呂


 成分が濃厚なのだが含食塩重曹泉なので重い感じではなく入りやすいこともあるかもしれない。


 こちらには露天風呂はないのだが、これだけ良好な湯が掛け流されているのであるからそれだけで贅沢である。しかも24時間入れるので翌朝まで繰り返し堪能させていただいた。


▲夜の宴


 堪能すると言えば海辺の温泉の夜はこれに限る。

 外は雨が降り始めていたが、湯と酒は我が懐にある。ほかには何もいらない贅沢な夜がふけてゆく。


furrow.6 伊豆七滝を歩く


 南伊豆フリー乗車券は2日間有効なので、翌日は蓮台寺でバスを降りてから河津へとひと駅移動して伊豆七滝を巡る遊歩道を歩いてみた。


 遊歩道は整備されているので、高低差はあるが歩くのは運動靴あれば至極楽であった。

 河津川に支流が合流して流れ落ちる出合滝を皮切りに6つの滝が遊歩道に次々あらわれる。


▲出合滝


 上流へ行くに従って火山性の地形が顕著になってゆく感じで、滝壷近辺や流れる岩盤に特徴的な柱状節理が見られる初景滝や蛇滝はそのあたりも見所になっている。


▲初景滝


 そして曲がりくねった流形が海老の尾を連想させる海老滝と続く


 最後にあらわれるのが釜滝。大滝に次ぐ落差22mの滝の岩盤に見事な柱状節理を備えていて荘厳のひとこと。


▲釜滝

 そしてだるだるだんだん橋を渡って猿田淵に至る。


 いやいや七滝やろ、もうひとつは


 残念ながらもっとも規模の大きな大滝は、管理している天城荘さんが臨時休業でしたので入って見ることができませんでした。



Epilogue

 下部温泉を旅してうちのヒューマノイド達の感想


ミオ



 柱状節理興味深い人もでんこも一緒、自然の創ったものはひとつひとつ違う

(そう、その個性が既に存在価値なんだろうね)



にころ



 西伊豆は景色がいいのに静でしゅねー

(そこが魅力なんだろうけどもっと賑わって欲しい気もするよね)



なより



 雨が降って残念だったなの。もう少し雲見の町を見たかったなの

(郵便局もあるしなかなかの温泉街だったのにねぇ)

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Prologue


▲秋の宮温泉のレリーフ地図


9時間乗りづめの上に10時間遅れって、想像できないくらいの長さだな。」

 秋田新幹線「こまち」の外観をモチーフに作られたという角館あけひがひときわ目を丸くして驚いている。


 それは秋田新幹線が開通する10年余りも昔の話なのだ。


 1983年の暮れ夜行急行「津軽」は雪の重みで切断された架線の復旧に手間取り、10時間遅れて横手に到着した。雪は針葉樹林を背景に尚も降り続け、一面の白に埋め尽くされた車窓からは最早列車が徐行しているのか止まっているのかわからない有り様だった。


「やっぱり速く目的地に着ける方がいいだろ。新幹線は遅れても速いぜ!」


 今回の旅ではその「こまち」に乗って横手を訪れた。盛岡から先は単線の田沢湖線を上書きする形で走るのだが、本当に速い。

 かつての「津軽」が走っていた奥羽本線経由よりも距離は長いのだが圧倒的に時間は短縮されている。もしも今どちらかを選べと言われたなら費用が高くつくのを考慮しても新幹線を選ぶだろう。だが


「そうだね


 同意してみせると、あけひは当然だろというように得意げな表情をみせた。


 35年の前のその記憶は強烈だったが、またあの頃のように時間に縛られない旅をしてみたくもある。


▲秋田新幹線「こまち」

▲車窓から望む岩手山


furrow.2 横手を歩く


 ステーションメモリーで横手の町を対象にしたイベントが開催されたので、あけひ達と訪れてチェックポイントを回った。

 横手川は桜を愛でるには遅かったが、それでも八重桜を眺めることができた。


▲横手川べりの八重桜

▲横手川べりの枝垂れ桜


 駅からその横手川を渡ると武家屋敷の残る街並が現れ、過去へ誘われた感覚になる。


▲武家屋敷の街並


 チェックポイントを次々にクリアして最後に城の聳える高台にある横手公園に向かった。まむしに注意の立て看板があるが、まだ連中が活発になる時期でもないだろう。遊歩道というよりは山道に近い未舗装の道を辿って展望台へと至る。

 ここから今来た駅の方角を望むと、春の穏やかな風が吹き抜ける横手の町が眼下に広がっていた。


▲横手公園からの眺め


 ふじわらさんで名物の横手やきそばを食べて横手の町を後にする。


furrow.3 奥羽本線と横堀駅


 横手から湯沢までは雄物川沿いの平地が開けて隣接した街並が連なっている。そこから山形との県境を控えて車窓に山裾が迫ってくるあたりに横堀駅があった。

 この駅に降りるのは初めてである。開設は1905(明治38)と古く、奥羽本線の開業と共に誕生して永らく旅客と貨物の取扱をしていたが1986(昭和61)に簡易委託となった。


 かつての夜行急行「津軽」の停車駅で7:26の発車であったが、35年前の冬に旅した時この駅には10時過ぎくらいに辿り着いた。真室川を出てから県境をこえるまでに相当時間を要した記憶がある。


 現在の駅舎は開業当時のものと異なるが、駅務室やキオスクのあった一角にカーテンが降ろされているので簡易委託時代かそれ以前に建て替えられたものではないかと思う。


▲横堀駅


furrow.4 秋の宮温泉郷の概要


 秋の宮温泉郷は横堀駅から役内川づたいに宮城県境の方向へ20km程遡った位置にある。バスは通っていないので宿泊する宿から送迎をしていただいた。


 秋の宮温泉郷と呼ばれるように、このあたりの役内川の流域の至る所から様々な泉質の湯が湧いていて、スコップで河原を掘ると独自の露天風呂を作れる「川原のゆっこ」のような施設もある。それだけ湯脈が豊富なのだろう。そのため鷹乃湯、稲住など5軒それぞれの宿ごとに自家源泉をもっている。なんでも4050もの源泉数があり各家庭にも引湯されているらしい。

 秋田県で発見された最古の温泉群でもあり、日本秘湯を守る会にも属している。


 今宵ご厄介になるのは秋ノ宮山荘さんで、役内川の上流寄りから山懐へやや入った場所に宿を構えていた。


furrow.5 秋ノ宮山荘の泉質と特長


 秋乃宮山荘は塩化物-ナトリウム泉で、毎分350リットルを誇る自家源泉をもっている。

 源泉の温度が98.0℃と高温なため加水されているが元が濃厚であるから広々とした浴室の他、豊かな緑の生い茂る屋外に露天風呂も備えていてこれらに惜し気もなく掛け流される。


 成分表を見ると、アニオンとカチオンのうちでそれぞれ特化した塩素、ナトリウムのほかではメタホウ酸、メタ珪酸の成分が規定値を上回っている。


 男女別の浴室には中央に大きなつぼ湯のような円形の浴槽があるほか、外光を採り入れた明るいガラス張りの長い内風呂には寝湯やジャグジーなどのアクティビティを備えて近代的である。

 源泉は高温であっても浴槽の湯は適温でしかしながら湯から出ても久しく汗の引かない、しっかりとした食塩泉の特長がよく感じられる。


▲秋ノ宮山荘内風呂

▲秋ノ宮山荘露天風呂


▲秋ノ宮山荘成分表


Epilogue

 横手と秋の宮温泉郷を旅してのヒューマノイド達の感想


あけひ



 横手のあの時代劇に出てくるようなお屋敷かっこよかったな。城にも入ってみたかったぜ

(時間がなくて城の中まで入れなかったんだよね。また行く機会があるだろうからその時は)


にころ



 秋の宮温泉郷の川原の露天風呂で出店でも出したら儲かりそうでしゅね。

(実は出前で色々届けてくれるシステムがあるんだとか



なより



 横堀は逓信省時代に鉄道が開通していたなの。歴史のある町だったらしいの。

(そう、明治期はライフラインがまだ未整備だったから想像を絶する苦労があったろうね

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Prologue


▲身延線のレリーフ地図


 茶色い機関車の甲高い汽笛は青く澄んだ冬の空をどこまでも切り裂いて、聳え立つ富士の頂にまで届くのではないかと思われた。

 「未来へ送るレポートで気になった箇所だけど、この茶色い機関車は今はないの?」

 みろくは未来から我が家へやってきたヒューマノイドである。ヒューマノイドは現代では理解しがたい位のとてつもない情報処理能力や無限の記憶スペックをもっている。

 そして意欲や探究心は幼年~青年のそれなので無限の可能性を秘める。

 「確か、交通博物館とかに保存されているんじゃないかな

 もう鉄道ファンではないのでその機関車EF15のことはよくわからない。

 「たくさんのファンがいれば月に一回くらい走らせれば、高い価格でも利益が出ると思うよ。保存がたいへんなのかなぁ

 みろくの知識にはまだEF15のメカニズムはないのでいろいろ調べたいようだ。そのうち、きっとそれが難しいことを知るのだろう。


 子どもの頃、EF15は身近な場所を走って居た。貨物を引いて近くの港の引き込み線までやってきては鶴見線の隣で佇む姿を良く見かけた。

 しかし時を経て、高校生になった頃にはその武骨で重々しい機関車はこの辺りへはやってこなくなった。

 「身延線に行けば見れるらしいぞ。」

 友人に誘われて初めて訪れたその曲線のだらけのローカル線で、葡萄色の車体はくっきりと冬の白い景観に浮かび上がって勇ましさを増してみえた。

 貨物駅で昼寝していた鈍重さとは別物のように力強く、スピード感も満点であった。


 しかし、その1年後にはEF15は役目を終えて引退した。もう動く姿を見ることはないだろう。


furrow.2 身延線とEF15


 富士駅を出てから右手の車窓にほぼいつも富士山のある路線のイメージで、沿線左側には富士川が流れているのだがこちらの方はあまり車窓に姿をみせてくれない。

 身延線の前身は富士身延鉄道と言う路線であり、その名の通り当初は大正9(1920)に開通した富士~身延間を運営していた。ちなみにこの富士身延鉄道は下部温泉にある下部ホテルを所有していたのだが、これについては後述する。

 富士身延鉄道が甲府までの全通を果たしたのは昭和3(1928)で、昭和16(1941)には国有化されて身延線となった。

 元々が地域に根ざした私鉄であったためか、山岳路線の割には88.4km39と多くの駅を列ねている。駅間の平均距離は2.27kmと密である。

 また、国有化前の昭和13(1938)に鉄道省に借り上げられるのだが、その際に地域色の濃い複数の集落名を重ねた駅名が軒並み削られて片方だけに改称されている。例えば井出福士→井出、下山波高島→波高島である。

 その後半世紀以上を経て下部駅が現在の下部温泉に改称されるのだが、そのタイミングが民営化から4年後というのも面白い。鉄道の存在が地域の生活路線から鉄道ネットワークの一組織へ、そして観光路線としての付加価値を高めてゆく新しい使命へと変貌してゆく歴史を端的に示している。


 EF15がこの身延線に投入されはじめたのは昭和52(1977)からで、当時は沿線の身延駅で砂利やセメント、東花輪駅でセメントや石油、南甲府ではセメント、石炭、石油、石油化学製品の取扱があった。EF15は甲府機関区に所属し、専ら身延と甲府の間を往来していたが、昭和59(1984)に身延駅の貨物取扱が廃止されたのを契機に線形のよい甲府~南花輪でスピードの出せるEF64に置き換えられて姿を消した。

 身延線の貨物営業は1997年に終了したので現在機関車は走っていない。


furrow.3 下部温泉のロケーション


▲下部温泉周辺図


 下部温泉の温泉街は駅からやや離れた下部川沿いの県道の両側に軒を列ねている。今夜お世話になるいずみ旅館さんは実は駅前にあるので本来そちらまで赴くこともないのだが、駅前にはあまり大きな商店やコンビニエンスストアがなくて、土産物ややワイナリーなどは温泉街に存在するので散策がてら歩いて訪れることにする。


▲下部駅


 特急ふじかわを降りて夕暮れの下部川を眺めながら歩くうちにとっぷりと陽が落ちてしまった。川のほとりにいくつもの幟が連なっている辺りが下部リバーサイドパークであろう。


▲下部リバーサイドパーク


 足湯なども設置されているので多くのマイカーが車を止めて立ち寄っている。ここから先は勾配が急になって道も大きく曲がって山懐へ踏み込む感じである。暦はまだ如月なので灯りから遠ざかると夕闇と共に寒さが迫ってくる。

 しかし、目指す下部の温泉街は道を曲がると程なく現れて、ここでワインなどを調達する。


▲下部温泉街


 下部温泉は836年に既に存在する史記があるので相当に起源は古い。室町時代、江戸時代と歴史的要人があまた訪れていて徳川家康などの名前も列ねられている。まぁ、錚々たるといった顔ぶれである。

 江戸時代には既に湯治場として栄えていたので、当然武田信玄の伝説も流布されている。

 鉄道が開通した翌年の昭和4(1929)には、先に述べた富士身延鉄道が下部ホテルを開業し、以降利用客は増加の一途を辿った。

 民営化後はJR東海が観光路線として力を入れ快適さを向上しスピードも図った特急「ふじかわ」などを投入したが、現在はマイカーでの訪問が多くなっているように思われる。

 訪れた年の3年後には中部縦貫自動車道が開通しますますモータリゼーションが進展している筈である。


furrow.4 下部温泉いずみ旅館の泉質


 下部温泉は古い歴史をもつだけにその源泉の数は13を数える。温泉は生き物であるから中には近年になって規定値を下回り供用しなくなったものもあるが、老舗の旅館では自家源泉を持つものもある。

 自然湧出から浅い地層の掘削より出でた古来寄りの源泉はほとんどがアルカリ性単純温泉であるが、掘削技術の発達した近年に発見された源泉ではそのほとんどが単純硫黄泉である。

 いずみ旅館で供用されている源泉は陰イオンにおける硫化水素値1.6mgチオ硫酸値1.5mgであるから泉質として名乗れる2.0mgを超えて単純硫黄泉ということになる。

 このしもべ奥の湯高温源泉は、下部温泉の中では最も新しい源泉で従来の源泉群に比べて高温になっている。


 温泉はユニットバスに掛け流されていて当然100%が源泉。少し風情にはかける気もするが、個人旅行が増えた近年のスタイルを考えるとこれは清掃も楽だし使い勝手も良い。中には欧米スタイルで浴槽を泡だらけにしたい向きもあるだろう。

 小生としては24時間入れる点でありがたい。



▲下部温泉いずみ旅館浴室


▲下部温泉いずみ旅館成分表


 湯から上がって、道中静岡の由比港で買ってきた桜海老で甲州ワインを嗜む。途中、下曽我の梅園では今が盛の梅を堪能してきたのでその画像も肴にしよう。


▲甲州ワイン

▲由比港の桜えび販売店とみろく(ヒューマノイド)



▲下曽我梅園とルナ(ヒューマノイド)


Epilogue

 下部温泉を旅してうちのヒューマノイド達の感想


ルナ



 人智を駆使して作られた機関車が100年もたずに動かなくなるのはせつないんよ。その点、自然の育んだ梅は何百年も生きてすごいんよ

(梅も品種改良で人手というか人智が集結した産物なんだけどね


みろく



 私達ヒューマノイドもいつか動かなくなるのかなぁ、その時は

(待って俺の方が先に逝くから

 これはステーションメモリー(駅メモ)という特別な世界線と現代が交わる非日常を旅する物語である。


●馬→駅→駅逓


「バスはもうこないなの?

「これからどうするんでしゅか。」


 ヒューマノイドのなよりとにころが、凍てついた落ち葉の積もる中に佇んでいるバス停の周りでうろたえている。

 そのバス停のある富士五湖の西端に位置する本栖湖の湖岸にはもう観光客の姿はなくて、暮れ泥む弱い日射しに湖面がきらめくのを渡り鳥たちだけが見守っていた。

 北風が吹き抜けると、時折猫が機嫌を損ねて毛を逆立てるようにさざめくその景色はそんな静かな佇まいにあって殊更寒々しかった。



▲河口湖周辺図


 この湖は富士五湖のうちでもっとも西端に位置しており、バスの便も相応に少ない。

 河口湖から西へ向かうバスは青木ヶ原の樹海や氷穴風穴など秘境を思わせる名所を通ってゆくが、精進湖本栖湖はその先にあって相当に足の向かない場所らしい。


 名前としても河口湖の西に西湖があるのに、精進湖、本栖湖はその更に西である。


●馬・1991年なでしこ賞


 現在、ウマ娘として絶賛活躍中のナイスネイチャが出走していたが、持ち時計からシロキタテイオーとリスクオーカンの2頭が強いのではと考えて7枠から買っていた。

 終始ジョッキーの松永昌博が立ち上がってなだめるなど折り合いに苦労したナイスネイチャは惜しくも頭差で2着に敗れたが、その後出世してその活躍は広く知れ渡るところとなった。逃げたアジトップガイが粘るも、早めに並びかけた7番人着シロキタテイオーが抜け出してナイスネイチャ、ドーバーシチーの追撃を封じた。

 ちなみにナイスネイチャはこのレースでは3番人気で、1番人着は超良血として注目されたタイヤンであった。

 タイヤンはその後遂にこのクラスの壁を破れず障害に転戦していった。

 そしてこのレースを勝ったシロキタテイオーは、この後900万クラスの壁を破れずに引退している。25戦のキャリアだった。


 7枠は2頭共に人気がなかったので連勝式の3-73,970円もつけた。


 この配当を本栖湖簡易局に預ける。


●馬・1991年阿寒湖特別


 淀の競馬場で夏競馬の場外馬券が発売されているたので買ってみて当たったレース。

 夏場の場内には至る所に氷柱が立っていた記憶がある。当時は西日本の各場では主開催のレースのみが全レース買えて副開催はメインレースのみしか買えなかった。

 よってこの日の札幌メインレースが阿寒湖特別だったのである。

 レースは、逃げるケイシュウビンゴを好位で追走したタマモベイジュ、ナショナルフラッグ、ノーザンキッドの3頭競り合いとなり、ここから抜け出したナショナルフラッグとノーザンキッドに最後方待機から追い込んだコメモラカントリーが迫ったところがゴールだった。

 結果は1番人気のナショナルフラッグが1着。2番人気のノーザンキッドが2着という人気通りの決着であった。穴党としてはこういうオッズの組み合わせは買わないのだが、当時メインレースは3場のオッズが別々のモニターで映る仕組みだったため、事前にオッズを確認するタイミングがとれずこのオッズを見てがっかりした記憶がある。

 ナショナルフラッグはディクタスの産駒だったが、大きな故障もなく32戦もレースをこなし、6歳で重賞の鳴尾記念に初出走するなど末永く活躍した。

 ノーザンキッドはクリスタルパレス産駒の芦毛馬で、やはり準オープンに昇格後も見所のあるレースをしていたが遂に勝ち切れず再び900万クラスに戻って引退している。


 この配当を精進郵便局に預ける。

 

●駅・精進?本栖?


 実は富士急行では河口湖から精進湖、本栖湖を通り古関という集落を経て下部温泉に至る鉄道を敷設する計画があった。

 それはバス路線として現存していたのだが、残念ながら訪れた頃の前年に廃止されてしまっていて末期は11往復という有り様だったからこの路線は採算が見込めなかったために実現しなかったのだろう。

 しかし、仮に開通を果たしたとしたら精進と本栖湖の沿岸にそれぞれ駅が設けられたのではないかと思う。


●駅逓・本栖簡易郵便局


 精進湖からトンネルを隔てて本栖湖があるが、両湖に近い集落双方の距離はおよそ5km程度とさほど遠くはない。本栖簡易郵便局はその国道139号線に沿って峠を下って湖に出る手前に位置する。簡易局らしいこぢんまりしたたたずまいである。

 撮影し忘れたが小さいながらも綺麗に保たれた局舎だったと記憶している。



▲本栖湖


●駅逓・精進郵便局


 精進湖は富士五湖の中でもっとも面積が小さい。その南側に四角く区画された集落があって、精進局もここに存在している。佇まいは写真の通りである。



▲精進局



▲精進湖



▲局印


 精進湖を見下ろす宇の岬の展望所にあるバス停までやってきた。4か月前まではここから下部温泉まで行くバスが通っていたのだが、今はその路線はない。

 「古関には郵便局もあるなの、一度行ってみたいなの。」

 悔しそうに、なよりはバスがやってくるであろう本栖湖の方角の先を見ている。

 ヒューマノイドは人間の何百倍もの視力をもっているが、山を見透かすような能力はない。

 「マスターは飛べないから自転車で行くしかないわね、フフ

 

 悪戯っぽい微笑を浮かべるシーナのいう通りいつか自転車でその未成線を辿る日がくるのだろうか?

 これはステーションメモリー(駅メモ)という特別な世界線と現代が交わる非日常を旅する物語である。


●馬→駅→駅逓


「ふじしゃんは人気があるでしゅねー。」

「富士山は日本を代表する世界遺産らしいなの。」


 にころは舌が短いのでサ行がうまく発音できない。ヒューマノイド達はこのように格一ではなくそれぞれに特性があって、それは長所であったり短所であったりなんのとりえにもならないことであったりするらしい。

 そして同じにころでも預け先の環境によってカスタマイズ化されて性格が異なっていくのだとか

 それでも、金への執着は容易にはかわらないようで、本日も富士山を元手にした金儲けの計画を立てている。


▲河口湖周辺図


 今回は河口湖駅が最寄りの局を2つ回った。河口湖は富士五湖のうちで最も観光化されたアクセスの容易な湖である。


●馬・199155日目8R



 牝馬限定の芝のマイル戦。


 佐藤哲三鞍上のロンテーラーが1着、藤田伸二鞍上のマミーマミーが2着。共にまだ減量騎手の時代で、藤田伸二はこの年デビューだった。同期の河北通、宝来城太郎などの名前もあって今みると懐かしい。

 レースは馬場の中央から抜け出したマミーマミーを外から併せてロンテーラーが差し切る内容で、小生が本命にしていたハギノフェローは大外を追い込んだものの終い伸びずの6着に終わった。当時鞍上の須貝尚介はもう騎手だった面影が見られないほど太ってしまったな


 この配当を西浜簡易局に預ける。


●馬・1991年宝塚記念



 いわゆる「メジロ記念」と称された、マックイーン、ライアンのメジロ2頭がそれぞれ最内と大外で単枠指定となったあの年の「今年もまた貴方の馬、私の馬が走っています

 天皇賞で圧倒的強さをみせたメジロマックイーンが単勝1.2倍の1番人気に推されていたが、京都2,200mというこのコース条件では京都記念でレコード勝ちを収めたメジロライアンの方が強いだろうと小生は考えメジロライアンの単勝で勝負した。

 イイデサターン、イイデセゾンの4歳馬2頭の先行を早めに捉えて先頭に立ったメジロライアンの外からメジロマックイーンが迫るも、そこからもうひと伸びしたメジロライアンが押し切って優勝。悲願のG1制覇を成し遂げた。常々「僕の馬がいちばん強い」といっていた横山典弘の本懐を遂げた笑顔が忘れられない。


 この配当を河口湖局に預ける。


●駅・河口湖


 現在の富士急行の前身である富士電気軌道の開業時は1929(昭和4)で大月から現・富士山駅の富士吉田まで敷設された大月線である。河口湖駅の開業はその21年後、1950(昭和25)に富士吉田から延伸、というよりは観光路線として新設された河口湖線の終点としてであった。


 山小屋風の駅舎は想像以上に広い面積をもっていて、その大半が土産物店や飲食店で占められている。甲州ワインやほうとう、富士山麓蒸留所のウイスキーなど食指を誘うラインナップが揃っていて目移りする。


 駅前も土産物屋や瀟洒な構えの喫茶店が軒を列ね、観光バスやマイカーが出入りしていて活気に満ちている。

 その駅前にかつての富士電気軌道時代の主力電車だったモ1型が静態保存されていて、これと記念撮影する観光客の姿もみられた。


▲モ1型電車


●駅逓・河口湖郵便局


 河口湖郵便局はそんな人出の多い駅前からほど近い位置にあるのだが、その歴史は意外にも古く船津郵便局と呼ばれた1891(明治24)に遡る。船津は同局の存在する集落名に由来するものだが、富士急行河口湖駅の開業の13年後に現在の河口湖郵便局に改称された。

 所在地はまったく変わっていないので、実際にその場所に立ってみるとそこが古くからの集落の中心だったのがよくわかる。交通の要衝であり街並みのほぼ中央に位置している。


▲局印


 ここから湖を手前にして富士山を望む北岸の展望台まで移動してみたが、15分程度の道のりを歩いて辿り着いたら肝心の富士山は雲間に隠れてしまった。


▲河口湖岸より


●駅逓・西浜簡易郵便局


 再び河口湖駅前まで戻り、富士急行の路線バスで湖の西側へ足を伸ばす。河口湖の南岸は平坦に近いなだらかな地形なので大きく街区が形成されていて、バスはその中を地元民や観光客を乗せて走ってゆく。富士五湖には富士急行が運行するバスのネットワークが充実しているが、精進湖や本栖湖へ向かう路線バスはすべてこの南岸を経由してゆくものである。

 景色が山がちになり、集落が途切れがちになるあたりに西浜簡易郵便局はあった。ご覧のように年季の入った木造局舎である


▲河口湖西浜


▲西浜簡易郵便局


▲局印


 この辺りまでくると観光客の姿はほとんどない。青い湖面が穏やかな表情をみせつつ、ときおり冬の冷たい風に煽られてさざめく。


 「ふじしゃんも大きいですが富士急行しゃんもおおきいでしゅねー。まだまだ西の方までバスが走っていくでしゅ。」

 にころがひとしきり感動している。


 富士急行はバスにも乗れるフリー切符を出しているので、これを活用して富士五湖の残り西湖、精進湖、本栖湖へ赴こうと思う。ヒューマノイド達と共に。