これはステーションメモリー(駅メモ)という特別な世界線と現代が交わる非日常を旅する物語である。


●馬→駅→駅逓


「ドーレミファソラシドー♪」

 みそらの発生練習が始まった。また新しい曲のインスピレーションが湧いてきたのだろう。


「ドーレミファソラシドー♪」

 最初のドの音を伸ばす独特なその音色は、思えば幼少の頃から親しんだこの地に再び越してきた時に揺られた電車が奏でていた。京急の一部の電車特有のインバーター音であるそうな。

 みそらはその電車をモチーフとして生まれたヒューマノイドなのである。


「新しい曲のイメージができてきました。電車を見に行きましょう。」

「そうか。じゃあ、今日は汐入まで出かけてゆこうか。」

 モチーフとなった電車はもう走っていない。しかし、汐入みそらのベースとなった汐入駅は今もそこにある。そして汐入駅は街角ピアノの置かれるヴェルニー公園の最寄り駅だ。


▲汐入駅周辺図


●馬・不良馬場のロイヤルスキーとモンテプリンス(19914回中2日第5レース)



 土砂降りの中山で芝2,000mの未勝利戦は、津留千彰騎手鞍上のフジノゴーカイが逃げる田村正光騎手鞍上のゼウスモリーを交わし、更に外から田中勝春騎手を背にしたタヤスジャッジが2番手に並んだところでゴールを迎えた。このハナ差の写真判定はもしかしたら同着になるのでは、とも思われるほど長引いた大接戦だったがわずかにゼウスモリーが粘り切って2着を確保した。


 田村正光騎手は1969年にデビューし通算で780勝をマーク。JRA初の女性騎手で増沢由貴子騎手と共にデビューした田村真来騎手の父親としても話題となった。ウインングスマイルでスプリンターズステークスを制しているが以降はあまり騎乗機会に恵まれず1999年に惜しまれながら引退した。


 勝ち上がったフジノゴーカイはロイヤルスキーという馬の産駒であるが、この種牡馬は掛り癖の遺伝があることで知られていた。先に競馬を始めていた小生の弟によると重馬場は掛り癖のある馬に向いているのだそうな。負担が大きくスタミナが求められそうな気がするのでむしろ最後バテそうに思うのだが、実際には前につけてそのまま押し切る形になることが多いのだという。このレースもその形だった。


 2着のゼウスモリーはモンテプリンスの産駒である。モンテプリンスは小生がまだ中学生の頃に中央競馬を沸せていた非運の名馬であった。

 当時はまだG1というグレードの括りがない時代で、オープンレースのうちでクラシックレースと呼ばれる歴史の古い競走を制することが名誉とされていたのだが、そのうちで皐月賞、ダービー、菊花賞の4歳クラシックが三冠レースとしてとりわけ注目を集めていた。

 中山の葉牡丹賞を勝ち上がったモンテプリンスだったが、弥生賞、スプリングステークス、皐月賞はいずれも重馬場、不良馬場で4,3,4着と不調に終わる。その後トライアルのNHK杯を快勝し1番人気で臨んだダービーはオペックホースにわずかに頭差及ばず2着に敗れた。

 秋になって中山のセントライト記念を制して挑んだ三冠最後の菊花賞でも1番人気に推されたのだが、またも伏兵のノーガストに敗れて2着。

 年が明けた春の天皇賞でも2着と、あと一歩のところで栄光に手が届かなかった名馬はいつしか無冠のプリンスと呼ばれるようになった。しかしその翌年の春の天皇賞では、それまで苦杯を舐めさせられていたオペックホースやアンバーシャダイらを見事に退けて悲願のクラシック制覇を果たした。

 その子供であるゼウスモリーのこの日の惜敗は「ああ弥生賞、スプリングステークス、皐月賞のいずれかが良馬場で行われたならば違った世界があったのかもなぁ」と思い出されるそんな馬場コンディションでもあった。


 この次のレースで未勝利を脱出したゼウスモリーは、しかしながら500万クラスでは良いところがなくわずか8戦で引退した。


 この配当を横須賀汐入局へ預ける。


●雨中のサバイバル(19914回中2日第6レース)



 中山のこの時期は未勝利馬にとっては修羅場である。勝ち上がることができなければ主開催の競馬場ではもう走れるレースがなくなって秋から暮にかけての福島開催が残されるのみとなるからだ。

 先に挙げた未勝利戦に続いてこのレースもまた雨の不良馬場で行われた。

 ユーミレオナ、キタノフウカの5枠の牝馬2頭が果敢に逃げるも、3番手の好位置で回ったヴィクトリアモアが余裕で差し切って未勝利を脱出。13頭立ての厳しいサバイバルマッチを制した。一方で単勝1.8倍に推された岡部騎手鞍上のヤングジョージはまさかの3着に敗れた。


 ヴィクトリアモアはディカードレムの産駒なのだが、その母のダリアという馬が欧米の競馬を席巻した名牝で、ディカードレムとリヴリアの兄弟は日本でも多くの活躍馬を輩出した。

 前者でいえばダートで高齢まで好走を続けたミスタートウジンや北九州短距離ステークス覇者で阪急杯2着のナリタフジヒメが有名だろう。


 ヴィクトリアモアは未勝利を勝ち上がったものの500万では目立った成績を残せず14戦で引退。キタノフウカは未勝利を勝てないまま格上の500万クラスに挑み続けたが通用せず18戦で引退している。

 悲愴感が一層増す気がする雨中の未勝利戦だった。


 この配当を横須賀不入斗郵便局へ預ける。

 

●駅・汐入


▲かつての汐入駅硬券入場券


 1930(昭和5)に湘南電気鉄道の駅として開業した当初は横須賀軍港という名称だった。戦後、横須賀汐留駅と改称された後に、横須賀市の町域改変に伴って駅のある汐入に再び改称されのが1961(昭和36)のことである。汐留と汐入では逆の意味のような気がするが、誰も異議は唱えなかったようである。

 非常に険しい山がちの地形の連続する間に駅はあり、軍港としては格好の要所も交通においては難所であるのが伺える。

 狭い平地から山を詰めるように市街地が発展した歴史が垣間見えるように、海沿いに古くからの商店街や飲食街が軒を列ね、高い場所は住宅がひしめいている。




▲ドブ板通り


 駅を出て東側へ進むと海沿いを走る国道から一本入った通りに、スカジャンと呼ばれる厚手のジャンパーや昔から米兵の出入りしてきた洋風の飲食店の連なる通りがある。

 これがドブ板通りで、その名の通りドブに渡した鉄板が由来でこれは米軍の資材提供に感謝を示した命名であるらしい。現在は暗渠になっているのだろうか、歩いてみてもその面影はない。


 どの店も面白そうで誘惑を覚えるが、ひとしきり通りを歩いて終わりに近い場所にあるどぶ板食堂Perryさんでクォーターサイズの横須賀バーガーの乗った海軍カレープレートを注文してみる。

 クォーターって確か1/4って意味ですよね?と尋ねたくなるくらいハーフサイズにしても大きなハンバーガーとよく煮込まれた牛肉の味わい豊かな海軍式カレーが運ばれてきたのでカールスバーグの生ビールと共に貪り食う。美味しさとってもアメリカンである。


▲海軍カレーとみそら(ヒューマノイド)


●駅逓・横須賀汐入郵便局


 どぶ板通りとは反対方向の横須賀駅寄りに郵便局がある。パッと見、レンタカーの営業所のようなコンパクトな局舎である。駅の西側をアンダーパスする県道から少し細い道を入った場所にあり、この道を登ってゆくと不入斗へ至る。

 以前はその途中にもうひとつ汐入南郵便局が存在したが、20119月に汐入局に統合された。距離が近すぎたのだろう。

 

 繁華街の一角にあるものの局の裏手は既に山が迫っており、京急本線のトンネルが口を開けている。立地する地勢は険しい。


 この局の歴史は古く、1913(大正2)に横須賀軍港南門局として営業を開始。汐入(横須賀軍港)駅よりも17年も先輩なのである。鉄道開通前から久しく街を見守り続けてきた同局が現在の名称になったのが1940(昭和15)であった。


▲横須賀汐入局とみそら(ヒューマノイド)


●駅逓・横須賀不入斗郵便局


 不入斗は各地に見られる地名でそれぞれ読み方がことなるが、ここの場合はいりやまずと読む。

 意味としては、かつて寺社領で租税を免ぜられた「斗」を入れずからきている説が有力とされている。


 汐入の駅から続く坂をひとしきり登り詰めたあたりに開けた住宅地なのだが、元々不入斗村として古くから人が住んでいたらしい。

 郵便局は県道から左に折れて横須賀中央の駅方向へ500m程進んだところにあった。


▲横須賀不入斗局


 横須賀市不入斗というと、1975(昭和50)に当時の中核派が引き起こした緑荘誤爆事件がまず思い起こされる。アパートの1階で爆発がおこり同室の男女3人と階上に住んでいた母娘の5人が死亡という大惨事はまさにこのあたりで発生した。何の関係もない一般人を巻き添えにした事件は左派活動家のエゴイズムが引き起こしたもので、今思えば昭和の闇を象徴する出来事だった。


▲局印


●港・ヴェルニー公園


 汐入の駅へ戻ってから横須賀の本港を一望するヴェルニー公園まで足を伸ばした。

 数々の戦艦がこの地で創られ太平洋戦争へと旅立っていった。そしてそのほとんどが海へその身を横たえ二度と祖国へ帰ることはなかった。


▲ヴェルニー公園の眺望


 公園の敷地にはそんな英霊達を弔う記念碑が建立されており、訪れる人があとを断たない。

 小生もここを訪れて頭を垂れる。


▲戦艦山城、戦艦長門の記念碑


「ドーレミファソラシドー。」

 気付けば、公園の一角からみそらの澄んだ音色が聴こえてきた。その傍には白い一台のピアノが置かれている。

 ピアノには鍵が掛けられ、無闇に触られないようになっている。

 しかし、みそらの声に呼応するように高いピアノの音が聴こえてくる。それは夢なのかはたまた幻なのか。悲しいようなせつないような、しかしそれでいて美しくまっすぐな強さを帯びている。


▲みそらと街角ピアノ


 昭和から平成、そして令和へ。

 失われたものは多くあるが、我々の営みは未来へと続いてゆく。

 みそらはいつまでも歌い続けた。