※このブログはソーシャルゲーム・ステーションメモリーを絡めて展開します。不明な表現については無視してください。



prologue





「今日はほかのでんこさんは行かないなの。」

「ミユしゃんは写真撮りまくるって張り切っていたのに残念でしゅ。」



 今回は陸羽東線の鳴子温泉駅前の鳴子ホテルへ湯治に出かけるのである。



 本来は鳴子峡や鬼首の間欠泉などへ足を伸ばす予定だったのだが、1月に発生した新型コロナウイルスが全世界を侵略する勢いで大流行していて、感染により多くの死者を出している状況下なので人の集まる場所へ出かけてゆくのは憚られる。


 なので温泉でゆっくり過ごしてのんびりと鉄道旅行をして帰ろうと思う。



 連れてゆくでんこも少数である。

 今回の鳴子ホテルさんは、駅メモ(ソーシャルゲーム)でミユ推しの方にお世話いただいたので道中はミユをメンバーの中心にして布陣を組む。



furrow.1 鳴子温泉の歴史とロケーション


▲鳴子温泉の周辺図


 駅を降りると一斉に各旅館から排される湯が硫黄の匂いを立ちのぼらせて湯情を掻き立てる。

 この鳴子温泉の歴史は古い。


 837年(承和4年)に書物への記載があるので、すでにこの頃から開湯していたと思われている。

 温泉神社も既にこの時期に存在していて、これは由緒ある守り神であるのがわかる。


 温泉神社は鳴子ホテルの目と鼻の先にあるのでまずはここにご挨拶してからホテルに赴く。

 837年の荒雄岳噴火によりもたらされたのが鳴子温泉で、災害を鎮め大地の恵みに感謝する目的で建立したのが温泉神社であった。


 風格のある本殿に参拝して一夜の恵みに感謝する。




▲鳴子温泉神社


 鳴子温泉街を一望する高台に鳴子温泉神社と鳴子ホテルがあるが、湯守のそばに建てられているのは宿もそれだけの歴史があるということだろう。


 開湯は1873年に遡り、間もなく150年の歴史を刻もうとしている。



 鳴子ホテルでお部屋を世話してくださった電友さんにお会いする。

 ソーシャルゲームでソーシャルディスタンスが求められる時勢になったので、広いテーブルを挟んで互いに挨拶を交わす。



furrow.2 鳴子温泉の泉質と特徴



 温泉は三つの源泉を有していて、その混合泉をメインである大浴場の芭蕉の湯のほか玉の湯、露天風呂、丸い桶形の高野槙の半露天風呂に供している。


 現在ではこのほかに貸切の浴槽が設けられている。これはコロナ禍の影響かもしれない。


▲鳴子温泉芭蕉の湯成分表


 成分表でみてわかるように成分総量が規定値をはるかに超えていて、アニオンの項目でみると塩化物、硫酸塩、炭酸塩が拮抗して規定比率を満たしている。

 そして特筆したいのが硫黄泉の泉名を決定する硫化水素の項目である。



 硫黄泉は「硫化水素×0.970+チオ硫酸イオン×0.572+遊離硫化水素×0.941」という実に複雑な方程式で算出されるので、凡庸な小生は覚え切れずにして毎回この公式を確認している。

 結果が2mgを上回ると硫黄泉として名乗れるのだが、鳴子ホテルさんの自家源泉は78.6164mgというとてつもない数値をたたき出していて全国でも屈指の領域である。



 成分表にはイオンの構成比が記されていなかったので詳しいことは解らないが、こちらの源泉は含硫黄・ナトリウム-塩化物・硫酸塩泉となっているので炭酸水素塩の比率はわずかにアニオン総量の20%を下回っているのだろう。


 しかしながらこれだけの析出が見られるのはそれだけの効能が期待できるということでもあり、鳴子温泉が奥州三名湯に数えられているのは納得できる。



furrow.3 鳴子温泉の入浴施設



 そしてこれだけ凄い湯が惜し気もなく24時間掛け流されている浴槽はどれも規模が大きい。


 とりわけ人気の高い芭蕉の湯は内風呂なのに200人くらい入れそうな長大の形状をしている。



 湯はきちんと温度管理がされているので42度の適温である。長湯をするには少し熱いが、ちゃんと露天風呂も併設しているので双方を行き来しながらじっくりと夕食までの時間を過ごす。



▲芭蕉の湯(宿公式HPより)


 夕食後には岩風呂、高野槙露天風呂に赴き夜景を楽しみながら硫黄の匂いと渓流に集まった新緑の香りを満喫した。


▲芭蕉の湯露天風呂(宿公式HPより)


 多くの観光客が宿泊しているのに各浴場でゆったりと過ごせるのは、浴そうが多くそれぞれの面積が広いからであろう。そして24時間入れるので時間に追われることもない。



furrow.4 鳴子温泉の食事



 夕食はバイキングであった。

 コロナ禍真只中なので各食材を提供するバーにはマスク着用が求められ、各自で赴いて盛り付ける際にはビニールの手袋の着用が義務付けられている。


 こうして書いていると堅苦しいように思われるが、元々それは当たり前のことなので各施設でこれは継続していただきたい。


 この時期なので鮎の塩焼きが用意されていてまずはこれにかぶりつく。

 湯上がりに鮎の塩焼きとくればビールは欠かせない。


 そして海の幸も甘エビやイカ、スズキなど三陸の海の幸の旬の小鉢や寿司などが取り放題であった。


 焼き魚や鍋物、肉など気をつけないと食べ過ぎてしまうくらい誘惑が多いのだが酒も進めているので忙しいことこの上ない。




▲鳴子ホテルのバイキング(宿公式HPより)

▲湯上がりに地ビールも楽しむ


furrow.5 リゾートみのりに乗って



 翌日は本来は鳴子渓谷の遊歩道を歩いて鬼首方面を歩く予定だったのだが、もうこんな時勢で構えて訪れなければならないので街歩きも自粛しなければならぬ。


 なのでリゾートみのりという全席指定のボックス席に揺られるまま、受け身で流れる車窓のみを腰を落ち着けて楽しむ。出入りの激しい普通列車よりも感染のリスクは少ないので、その分余計に陸羽東線を新庄まで出かけてゆく。



 鳴子駅は1915年(大正4年)にそれまで部分開通していた陸羽線の延伸により終着駅として開業した。陸羽線はその後すぐに山形側で運行していた新庄線の羽前向町と結ばれて陸羽東線となった。


 陸羽東線は1983年(昭和58年)にCTC化により運転要員がいらなくなったことから多くの駅が無人化されて古い駅舎も建て替えられるなど、沿線の景色はこの年から徐々に変化してゆく。



 小生はこの時期に小牛田~新庄まで乗車して以来この路線を訪れていなかった。


 なので久しぶりに見る車窓に随分と年月の流れを感じた。



 ほとんどの駅の名称も変わっていて東鳴子が鳴子御殿湯に、西岩出山が上野目、上岩出山が西大崎、羽前向町が最上に改称、そして鳴子、川渡、中山平、瀬見の後ろにはそれぞれ温泉の文字が付された。




▲陸羽東線全駅の硬券入場券


 この路線は湯情豊かな温泉の煙がたなびく観光路線へと移ってゆくのであろう。


 リゾートみのりはその理想のようなリゾート列車であったのだが、残念ながらこの年を最後に引退した。


 次に陸羽東線を訪れる日にはどんな景色が待ち受けているのだろうか。


▲リゾートみのり乗車記念票


Epilogue



 鳴子温泉と陸羽東線を旅してうちのヒューマノイド達の感想





 日本三景のひとつとして有名な松島は、宮島や天橋立とは違って象徴的な景観が決まっていない。


 松島湾内に浮かぶ無数の島々のいずれにもアカマツとクロマツが自生して覆いつくして独特の景観を形成しているが、広範囲に及ぶ景勝地はいずれも甲乙つけがたい優美さである。

 小生は仙台に下宿していた時期があるので松島にはよく訪れたが、大概は釣りを楽しむためであった。



 高校の釣り好きの仲間と出かけては、ゴカイをつまんで針に引っ掛け「えいやっ」と沖に向かって竿を降り降ろしていた。
 海面下の湾内は複雑に入り組んでいて魚達の楽園である。アイナメ、セイゴ、ハゼ、カレイなどがよく釣れたが、大物は未熟な我々の手にはなかなか落ちてくれない。

 しかし夜釣りでは沢山のアナゴを釣り上げた。もっともこれも小さいサイズばかりで、二の腕ほどもある松島のヌシにはお目にかかれなかった。


 幾星霜を経た今日こそはそのヌシに会いに来た。


 かつて何度も足を運んだ仙石線の松島海岸駅におりるとすぐに焦げた醤油をまとったスルメイカから発せられる強烈な誘惑に心動かされる。いやいや、今日の目的は君ではないのだ。

 5月といえばアナゴの旬である。手には竿から持ち替えた箸が握りしめられている。

↑穴子丼


 朱塗りの碗に並べられたヌシとの対面は一瞬であった。いざ箸で身をほぐし、甘い香りとともにほんわかと立ち篭める湯気を残して次々に我が胃の腑へ呑み込まれてゆく。

 煮穴子もうまいが、やはり捕れたてを炭火で焼いた焼き穴子は味が一段と濃い。


 腹を満たしたのちは遊覧船で島々を巡るかあるいは歩いて島の一つへ赴くか迷ったが、船には乗ったことがあるので、朱塗りの福浦橋を渡って福浦島へ渡ることにした。


 福浦島は五大堂や瑞巌寺といった歴史建造物の近くにあって、松島海岸よりも東北本線の松島駅の方が近い。


 歓迎するかのように両側を赤い欄干が渡されていて、行く手には赤松の生い茂る砂岩質の松島が待ち受ける。

 島内には遊歩道が張り巡らされているのだが、アスファルトではなくてウッドチップを敷き詰めたような亜舗装路である。自生するマツの根に配慮した対応かもしれない。

 まずはその隘路を見晴台のある東の突端へ向かう。歩きながら海を望んでいると陸地からは島影になっていた大小様々の島々が次々と現れる。

↑見晴台からの眺め


 見晴台からの展望はもっと開けていて、少し高台になっていることもあり湾内の遠くの離島群まで一望できる。
 目の前にあるのがは引通島というらしいがこれにも幾つかの島が寄り添っていて、いったいこの視界にいくつの島が存在しているのか数えても正確な数は把握できそうにない。

 見晴台から今度は島の北端にある天神埼を目指す。もちろんマツが主体なのだが、島内を見て回るとこの喬木に隠れてヤブツバキやユズリハなどの姿もみられる。新緑の季節なのでこれらが生い茂る合間から沖の島々が見えかくれしている。



↑天神埼からの景観

 島内を一周した後、松島駅から帰路に着いた。


 観光地から歩くと緩やかな上り坂でやや時間がかかるせいか、松島駅は松島海岸に比べると人影は疎らであった。
 穏やかな海からの潮風に乗って緑の育つ息吹が届く。その香りは少し学生時代の記憶を紐解いて懐かしい気持にさせるのであった。

↑松島駅

 もうはるか昔の…記憶も朧げな幼少時代に、父親に連れられて鳴子温泉を訪れたことがある。


 おそらくは、初めて浸かった温泉がここなのだろうと思うが、もしかしたらそれ以前にもどこかの出湯のお世話になっていたかもしれない。

 そんな時期であるから、湯の有り難みなんぞ解る訳もなくただただ昆虫や蛙が沢山いることに感動したことが脳裏を支配している。トンボが無数に飛んでいたから秋であったのは間違いない。



 東北本線の小牛田から陸羽東線に乗って訪れたので、当時まだ陸前古川と称していた駅を通ったはずなのだが、鉄道にもまだ興味がなかったのでまったく憶えていない。現在の鳴子温泉もこの頃は鳴子駅であったが駅に関心もなかったのでこれも記憶にない。


 陸羽東線は旧国名で言うところの陸前と羽前の地を結ぶ路線なのでこの名がついているが、当時は沿線に陸前古川、羽前赤倉、羽前向町などこの旧国名を冠する駅が幾つかあった。











 ところが1980年(昭和55年)に陸前古川が古川駅に改称されると、民営化後の1999年に羽前赤倉が赤倉温泉駅に、羽前向町が町名の最上にそれぞれ駅名を変更したので、現在旧国名を頂いているのは開業当時から無人駅だった陸前谷地だけになってしまった。



 陸羽東線は昭和58年の春という比較的早い時期にCTC化が行われたので、硬券入場券を集めはじめた時期には無人化や券売機導入などによって既にほとんどの駅でこれらを発売しなくなっていた。

 CTC化とは自動閉塞式と呼ばれるもので、機械化によって遠隔操作で線路のポイント、信号を切り替える仕組みである。この導入によって運転要員を削減してコストダウンを図ることができるので、赤字問題が浮上しはじめた国鉄時代末期には各地で導入された。

 これに伴って出札業務は、小さい駅では無人化による廃止、大きな駅でも自動券売機導入による対面販売の取り止めがなされて大幅に圧縮。ささやかにコツコツと切符集めにいそしむ輩にとっては大きなダメージとなった。

 硬券入場券集めにおける魅力がなくなってしまった陸羽東線へ乗りに行く優先順位が下がったので、かつて小牛田~新庄間を一度乗車したことがあるだけだった。

↑鳴子温泉駅(旧鳴子駅)


 長い年月が流れたが2020年になって、温泉を訪れるために再びこの地に戻ってきた。

 しかしこの年は新型コロナウイルスが大流行したので大っぴらに旅行することが憚られる雰囲気が蔓延していた。温泉は健康を増進し、ウイルスへの抵抗力を高める効果があるはずなので何も後ろめたいことはないのだが、世間や社会が謹慎を潔しとしているので小生ひとりが頑張ってもだめなのである。

↑鳴子神社


 なので撮影も自然と自粛する運びとなり、あまり記録も残していない。

 しかしご厄介になった鳴子ホテルさんの長大浴槽や風情の豊かな露天風呂は、そんな世の風潮を忘れて気兼ねなくゆっくりと堪能できるスケールの大きさがあってさすがは老舗旅館である。

 夕食のバイキングも貴重な食材が惜し気もなく大皿を満たしていて、当地ならではグルメを満喫する。
 当然ビールも際限なく呑む。







↑鳴子ホテル(ホームページより)


 温泉に浸り酒に浸ってこそウイルスへの武装が備わるというものである。

 温泉駅が並ぶ陸羽東線こそ最強の布陣で観光客の免疫を高めている。



 八戸に初めて降りたのは雪の舞う冬の夕刻であった。


 もう日没が迫っていたが、寝不足を圧してかなりの強行軍で第一次廃止路線の久慈線を乗りに行った記憶がある。八戸線の区間の半分くらいは寝てしまって憶えていないが、どうせ車窓はすぐに夕闇に支配されていただろうからいずれにせよ大した感動は得られていなかっただろう。



 久慈線は昭和40年代後半に久慈から普代までの区間が開通したため海の近くを通る築堤と高架から成る線形のよい路線であったが、単機のディーゼルカーが久慈を発車した時にはすっかり夜になっており、野田玉川に停車した折にうっすらと波の音が聞こえてきたくらいの想い出しかない。



 折り返しまで10分程度のわずかな停車時間に高架の階段を駆け降りて、国鉄バス普代駅前のバスターミナルの窓口まで走り記念の乗車券を買い求めたこと、侍浜の駅で交換待ちがあったので向かい側のホームにある駅舎まで硬券入場券を買いに行ったが、既に駅員が引き上げていたことは憶えている。



 そして深夜に再び八戸へ戻ると、夜行の上り八甲田に乗って仙台に帰り着いた。



 それから長い年月が流れ、八戸駅には東北新幹線の駅が完成して在来線は「青い森鉄道」という第三セクターの私鉄に変わっていた。


 粉雪が絶えず吹き込んで身を屈めて寒さに耐えながら夜行列車を待っていたあの時のホームには今、茹だるような夏の陽炎が立ちのぼっている。


 当時よりもまだ3時間程早いが、久慈までの長い道のりではなくふた駅先の本八戸で本日の旅はお終いである。

 40年前の自分が見たら卒倒しそうであるが、現在の小生が40年前のような旅をしたら本当に卒倒して昇天してしまうであろう。




 本八戸は高架駅で、列車の到着と共に大勢の人達が階段を降りてゾロゾロと改札口へ向かってゆく。

 もう今は入場券など買い求めることもないので、そのあとについて小生もとぼとぼと階段を降りてゆく。


 八戸市の市街地は新幹線のある八戸駅前よりもこちらの本八戸駅前に発達している。



 それでも繁華街までは数百メートル程歩かねばならぬ。駅を出た人の列に従ってゆけばいずれ繁華街に辿り着くであろうから、親鳥にかしづくひよこのように愚直にその後を追ってゆくと10分程でバスの行き交う商店街へ辿り着いた。


↑みろく横丁とみろく(ヒューマノイド)


 八戸の夜は「みろく横丁」に繰り出すのが良いそうなので、温泉ビジネスホテルに荷物を置いて陽が落ちるのを待ってから、良い具合に夕焼けに染まった猥雑な呑み屋街へ出かけていった。


 クールビューティーなお姉さんが切り盛りする「お台場ねね」さんののれんをくぐって半露天の席に落ち着くと、刺身盛りやどんこ(椎茸)焼きなど旬でかつ地のものを手当りしだいに注文する。







 蛸の白子やホヤなどオススメの品々が並んでどれも旨いので、ビールからハイボールに切り替えてひとり呑みは深酒となる。


 八戸の夏といえば「イカ刺し」は外せない。注文するとわざわざ鮮度抜群のよその店から取り寄せてくれた。



 テーブルはお世辞にも広いとはいえぬが、旨いものは幅広く扱っている。



 一人旅を辞してひとり呑みに耽るが、普代の駅を駆け降りていったあの健脚は今や酩酊の果ての千鳥足に変わり果てていた。


 山登りを趣味とする人であれば楽勝かもしれぬが、小生のようなにわかハイカーにとって峠といえば難所である。自転車にも乗るのだが、その場合はさらに険しく感じる。

 なので峠に臨む場所で腹ごしらえをするというのはよくわかる。
 大昔は人力、他力で峠を越えるしかなかったのだから、息を整えるための茶屋や力を貯えるための飯屋はなくてはならない存在だったろう。
 今日でも峠を控えた場所にはよく茶屋が残っている。

 子供の時分、あずさ号に乗って戦時中祖父の疎開先だった甲府へよく連れていってもらったのだが、笹子トンネルにさしかかると車内販売が売りに来る笹子団子を必ず買ってくれた。

 なんでトンネルに入る前に団子を頬張るのか意味が解らなかった。
 蒸気機関車が喘ぎながら峠を駆け上がっていた頃にはきっと笹子で給水が行われて長時間停車し、旅人もこの暇に補給に勤しんだのであろう。




 現在は山形新幹線との併用区間となった福島~米沢の区間にも板谷峠という険しい難所があった。

 かつて、間に存在する7駅のうち福島、山形の県境にあたる赤岩、板谷、峠、大沢の4駅は急勾配のためにそのままの線路の途中に駅を設けることができなかった。
 そのため水平に近い緩やかな土地を造ってそこに支線を引き入れて駅を設けたのである。
 駅に入るには一旦本線から外れてその引き込み線の突き当たりの駅に入線する仕組みになっ
ていてこれをスイッチバックと称するのだが、ここは連続する4駅がすべてスイッチバック駅という極めて珍しい名所だった。

 高校生の頃は程近い仙台に住んでいたこともあって、しばしば用もないのに出かけてはスイッチバックを体感して満足していた。

 まだ長編成の旧型客車が電気機関車に引かれていた時代で、機関車が汽笛を発して「えいやっ」と動き出すと、留まった状態の客車が前から順に連結器に引っ張られて慣性の法則による衝撃で乗客を前へ倒そうとする。

 夜に最後尾の車輌に乗っていたりすると静寂の中に連結器の輪唱が響き渡って「何ごとか」となる。

 その当時はスイッチバックの準備のためにこれらの駅では一定時間の長い停車があるので、峠駅では「峠の力餅」というものが売られていて、乗客はこれを買い求めていた。
 人間は身を預けて車窓を眺めているだけなので力を込める必要はないのだが、昔を偲んで機関車に感情移入するのである。










 山形新幹線ができてから、スイッチバックだった4駅は忘れ去られたように新幹線の車窓を過るだけの存在になった。
 しかしこの線路には狭軌の在来線が残されて普通列車も行き交っている。
 今はワンマンの電車で、軽やかに峠を越えてゆくのでそれほど準備時間は必要としないが、峠駅に停車するとかつてのように力餅は売られていた。

↑峠の力餅

 今日はこの駅で降りて、予約を入れた滑川温泉に赴くので餅は県境を越える明日に「もち」越すことにする。

 峠駅は無人化されて駅舎は撤去されていた。スイッチバックのあった敷地も馴らして大きなスノーシェルターが新しくなった構内全体を覆っていた。そこへ滑川温泉の送迎バスが乗り入れてきた。

 一件宿の滑川温泉福島屋さんは峠駅から更に急峻な未舗装路を山の中へ分け入った天空にあった。広々とした大浴場や岩風呂、離れにある露天風呂には24時間入れてさながら桃源郷である。



↑滑川温泉

 食事もイワナの塩焼きや鯉のあらいといった贅を尽くした山の恵みで膳を賑わしている。

↑滑川温泉福島屋の夕食

 現代は昔よりも楽に峠を越えるようになったが、それ以上に険しい日常が明日も控えている。


 なので力餅だけではなく沢山のごちそうと酒が必要なのである。