これはステーションメモリー(駅メモ)という特別な世界線と現代が交わる非日常を旅する物語である。
●馬→駅→駅逓
「ぼうくうごう?」
「きくらげ…よぉ。」
「ほこね、それは読める…」
新百合ヶ丘駅と箱根ロマンスカーをモチーフに誕生したヒューマノイドの姉妹。ほこねとうららはいつも一緒に行動する。いや、妹うららの行くところ常に世話焼きの姉がくっついて回るのである。
今日は姉妹ゆかりの新百合ヶ丘郵便局へ貯金するついでに、局で委託販売している「防空壕きくらげ」を買ったのだが、防空壕というものに知識のない姉があたふたしながら妹にちぐはぐな説明をしている。
そこで助け舟を出したつもりなのだが…
「防空壕は、戦争の時に敵の攻撃から逃れるための人工のほらあなだよ。」
「戦争?怖い…」
「うららちゃんが怖がってるじゃないの!」
●馬・1991年クイーンステークス
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牝馬もまた例外ではなくライデンリーダーやロジータ、オグリキャップの妹のオグリホワイトやオグリローマンなどが活躍して中央競馬を震撼させたものである。
このレースでもダイカツジョンヌとアポロピンクの2頭が地方から参戦していて、共にどっしりとした馬体と堂々たる落ち着いた歩様でなかなかに人気を集めていた。
ただし1番人気は、良血で話題となり前走900万条件で勝利を収めて上り調子のメジロティファニーである。
この頃は関西馬が圧倒的優位の力関係で、関東の競馬場に遠征した馬達がどんどん勝ち上がってゆく程特異な構図が出来上がっていたので、関東の競馬ファンは忸怩たる思いがあったようである。
ここにはそんな桜花賞で大波乱をもたらしたヤマノカサブランカが殴り込みをかけてきたが、休養明け緒戦でいまひとつ状態がよくない。
なので、ここぞとばかりメジロティファニーに勝ってもらって溜飲を下げようとの思惑があるのかもしれない。みるとヤマノカサブランカは4番人気である。
私も今回はデキひといきだろうと思っていたしトライアル戦なので激しく消耗するようなレースにはなるまい、と考えたので、先行馬の揃った2枠を中心に決め手の鋭いキリスパート、イナズマクロスらへ流した。
レースは、後方から内埒のわずかな隙を突き一瞬の切れ味を発揮して先頭に躍り出たイナズマクロスが快勝。横山典弘は今でこそ単騎先行、追い込みでポツンなどと呼ばれているが、この頃は内埒すり抜け芸人だったのである。2着に先行したマーキーソロンが粘り込み、キリスパートが3着に追い込んだ。
この配当を新百合ヶ丘局へ預ける。
●馬・1991年函館日刊スポーツ杯
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1991年のオークスは購入価格わずか500万円の抽籤馬イソノルーブルが制した年である。この年の抽籤馬は大当たりで、ミナミノアカリがアルゼンチン共和国杯を勝ったほか、世代こそひとつ異なるがユーセイフェアリーが牝馬重賞戦線で大活躍をみせた。
他にもポールシッター、ジャストフォーユウ、リネンキャッスルといった各馬が良血達に混じって一般レースを勝ち上がるなど全体的にコンスタントに勝ち鞍をあげている。
このレースに出走しているススメシンエイもまた前走500万クラスで11番人気と軽視されつつも鮮やかに勝ち抜けて駒を進めてきた抽籤馬である。
鞍上は3歳牝馬ステークスまでイソノルーブルの手綱をとっていた五十嵐忠雄で、下級条件中心に乗せられているイメージが強かったが私は結構上手な騎乗をすると思っていたので好きな騎手であった。思えば抽籤馬にも良く乗っていた。
だが、ここはさすがに4歳時にオープンクラスで差のない競馬をしていたイタリアンカラーが一枚も二枚も上だろうと思われたので馬券はこの馬とススメシンエイの1点勝負にした。
ススメシンエイはここでも人気なく、29倍の8番人気である。
レースは逃げたトーアエンペラーに4コーナーでススメシンエイがならびかけるその更に外を、イタリアンカラーが道中好位の後ろで矯めていた豪脚をうならせて抜け出す。そのまま後続に5馬身の差をつける圧勝だった。直線半ばでトーアエンペラーを競り落としたススメシンエイがそのまま流れ込んで2着を確保。
イタリアンカラーが1.5倍と圧倒的1番人気だったので連勝式は13.8倍とあまりつけなかったが、まずまず会心の予想だったと思う。このレースも典ちゃんのワンマンショー。
この配当を麻生郵便局へ預ける。
●駅・新百合ヶ丘
名前の通り百合ヶ丘の西隣にできた新しい駅である。
小田急小田原線自体の開通は1927年(昭和2年)。新百合ヶ丘の開業は1974年(昭和49年)になるので、路線ができてからおよそ半世紀後にできた新駅ということになる。ちなみに本家百合ヶ丘駅の開業は1960年(昭和35年)であった。
同時にこの新百合ヶ丘駅開業と同時に、当駅から小田急多摩センターへ伸びる小田急多摩線も同時開通していて、新駅はいきなり交通の要衝となった。この当時は急行と準急が停車していたが、元来が麻生川の刻んだ谷にわずかな平地があるだけの未開発地だったので、乗り換えの便宜上という意味合いが強かったと思われる。
ところが、1977年(昭和52年)に川崎市が主導となり計画都市のプロジェクトが着工されるや、駅周辺は瞬く間に開発が進み、ショッピングモールを中心とした大規模な生活空間が形成された。
当然利用客も急速に増加していき、1975年(昭和50年)の1日平均の利用者数が14,000人あまりだったのに対し、1985年(昭和60年)では38,000人、1995年(平成7年)では84,000人程度と予想を上回る伸びをみせた。
当初は小田急独自の手で宅地開発を行う予定だったものが、乱開発を怖れた行政が割って入り調和のとれた街づくりを目指した結果、現在では住みやすい街ランキングでトップ10に入るなど有数のモデルタウンに成長したのである。
駅のほうも2000年に一部特急が停車するようになり、現在では多摩線に乗り入れるロマンスカーのほかすべての等級の電車がこの駅に停車する。歴史ある沿線の諸先輩方を差し置いて、新参者が成り上がってしまったような衝撃である。
●駅逓・新百合ヶ丘郵便局
駅の南側のショッピングモールビブレの1階にあって、駅からペデストリアンデッキを進むとわかりずらい。
開業当初は新百合ヶ丘ビブレ内郵便局を名乗っていたが2011年に現在の名称に改められた。
開局の詳細な年は不明だが元々近くに麻生郵便局があったので、住民の増加が著しくなった昭和末期あたりに解説されたのではないかと推察する。
みた感じかなり利用客が多く、ATMの台数も3台設置されていた。
駅の中で防空壕きくらげの委託販売がされていたので購入して帰る。
この防空壕は当駅の2つ先の栗平駅の付近にあって、実際に軍の施設として終戦後永らく存在していたものを買い上げて作地利用しているらしい。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240405/17/kiev525/08/eb/j/o0500028115421824705.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240405/17/kiev525/43/ff/j/o0500088915421824714.jpg?caw=800)
新百合ヶ丘は家族層に人気のある街なのでお洒落な洋食屋さんが沢山ある。
その中でインド料理のBibiさんを訪ねて本格的なカレーをいただく。
辛さ増しで注文したのだが、激辛というほどでないのはファミリー向けということもあるのだろう。ゆったりとした空間でいただくのでレストランの雰囲気の中でゆっくりと堪能できる。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240405/17/kiev525/56/6e/j/o0500037515421824718.jpg?caw=800)
●駅逓・麻生郵便局
麻生郵便局は1969年(昭和44年)に開局した集配を行う郵便局で、開業当初は百合ヶ丘郵便局を名乗っていて、今よりも東の百合ヶ丘駅寄りの万福寺にあった。
当時はまだ新百合ヶ丘駅はできておらず、急速に発展する百合ヶ丘の概区の中心がそちらの方にあったからではないか、と推察される。
1982年(昭和57年)にそれまでの川崎市多摩区が柿生村、岡上村と生田村の一部を併合して麻生区が誕生すると新百合ヶ丘に区役所が設置された。これに伴って翌年百合ヶ丘郵便局は麻生郵便局を名乗った。
その後、現在の場所へ移転したのは2004年(平成16年)のことになる。
地名では古沢と呼ばれるこのあたりは、商業施設などが軒を列ねる一方でその向こうには山がちの景色が窺えて、元々起伏に富んだ麻生川の谷あいの地形だった名残りを感じさせる。
新百合ヶ丘の街から程近い上に幹線道路沿いに位置してマイカーでも訪れやすい立地になっている。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240405/17/kiev525/de/34/j/o0398003215421824719.jpg?caw=800)
防空壕きくらげを湯がいて刺身でいただいた。
「やさしい味がする…」
くまのぬいぐるみを抱いたうららが呟く。このタイソンという名前の家族を絶対に手放さないので、うららの口には姉のほこねが箸を運ぶのである。
遠い昔にきっとたくさんの命を守ったであろうその場所で育ったのだ。きっと多くの思いを受け継いでいるに違いない。
そういえば以前、ぬいぐるみを頼りに戦争をひとりで生き抜いた少女の話を聞いたことがある。家族を亡くした少女が逞しく成長できたのはぬいぐるみを守ろうと必死になったからである、との説が提唱されたが、きっとそれだけではない複雑な感情がたくさんあったのではないかと思う。
「タイソンは強い…とても頼もしい…」
うららはいつもそう教えてくれるのである。
でんこというヒューマノイド、その存在もまたひとくちに説明できない存在だ。だが、私にとってかけがえのない超生命体であることはたしかである。