ここ最近のいくつかの記事では、
抽象度や臨場感、そして呼吸といったテーマを通じて、「未来を構造として語る身体とは何か?」という問いに一緒に触れてきました。

それぞれを、ひとつひとつ接続しながら、
ここに積層されてきている過去記事にも接続し、繋げて深めてきました。

そこから観えてくる風景は、
外の“現実”が変わるというよりも──

今までの現実の見え方を支えていた
「構造そのものが静かに組み変わっていく」
ということを一緒にみていきましたね。



その中で、
こんな声をいただくことが、、、

抽象的な話はわかる気がするけど、どう“現実”に落ちるのかがわからない

「高い抽象度で未来を描いても、なかなか現実が変わらない気がする

──実際には頂くことはありませんが、ありそうなことなので、ここで少し一緒に触れていきたいと思います。

抽象度が高いだけでは、現実に作用しない?

むしろ、
抽象度の高さだけが孤立してしまうと、現実との“断絶”が起こり、変化の通路はふさがれてしまうことがあります。

それは、T理論でいうところの

「抽象度」×「臨場感」=「リアリティ」
という構造にもつながっています。

そして、
“物語”ということにもつながっていきます。

    
苫米地先生は繰り返し、「世界は言語で描かれている」と言います。
すなわち、非常に浅薄な言い方ですが、モーダルチャンネルのうち言語が最も優位であるべきということです。
脳幹欲求優位の原始的な我々はつい五感ベースで考えてしまうのですが、それでは臨場感の本来の姿をほとんど理解できないということです。略

そこには厳密な物理的(生物学的)アルゴリズムがあり、物語があるのです。これがアバターという物語のリアリティを支えているのです。3Dという見た目ではなく、隠された物語(アルゴリズム)がアバターという映画のリアリティを支えるのです。略

村上春樹風に言えば、「完璧な科学理論などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
魯迅風に言えば、「科学の虚妄なることは正に聖書と相同じい」のでしょう(冗談です)。

不確定性原理が教えるのは、この物語には決定版もなければ、無矛盾であることもないということです。
すなわち、科学も数学も物語です。科学では仮説という表現を使います。数学では論理と不完全性定理、形式化という表現で物語を示しています。形式化というのは曖昧性を無くした人工言語によって紡がれた物語ということです。その物語が美しいと数学者は「エレガントな解放(もとい解法)」と呼ぶわけです。略

空想ではなく、科学という整合性の高い物語がリアリティを増すためには不可欠であることをキャメロン監督は理解していたのだと思います


まといのばブログ


師匠が語るように、“リアリティを生成するための物語構造”が不可欠であるということです。



「物語」という構造が、
なぜ臨場感に影響を与えるのか──

それは、
僕たちの認識の深層において、情報が“意味”として統合されるには“語り”が必要だからです。

そして、抽象度とは、
“どれだけ多くの視点を包摂できるか”という構造です。

けれど、
その情報が「臨場感」として身体化されなければ、ただの観念に留まり、現実には接続されていきづらいものであったりします。

何かを達成したい、これがしたい、こんな状態になりたい、こういう自分で在りたい、という理想世界へ移動していきたい僕たちにとっては、身体知と接続された物語がリアリティを増すためは不可欠ともいえるのかもしれません。

それは、
本来の自分を取り戻していくことは、未来を語るための構造をつくることであり、今ここを“未来の構造”で照らすことでもある、という先日の記事にも繋がっていくものであると感じていただけたら幸いです。
 
物語に関しても、
過去記事で繰り返し書いてきていますよね。

ここに最近の記事でも一緒に触れてきた、「能力の輪」や「臨場感」「近似解」「呼吸の再構成」なども、情報空間の移動を現実に繋げていく構造として、大切なものになってきます。

これまで一緒にセッションで変化してきている方々や、繰り返し記事を読んで頂いている方は、一つ一つが要素が単独で終わることは決してなくて、どんどんレイヤーが重なって繋がっていくのを感じていただけると思います。



ネットワーク化については、ブログを開始した当初に書いていますね。

このタイミングで回収しにいくと面白いかもしれません。

で、
よくあるのは、「未来の理想」を掲げた瞬間に、
現実が全く動かないという感覚。

これは、抽象度の高さが接続されるチャネルを持っていないことが原因です。


    
我々は我々の脳が現実と認識して、そこにフィードバックを得るような概念に興味があります。そしてそれをRealityと定義したいのです。

すなわち、Realityとはその脳がRealだと感じるもののことです(意識的にせよ、無意識的にせよ)。Realityの定義にRealを入れるのはトートロジーの謗り(そしり)を免れませんが、仕方ありません。

ここには大きなパラダイム・シフトがあり、大きな知の世界のギャップがあるのです。

我々は天動説をもはや事実とすることが困難なように、リアリティを物理的現実と仮想現実に分けることが不可能な世界に移動しました。リアリティとは脳が「これがリアルだ」と認定したものであり、それ以上でも以下でもないのです。


これは苫米地理論で言えばいわゆる「小説で涙を流す」問題ということになります。ヴァーチャル・リアリティをアメリカで研究していた若き研究者が、山手線の中で小説を読んで涙を流す一人の女性を見て、衝撃を受けます。どうやって脳に入力する情報を物理的現実世界の情報に近づけるかに苦心していたリアリティの追求が、ただの紙の上のインクのシミという物理情報に負けたのです。

cf.臨場感とか「リアリティ」ということにいまいちリアリティが持てないんですが。。。


まといのばブログ


情報空間だけでゴールを描いても、
それが臨場感を伴っていなければ、認識構造させるのは難しいものといえるのかもしれません。(それを妄想と言ったり、ドリームキラーと言ったります。検索してみると、重要なのは妄想と現実の狭間を越えられるかであると書いていますね)


だとすると──

抽象度を現実に“接続”するには、媒介構造が必要となってくるといえるかもしれません。

では、
それは何なのでしょうか。

ここで大切になるのが、
「媒介」となるチャネル。



最近の記事から引き出してみましょう。

  • 呼吸(身体の内部構造と外部世界の接続点)
  • 真似事(近似解による臨場感の再構築)
  • 構文化(情報を空間化・視覚化するプロセス)
  • 習慣(未来構造からの照射による地上化)
  • “場”の存在(情報を同期させる空間の共振)

このプロセスを通じて、抽象度が接続され、
「未来の構造」が“今ここ”に反映されていきます。

Khronosでは、あえて遠隔セッション(Révia Lux)とリアル空間(パーソナルセッション=The salone※仮称)という両輪を大切にしてきました。(けど、場の流れもあり、少しずつ軸足をリアルに比重を寄せていきます。それが空間であり、セミナーであり、ワークショップという形になっていきます)

これは、
「抽象度」×「臨場感」=「未来の構造」
を再構築するために、“接続の場”が必要だからです。

リアルな呼吸や身体を介した「構造の再起動」
遠隔の情報場を通じてアクセスされる「視座の再編」
その両方が再帰的に循環することによって、決して頭で理解したつもりになっているだけでは起こることのない変化が継続的に起きていくのです。(ここに綴られている一連の記事も遠隔として作用するのは、情報場を通じてアクセスされる「視座の再編」があるから、読むだけで変化が起こる、という現象があるわけです)

それは、
前回の記事でも一緒に触れてきたように、
慣れることによって、その臨場感を手渡されることによってのみ、現状が未来の構造へと、あなたの呼吸とともに、静かに連れていってくれるはずです。

未来は、思考だけで訪れるものではありません。

抽象度の高い構造を描くだけでは、

現実は変わらないことが多い。

けれど、
その構造を最近の文脈を踏まえて、呼吸・構文・臨場感・行動に落とし込んでいくとき──

そこに、“接続”が生まれていきます。



その接続こそが、
現実のレイヤーを変え、未来の階層へと、あなたを連れていくのだと思います。
ではでは、今回はこの辺で。

また次回の記事でお会いしましょう!

追伸:
パーソナルセッションで何度もお会いしているmaasaさんがブログを開始して、Khronosの記事を書いたご連絡をいただきました!ありがとうございます!
感想・ご質問、大歓迎です! 
たった一言でも構いません。もし何か感じたことがあれば、ぜひシェアしてください。言葉にすることで、見えなかったものが形になり、次の扉が開いていくのです。
あなたの一言が、次の扉を開く鍵になります。
どんな小さな気づきでも、それが新しい変容の始まりになります。そして、“場”をさらに深める力になります。