臨場感とか「リアリティ」ということにいまいちリアリティが持てないんですが。。。 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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最近立て続けに「臨場感」や「Reality」ということについて質問をいただきました。

臨場感とは、Realityとは何でしょう。

Realityの訳語が臨場感と言ってもとりあえずは間違いないと思うので(気感は気を感じることですが、臨場を感じるのが臨場感なわけではないので)、両者を同じものとして考えます。

リアリティと言うと、かつては物理的現実世界をリアリティと定義していました。

リアリティ=物理的現実世界

です。

それに対して、情報的な仮想現実のことをヴァーチャル・リアリティと言っていました。

仮想現実=ヴァーチャル・リアリティ

ですね。


この2つの世界ははっきりと区別できるし、分けられると考えられてきました。

もちろん、これは事実ベースではその通りです。物理的現実世界は物理的現実世界であり、仮想現実は仮想現実です。

ただここで「脳にとっては?」という関数が入ってきます。

すなわち、事実が事実だと言っても、じゃあ、それを観測するのは誰、解釈するのは誰ということになります。物理的現実世界は一つと主張したとしても、観測者次第でその解釈された物理的現実世界は様々に変化していきます。

もちろんどんな解釈であっても、物理的現実世界は確かに一つでしょう(もう少し突っ込めば、一つではないことが分かるのですが、日常レベルで仮に考えます)。

ただそれは我々の脳にとって何の意味もない定義なのです。

我々は我々の脳が現実と認識して、そこにフィードバックを得るような概念に興味があります。そしてそれをRealityと定義したいのです。

すなわち、Realityとはその脳がRealだと感じるもののことです(意識的にせよ、無意識的にせよ)。Realityの定義にRealを入れるのはトートロジーの謗り(そしり)を免れませんが、仕方ありません。

ここには大きなパラダイム・シフトがあり、大きな知の世界のギャップがあるのです。


我々は天動説をもはや事実とすることが困難なように、リアリティを物理的現実と仮想現実に分けることが不可能な世界に移動しました。リアリティとは脳が「これがリアルだ」と認定したものであり、それ以上でも以下でもないのです。

なぜ分かりやすい物理的現実世界というモデルから、奇妙な脳中心主義に切り替えなくてはいけないのか?

これはシンプルです。第一に物理学の側からの要請でもあります。
不確定性原理ということを真面目に考えれば、観測者の意図(と行動)が観測結果に影響を与えることがわかっています。とすれば、観測者を抜きにした物理的現実世界などというのは空想の産物でしかないことが論理的な帰結となります。

第二に、脳とフィードバックループのない現実というのは、明らかにその人の宇宙に存在しないものとして捨て去られてしまう運命にあります(というか得られていないので、厳密には捨てることもできないのですが)。

第三に、リアリティとヴァーチャル・リアリティの境界を探る研究が座礁したことがあります。すなわち、物理的現実世界とヴァーチャル・リアリティは脳にとっては同じ電気信号の集積でしかありません。その境界は情報量の閾値を超えるか否かであろうというのが素朴な考え方です。
レモンが目の前に見えて、レモンに触れることができて、そのレモンを動かすことによって、見え方が変わり、重さも感じることができて、ナイフで切れば果汁が飛び散り、かじりつけば酸っぱさが口に広がるならば、それは物理的現実のレモンとしてみなしても良いというのが素朴な実在論です。

五感にきちんと整合的な情報がある閾値を超える量で流れ込めば、ヴァーチャル・リアリティもリアリティと区別がつかないのではないかという夢がありました。

しかし、その夢は残念なことに、我々がよく知るある小さな事実によって打ち壊されます。

すなわち、演劇や詩歌、歌謡や小説、映画などの情報量が極端に少ない仮想現実に対して、我々が情動を動かすという事実によってです。

我々は舞台を観るときに、その結末がすでに決まっていることも、台本に書かれたとおりにセリフを発話し(そうではないことがあるにせよ)、演出家の指示通りに演じているとしても、あたかもリアルな世界で起きたことのように没入し、感情移入し、そして情動を発火させます。喜び、怒り、哀しみ、笑います。とりあえずではなく、心から感情が動きます。

ウソということは百も承知で、ヴァーチャル・リアリティよりはるかに現実感がないのに、現実以上に感動します。

現実以上ということは、リアリティを凌駕しているということです。では、ヴァーチャル・リアリティとリアリティの区別はどこにあるのでしょう。事実ベースで言えば、演劇は明確なヴァーチャル・リアリティです。しかし、我々の動く情動はリアルです。であれば、演劇はリアリティ以上のリアリティと言って良いでしょう。少なくとも脳はそう判断しているからです。

もし古いパラダイムに固執するのであれば、演劇を見て、感動するその感動はフェイクだということになります。これはもちろんナンセンスです。とすれば、パラダイム自体を変えるしかありません。

これは苫米地理論で言えばいわゆる「小説で涙を流す」問題ということになります。ヴァーチャル・リアリティをアメリカで研究していた若き研究者が、山手線の中で小説を読んで涙を流す一人の女性を見て、衝撃を受けます。どうやって脳に入力する情報を物理的現実世界の情報に近づけるかに苦心していたリアリティの追求が、ただの紙の上のインクのシミという物理情報に負けたのです。


もちろんそれでもなお古いタイプの常識的な定義に固執しても構わないのです。
世界がパラダイム・シフトしても、自分だけ取り残されるという選択は自由です。

ちなみに「パラダイム・シフトなんて、相対的なものだよ」という考え方もたしかに存在します。科学は文化的な営みでしかないという立場です。なんとなくその感覚は理解しますが、しかしアルゴリズムはアルゴリズムです。抽象度の階段を登り、ランダムなものが整合的に見えるようになったとき、その階段は不可逆的であり、非対称性があります。
たしかに、そのパラダイムなり階段も否定されるときは必ず来ますが、それはより上位の概念によってであり、下克上がありうるわけではありません(どれほど、下克上に見えたとしてもです)。螺旋は下から見上げると円運動に見えますが、確実に上がっているのです。

ですから、相対的ではなく、進歩の階段という点では絶対的であると考えて良いと思います。そしてその絶対性が示すのは、今のパラダイムももちろんいつかは乗り越えられるということです(それまで人類が滅亡していなければという制約はありますが)。


このパラダイム・シフトを経て、我々はリアリティとは何かを考える上で、我々がリアルだとみなすものがリアルであるというトートロジーのような定義に行き着くのです。

それがリアリティの現代的な解釈です。