アラートの波間で
即レスは、受け取ると非常に嬉しい。
① 出来事をタイムリーに他人と共有できること。
② 発信という自分の行動に関心を示してもらえたこと。
そう、即レスは、「つながっている」と「大事にされている」感覚を同時に与えてくれるのだ。
単なるレス、は②を感じることはできるが、①については難しい。
“人間は社会的動物である”とは有名な言葉だが、いつの時代も我々の本能は変わらない。
SNSやTwitterは、その本能を満たしてくれる新しい方法である。
いずれも不特定多数に対して、簡単に発信をするのに便利だ。
特に後者は、発信自体がより容易にできるだけでなく、受信者側もレスをしやすい。
内容が140文字に限られているので、発信もレスも手短でいい。
軽く挨拶を交わすようなコミュニケーションが可能なのだ。
だから、発信もレスも沢山行われる。
ところで、発信には他人の関心を引く出来事が必要である。
その出来事にも色々あるが、ニュースの配信は効果的なもののひとつだろう。
GoogleNewsやRSSといったサービスは、その収集活動を効率化してくれる。
特に新しいニュースの第一報や知る人ぞ知るニュースというのは、他人の関心を引くことができる。
「こんなことがあったらしいよ」
「へぇー、すごい。いいタイミングでみつけてくるね」
「これ、知ってる?」
「知らない。すごい。博識だね。(○○について詳しいね)」
一度ならず体験し、癖になっている人も多いだろう。
だが、ここで気をつけなければならないのは、レスをもらうことが目的化しないようにすることだ。
本当に大切なのは、発信を起点として、あることについて議論をしたり、気づきを提供したりし
て、人々の間に新たな、そしてできたら共通の知恵を生み出すことではないだろうか。
第一報は、第一報でしかない。
マニアックな知識も、誰の役に立つものなのか判然とせず、酒の肴にしかならないものが多い。
悪いニュースであれば、起った背景やその後の顛末を追跡し、二度と起こらないように根本の原因をつぶす為の対策を提案するのが理想だろう。
「そんなことは分かっているよ」と言われるかもしれない。
だが、レスを求める欲求は強敵だ。
これは単なる情報提供なのか、それとも問題提起なのか、自身の発信について、その意味をしっかりと考えるようにしなければ、すぐに自己満足に陥るだろう。
レス、という人々の関心を集めているように見えて、実は、情報の波間でアップアップと溺れかけている、そういった状態にならないよう注意したい。
絶滅への一歩か、新たな興隆の始まりか
日産が九州工場を分社化すべく検討に入ったと発表した。
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同九州工場は国内最大規模を誇る旗艦工場であり、これは自動車業界にとって、歴史の転換点と言ってもよいニュースだ。
分社化の目的は一つ。
コスト競争力を磨くためである。
分社化により、地域相場に沿った給与水準設定が可能になる他、韓国や中国から安価な部品が輸入可能になるという。
つまり、九州工場周辺の協力企業にとっても、実現すれば、その将来を左右する衝撃的な出来事となる。
日産の給与削減に従って、それら協力企業も同じくそれに取り組むかもしれないが、韓国企業はともかく中国企業に対抗できる給与水準にはできない。
一方で、自動車メーカーの工場自体の中国移転、新設が進んでおり、そこに部品メーカーも集積している。
おそらくだが技術優位性の無い協力企業は淘汰されてしまうのではないでろうか。いや、高い技術を誇る協力企業においても、日産九州工場に納入はしているが、中国から納入している、というような状況が出てくる可能性はある。
家電製品では完成品自体がこの形になっている。
日本人が購入している家電は、中国で作られ、輸入されているのだ。
裾野まで含めると自動車業界に関係する仕事に従事している人口は、1500万人に上るらしい。
実に生産人口の25%である。
もし日産九州工場が中国との輸出競争に敗れれば、それが国内雇用に与える被害は甚大だ。
Nissan, Considering To Spin Off Its Kyusyu Flag Ship Factory
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Nissan announced Tuesday, they are considering to spin off the largest domestic factory.
The aim of that company split-up is cost reduction.
The new factory would make own compensation package and to import adapting a cheaper components from China and South Korea.
3,600 employees work for that factory will generally be changed their employment to the new company. Nissan’s spokesperson said that we temporally keep a pay level of the employees.
I believe it is a turning point of Car industry.
If the spin-off is made that means a domestic car factory has to save their live itself.
Whether that commutation point will be a beginning of extinction or build new development of that industry’s history is that depends on what they’ll do.
人類史のなかの定住革命
- 人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)/西田 正規
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“定住が人類の急速な進化をもたらした”
本書の核となる主張である。縄文時代の生活を触媒としてこの主張の証明を試みている。
「人類は、今からおよそ1万年前頃、人類以前からの伝統であった遊動生活を捨てて定住生活を始めた。その後、人類史の時間尺度からすればほんの一瞬とも言える短時間の間に、食料の生産が始まり、町や都市が発生し、道具や装置が大きく複雑になり、社会は分業され階層化された。」
農耕の始まりは、人類史における革命の一つである。この点において著者は同意見である。しかし、“農耕があって、定住がはじまった”という考えには反対している。
「まず定住、そして農耕」という立場をとっているのだ。
どちらの立場がより説得力があるだろうか。それを判断するには、以下の二つの質問が適切かもしれない。
「どのようにして栽培することを思いついたのか」
「なぜ栽培をはじめたのか」
著者は、“農耕とは人間と植物の共生関係から生まれたもの”であるとしている。曰く、「(人類が)定住して生活する場所の周辺に、それに影響された環境が出現し、その環境を好む植物が侵入し、両者が互いに依存を深めた」のである。
すなわち、
「人類は火を使う動物であり、しかも集団で生活する。彼らが一か所に長く留まって生活すれば、まわりから集める枯木だけで燃料を補給することは不可能である。そのために森が伐採されれば、極相林的平衡が崩れて二次林が出現する。二次林の出現は、定住生活を営む人間に必然的に付随する」
「クリやクルミ、あるいはフキなどの山菜は、こうした二次林に好んで棲息する。」
「(人類の定住生活地に)安住を見出したクリは美味しい実を沢山つける。美味しい実をたくさんつける木は大切にされ、そうでない木は薪にされる。人間も、クリがよく育つ条件について知識を殖やすだろう。」
人類が農耕を発明した理由として、土地の乾燥化や人口増加による食料不足が一般的である。しかし、著者はこうした“人類の創造性”に理由を求めるのであれば、それはそもそも生態学の範疇に無いだろうと反論する。ダーウィンは、「生物の進化を生活の機構を通じて捉えようとした。生物の生活の機構はすなわち生態学の対象である」と言った。言及するまでもなくダーウィンは、ガラパゴス諸島の生物たちの“当時の”生活を観察することからその進化の過程を類推したのである。著者のアプローチも、先の一般説のアプローチも、元は発掘された土器や遺跡といった状況証拠から過去を類推するものである。つまりまぎれも無く生態学の手法によって解明しようとされているのである。であれば、私は著者の主張に説得力があると思う。
農耕を、必要に迫られてにわかに思いついたのではなく、採集を食料確保の手段として残した定住生活の中で、身近に生成してきた植物を食する中で段階的に農耕という概念が構築されていったと考える方が自然だ。
一方、言語の発明についても面白い見解が提示されている。
お互いにとって危険な存在である人間同士の緊張を緩和する為に発明されたとの仮説を示しているのである。
「食や性をめぐる潜在的な緊張関係をはらんだ類人猿の社会にあっても、その緊張が暴力を伴う激しい争いになることは少ない。彼らは音声や身体表現による挨拶行動や宥和活動によって互いの緊張を解消している」
「だが棒や石をもった人類が、安全を確認する前に身体を接近させることは、はなはだ危険なことである。」
「その前に、相手をなだめたり、互いに殺し合わないことを確認できていなければならない」
類人猿は群れを作り行動する。人類も同じくである。いや身体的能力に劣る人類にとっては、もっと必然的なものであったろう。群れの形成とその内部、または他の群れとの間に平和を維持する為の仕組みは不可欠のものである。言語がその仕組みの一つであったという主張は面白い。これは思いつきだが、おそらく定住生活は言語の発展にも貢献したのではないだろうか。言語の発展とは、様々な行動や感情を表現できるような音声を口から発することができるようになり、相手にも理解できる、ということであろう。であれば、定住生活をよりよくする過程では、新たな行動が断続的に生まれていたはずで、また構成員の数が増加していけば、当然感情的な対立も多くなり、それらを宥和するために感情を相手に分かるように表現することの必要性も高まったであろう。
一つの考えを証明する過程をみることはとても楽しいことだ。本書はその楽しみを与えてくれる。しかし今、一つ不思議に思うことがある。それは、何時になれば人類は“群れ”という概念から解き放たれるのであろうか、ということである。
定住生活をもっと快適にしようと努力してきた人類。一方で、その過程においてたくさんの争いもあった。おそらく最初は食の危機に基づくものであったのだろう。定住生活における食とは、つまり土地の危機ことである。最初は天候変化などにより食料が無くなってから行っていた他の群れへの侵略が、その経験を踏まえて備えるようになる。おそらくこれが先手必勝で争いを仕掛けることの起源ではないだろうか。近年の歴史においても、一部の原理主義的理由を除けば、土地を求めることが戦争の起源にあることは同じくだろう。もっとも呼び名は経済に変わったが。人類の生活を良くするための必要条件となった土地の変名としての経済は、それぞれの群れ間の結びつきを強めている。よりよい経済のあるところによりよい定住生活がある、という価値観はもはやグローバルスタンダードだ。国という群れ、大雑把に分けるならば、先進国も新興国もそれを求めているからこそ経済は結びつきを強め、そして情報化の進展により、おそらく皆似たようなよりよい定住生活をイメージしている。人類は歴史を通じて戦争が経済を荒廃させることを学んだ。だから原理主義や過去の出来事に基づく紛争はあっても、大戦争は先の大戦以後に起こっていない。
“汝の隣人を愛せよ”とは世俗的な見方をすれば、人類の生存戦略である。今、我々は共通の理想をイメージし、それを崩壊させるものについて共通のイメージを抱いている。テロリズムや中国の暴走は恐怖ではあるが、おそらくその共通イメージを崩壊させるものではない。もしそれらが経済発展という人類共通のスローガンに争いを挑むならば、崩壊するのは彼らの方だろう。支持者の数が違う。おそらく本当に脅威となるのは、地球環境悪化と人口増加、すなわち人類の足元と人類そのものだ。我々がその共通イメージを、広く、具体的にすればするほどその脅威は高まる。その時に、いやその前に「群れ」という概念を超えて共に歩み始めるのか、それとも逆にその概念に立ち戻りサバイバルという名の滅亡を選択するのか、これは人ごとでない。