初代文部大臣・森有礼と、孫の哲学者・森有正 07月28日
この二人には、政治と学問という領域区分では納まらない、自己変革のための人間研究への根本志向があり、孫・有正がデカルト研究に沈潜したように、祖父・有礼の、時代が要求した進取開明的自己変革の態度が、おのずとデカルトの「方法叙説」の内容と照応していることに、驚く。この、血で結ばれた二人は、容貌も甚だ深い内的類似をつよく印象づけることは、以前から気づいていた。旧い日本的意識からの、形式ではなく精神からの変革の必要を先ず自分において鋭く痛感するという、内的感性を、素質的に共有していた二人であったように、いまぼくには思われてきている。 有礼に関心が向いたのも、漱石の「三四郎」での終り近くの意味深げな有礼事件の回顧叙述に触れたのがきっかけである。
理想と齟齬 08月01日
漱石の「三四郎」の後半で、森有礼事件の回想が為されるのは、日本の歴史的本質に関わる何らかの象徴的意図があってのことにちがいない。それでいま、森有礼という人物の軌跡を独自に調べている。そこには、日本という独自の歴史をもつ国に生まれた者の、文化的人間への志向とみずからの歴史的土壌とに挟まれた葛藤・齟齬があり、それはそのまま現代に続いているからだ。非常事態宣言を繰り返す いまの国の姿勢が、その是非はともかくとして、その奥にある日本という国の本質をあらためて問わせている。
森有礼の振幅 08月03日
日本語は国の近代化に役立たないから国内公用語を英語にせよと言った人間が、後には、日本国民の気力を涵養する歴史的動機となるものは天皇制である、と言う。どうも、どちらも同じ精神次元での発言としか思えない。思想者の発言は、もっと落着いた見窮めに基づかなくてはならない、と、いまの時点からは言わざるを得ない。当時の状況そのものが、そういう落ち着きを許さなかったのであろうが、それなら、いまのわれわれが、その跡をそのまま追うような固定観念に囚われているのはおかしい。 日本人そのものがもっと人間として成熟すべき段階に来ていると思う。
それにしても、国家は国民の命と財産と良心(信仰)の自由を守る機関でしかない、という理念をはじめから持っていた森が、国民の政治参加運動には冷淡で、政府の運動潰しの画策に協力したとは、がっかりした。 いまもそうだが、日本の政治家の本音には、国民にたいする侮蔑がある。だから国民のほうでも、政治に触れることに嫌気をおぼえるのである。 ぼくも触れたくない。
同郷の俊才の熱意(責任意識)と思索と判断は解らぬでもないが、とくに、近代国家日本のなかに、歴史的伝統である天皇を組み込んだ、法制上は近代の産物である天皇制は、すでに日本近現代史におけるその役割を終えたのではないか。このうえは天皇は純粋な歴史的伝統のなかに復帰し、日本の在るべき憲法においても、附帯的扱いでよいと思う。
森有礼の教育論における鍛錬主義の自己矛盾 08月05日
個人の良心の自由を保護することを国家の意味の第一のものとする、森有礼の国家論と不可分のものである彼の教育論において、鍛錬主義が説かれるが、この鍛錬主義は、彼が実業を国の戦争力の基礎と見做す見解とともに説かれているものであることを見るとき、何と自己矛盾しているものであることだろうか。国民を兵士とすることを目的とすると言ってよい鍛錬主義が教育の場に持ち込まれるとき、人間の魂を損なう教師の言動を公認するものとなることは、言うを俟たない。これは今日まで続いている、日本の教育現場における、期する成果のために魂を犠牲にするという、深刻な人間問題である。それを日本の根性主義と云う。
現在、個人の意識のほうが、為政者や教育者よりも遙かに進んでいるのだ。国民は、国家や国体、教育に、つき合ってやっているにすぎない。為政者や教育者は、いつもそれを忘れてはならない。
森有礼が犠牲にしたものを償った森有正 08月06日
日本という人間未成熟な国においては、政治もまた、それに携わる者を人間として逸脱させる。国民を逸脱させる為政者自身も、逸脱するのである。ほかの西欧諸国の政治家が、人間としてもどうしてああ悠々堂々としているのか、その理由は、国家としての日本をどう守るかという強迫観念に固まった維新当時の日本人の精神態度からは、理解も憶測もできないことであったのである。森有礼ほどの人間においても、そうであった。最初の妻との離婚の原因も、そこにあったと、ぼくは敢えて推断する。国家の維持発展に直接役立たないような種類のものは、学問・芸術であってもこの際用はない、と、文部大臣としても言いきれる姿勢からは、とうてい、真の文化国建立は不可能であった(その精神のねじれが、いまも続いている)。これは日本国民すべての問題である。森の孫である有正が、同様に西欧に関わりつつ、政治とはまったく無縁の哲学思想において、日本の精神的空隙をすこしでも埋める仕事に没入したことは、われわれにとって慰めとなる事実なのである。