とにかく何かをすること。それによって平常心に戻る。

 

じぶんの書いたものがなかなか手ごたえがある。

 

(神という言葉は同じでも、その内容は人間の数だけ多様にある。だからヤスパースは、神という言葉よりも、「己れの超越者」という表現をよくするのである。) 

 


 


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水のように疲れる という言葉があったろうか。すこし早く寝て朝起きると かえって疲れを自覚する。健康に近づいた証拠だ。しばらくこういう状態をつづけねばならない。

「イデア」を求める者に 此の世の幸福も 此の世への決断も めったに生じるものではない。人間は 自分の内にあるものと外にあるものとを必然的に混同する。無理もない、内を見る目も外を見る目も同じ目なのだから。探求心と好奇心とがその大きさ強さのぶんだけ つねに表裏で反転し合うのとおなじだ。二重生活をおくらない「偉大な人間」などいない。「人間の一元化」はどういう境位にあるか。つねに二極あるいは多極が共振し合っている。全的に生きるしかないのだ。「あれもこれも」と「あれかこれか」とを、実存的決断と理性的運動と(ヤスパース)を、全的に生きることによって、思弁的でないアウフヘーベン〔止揚〕が達せられるところにしか、「人間の一元化」は生じないだろう。だからこそそこにおいて真実に「神に臨む」ことがまた生じるのだ。「神に面し」ない一元化というのはどうもありえない。ぼくはここにおいてヤスパースとともにヤスパースを踏み越えている、なぜなら実存的決断をも踏み越えているから、という自覚がある。これが「高田博厚と共に」あることの意味である。社会的に理解されることも 社会的幸福も 踏み越えている。理解されるように書いたり演じたりするのはすでに政治である。
 
 リルケとヴァレリーは共鳴し合った。ヴァレリーの「海辺の墓地」に哲学者マルセルは作曲し音楽とした(ぼくは聴いていない)。アランはマルセルを読みはしないだろうが、読者をまったく顧慮せず純粋に自分の思索として「形而上学日記」を書いたマルセルの態度を称賛するだろう。


みずからを集中させるものを持続的に持っていることが、ぼくに美しいと思わせる条件だ。そして 集中させるものはその本質からして内面的なものでしかありえない。外面性の定義は分散性であり、内面性の定義は集中性(統一性)であるのだから。これはデカルトの物質と精神の二元論的定義に符合し、そういうかたちでベルグソンにまで受け継がれているとぼくは解している。そうしてこれが、この美の条件が、ロダン、リルケ、高田博厚、森有正において自覚された「仕事」の意味である。「もの」に即し 「もの」を生むこと。もともと外部に向けられて造られている目がもはや内部のみしか見ないようになること。ここに「象徴」が生まれる。だから、深く理解するということは自分自身を内的に理解することへと収斂する。プラトンのアナムネーシス(想起)が永遠の真理である所以である。理解とは、この意味での信仰に基づいている。ぼくがこの節の最初に言った部分へとここから戻り、かの「混同」をぼくはけっして否定的に言ったのではなく、聖なるものとして根源的には肯定していたことが解ろう。これが真の愛の本質である。また、この意味での「理解」は同時に実証的理解なのである。なぜなら外部に出ない内部はないからである、内部に向けられた目の前では。これが、「審判」の前に立たされていることの意味だろう。
 「もの」(chose)は事象として定義するには事象を超えた統一体、集中する目にとってのみ「感覚」される統一体である。「感覚そのものが抽象である」(高田博厚)。この意味での感覚そのものに形而上性がある、とも付言しておこう。形而上的抽象が「象徴」の意味であり、これがまったき感覚において経験されるとき、「神」が感覚される。





「本物」と「孤独」とは同義語であり、淡々と日常を綴るひとの文こそこのましい。
 
 
 
役者(ピエロ)の悲哀をルオーは人間の悲哀として描いたが、ルオーを最も愛好する国の一つ日本の同胞は彼の何に惹かれるのか。





奇しくもこの第800節「ノオト・形而上的感覚」にはぼくの本旨のessenceが籠められている。
 



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「星の王子さま」ではないが ぼくは(ぼくも)大人から嘘ばかり教えられた。いちばんはなはだしいのが、「大きな心をもった人間になる」という観念についての日本の大人の無知である。この点 世間人も学識者も同じである。この観念の戯画を本物と取り違えている。というかこの戯画しか知らないで疑えないのだから仕方がない。このことを断定するのは中学生の時以来のぼくのアウフガーベ(宿題)だった。栴檀は双葉より芳し と言うが、名誉あることにぼくははじめから周りの連中とは違う根から生きていたようだ。そしてどうやらぼくは集合無意識的世界意志には気に入られなかったようだ。名誉なことと思っている。ともあれぼくの断定はこの欄そのものが明かしている。内的秩序を知らぬ大人達が融通無碍を振りまわしても、宴会の無節操を受けいれるのが大人の通過儀礼と見做しているこの国の・・共に通用するのが関の山で、真の孤独を知る西欧人(この頃はさすがに末期症状だが)と共振することは決してできぬから、自国の特殊性を強調するしかなくなるところに誤りが露呈している、閉塞日本人に魅力など感じようがない、といまなら倍返ししてやるのも気のどくなくらいだ。





性善説とか性悪説とかは世界の本性に関するものだ。世界は悪である。そのなかの個々の生命体は純粋愛を宿しているかぎりで善である。とくに人間は自らの根本決断で恒常的に善であり得る。世界に迎合すれば悪であり、世界に反抗すれば善である。畢竟 哲学が自覚するのはこのことである。このことを教える(自覚させる)のは世界そのものである。





男の名声に隠れた感じの女性芸術家、ロダンの弟子でポール・クローデルの姉カミーユ・クローデル、ユトリロの母ヴァラドン、いずれも、情熱が直接に伝わることで、男の作品を凌駕しているとぼくは感じる。そしてこれは他の芸術分野でもそうではないかとぼくは思う。高村光太郎の妻智恵子の作品も。情熱、愛、の本体において男より無媒介に打つものがある。女性がいなければ男は空論と夢想で実体なく興奮し、これを感動ととりちがえ、真の愛情の感動から遠いままだろう(音楽でも)。だから無責任な、「人間」から離れた動機で戦争も起こすのだ。すべての闘いは「人間」のためのものであるというのに。「国家理念」のための戦争などぼくははじめから徹底的に否定している。闘う唯一の動機は「人間」を守るためである。この態度に日本はどこまで徹底できるか。「人間」の価値を知らねば、感じねばならない。これを言うぼくは右か左かと問う・・はいまい。観念と感情では守れない。これを言っている。




ぼくは理屈にも感情にも動かされない。そういうものをまったく信用しないから。ぼくはちがったところから生きている。理念と情熱。これら二つと、前の二つとのちがいは、自律か他律かということである。理念も情熱も意志のものであり、理屈や感情は他から説得されること(受動)である



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これは息抜きに言うのである。欧州最初の滞在地はドイツであった。ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの教会が建っているビンガーブリュックという町の、川を挟んで対岸にあるビンゲン(アム・ライン)から、鉄道(ブンデス・バーン)でマインツ大学に通っていた。このころから自分の妙な念波発信力に気づいていた。ライン川の岸に鴎(かもめ)や白鳥など大小の水鳥が生息している。ぼくが遠くから歩いてきて、彼等を一瞥し、何となく「ふっ」と心で吐息するだけで、それら一群が一斉にパッと飛び立つのである。これは一例で、ぼくには何か強い発信念がある。後々これが原因と思われるやっかいな現象が生じることになる。
 こういう話は息抜きの気晴らしである。





ドイツで唯一見るに耐えると思った、小さな町ビンガーブリュックのヒルデガルト教会堂。写りの妙で ドイツ・ロマン派絵画、フリードリヒ風を連想させる雰囲気になっている。都市ケルンの巨大教会堂は美ではない。 ちなみにイギリス絵画ではターナーより牧歌的で親密なコンスタブルがずっと好きである。