ダスパヌス『哲孊』III 第四章「暗号文の解読」第二郚  叀川正暹蚳 2024.9.5~

 

頁

第二郚

諞々の暗号の䞖界

 

抂芳

 

 諞々の暗号の普汎性。— 暗号であり埗ないものは存圚しない。あらゆる珟存圚は挠然ずではあるが振動し話し掛け、䜕かを衚珟しおいるように芋える。だが䜕凊ぞ向かっお䜕凊からであるかは定かではない。䞖界は、自然であれ人間であれ、星々の空間であれ歎史であれ、意識䞀般であれ、ただ珟存圚しおいるのではない。すべおの珟存圚するものは、蚀わば人盞孊的に盎芳されるものなのである。

 䞖界定䜍的な知のいかなる専門領域にも玍たらず、その時々の圢像の関連〈内郚脈絡〉ずしお捉えられるようなひず぀の党䜓を、蚘述する詊み、この詊みは、自然、怍物、動物、颚景の、人盞孊ぞず通じるものであったろう。さらに、歎史䞊の諞時代、諞文化、諞々の身分や職業の、そしお、人間の諞々の人栌性の人盞孊ぞず、通じるものであったろう。

 科孊的に芏定された諞目的のための叙述にずっおは、方法ずいうものがある。だが、人盞孊的な珟存圚把握にずっおは、方法ずいうものはない。人盞孊ずいう名の蚱で行なわれおいるこずは、むしろそれ盞互の内で異質的である 䟋えば、知の盎芳的な先取りであり、この知はその埌、培底的に非人盞孊的に、合理的か぀経隓的に怜蚌される。頁そのほか、他の途の䞊でも接近可胜な心的珟存圚の衚珟を了解するこず。人類の歎史䞊の諞時代ず諞集団の、史実的自然造圢物ず粟神ずの性栌を把握するこず。人が諞事物を自分の心的生を立ち入っお担うものずしお理解する限りで、感情移入しお名づける諞事物の諞々の気分。

 これらのすべおが既に衚珟であった堎合でも、未だ暗号ではない。それはあたかも、衚珟の䞋には衚珟が、階局系列のなかに立っおいるようなものであり、この階局系列は、暗号が解釈し難く自己珟前するこずで初めお止むのである。この堎合、この暗号の自己珟前ずっおは、人盞孊の曖昧な諞可胜性ずは区別されお、぀ぎのこずが劥圓する。第䞀に、暗号の自己珟前においおは、埌になっお知られるであろうような䜕ものも先取りされない、ずいうこず。暗号の生は、それ自䜓はこの生ずならないずころの知に接しお点火させられるので、すべおの知はむしろ暗号をただ益々決定的にするのみなのである。第二に、暗号の自己珟前は人間の心の珟実の衚珟ではない、ずいうこず。この珟実は、その衚珟もろずも、むしろ党䜓ずしお初めお暗号ずなるのである。第䞉に、暗号の自己珟前は自然の諞圢態の性栌ではなく、人間の諞構築物の粟神でもない、ずいうこず。これら諞圢態や諞構築物はむしろ〔その埌に〕初めお暗号ずなるこずがあるものなのである。第四に、暗号の自己珟前は、感情移入による心的生ではない、ずいうこず。暗号の自己珟前は実存にずっおはひず぀の客芳性であり、この客芳性は、他の䜕ものによっおも衚珟されず、ただそれ自身ずのみ比范され埗るのである。この客芳性においお語るのは超越者であり、単に高められ拡匵された人間の心ではないのである。したがっお、衚珟においお理解可胜ずなるものは、暗号ではない。理解可胜にするこずは、暗号文を砎棄するこずを意味するのである。理解䞍可胜なものをたさに理解䞍可胜なものずしお、了解可胜なものを了解しながら、意味深長に圢成されおいるたたに芋るこずは、この理解䞍可胜なものが透明ずなるずき、暗号を通しお超越者に觊れるこずを蚱すのである。

 諞暗号の䞖界の秩序。— 人盞孊は、珟存圚のその郜床の具䜓性から〈に基づいお〉解読しようず努める。それは、䞀般的な諞呜題を成果ずしお埗るためではなく、䞀般的なものを途ずしお利甚するこずによっお性栌描写ぞ至るためである。それゆえ人盞孊が真であるに留たり埗るのは、その内容を秩序づける䜓系ずしおではない。諞圢像の䜓系性は、ただそれらの倖面的な珟存圚諞圢匏に関わるだけであろう。人は、珟存圚の人盞孊を論理化(logisieren)し、知ぞず栌䞊げするこずを詊みたが無駄であった。その堎合、人は芋かけ䞊、科孊的な掞察の諞客芳のように、぀ぎのものを芏則ず蚈画の䞋にもたらすこずができる。そのものは、しかしやはり、科孊的研究の察象ずしおは、即座に解消されるものであり、珟存圚党䜓ずしおは消滅するものである。語るこずによる了解行為ずいう具䜓的な成果があり、その他、この了解行為の諞可胜性に関する単に圢匏的な諞怜蚎ずいうものがあるのである。

頁

 しかし、人盞孊的なものが暗号ずなる凊では、この人盞孊的なものは、秩序づけられた知に倉える行為にずっおは、接近䞍可胜である。この接近䞍可胜性は、無芏定的な倚矩性ず具䜓的な党䜓性ずのための人盞孊が単に接近䞍可胜な〈近寄り難い〉ようにではない。この人盞孊的なものは、実存の根源から瞥芋される故に、ただ珟存圚が圚るのではなく実存が䞀圹を挔じるような凊ではむしろ䜕凊でもそうであるように、ここでも、いかなる路も知ぞ通じるものではないのである。

 意図された「暗号䞖界の秩序」は、したがっお、いかなる抂芳によっおも、暗号䞖界を支配はしない。暗号䞖界の秩序はむしろそれ自䜓、諞暗号ずしお止揚するものであろう。諞暗号は、歎史的な充実性においお、抂芳出来ない深さずしおあるものであり、䞀般的な珟存圚諞圢匏ずしおは、諞々のカプセルずなるのである。

 にも拘らず、人が暗号䞖界の秩序を、哲孊しながらの手探りで考察しようず欲するならば、それはひず぀の自然な盞互継起ずしお珟われる。䞖界定䜍のあらゆる珟存圚が暗号ずなる。自然ず歎史の豪華さがそれである。それから、はっきりず開明された意識䞀般であり、これは、存圚を分節化する諞範疇ず共にあるものである。最埌に、人間であり、人間は可胜性ずしお䞀なるものにおけるすべおであるが、けっしお汲み尜くされないものである。

 a) 䞖界定䜍は、それ自䜓のためには、いかなる暗号解読も必芁ずしない。暗号解読によっおは、䞖界定䜍は䞖界定䜍ずしおは拡匵されるこずはなく、むしろ、それ自䜓においお䞍明瞭ずなるずいう危険に陥る。ずいうのも、䞖界定䜍は、珟存圚の暗号本性を批刀的に分離するこずによっおこそ、自らを展開しおきたからである。暗号解読は、䞖界定䜍においお劥圓性を有し埗るような最も僅かな知をも創りはしないが、䞖界定䜍で捉えられる諞事実は可胜的諞暗号なのである。しかし䜕が暗号であり、いかにしお暗号であるかを決めるのは、どんな科孊でもなく、実存なのである。

 䞖界定䜍である科孊が無ければ、圢而䞊孊は空想ずなる。圢而䞊孊はただ科孊を通しおのみ、諞々の立脚点ず知識内容ずを埗るのであり、これら立脚点ず知識内容ずは、自らの歎史的状態のなかにある圢而䞊孊にずっお、珟実的な超越行為の衚珟ずしお圹立ち埗るのである。圢而䞊孊的探求のほうからは逆に、私が珟実の内で暗号を芳るこずによっお䞖界定䜍が私にずっお本質的に重芁ずなる堎合には、䞖界定䜍に匟みを䞎えるのである。したがっお、超越者の探求は同時に、珟実的なものを仮借なく知る意欲ずしおあるのであり、この意欲は、䞖界の内では決しお満足に達しない〔科孊的〕研究ずしお自らを遂行するのである。暗号解読においお芳ぜられた超越者は、圢而䞊孊ずしお盎接に蚀衚されるず、気の抜けたものずなる。超越者によっお私が充実させられるのは、私〔自身〕の珟実的な䞖界定䜍においおであっお、私に他の者がその䞖界定䜍に基づいお䌝達するような、憶枬的な圢而䞊孊的知によっおではないのである。

 党方面的な䞖界定䜍が真の暗号解読の前提であり、真の解読は珟実の内で起こり、この珟実は頁䞖界定䜍を通しお刀明ずなったものであるずしおも、それでも、暗号解読は、私が自分の蚀うに任せる諞科孊の諞成果に即しお遂行されるのではない。そうではなく、私は珟実自䜓においお解読するのであり、この珟実ぞず私は方法的知に基づいお還垰するのである。この方法的知は珟実を私にずっおそもそも初めお接近可胜にするものなのである — 他方で私は珟実の内では、前もっおは盲目で運動しおおらず、誀っお圷埚しおいたのである。私が方法的に䞖界定䜍の知を具䜓的なものに即しお遂行する堎合にのみ、私は諞々の暗号を解読し埗るのである。䞖界知ず、超越するこずである解読は、そもそもの最初から関連し合っおいたように、この二぀の批刀的な分離によっお、真の連結が可胜なのであるが、この連結は、諞々の効果や固定された諞事実や諞理論に即するものではなく、ただ、諞々の根元にのみ即するものなのである。

 科孊的な䞖界定䜍は、芏定的な諞芳点の䞋に、自らの諞察象を孀立化する、぀たりそれらを分割し、構成ず仮定ずによっお、たた還元によっお、倉化させる。諞々の枬定可胜性に即しおであれ、撮圱可胜な諞々の盎芳性に即しおであれ、諞々の特性指暙の有限な数を䌎った諞抂念に即しおであれ。

 実存が行なう䞖界定䜍に最初から随行しおおり、長きに亘っお䞍明瞭な諞混同のなかで䞖界定䜍の代わりをする暗号解読は、その時々に党䜓であるものを拠り凊ずし、盎接的な珟圚を、還元されない充実を、拠り凊ずしおいるのである。

 このような党䜓を圢像的に客芳化するこずは、第二蚀語の意味での象城であり埗るのであるが、この客芳化は像ずしおは、知の可胜性ずしおの諞事象から欺瞞的に遠ざかるこずずなるのである。ずいうのも、この圢像的なものは、憶枬的に知られた察象ずなるず、䞖界ず自我ずの間に抌し入り、䞖界を䞖界定䜍にたいしお霧で芆い、空想的ずなった諞像を盎芳するこずで自我を砎滅するに任せるからである。

 䞖界定䜍の批刀的な浄化を以お、暗号解読も初めお自己意識的ずなり、玔粋ずなるのである。今や暗号解読が自らを支えるのは、諞々の事実によっおであり、諞事実ず諞方法の鋭利さを通しお可芖的ずなる、䞖界定䜍の諞限界によっおである。すなわち、決しお消えるこずのない、珟実的なものの残䜙によっおなのである。だが、暗号解読が再び盎接的党䜓性を創るなら、それは䞖界定䜍における客芳的な意矩のいかなる芁請も無しにであり、むしろただ、象城的性栌を有する圢像的盎芳行為ずしおのみ、そうするのである。

 暗号解読は根源的に、個々の珟実性に即しおいる。ずはいえ、䞖界知が可知的なものの癟科党曞的な統䞀ぞず抌し迫るならば、暗号解読はあらゆる珟実的なものの盎接性の党䜓ぞず抌し迫るのである。暗号解読は、特殊な頁諞珟実性の孀立存続を埗ようずするのではなく、あらゆる珟実性に開かれおあり぀぀、盎接的な超越行為の意識を、歎史的に接近可胜ずなった䞖界の党䜓においお埗ようずするのである。暗号解読は、諞事実性ずしおのいかなる察抗審議をも疎かにしようずはせず、諞珟実性の単に偶然な系列を、盲目的なたた、他の系列に抗しお、ひず぀の欺瞞的な像のために遞び出そうずもしない。

 それゆえ、暗号解読の諞原則は、぀ぎのようなものである あらゆる珟実的なものを知ろうず欲するこず。そしお 具䜓的珟実性におけるこの知を、珟前的に、自ら方法的に遂行しようず欲するこず。あるいは他の蚀い方では 党的に居合わせるこず、そしお、䞀般的な諞可知性ずしお挿入された諞成果によっおも、以前の暗号解読の硬盎化した諞象城ずしお挿入された諞像によっおも、自らを諞事物から遠ざけおおかないこず。

 暗号ずしおの珟存圚は、党く珟前的なものであり、絶察的に歎史的なもの、そのような歎史的なものずしお「奇蹟」であるずころのものである。奇蹟は、倖面化され合理化されるず、自然諞法則に抗しお生じるか、自然諞法則無しで生じるものである。しかし、生じるすべおのものは、珟存圚ずしおは諞々の法則性に埓っお尋問されねばならないのであり、これらの法則性の結果ずしお必然的にそのように生じなければならなかったものなのである。自然法則に反しおあるいは自然法則無しで生じるであろうようなものは、匷制的に固定化され埗る事実ずしおは、決しお珟われないであろう。このようなこずは、そこにおいおのみ私にあらゆる珟存圚が珟われるずころの、意識䞀般の開明可胜な本質に埓うなら、あり埗ないこずである。これに察しお、盎接に歎史的に珟実的なものは、知られおいるものではなく、単に事実であるのでもない。この珟実的なものは、自らの無際限性のおかげで残り無く䞀般的に知られるものに解消可胜なのではない。たずえ私が぀ぎのこずを疑わないずしおも。すなわち、私が研究による認識に努める限りにおいお、すべおは的確な諞事物を以お、即ち掞察可胜な諞芏則ず諞法則に埓っお生起する、ずいうこずを疑わないにしおも。それでもこのこずは、貫通し埗ない珟前を持぀珟実性が暗号ずしお解読可胜ずなるずいうこずず、矛盟しないのである。暗号ずしお、珟実性は奇蹟、即ち、「歀凊ず今ずにおいお起るもの」であり、このものは、䞀般的なものに解消可胜ではないけれども決定的に重芁である限りにおいおそうなのである。なぜなら、このものは、超越する実存にずっお、存圚を珟存圚においお開瀺するからである。したがっお、あらゆる珟存圚は、私にずっお暗号ずなる限りでは、奇蹟なのである。 

 暗号においおは、実存的行為の無制玄性におけるず同様、問うこずが止む。〔これずは反察に〕無際限なものに陥る問いずいうものがあり、このような問いは実存的な衝動を欠いおいる故に、空虚な知性性なのである。問うこずは我々にずっお真正な空間を有し、䞖界定䜍においおは限界が無い。しかし問うこずは暗号を前にしおは消え去る。ずいうのも、尋問されるようなものは、即座にもはや暗号ではなく、暗号の鞘さやであろうし、頁単なる珟存圚ずしお没萜であろうから。ただし問いず答えがそれ自䜓ずしお、そこにおいお超越する暗号解読の材料ずなるなら別であるが。問うこずが端的に最埌のこずであるなら、いかなる暗号ももはや芋られない。問うこずは、自らは解離されお客芳化䜜甚ずなる行為ずしおの思惟においお、最終のもずなるのである。しかしこのような思惟は、意識䞀般にのみ由来するのであるから、それ自䜓は最終のものではない。問うこずは、暗号に面する実存の「歀凊ず今」に珟前するものを回避するこずのようであり埗るのである。

 ) 意識䞀般は、ひず぀の既に超越する行為ずなった存圚圢態であり、この存圚圢態を私は䞖界定䜍を通しお探究するのではなく、自分自身の行為においお私にたいしお確蚌するのである。自分自身を思惟する、思惟のこのような行為は、その胜動性ずその論理的構築物においお、暗号ずなるのであるが、この暗号は、䞖界定䜍においお珟存圚ずしお接近可胜なすべおの存圚ずは、異質であるような皮類のものである。

 人間は、䞖界定䜍にずっお珟存圚であるが、同時に意識䞀般か぀可胜的実存である。人間ずは䜕であるかは、存圚知のどんな地平においおも問われ、答えられるのであり、究極的には人間の個別的存圚ずいう暗号においお、その人間の超越者のなかで顕らかずなるのである。

 

 

自然

 

 自然は、内的には接近䞍可胜でありながら私に接近しおくる珟存圚ずしお、空間・時間においお〔諞芁玠間で〕倖的に匕き合い぀぀自らの内では抂芳し難く関係づけられおいる珟実性である。しかし自然は同時に、圧倒的な力で自らの内に私を閉じ蟌め、自らを私にたいしお、私の珟存圚の特定のこの点ぞず集䞭し、可胜的実存ずしおの私にずっお超越者の暗号ずなるものなのである。

 他者ずしおの、私の䞖界ずしおの、私自身ずしおの、自然。— 自然は䞀たびは私にずっお端的に他なるものであり、私ではなく、私無しでも存圚するものである。自然はそれから、その内に私が存圚する私の䞖界ずしお存圚する。自然は、終わりに、私に䞎えられおいるものずしおの私が私の暗い根拠である限りにおいお、私自身である。

 端的に他なるものずしおの自然は、それ自身の根に基づく珟存圚を有する。恐竜類が熱垯の湿原で跳ね回っおおり、ただいかなる人間も存圚しおいなかったような、䜕癟䞇幎も前に存圚しおいたものは、やはりひず぀の䞖界だったのである。我々にずっおその䞖界は単に過去であるが、しかし、その残滓を、人間の䞖界珟存圚の創造ず共に同時に、嘗おそれ自䜓が珟圚であったこず無しに、氞遠に過去のものずしお生み出された䜕かずしお芋做すこずは、銬鹿げたこずだろう。頁人間存圚のために自然を䞀床党滅させるこずは、自然の至る凊から語りかける自然自䜓の存圚を奪うこずである。この他者存圚は我々に、ただ自らの諞局面を䞎えるのみであっお、自らの自己存圚を䞎えはしない。だが、それ自䜓は理解䞍可胜でありながら、自然は我々にずっお、それでも䟝然ずしお我々の䞖界なのである。

 自然は、自然の内での私の行為を通しお、私の䞖界ずなる。この行為が努めるのは、䞀方では、自分の珟存圚目的のために自然を奪取するこずであり、領域を蚭定した単玔な手仕事ず手工業から技術的な支配に至るたでの手段を甚いお自然を加工するこずである。あるいは他方では、掻動的劎働は、自然を我が家ずする手段であり、それは私が自然を利甚しようずする堎合ではなく、芳照しようずする堎合なのである。私は圷埚い、旅行し、自然ず特別に芪近な私の堎所を探し、あらゆる限界を越えお進み、自然を完党に知りたいず思う。自然においおは、端的に他のものず、私の䞖界ずしお自然であるものずの緊匵は、止むこずはない。どんなに支配しおも私は自然に䟝存したたたである。自然は私ぞず方向づけられおいる芳があり、私を担い、私に仕えおいる芳がある。しかし私は自然にずっお明癜に党くどうでもよいものでもあるのである。敬意を懐くこずなく自然は砎壊する。

 私は自らが自然である。しかしただ自然なのではない。ずいうのも私は、自分を自然に察峙させ埗るからであり、私の内なる自然を、私の倖なる自然ず同様に制埡し、倉貌させ、自分のものずしお匕き受けるこずが出来、この自然においお我が家に居るようであるこずが出来るからであり、あるいはこの自然に負けたり、この自然を隔離しお排陀したりするこずがあるからである。自己存圚ず自然存圚ずは、互いに属し合うものずしお察峙し合っおいるのである。 

 自然の暗号存圚。— 自然ぞの愛は、暗号を、枬定可胜で普遍劥圓的ではないが、あらゆる珟実においお共に摑み取られ埗るような存圚の、真理ずしお芳ずる。路の氎溜り、倪陜の日の出、虫の幌虫の解剖、そしお地䞭海の光景、こういったものにおいおは、科孊的研究の察象ずしおの単なる珟存圚を以おしおは汲み尜くされない䜕かがある。

 暗号ずしお自然は垞にひず぀の党䜓である。差し圓たり、颚景ずしお。倧地珟存圚の芏定的状況ずしおの颚景においお、私はその郜床存圚しおいるのである。それから、〔自然は〕䞀なる䞖界党䜓ずしお、私が思惟し衚象する劂き䞀぀の枬り知れない宇宙である。次いで、〔自然は〕特殊な諞存圚者の自然諞領域であり、すなわち、諞々の鉱物、怍物、動物の諞圢態、そしお光、音、重力ずいった基本的な諞珟象なのである。最埌に、〔自然は〕ある環境の内での珟存圚の諞様態ずしおの諞々の生呜珟象の領域なのである。党䜓は垞に、抂念的に理解され説明され埗るものより以䞊のものなのである。

 暗号ずしおの自然は、歎史的に特殊な圢態においお、私の珟存圚が倧地に結び぀いおいるこずであり、そこにおいお私が生れ頁自分を遞択したずころの自然の近さである。そういうものずしお自然は、亀わりを欠いた暗号である。なぜなら、この暗号においお自然は、私にずっお唯䞀的に、それゆえ最も匷烈に、血瞁的存圚——私の魂の颚景——ずしお存圚するからであり、か぀、これずは別に、党く疎遠なものずしお存圚するからである。

 ここから円環は曎に匕っ匵っおゆく。私は、諞々の堎所の粟神にたいしお開攟的であり、この粟神は、私にたいしお、亀わりのなかで、過去ず珟圚から私に近付いお来る他の実存たちの〔各自の堎所ぞの〕根づきを䌎っお立ち珟れるものなのである。私は曎に、芋知らぬ颚景に開かれおいる。未だ自然が人間によっお觊れられおいない凊では、私は自然のなかでの孀独の内実を圓おにしおいるのである。地球は故郷ずなり、旅するこずぞの衝動は倧地の諞圢態のなかに諞々の暗号を探すこずずなるのである。

 自然の歎史性は、限界無きものの䞭ぞず拡倧可胜ではあるが、颚景の絶えず新しい諞々の歎史的䞀回性においお凝集される。しかし、〔自然の〕類型が䞀般的に芳ぜられる皋北海の、䜎湿地ず荒野ず沌地を䌎った海岞地垯。ホメロス颚の海の光景。〔むタリア南郚地方の〕カンパヌニャ。ナむル川。山岳地垯ず荒地。極地䞖界。ステップ地垯および熱垯地方 、類型は暗号ずしおは非珟実的である。ただ、珟前的なものの無限性に立ち合う堎合にのみ、暗号は開顕可胜なのであり、この暗号に諞々の類型の抜象はただ目醒めさせ぀぀導いお行き埗るにすぎないのである。したがっお、諞々の可胜性のいかなる俯瞰も存せず、そういった俯瞰があるずすればそれ自䜓は諞暗号を自らにずっお遮光されたものにしおしたうであろう。自らの堎所で深化するこず、自らの颚景に忠実であるこず、疎遠なものが珟前的なものずなるこずに準備するこず、これらのこずにおいお、自然の歎史的な蚀葉が聎かれるのである。

 私は自然から語り掛けられおいるが、自然は問われるず抌し黙ったたたである。自然はひず぀の蚀語を語るが、そのこずによっお自分の姿を珟すこずはなく、あたかも蚀い始めるず蚀い淀むかのようである。䞍可解なものの蚀葉であるからずいっお、この蚀葉はその䞍可解なものの愚かしい事実性であるのではなく、暗号ずしお、その䞍可解なものの深みなのである。

 暗号においおは、客芳的な䜜甚無しの珟前的珟実性の意識がある。暗号においお経隓されるものは、継起系列においお認識可胜なものずしお経隓的に珟存圚するのではなく、諞原因に䟝存しおいるのでもなく、内圚次元における超越者の玔粋な自己珟圚なのである。

 自然哲孊による暗号の解読。— 自然の暗号が䜕であるかを䞀般的に蚀うこずを、叀来、自然哲孊は敢えお詊みおきた。自然哲孊は自然を人間に理解し埗るように努めおきたし、それによっお、この魂を吹き蟌たれた芪近さずは反察に、自然の近寄り難いものを、他なるものずしお感じさせるこずにもなったのである。この他なるものは人間の諞可胜性を超えお厇高なものずされた。頁自然があたかも人間にずっおのみ存圚するかのように、自然が人間にずっお思念されるこずは䞍可胜であるこず、〔そしお〕自然が自ら自身の内で充足するこずもたた䞍可胜であるこず——このような芋極め難さぞず、思匁的思想は突き進むものであった。これらの思匁的思想は自然を先ず——あたかも自然が自らの内に閉じられおいるかのように——「䞀なる党生」(das eine Alleben)ずしお芳じおいた。これらの思想はその埌、䞖界定䜍の知においお自然の統䞀性が分解するに任せたのであり——その結果、自然は䜕か他のものを瀺すように芋えるこずずなった——。終極的に、これらの思想は自然を、新しい統䞀性においお、自らの内で分節化された階局系列ずしお、そしお自然自䜓を包越的な階局系列においお、思惟するようになったのであり——、その結果、自然は他のものの䞭で止揚されるこずずなったのである——

 a党生ずは、「自然は生成の陶酔である」、ずいうこずである。䜕凊から䜕凊ぞず問われるこずもなく、自然は終わり無き去来であるような存圚なのである。この存圚は氞遠に自らの酩酊のなかに保たれるのである。人栌も運呜も知るこず無く、自然は、自らの創造行為の倧河ぞの垰䟝であり、この倧河の熱狂は、無意味なものの苊痛ず䞀぀に絡たり合っおいるのである。぀たり、自然は苊痛の車茪なのである。この車茪は、䜕の成果も無く、自分を自分自身の回りに回転させおいるように芋える。自然は、いかなる本来的時間でもない時間である。なぜなら、絶え間なき産出ず貪食ずにおいお、決断を欠いた無際限性が続いおいるからである。あらゆる個別的なものは、浪費の枬り難さにおいお無のようである。自然は、自らの欲するこずを知らない枇望である。自然は生成の歓喜ずしお、くすんだ拘束の嘆きずしお、芋遣る。それゆえ、自然の暗号は䞀矩的ではなく、むしろ䞡矩的である

 自然は、諞力の均衡においおは、存立するこずの安らぎぞず自らを浄化する。私がこのような自然に埓うずき、静かな調和が私を掬い䞊げるかのようである。自然は、様々な圢態を充満させお汲み尜くせない意味深長さで生成し぀぀、自らの珟存圚を分節化したのである。そしお自然はあらゆる生成したものを、仮借なく盲目的に砎滅させたのである。それにも拘らず、自然は限り無く慰める存圚ずしお珟象するこず胜うものである。すなわち自然は偉倧な創造する生呜であり、砎壊され埗ず、珟象においお氞遠に新しく、䞖界霊魂の垞に同じ根源力なのである。党生は自らに私を匕き寄せるように芋え、私を魅惑するのであり、私をその勢いよく流れる党䜓性の䞭ぞず溶解するように芋えるのである。動物および怍物の領域における自然の諞圢態は、私ず血瞁関係があるかのようである。だが自然は応答しない。それで私は苊しみ、反抗するのである。ただ、庇護されおいるずいう感じず、自然ぞの憧憬が存続するのみである。

 自然の近づき難さは、別の可胜性ずなる。すなわち、私を脅かすずころの、束瞛を解かれた諞芁玠であり、絶察的な疎遠性の勢いであり、動物の諞圢態の深淵である。この諞圢態は、私が自分をそれらずの類瞁性においお束の間同䞀芖させる限りは、私の恐るべきあるいは笑うべき歪んだ圢態ずなるのである。頁党生は、ひず぀の可胜性に埓えば、私が信頌する母芪のように生成する。他の可胜性に埓えば、私にずっお恐ろしい悪魔のように生成するのである。

 安らぎを欠いおいるずいうのが、党生の䞀面である。岩塊のような諞々の圢の硬盎性は、単に硬化した䞍安静なのである。埮かに光ったり、きらきら光ったりするこずの無際限さ。光の前での、あるいは倪陜に照らされお埮光を発する岩塊の小堎所の前での、波打ち。雚の雫の跳躍ず、露のなかでのそれらの茝き。無数に運動させられる氎面䞊での色圩の埪環ず絡み合い。海岞に打ち寄せお砕ける波。立䜓性で圢成されながら䞀瞬もじっずしおいない自らの珟存圚を有する雲。広さず狭さ。光ず運動。——これらの䜕凊においおも、自然存圚のこのような衚面は、魅惑するものであるずずもに砎滅させるものである。 

 自然の統䞀性の瓊解 自然は党生ずしおは䞀なる自然であるず芋えおいたが、この統䞀性は知にずっおは特殊な圢態においお私にたいしお生成する 自然の普遍的な法則性ずしおの機械仕掛けの統䞀性があり、ここでは䞀切は数、基準、重さに埓っお把握可胜である。圢態孊的諞圢態の統䞀性があり、この諞圢態は自らがその郜床、可胜な諞々の圢の䞀党䜓なのである。各々個別に生きおいるものずしおの生呜の統䞀性があり、この個別的生呜性は自らにおいおは無限な党䜓なのである。ずころで、自然の統䞀性は、たさに、䜕か或る芏定的な統䞀性をこのように明確に捉えるこずによっお、瓊解するのである。党生〈党き生〉ずいう統䞀性は、思惟されたものずしお存立もするのではなく、ただ、ひず぀の統䞀性ずいう暗号なのである。この統䞀性は、盎接的な〈媒介されない〉意識にずっおは、ひじょうに自明的に思われるこずがあるので、自然である䞀なるものずいうこの暗号に固執しないためには、この統䞀性が思惟されるのは䞍可胜であるこずを掞察する必芁があるのである。自然科孊的に芏定的ずなった知は、自然の裂散性(Naturzerrissenheit)ずいう暗号が刀明ずなるようにするのである。

 段階系列 党生の統䞀性が瓊解しおいるず、統䞀性は思匁的思想においお再び探求される。思匁的思想は、自然の内で異質なものを、自然諞圢態の歎史的生成の段階系列においお束ねるのである。この自然諞圢態は、無時間的な系列ずしおあたかもこの諞圢態が盞互の䞊に打ち建お合い、産出し合うかのように、重量ず光ずの、色圩ず音ずの、氎ず倧気ずの、結晶の諞圢態の、怍物ず動物ずの、諞領域においお、思惟されおいる。無時間的発達の思想は、自然珟存圚の段階系列においお、結合された状態からの解離の増倧を芋、内面化ず集䞭化の増倧を、そしお可胜的な自由を芋るのである。その生成はその堎合、時間的で有目的的な発展ずしお芋られる。そしおそこにおいおは、倱敗した詊みも、怪奇で頁䞍条理な諞目暙も芋られ、これらを自然自䜓が持っおいるように芳ぜられるのであり、そしおこれらが再び、自然がそれ自䜓においお䞀なるものずしお完結可胜であるこずを䞍可胜にするのである。

 ここから、ひず぀の包摂的な段階系列が、存圚の暗号ずしお考案される。この暗号においおは、自然は〔党䜓の〕䞀郚分であり、この䞀郚分は自分から埌方ぞ、そしお前方ぞず方向を瀺すのである。自然においお、埌ろ向きには、「自然の根拠」が、超越者の接近䞍可胜な深みずしお考え出され、この超越者から、珟存圚が自然ずしお可胜ずなり、その埌に珟実ずなるずされるのである。自然においお、前方を望んでは、自然から「粟神」ずしお生成するであろうずころのものの萌芜が芋られる。自然においお、既に「粟神」が茝いおいる。この粟神は、埌になるず、自然から出お、粟神自䜓ずしお突発出珟するだろうが、自然においおは〔ただ自然に〕結び぀けられお無意識なものずしお、暗号においお〔のみ〕可芖的なのである。粟神は埮動しおいるが、自らを芋いだすこずは未だ出来ない。したがっお苊悩なのである。粟神は自分の珟実性の基盀を自らに準備する。だから歓びなのである。自然は粟神の根拠であり、粟神は既に自然の内に存圚する。同様に、粟神が珟実的である凊では垞に、自然は尚も粟神の内に存圚しおいるのである。

 芜吹く粟神ずしおの自然ずいう暗号においおは、そのうえ、粟神の媒介においお埌に実存の自由ずなるものが、既に無意識的珟実性ずしお珟前しおいるように芋える。意識を欠いた芳想的創造が、蚈画的悟性無しの蚈画ずしおの自らの道を行くのである。自然の内には、蚈画以䞊のものが、理性的な無意識性の深みを通しお存圚するのである。このものは、自然が途方に暮れおしたうように芋える時、蚈画以䞋であり、その堎合、自然は、䟋えば新たな珟存圚諞状況における生がそうであるが、突然に適応するはずなのである。自然ずいう暗号においおは、理性ず魔性ずがあり、理性ずは機械仕掛けであり、魔性ずは諞圢態の創造ず砎壊なのである。

 自然の諞暗号にずっおの䞀般的諞定匏の欺くものず乏しいもの。— 諞暗号の諞定匏は、自然に関する芏定的知のあらゆる諞様態を通しお内容的に充実され埗る。この知が知ずしお思念されおいるのではなくお、この知においお把捉される事実性が存圚の蚀葉ずしお思念されおいる限りにおいおはそうである。だが垞に、自然の暗号の質料は、盎芳的なものであり続ける。この盎芳的なものは、自然が私の諞感官に私の䞖界においお出珟する仕方なのである。自然に関する知は、盎芳的像ぞず遡行倉換されるこずで初めお、再び語り掛けるものずなる。そのような堎合が、アむンシュタむン的䞖界の屈曲空間の䜕ずか認識可胜な広がりが、根源ず目暙においお暗黒なたたの途方もない、䞖界党䜓の運動ずしお、自らの内に閉じられない䞖界の限界衚象ずなる堎合である。このような限界衚象は、぀ぎのような問いによるのである、すなわち、それを超出しお䜕が運動の根拠なのか、そしお、䜕の内にこの屈曲空間はあるのか、ずいう問いである。

 しかし、自然の暗号の思匁的諞定匏は——自らの盎芳的な充実に関しおではなく、自らの本来的意味に関しおは、頁諞科孊の進歩における諞々の芏定的自然認識から独立しおいるのであるけれども——経隓的珟実を認識するのだずいう芁請ず共に珟われる堎合には、䞖界定䜍的知ず混同され埗るこずによっお、欺くものである。ずいうのも、それらの定匏によっおは、どんな皮類の䞖界認識も生じないからである。それらの定匏が曎に、自然に関する斯く斯くの知に基づいお、ある行為ぞず誘導する堎合には、ある魔術的な操䜜が或る望たれるものを産出するはずだずされるのである。この堎合、その産出は、思惟された諞暗号䟋えば賢者の石の圢をずった党生ずか、したいには、特殊な秘薬の圢をずった党生などが、䞖界の内で䜜甚する諞力のように利甚されるこずによるのである。遂には、混同から、科孊的な、すなわち個別的で盞察的な䞖界定䜍の䟡倀を、吊定する結果ずなる。この䞖界定䜍は、たしかに芏定的ではあるが個々別々で䞍充足な知であり、これず比べお、党䜓に関する䞀方の憶枬的な知は、無限に卓越しおいるように芋えるのである。しかし私が䞖界の内で行為によっお䜕事かを達成しようず欲する堎合、私が成果を挙げるのは、ただ、私が個別的で方法的な知を限界の意識をもっお蚈画的に予枬し぀぀適甚するに応じおのみである。化孊ず生物孊を通しお私は、耕地から採れるものを採るこずを孊ぶ。これを孊ぶのは思匁的諞思想での暗号文の解読を通しおではない。医療科孊を通しお私は、諞々の感染病ず闘い治癒するこずを、諞々の傷や腫れものの倖科孊的凊眮を、孊ぶのであっお、粟神感応的な手段やたじない、その他の、党生に関する憶枬的知に基づく方法を通しお孊ぶのではない。

 諞定匏は、さらに、内容に乏しいものである。ずいうのも、自然のあらゆる暗号は、珟実の自然の歎史的珟前においおのみあるからである。このような自然は私にずっお「歀凊で斯くある」ものなのである。暗号を私が読むのは、私が自然の或る芏定的な領域で、その領域の生ず、幎月かけたあらゆる倩候のなかでの自分自身の諞掻動を通しお、知り合いになる凊においおである。そのようにしおのみ私は、自然の生ず融合するのである。これは、私が特定の堎所に圚るものずしおの自然の生ず付き合うこずによるものなのである。私の芳察ず䌁画実斜ずの諞々は、独特のあり方で自然ず共圚するこずによっお、自然ずの間に他のものを介入させるこず無く、芏則ず機械仕掛け無く、為されお経隓されるこずで、私を人間䞖界の倖ぞ運び行くのである。それはたるで、近寄り難い前史時代に舞い戻るようなものであるが、自然科孊的に可胜な知を越えゆく途䞊においおなのであっお、この知が、私の経隓し埗るものを初めお私に開くのである。その堎合、私は党諞感芚をもっお自然を把握するのであり、あらゆる可芖的なもの、聎取可胜なもの、嗅ぐこずのできるもの、觊れるこずのできるもの〔の秘密〕が、私に打ち明けられるのである。私は、自然の運動であるようなひず぀の運動ぞず倉わり、この運動は自然の震動を私の䞭で共震させるのである。私が自然ず協働するための導きの糞を所有するために—頁ずいっおも私が自然にほんずうに近づこうずするず、私はこの導きの糞から逞れおしたうのだが—、私は狩人であり、採集家であり、庭垫であり、山番なのである。䞖界定䜍の合理性が私に梯子段を䞎え、私を諞々の錯誀から守るならば、私は本来的な暗号ぞ到るのである。この本来的暗号の前では、あらゆる自然哲孊は、たずえ〔到るべき凊ぞ〕導くこずず、泚意深くさせるこずずを知っおいるにしおも、単なる思想ずしおは圱が薄れおしたうのである。そのようにしお私は、あらゆる諞目的を越え出お自然の空間を自分のものずするこずによっお、初めお自然自䜓の前に立぀のである。ここから、数千幎を通じおの自然哲孊における数少ない思想動機の必芁䞍可欠な反埩は、その郜床、実際の暗号解読の無限な悊楜の䞭に溶かし蟌たれるのである。この暗号解読は私に、汲み尜くされない充溢を提䟛し、諞々の思想を初めお真なるものにするのである。

 自然の暗号の実存的意矩。— 私は自然の内にあっお可胜的実存である。このこずに応じお、私は自然に面しお、私の可胜性の実䜓から、二぀の偎面で逞脱する。私が自然を、加工の察象ずしお、たた、それで私が自分の実を瀺すべき抵抗ずしお、さらに、そこから私が䜕かを生産すべき材料ずしお、私ぞずただ尚も到来するに任せるだけならば、私は実䜓無き掻動性の䞭に滑りゆくのである。このような掻動性は、珟存圚の圢匏䞻矩ずなる。この圢匏䞻矩は、自然敵芖を通しお、私をしお私自身をも私の諞々の生内実に関しお倱わせるのである。自然を我々のための単なる資材ずしお抂念的に理解するこずは、このこずによっお同時に我々自身の根元を枯枇させるこず無しには、䞍可胜である。倧郜䌚の石造りの海、その喧隒ずその光もたた——すべおは加工された自然であるに留たり、自然を瞥芋する可胜性を保持しおいるのである。——逆に、これに反しお、私が自然を本来的存圚にし、私自身を自然の産物ずするならば、私は自然ぞの心酔のなかで、私が本来的にはそれであるものずしおの自己存圚ずしおは、私を忘华するのである。

 二぀の逞脱に抗しお、最も決然ずした自己存圚にしお初めお、愛を取り違えるこずのない、自然ぞの最も玔粋な愛の根元なのである。぀たり、自然は我々の珟存圚の掟生誘導物でもあり埗なければ、それぞず我々が自らを倉化させるべきであるような、より良きものでもあり埗ない。むしろ自然は自分自䜓から〈に基づいお〉我々自身にずっお〈向き合っお〉圚るのである。カントは自然にたいする感芚においお、善き魂の衚城を芋た。自然に察する粗暎さは、倧抵の堎合、傷぀けられた自然のためにではなく、そこからそのような態床が可胜であるずころの心のあり方〈心根〉のために、我々をぞっずさせるのである。或る者が長い道を歩いおいお通りすがりに自分の杖で花を斬り萜ずすならば、我々は吐き気を催すが、蟲倫が党平地の草を刈るず、満足するのである。

 けれども自然ぞの愛は人間にずっお、ひず぀の実存的危険である。私が自らを、けっしお究められおいない暗号ずしおの自然ぞ捧げるずすれば、私は自分を自然から垞に繰り返し取り戻さなければならない。ずいうのも、自然は私を頁無思想性においお私自身にずっお疎遠なものずし〈私自身から疎倖し〉ようず欲するからである。私はこの〔自然の〕䞖界の富を盎芳するこずにおいお浄犏であるが、私が束の間以䞊に自然に倢䞭になるならば、私は裏切られおいるのである。

 人間は、孀立化においお自らを倱い぀぀、自然を亀わりの代わりずしお求める。人間を避ける者は、危険を䌎うこず無く自らを自然ぞの感情においお拡匵する堎合、倖芋䞊の逃避地を芋いだすのである。ずはいうものの、自然を䌎っお圌の孀独は高たる。自然ぞの感芚は哀愁の性栌を持぀ようになり、答えるこずをしない自然は、その意識を欠いたあり方においお欺きながら、苊痛の道連れのように芋えるのである。我々はすべおを蚀葉で量る。䜕故なら我々は諞々の可胜的実存ずしお、亀わりにおいお初めお自分ぞ至るからである。自然が蚀葉を欠いおいるこずは、〔自然は〕亀わりを欠いおいる囜だずいうこずである。あらゆる亀わりから匕き離されお、リア王は〔この囜の〕構成分子たちず䞀䜓ずなり、この狂人ずなった王には、すべおが蚀葉ずなるように芋えるのであり、理解䞍可胜なものが理解可胜ずなり、リア王自身が理解䞍可胜ずなるように芋えるのである。

 自然の暗号ずのみ䞀緒の生は、単なる可胜性の苊痛である。そのような生は、将来の期埅のようなものであり、それゆえ垌望であり、青春期に適ったものである。この青春期は、自然の暗号を芋遣っお、濫甚ずしおの時期尚早な珟実に察しお、たた、青春期がただ察応し埗ない人間䞖界〈䞖間〉の諞芁求に察しお、自らを保護するのである。青春期にずっお自然は䌎䟶〈道連れ〉のようなものであり、この䌎䟶ず共に青春期は倧事にされお生きるこずが出来るのである。未だ決定的な亀わりは欠けおいるが、青春期は自分自身の〈固有の〉無芏定な深みを経隓する。しかし、それから自然は、その内で私が生きる䞖界ずなり、その堎合自然は、私にずっお暗号であるこずによっお既に生であるようなものではないのである。自然は、そこにおいお自己存圚ず他の自己存圚ずの亀わりが遂行されるずころの空間ずなり、私の掻動の領野、私の運呜の堎ずなる。それゆえ私は、共同䜓を通しお充実させられた䞖界ずしおの自然に結び぀けられおおり、歎史的に魂を吹き蟌たれた颚景ずしおの自然に結び぀けられおいるのである。自然が幞運の䌎䟶ずなった堎合、私は、自然を䜜り倉え぀぀、自然に䜕ず遠く螏み入っおいるこずか。私が、珟前する実存の本来的な近さにおいお、実存ず䞀緒に立぀限り、私は、背景である暗い暗号ずしおの自然に聎き入るのである。

 私が再び玔粋な自然ぞ回垰するず、今や、単なる自然矎は、痛々しく芳ぜられる。その堎合、自然は私にずっお可胜性のようであるのであり、けっしお珟実ずはならないのである。自然に觊れる喜びのなかにあるのは、反埩ず想起であり、将来ではないのである。私は、〔自然が〕蚀葉を欠いおいるこずを蟛く感じる。自然が目芚たせるのは、欠乏の意識をもった憧れであり、珟前的な満足を欠いた心の運動である。なぜなら、実存が珟存圚の䞭に歩み入ったならば、自然の暗号は、もはやそれ自䜓のために本質的なものではないからである。

頁

 

歎史

 

 ã€€äž–界定䜍的研究にずっおは、歎史ずは、過去および行為する人間たちが成し埗たものの、民族生掻䞊の諞事態および諞々の出来事の総䜓のこずである。経隓的に発生するこずは、あらゆる芖点においお、客芳的芳察にずっおは無際限である。この経隓的に発生するこずは、任意に遞び出されるこずで蚘述され、物語られ、予め措定された目暙点の諞々ぞ向けお構成的に分節化され、単に珟存圚に属するものずしお因果的に探求されるのである。

 私が内面的に圓惑させられるず、過去から私に実存が語り掛ける。歎史が私にずっおの内実ずしお光を圓おられ、いく぀かの珟実性が私に付いお来、他なるものが、たすたす暗くなる背景の䞭に入っおきお、この背景から、がんやりずした曙光のみが、私の県差しは其凊ぞず届くかも知れないずいう可胜性をほのめかすのである。

 史実的知ず実存的衝撃を越え出お、しかし暗号ずしおのこの二぀においおのみ自らを芋いだしながら、超越する働きは迫り来るのである。未だ理論的で蚘述的あるいは因果的な掞察を有するこずなく、未だ諞実存の決断する決意を知芚するこずもないたたであるが、この二぀を突砎しお、歎史的な諞倉化においお、ひず぀の衝撃が、超越的な出来事ずしお、私に感埗可胜ずなるのである。史実家ずしお私が知るのは、この出来事が起こったずいうこず、そしおそのこずによっお〔今や〕この出来事は究極決定的に珟実である、ずいうこずである。可胜的実存ずしお私は人間たちの諞行を感知する。すなわち、この出来事は為されたものであり、再び撀回できるものではない、ず。この二぀のものが暗号ずなるのである。それはあたかも、超越者が自らを告知するかのようなものであり、旧き神が芆いを剝がされお死に、新たな神が産れるかのようなものである。そこにおいおは䜕ものもあれこれ考えられねばならないのではなく、䜕ものも基瀎づけられねばならないのではない。歎史の暗号性栌は、こずによれば、諞々の芏定的出来事においお、私にずっお凝瞮するのかもしれない。私が知っおおり、蚀うこずが出来るよりも以䞊のものが、明瀺されるのである。偉倧なる歎史著述家ずいうものは、ただ諞珟実性のなかで語るだけで、この諞珟実性に、意図も目的も抱くこずなく、間接的に、この透明性を埗させるのである。— それは、単に瞛り付ける理論的描写ずは異なるものであり、たた、神話化する歎史叙述ずも異なるものである。埌者は、欲せられたものずしおは非真理ずなるものを、意識的に創䜜するのである。

 経隓的な珟実に䞊べおもうひず぀別の神話的な珟実を措定した暗号解読の仕方は、我々にずっお疑わしいものずなっおしたっおいる。客芳的で補完的な神話が物語り、経隓的な珟実が攟棄される堎合、我々は埓わないのである。すなわち、介入的な諞力は、我々にずっおもはや、隔絶された諞圢態ではないのである。ギリシャ人は、「ひず぀の神がそれを為した」、ず蚀うこずが出来た。我々はこの蚀を了解するが、しかし頁無制玄的な真摯さにおいおは、この蚀をもはやそのようには蚀衚するこずは出来ない。終極的で曎なる飛躍においおは、䞀回的な分節化のための史実的な個別的生起が、圌岞に留たりながら珟䞖を質料ずしお啓瀺される超越者の歎史ずしお語られる超感性的な党䜓においお、生成するのであるならば、䜙りに倚くのこずが蚀衚され過ぎおいるのである。我々は、我々にたいしおそのような党䜓衚珟を満たし埗るような、いかなる根源的暗号をも知らないのである。

 歎史の諞暗号を解読しようずしお、我々は始原ず終末ぞず抌し入ろうず努める。しかし我々が芋るのは、特定の堎所においお知られるような、諞々の資料、蚘念碑、道具の劂き諞遺物によっお裏づけられるもののみであり、或いは、諞事実に基づけば䞖界の内においお確からしいものずしお前提され埗るもののみである。䞀方、未来であるずころのものは、垞に、互いに排陀し合う諞可胜性の内に留たるのである。したがっお我々はけっしお、端的な始原[den Anfang]にも、端的な終末[das Ende]にも、抌し入るこずはないのである。暗号は、ただ、歎史性においお、架空の始原ず終末の間でのみ、解読されるものである。始原ず終末は、我々にずっお、実存的に蚎え掛け、暗号ずしお語り掛ける故に、歎史的に有意味であるものを有するのであるが、無際限な連続の䞭に嵌め蟌たれおいるのである。歎史の暗号は、本来的なものが挫折するずいうこずである。本来的なものは、始原ず終末の間に圚るにちがいない。ずいうのも、連続には無意味なものがあるからである。我々は぀ぎのような捉え方があるのを芋る。その捉え方ずは、本来的なものを成果ず䞀緒にしお、生成した限りでの生成したものを最䞊のものず芋做し、必然的なものずしお正圓化し、力を唯䞀真なるものずしお評䟡しお、意味の充実した暎力ずしお正統芖するものである。だが、我々は぀ぎのこずをも芋る、すなわち、この捉え方にずっお、どのようにしお、歎史の暗号存圚が、単に実蚌䞻矩的な知のために消倱するか、ずいうこずをも。真実であるものは挫折する。しかしこの真実なものは、反埩され、新たに摑み取られお、再び生呜を埗るこずが出来る。このような可胜性は連続ずしおの存立ではなく、䞖界圢成に䜜甚するこずによる史実的意矩でもなく、死せる者たちの続きゆく闘争であり、この死者たちの存圚は、新たな人間たちが芋かけ䞊倱われたものの束明を、挫折が究極決定的ずなるに至るたで掎み取る間のうちは、ただ決定されおはいないのである。䞖界史は、䞖界裁刀ではない。䞖界裁刀を信じるのは、傲慢な勝者の歓声なのであり、自らの珟存圚によっお垞に満足させられおいる倚数者であり、事実的に生きおいる者の、パリサむ人のような独善的自己正圓芖なのである。これらが思うこずは、自分たちが生きおいるのは自分たちが最良だからだ、ずいうこずである。生起したものは倚矩的なのである。総䜓ずしおの䞖界史は平坊な事実性であり、䞖界史を唯䞀的な党䜓ずしお思惟するこずは、空虚な合理性なのである。䞖界史を珟圚的に珟実的なものぞず関係づけるこずは、䞍実な無益さであり、自己存圚する諞粟神の「神秘な䜓」においお盞属し合っおいるものに反するこずである。

頁

 私に疎遠なものずしおの自然ず比べるず、歎史は私自身の本質の珟存圚である。歎史は経隓的であり、たしかに、䞀切を鋳盎す自然に䟝存しおいるが、自然は、歎史が盞察的に圧倒する察象であり、歎史においおは自然は歎史に貢献しなければならないのである。自然は、無目暙性によっお無力であり、自然が終極的には単なる連続ずしおの時間においおは支配者であるずいうこずは、自然の無力の衚珟である。歎史が経隓的には無力であるのは、歎史は自然によっお時間においおは圧倒されお自らの終末を芋いだすからである。だが、この無力は、諞実存における超越者の歎史的な珟象ずしおの、歎史の力の衚珟なのである。自然は、党時間においお存立するものずしお力があるけれども、だからずいっお存圚するのではないのである。歎史は、時間においおは消滅するけれども存圚するものずしお、力があるのである。

 

 

意識䞀般

 

 総䜓的な䞖界定䜍から、そこにおいおのみ私にすべおのものが立ち珟われる珟存圚ぞず、私を送り戻しお、私は自分に、この珟存圚の圢匏を意識䞀般ずしお開明する。この意識䞀般は、そこにおいおのみ私にずっお、存圚するものが存圚し埗るずころの媒䜓であり、この媒䜓は䞍可避的な諞圢匏においおそのようであるのである。この諞圢匏を私は諞カテゎリヌずしお珟前化させるのであるが、䞇人にずっお劥圓するこずを意味ずしおそうするのである。意識は、この偎面においおは同䞀的であり、意識がどんなに倚数であるずしおもそうなのである。

 自然においお数、基準、重量による秩序であるずころのものは、あらゆる珟存圚においお、察象的でカテゎリヌによっお圢成された存圚の、䜕らかの仕方で芏定可胜な分節化である。自然研究者たちが、自然ずいう本を、数孊の掻字で曞かれたものずしお読んだように、䞖界の内でのあらゆる珟存圚は、䜕らかの意味においお䞇人にずっお客芳的に、〔぀たり〕同䞀的に把捉可胜である。私が䞀般的に珟存する堎合に私が非個性的にそれに参䞎するずころの意識䞀般は、䞀矩的な理解ず、それによっお、客芳的に劥圓するものによる共同䜓ずを、可胜にする。我々は、このような秩序に信頌しお生きおいる。぀たり、䞀切は正圓な諞事物ず共に進行するのである。このような秩序の突砎が珟実に芋え、今や䞀切が混沌の䞭に厩れそうである堎合には、恐怖が我々を襲う。だが我々は意識䞀般を開明するこずで、そういうこずは䞍可胜であるこずを知るこずが出来るのである。 

 

 

 

 

第二郚諞々の暗号の䞖界頁

 抂芳頁

 諞々の暗号の普汎性 —頁 諞暗号の䞖界の秩序 —頁

 自然頁

他者ずしおの、私の䞖界ずしおの、私自身ずしおの、自然 —頁 自然の暗号存圚 —頁 自然哲孊による暗号の解読 —頁 自然の諞暗号にずっおの䞀般的諞定匏の欺くものず乏しいもの —頁 自然の暗号の実存的意矩 —頁

 歎史頁

 意識䞀般頁