「いったん決意すると、私の動きは早い。ご高説を述べ、悲憤慷慨するだけの輩というのは、右翼にもいるが、そんな連中は軽蔑の対象でしかない。行動もせずに口だけで非難・批判するのは、低級な文化人か愚鈍な知識人でしかない。」153頁

「人間というものは、一度自信を喪失すると自分を見失い、あやふやな他人の意見や思いつきのはったり発言などに引きずられやすい。とくに日頃、真面目で融通がきかない人ほど、自負の念を失ったときには、他人のいいなりに操られるものだ。これは、どの時代、どの民族にも起きることで、そんな大衆を非難してもはじまらない。」158頁

「私は、戦前の教育を受けました。「天皇陛下は神である」と習いました。じっさい神ではないことは、子供にだってわかりますよ。それでも、天皇は神なんです。
 私たち庶民は、生まれると家庭で育てられます。ですが、天皇には家庭がありません。親兄弟とともに暮らすこともないのです。かつて天皇は、天皇として育てられ、神として民を見つめる教育を受けられました。だからこそ、われわれは天皇を神と崇めることができたんです。」238頁

「緒方竹虎という政治家は、汚濁や御都合主義とはまったく無縁の、誠実と信念の人だと評価される。その風貌も知的で、威あって猛(たけ)からず、卑しさのない、保守政界では珍しい政治家であった。戦後日本の政治家としては、緒方ほど潔癖で、真に日本の未来を考えた者はいないだろう。」60頁

 ―石井一昌「暗殺集団」より―

人間と歴史と現実をよく観察勉強し、文才と覚悟の両方がある人の言葉である。最後の評は、氏の人間観(人間感覚)をしめしている。この本はじつに読者を勉強させる本である。読んでいて気分がわるくなることがないどころかぐいぐい惹きつける。めったにある本ではない。
 
 知識をふりまわす学者で反発を感じさせない者などめったにいない。それが人間の本性であろう。人間は、自己ではなく知識で誇ろうとする者の虚偽を精神本能的に知っているのである。石井氏のような、自己が根本に在る知識には素直に謙虚になれる。人間は、本物には謙虚になれるようにじつはできている。ぼくは、謙虚でないと周りからよく言われたが、とんでもない、周りに本物がおらず、殆ど軽侮しか感じなかったというのが事実である。そういう連中に〈謙虚〉になりよったら大変だ、ぼくが道をまちがえてしまう。

 この本に心に残る言葉はいくらでもあり、すべてが心に残る魂である。







いまの日本はまともでないことが人権面して横行し過ぎている。粛正しなくてはならない。的をあやまたないためには余程の慧眼が必要だが、これもすべて良識から出てくる。





〔サルトルは、同時代の実存思想を区分けし、「有神論的実存主義」と「無神論的実存主義」とがあるとし、前者にヤスパースとマルセル、後者にハイデガーとサルトル自身を入れた。これにたいし、ヤスパースとマルセルはそもそも「主義」と呼ばれること自体を拒否―〈ヤスパースは自らの哲学的論理学の基礎論である包括者論で、包括者の一様態である「実存」を「絶対化」した「実存主義」の発生を可能性として既に予想していた〉―し、ハイデガーは自分は神を否定したことなど一度もないと、これも反論した。学問的には全く話にならないこういう区分けをしてみせるサルトルは、知識人は沈黙してはならないと言う。「沈黙」(Schweigen)を実存の最も内面的な現実であるとしたヤスパースの膨大な政治的発言はつとに識られている。日本の、しゃべるだけで責任をとらない知識人の弊害は周知のことである。発言が責任自覚を伴った行動であるような知識人は、どれだけいるだろうか。「思想は行動である」というアランの言の真意をこの欄は追求している。「思想は同時に沈黙であるような行動である」と補ってもよい。これが真の「発言」であろう―この意味合いのゆえにこの文をここに収めた―。サルトルの「アンガジェ」(engager:拘束)思想は殆どアランの「もの」論の結果的後追いである―当時のフランス哲学徒達へのアランの影響の大きさはサルトル自身が認めている、「だからそれにたいして自分を主張する必要があったのだ」、と―。彼の独創性はむしろ「想像論」(L'imaginaire)にあるはずだ。〕





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NHKは、自分達の置かれている立場を弁えて、自分達が加害行為を加えた被害者がともかく生きている一つの証であるわたしの誕生日11月23日の日には無条件で気を遣い、心からの祝意を持っていることを何らかの形で示唆すべきであった。それと反対のことをやったことは決定的にNHKの為にならなかった。