『恋する小惑星(アステロイド)』(2020, 1-3)は、どこを切り取っても本当に綺麗で透き通っているかのようなアニメだった。
夜空にきらきら光る天体になぞらえてもいいし、美しくてうっとりするような鉱石になぞらえてもいい。
『恋する小惑星』サウンドコレクションジャケット。(C)Quro・芳文社/星咲高校地学部
『NEW GAME!』『私に天使が舞い降りた!』『ダンベル何キロ持てる?』に続いて動画工房のアニメ作品を観るのは4回目だったが、本当に動画工房はすごい。毎回毎回とんでもないアニメを作っている。
本作で最も感心したのは、キャラクターや背景以上に、観測機器や鉱石などの地学にまつわるアイテムや、筑波にある施設や観測中のパソコンの画面などの描写が細かくて丁寧だったことだ。
そこには作り手たちの地学という学問に対する敬意と愛が間違いなく反映されている。とんでもない作り込みだった。
『恋する小惑星』第4話。(C)Quro・芳文社/星咲高校地学部
『恋する小惑星』第5話。(C)Quro・芳文社/星咲高校地学部
『恋する小惑星』第11話。(C)Quro・芳文社/星咲高校地学部
最終回・第12話で示された「今の二人には新しい小惑星を見つけることはできなかった」という結論も、地学に対して真摯に向き合ったこその結論だと言えるだろう。やはり、小惑星は早々簡単に見つけられるものではない。そこも、地学・天文学という学問に対する敬意とリサーチの余念のなさの証明として受け取った。
しかし、それだけではない。二人の夢がまだ叶ってはいけない理由があったと考えている。
本論は『恋する小惑星』がもたらしてくれた感慨を、「尊い」や「エモい」といった簡単な言葉に回収させないための一つの試みである。
みらとあおが小惑星について語るとき、そこにはいつも無限に近いような長い時間性があり、それに裏打ちされた愛があった。
それは地学に対する愛でもあるし、二人の夢への愛でもあるし、お互いがお互いのことを思いあう愛でもある。
「小惑星を見つけたい」という無限の夢
物語冒頭で描かれるのは、みらとあおの幼き日の思い出である。
自分の「あお」という名前が好きになれなかった少女は、くじら座にある変光星と同じ名である「みら」という少女と約束を交わす。
「すごい!私、星と同じ名前?じゃああおは?あおって星もある?」
「ないよ、そんな変な名前。」
「変じゃないよ!かっこいい!それになければ付けちゃえばいいんじゃない?」
「付ける……小惑星なら見つけたら名前が付けられるはず……。」
「じゃあそれ見つけよう!あおの星見つけよ!」
『恋する小惑星』第1話より。
これが二人を永遠に結びつける絆となっていったことは、周知の通りである。
筆者は以前「日常系アニメで重要となるのは時間性である」という議論を展開した。
『わたしに天使が舞い降りた!』論で論じたとおり、日常系アニメとは有限の時間性(1クール、12話分)の中で無限の時間性(この終わりなき日常)を描くという矛盾に立脚して成立している作品形態である。
その矛盾に自覚的でない日常系作品も多く、それはそれでいいと思う。だが、私たちもまた有限の生の中で無限を希求してしまう存在であるからこそ、この有限/無限の矛盾にきちんと向き合っている日常系作品は、名作であると感じることが多い。
『わたてん』では、終わりなき日常を生きているキャラクター達もいつかこの日常が終わってしまうのではないかという予感を感じ取っていたこと、そして日常と断絶していると考えがちな非日常も、日常の積み重ねの中で成立していることを示した。
本作での時間の描かれ方は『わたてん』のそれとは異なっていたが、それでも時間が一つのテーマとなっていたことは間違いない。加えて、筆者がずっと日常系アニメに対して持ち続けている「有限/無限」という観点は本作にも見出していいのではないかと思っている。
本作において「時間」は一つの大きなテーマをなしていた。
第7話「星空はタイムマシン」という挿話であおがまさしく語っているとおり、地球からとてつもなく離れた天体が放つ光は、はるか昔に天体が放ったかつてのものである。星の光は無限に近い時間を越えて情報を伝達している。
みらとあおの過ごしてきた時間も、無限とは言わないまでも、十分に長い。少なくとも彼女らの人生基準で考えれば長いことは実感できるだろう。彼女らの半生は二人の約束の中で生きてきた時間なのだ。
だからこそ、第5話にて描かれた、桜先輩がみらに「小惑星を見つけた後はどうするの?」という質問は、クリティカルである。これについてみらは「よくわかりません!」と簡単に答える。
みらもあおも、二人の夢である「小惑星を見つけたい」という夢の先にあることについては、まだ何も考えられていない。
それはなぜかというと、この夢はまだ二人の手の届かないところにある、はるか遠くで輝く星のような夢だからだ。
「夢を叶えたあと」のことについて、叶える前から具体的に考えられるような夢は、有限の夢である。
桜先輩とみらのディスコミュニケーションは、夢が有限か無限かという二人の認識の齟齬に起因している。
一つだけ蛇足的に言っておけば、このときの桜先輩には有限の夢すら持てていなかったし、それが彼女のコンプレックスとなっていた。
きら星チャレンジに焦点を当てた本作の構成は、二人が夢を叶えていくプロセスと捉えるべきなのだろうが、個人的には無限の夢を有限にしていくプロセスであったと捉えたい。
だから二人の夢はまだ叶わない。高校生の力ですぐ叶うような有限の夢であっては困るからだ。
まだまだ、二人の夢は無限でなくてはならない。
しかし、二人の夢は遠くに離れた星のように、いつまでも手が届かない夢であってもならない。
というか、そうではない。そうであったとしたら、きら星チャレンジの挿話を描く意味がない。
高校生の二人でも、無限の夢に手を伸ばすことは出来る。そして、無限の夢を少しずつ側へ、徐々に有限の領域へと持っていくことができる。本作もまた、有限性と無限性の狭間の中で生きる人たちの物語だったのである。
個人的に一番好きな場面は、第9話のベランダでのみらとあおの会話である。
あおからみらへのお別れの餞別としてあるはずだったお揃いのマグカップは、今では二人が共に同じ時間で生活を過ごす象徴へと変化している。
『恋する小惑星』第9話。(C)Quro・芳文社/星咲高校地学部
二人はこのお揃いのマグカップを持って、同じ星空を見ながら同じ星のことを語っている。
この場面において、星のことに詳しくなったことを得意げにするみらの顔を見るあおの顔の優しさは、二人を結びつけている星と夢と、二人が生きてきた時間を慈しんでいる姿でもある。
二人はここで星のことを話しているが、同時に愛を語っている。それは、星への愛でもあるし、夢への愛でもあるし、地学への愛でもある。
そして何より、無限の夢を分かち合ったパートナーへの愛でもある。