狭義の意味で社会人になりました。学生の時よりも気軽に本(あとマンガ)を買えるようになったことを全力でガッツポーズしています。
・平野啓一郎『私とは何か──「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書、2012年。Kindle版。)
実はロンドンに行っていた1月に買っていた本。ようやく読み終わった。うーん、そんなに響かなかった。
個人という言葉は "individual" の訳語である。 "in" + "divide" + "able" で、「これ以上分けられない」という意味。だから、「個人」とは、社会のもうこれ以上は分けられない最小の構成単位とされる。だが、果たしてそうだろうか。というわけで、平野が本書で提示するのが、様々な人間関係の中で巧みに使い分けられる「分人」の集合体としての人間の在り様である。本書を乱暴に要約するとこんな感じか。
この発想法はいいと思うし、ある程度はその通りだと思う。ただ、人の在り様が人間同士のネットワークのノードとしてしか存在しない感じが、あんまりピンときていないというか、端的に不十分だと思ってしまった。自分は身体性に特に関心があるからなあ。「分人」として存在するたくさんの人格を統合する一つの顔、という話は出てくるが、他の身体についてはほぼ言及がなかったと記憶する。様々な人との関係性の中で生きる色々な「わたし」がいるのはそうなのだけど、その「わたし」は結局「一個」の身体の中にしか存在しない。で、その「身体」が「わたし」の一部分としてうまく認識できない人はどうすればいいのだろう。言ってみれば、「わたしの身体」と付き合う「分人」は存在し得るのだろうか。
と、「分人主義」にやや否定的な立場をとっていることはさておき、平野啓一郎が小説を思考実験にしているところが面白い。なるほど、そういうことを考えながら小説を書いているんですね、と小説と作家の裏側が見えるのが面白い。こんど有名なやつを何か読んでみよう。『マチネの終わりに』がいいかな。
・ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』(大浦康介訳、ちくま学芸文庫、2016年。)
ちょっと前にアカデミズム界隈で流行っていたと記憶している本。これはめちゃくちゃ面白かった。もっと早く読んでおけばよかった感ある。
タイトルからはなんだかキャッチーな響きがするけれども、中身はそんなことなく、わりとごりごりの現代思想の本だったと思う。いかにもフランスって感じ。ロラン・バルトのテクスト論の進化系というふんわりした印象。
バイヤールがまず提示するのは、「本を読んだ/読んでいないとはどういうことですか?」という問いかけである。「読んだ/読んでいない」の二項対立ってそんなに自明なことでしょうか、と。我々は、好きすぎて何度も読み返しているという経験もあれば、ちゃんと全部は読んだことはないけど大体知っている(文学の授業で作品の一部を読むことなんてまさにこれだ)という経験、あるいは、子供の時に読んでめっちゃ感動した記憶があるのに、大人になって読み返してみたらそんなでもなかった、みたいな経験もある。バイヤールは「読んだ/読んでいない」のざっくり二項対立に代わって、
「ぜんぜん読んだことのない本」<未>
「ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本」<流>
「人から聞いたことがある本」<聞>
「読んだことはあるが忘れてしまった本」<忘>
の四分類を提示する。さらに、提示するだけに留まらず議論の中で出てくる書物の一つ一つに対してきちんと四分類のどれに当てはまるのかを註で補足している(◎、○、×、××という四段階の評価とともに)。これを本全体を通じて徹底してやっており、実際には存在しない架空の本についてもやっていることは、本気なのかギャグなのかもはやわからない。
本書の中では結構色々なことが議論されているので、要約は一筋縄ではいかないという感覚にいまぶち当たっている。本書は読書論でもあり、当然テクスト論であり、人間についての議論でもある。テクストも人間も絶えず流動的であるということ。テクストに書かれている文字は全く変わらないにしても、その意味合いや読まれ方は、時代によっても、社会的文脈によって、個人によっても、全く変わってくる。だが、この移り変わりのしやすさこそが、我々がテクストについて、読んだことがあろうがなかろうが、自由に語ることができる可能性を担保してくれている。
書物は固定したテクストではなく、変わりやすい対象だということを認めることは、たしかに人を不安にさせる。なぜなら、そう認めることでわれわれは、書物を鏡として、われわれ自身の不安定さ、つまりはわれわれの狂気と向き合うことになるからだ。ただ、それと向き合うリスクを受け入れる──リュシアンよりも平然と──ことをつうじてはじめて、われわれは作品の豊かさにふれると同時に、錯綜したコミュニケーション状況を免れることができるということもまた事実である。
テクストの変わりやすさと自分自身の変わりやすさを認めることは、作品解釈に大きな自由を与えてくれる切り札である。こうしてわれわれは、作品に関してわれわれ自身の観点を他人に押しつけることができるのである。(224)
最終的にバイヤールは、本について語ることは自分自身について語ることだという認識を提示する。これの一端を担ってくれているのがオスカー・ワイルドの批評論で、やっぱりワイルドいいよなというお気持ちになった。
このように、読んでいない本についての言説は、自伝に似て、自己弁護を目的とする個人的発言の域を超えて、このチャンスを活かすすべを心得ている者には、自己発見のための特権的空間を提供する。この言説状況において、現実世界を指示するという制約から解き放たれた言語は、書物を横断する過程で、通常われわれが摑まえられないものについて語る手段を見つけることができる。
それだけではない。読んでいない本についての言説は、この自己発見の可能性をも超えて、われわれを創造的プロセスのただなかに置く。われわれをこのプロセスの本源に立ち返らせるのである。というのも、この言説は、それを実践する者に自己と書物が袂を分かつ最初の瞬間を経験させることによって、創造主体の誕生に立ち会わせるからである。そこでは読者は、他人の言葉の重圧からついに解放されて、自己のうちに独自のテクストを創出する力を見出す。こうして彼はみずから作家となるのである。(266)
読んでいない本について語ることは、創造的なプロセスである。読んでいない本について語ることによって、我々は作家になることができる。
なんかめちゃくちゃ格好良くてよくないですか。これからもどんどん本について語って、創造的主体になっていきたいですね。
・アントン・チェーホフ『新訳 チェーホフ短編集』(沼野充義訳、集英社、2010年。)
3月末にあった沼野充義最終講義「チェーホフとサハリンの美しいニヴフ人――村上春樹、大江健三郎からサンギまで」が本当に素晴らしくて、一緒に視聴していた文学青年な親友と感動を分かち合っていた。Youtubeにあるので、もし興味のある方はぜひ聞いてみてほしい。
本書はそのお友達の本棚からお借りしてきたものである。すごくいい本だった。1か月かけてちびちび読んでいた。チェーホフって面白いんですね。チェーホフの銃という、銃が作品に登場したならばそれは発射されなければならないという概念は、例えば『天気の子』にも明白に見てとることが出来る。
本書の魅力は翻訳者・沼野充義が最良の導き手としてチェーホフ・ロシア文学・ひいては世界文学への世界へといざなってくれるところにある。各短編のあとに訪れる訳者解説が非常に饒舌である。この饒舌ぶりを鬱陶しいと感じる読者もいるかもしれないけれども、個人的にはあまり馴染みのないロシア文学の話をわかりやすくしてくれていたから、たいへんありがたいものだと感じた。
一番気に入った短編はなんと言っても「奥さんは子犬を連れて」。満を持して巻末に持って来られたチェーホフの代表作(らしい)の、美しさ、完成度の高さたるや。不倫の話と言ってしまえばそれだけのはずなのに、不覚にもこのラブストーリーに心を打たれてしまった。ラブについて語るのがNovelなんだなあ、と久しぶりに小説が腑に落ちた気がした。
以前に村上春樹『1Q84』の感想にて、青豆が暇な時間を持て余したためにプルースト『失われた時を求めて』を読んでいた場面を受けて、自分が暇だったらロシア文学を読んでみたいなあと言った。いよいよ時は満ちたというか、ふと思い立ってドストエフスキーを買いました。こつこつ読んでいきたいと思います。
・ITビジネス研究会『60分でわかる!ITビジネス最前線』(技術評論社、2017年。)
そういう仕事に就いたので、最近はITについて必死に勉強しています。
この本は3年前に出ている本なので、残念ながらもう古い。2017年段階では英語にしか対応していなかったAI音声アシスタントは、すでに日本語に対応できている。しかし、これからテレワークができるようになるでしょうという話を読んだときに「あー実際このテレワークの恩恵にあずかっているなあ」と思えたところなどは、これは3年前の本を読んでいるからならではという感じがした。
この「60分でわかる!」シリーズはよい。端的にイメージを掴むことができてすごくよかった。2020年にはAIビジネスでも出ているので、そっちもチェックしようかなという感じ。
・得能正太郎『NEW GAME!』(10)
普通にお仕事の話をしているからなかなか元気のあるときにしか読めない『NEW GAME!』の最新刊をようやく読めた。
身構えていたけど、9巻に比べたらだいぶ遊びが多くて楽しい巻数になっていたと思う。コウりんの同棲(あれは断じて同居ではない)の挿話とか、ねねっちの正社員昇進 or なるっちのお給料アップをかけたサバゲ―(これはれっきとしたパワハラでありコンプライアンス違反です)の挿話とか。ここでのなるっちの表情がやばくて、なるっちがようやく好きになってきた。得能先生の画力すげぇ。たいへん面白かったです。
……なんてのほほん感想に留めようと思っていたら、後半に収録された川村るいの挿話。いやあ凄かった。今まで読んできた『NEW GAME!』のちょっとシビアな挿話群よりもダントツでドロドロしていて生々しくて、「いやあきついなこれ」と思って読んでいたら案の定得能先生の実話だった(あとがき参照)。これマジで「私怨」なんじゃないかと思ってしまいましたことよ。そこで書かれていたとおり、ただ紅葉が悪徳編集者をぶった切って終わり、みたいな挿話にならなくてよかったと思う。ちょっと本質を見失ったら「悪徳」になってしまい、その良くも悪くも強引な編集のやり方がリークされて大炎上して社会的に死んでしまうの、本当に現代だなあという感じと言うか、明日は我が身的なリアリティがある。物語的にも、川村るいというキャラクター的にも、今回の描かれ方の方がずっと誠実であり、リアルだ。というか、紅葉さんはまだ若いし実際天才だからこういう価値観で働けているのであって、もっと年を重ねて良くも悪くも現実が見えてきてしまったら、いくらでもこうなってしまう可能性はあるよね、と僕は思ってしまった。そして翻ってそれは僕にも当てはまってしまうかもしれない。いつでも、だれでも、第二・第三の川村るいになってしまうかもしれない。そう思うと仕事って嫌ですね。
ここらあたりではっきり言っておく必要があるが、『NEW GAME!』世界の絵描きたち(コウ、ほたる、青葉、紅葉)は基本的に天才で、本作は天才たちの苦悩を描いている作品である。そういえば今回にもありましたね、「ここで上に上がることだけが幸せじゃないよ」という話。それを言うのがまた天才であるカトリーヌだからたちが悪い。だから本作では基本的に凡才の皆さんはあまり重要視されない。残念ながらその枠の代表格がゆんさんになってしまう(「青葉ちゃんも、ももちゃんも、才能の塊やねん、なんか違う……」vol. 8, 37)わけだが、彼女は8-9巻でADを務めるという見せ場が与えられて本当によかったと思う。天才だけだと仕事はうまくいかないからね。まあだから、編集者という職種だから結構違うかなあとは思いつつも、川村るいも天才ではなかったわけです。
脱線ですが、僕は川村るいになりたくないから今の仕事を選んだのだなあと思った。「好き」を仕事にできている人たちは本当にすごいと思うし、尊敬もするが、僕は「好き」を仕事にしたくなかった。なぜかというと、仕事にした途端「好き」だったものが「嫌い」になると思うから。簡単だ。「好き」なことを仕事にするより「やってて特に嫌じゃないこと」を仕事にする方がよっぽどいい。
この挿話は<作品>と<商品>の間での葛藤の挿話でもあって、「どうしてこんなに話も絵もいいのに売れないんだろう」と悩んでいるのは、たとえ<作品>としてどんなに素晴らしかったとしても、<商品>として優れていなければ話にならないという資本主義レジームの強烈な権力の顕れに過ぎない。そうして彼女はかつての夢を見失い、数字しか見ない敏腕編集者となっていく。それは商業的には完全に正しい振る舞いであるのだが、ことコンテンツ産業に従事しているのであればそれだけじゃ駄目でしょうというのが『NEW GAME!』という作品世界の思想であり、メッセージであり、イデオロギーでもある。こういう強い主張をドリブンする可能性があるところに、もはや「きらら日常系」という枠組みだけでは語れない『NEW GAME!』の面白味と強さがある。
というわけで、もはや1-2巻のときのようなお仕事のほほん日常系の空気感は遠い昔という感じであり、かつての大人気キャラ・ひふみ先輩がすっかり空気になっちゃったよなあという寂しさもありつつも、得能先生が「楽しく描けているのかな、という気がします」と感慨を述べていたからこれでいいのだと思う。たいへん面白かったです。次巻も楽しみにしています。
・山口つばさ『ブルーピリオド』(6)
藝大受験編のクライマックス。「"努力と戦略"は俺の武器だと思ってもいいの?」八虎くんがようやくこの境地に立つことができて本当によかったという感じ。森先輩に「素敵ですね、この絵」と言われて終わるところも物凄くいい。やっぱり森先輩が本作のメインヒロインなんだよな。
というわけで1巻~6巻で藝大受験編が終わったわけだが、本当の地獄はここからという思いがあるので、この先がなかなか怖くて読めない。まあでも、『NEW GAME!』が無自覚な天才たちの苦悩を描いているのに対して、『ブルーピリオド』は努力の秀才が藻掻いていくところを描いていて、そこがいい(本作での天才は間違いなく世田介くんだし、彼の天才的なところの描写なんてステレオタイプのそれだと言ってもいい)。
また『NEW GAME!』の話に戻っちゃうけど、4コマ漫画じゃなくてこういう普通の漫画の形式で読んでみたいんだよなあ。『NEW GAME!』はもう十分強い物語性(それは時間性とも重なる)を帯びているので、4コマである必要性がないんですよ。
・CLAMP『カードキャプターさくら クリアカード編』(8)
人を動かすのは「愛」という話。これこそまさにCCさくら世界の根本原理だ。
今回の巻数でようやく「魔法の呪文」が出てきましたよね?もう「クリアカード編」もクライマックスなのだろうか。
時間性と少女性。『不思議の国のアリス』を思わせる庭にて、初めて海渡と秋穂が出会ったときに秋穂が読んでいた「女の子が時間泥棒と戦うお話」って、ミヒャエル・エンデ『モモ』ですよね(132-36)。この場面ってマジで間テクスト性が渋滞していて大変なことになってる。そう言われてみれば『アリス』以外にもありましたね、時間性と少女性の物語。これを受けてあわててKindle版で『モモ』を購入した。GW中に読みます。
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・4月1日からずっとテレワークをしています。テレ在宅研修です。この状況でもちゃんと働けていること、特に生活に困っていないことをものすごく恵まれていることだなと感じる今日この頃です。
・『ヒーリングっと♡プリキュア』の放送延期を非常に残念に思う今日この頃です。プリキュアを見ないニチアサってやっぱり物足りないですね。
「病気になった地球をお手当て!」がまさかこれほどまでに現実と交渉を結んでしまうとは、2月の段階では正直思っていませんでした。第11話から13話にかけて、終わりなき、かつ、道理のない、ビョーゲンズとの戦いを見ているのが正直辛いなと思ってしまいました。それでも、物語世界・現実世界のどちらの世界でも、わたしたち<プリキュア>の勝利を祈らなければならないのだろう、ということをいま考えています。
・自分はゲームも大好きなので、最近は『Final Fantasy IX』を熱心にやりこんでいます。GW中にはRTAをやる予定ですので、もし需要があって気が向いたら本ブログにてゲーム記事を書いたりチャートを公開したりするかもしれません。
『FFIX』は高校生のときから折に触れて何度もやっているゲームですが、何回やってもいいなと思えるゲームがあることは本当に幸せだと感じます。今ならPS4やSwitichのHDリマスター版が手軽にできるのでみんなもやろう。