(この記事は2018年1月に旧ブログで公開したものに1章を書き直す等の大幅な加筆修正を行い、再掲したものです)
1. はじめに~「クリアカード編」簡易総括
たいへん今更ながら、2018年、およそ20年ぶりに蘇った『カードキャプターさくら』の新作「クリアカード編」(2018. 1-6月)について。
『カードキャプターさくら』は1998年~1999年にNHKで放送されたアニメですが、当時の私は幼稚園の年長でした。視聴したのは小学生低学年の頃だと思うので、おそらく再放送だったと思われるのですが、幼少期の筆者に多大な影響を与えたアニメでした。現在の私の「女児向けアニメ」好きの原点が『カードキャプターさくら』なのは間違いありません。
全般的な感想としては、「クリアカード編」はそのような私の高い期待に応えてくれた本当に素晴らしい作品だったと思います。
絵の綺麗さに関しては特に素晴らしく、"clear" という語に込められた意味を極限までに絵で表現しようという気概がどの回でも伝わってくるように思いました。
特に第1話の桜の木の下でのさくらと小狼の再会の表現は凄まじく、並々ならぬリソースと作り手たちの溢れるばかりの熱量があのシーンに込められていたように感じます。
一方、「クリアカード編」の物語内容については実はまだ語り切れないというのが正直なところで、原作もまだまだ続いていく中でのアニメ化は色々と大変だったのだろうなあという風に感じました。
一応の最終回である第22話におけるさくらと秋穂の邂逅をもって、物語は起承転結の承に差し掛かったくらいだったように思います。
クリアカードが全て集まったのに加え、これらがさくらの魔力から生まれたことは明らかにされたものの、海渡が何を企んでいるのか、小狼が何を恐れているのか、そして桃矢が何を手にしたのか等々、まだまだ未回収のまま投げ出されてしまった伏線があまりにも多いように感じます。
正直あれで終わってしまっては何も物語が完結できていないように思うので、「クロウカード編/さくらカード編」と同様に第2期、第3期へと続いていくことを強く期待しています。
それにしても、本作視聴中に毎回毎回強く印象に残ったのは、未来への期待感ではなく未来への不安感でした。
第21話の終幕の一コマ。ため息が出るほど美しく描かれたさくらと小狼の空で舞うシーンは本作の実質的なクライマックスだったように思うのですが、ここで描写される二人の幸せそうな抱擁シーンに反し、画面からは大きな悲しみや不安感が伝わってくるように感じました。
『カードキャプターさくら「クリアカード編」』第21話。(C) CLAMP・ST/講談社・NEP・NHK
「クロウカード編」においては、クロウカードを全て集めたら「最後の審判」が存在すること。
「さくらカード編」においては、クロウカードが徐々にさくらカードへと変わっていくこと。
先行するこれら2つの前編においても、「カードを集めきったら何かが起こる」というイベントに向けて物語が収束していったわけですが、こと「クリアカード編」においてはその来るべきイベントのハルマゲドン的とでも言うべき性格がとても強かったように思います。それは、第1話で提示されるさくらのモノローグ・「全てのカードが揃った時、それは終わりではなく始まり。終わりの始まり。」が端的に言い表していたように思います。
もしかしたら、「クリアカード編」は少しでも誰かが選択を誤ったらまじで世界が終わるんじゃないか。
そんな張り詰めた緊張感が作品全体を貫いていたように思うのは自分だけでしょうか。
ところで、「未来への期待感から未来への不安感へ」という作品の展開は、端的にはさくらの成長に関わっているのだろうなあと感じました。
「クリアカード編」は全般的に、小学生から中学生へと成長し少し大人になったさくらにとって、時間や未来の認識の仕方が少し変わったことを表現しているのではないか、とまあこんなことを今考えています。
本作は『不思議の国のアリス』を直接的に踏まえていたこともあり、「少女の成長」と「時間の流れ」が重要なテーマであることは指摘しておくべきことだと思います。
「時間は不可逆的に、一方的に流れるものである」という真理に対して、それぞれの人物がどのように反発し、どのように受容していくのか、そして、それが「魔法」とどのように関わっていくのか(今後成長とともにさくらの魔力が失われたとしたら、その「魔力の喪失」は「さくらが大人になったこと」と「さくらが少女性を失ったこと」のメタファーとなる)が、今後の展開で重要になっていくわけです。
ここまでまとめたところでとりあえず「クリアカード編」第5巻読んでおきます。
さて、ここまで「クリアカード編」を簡単に総括してきました。
これ以降は「クリアカード編」放送以前に書いた『カードキャプターさくら』批評をほぼそのまま載せていくわけですが、「少女は徹底的に見られる存在である」ということを主に『プラチナ』の分析で示した本論は、「クリアカード編」での内容もその射程に捉えている文章だと自負しています。
実際、「クリアカード編」第2OP『ロケットビート』は、『プラチナ』を強く継承していたものだと言えますし。
2018年の現在においても、やはり『カードキャプターさくら』批評は『プラチナ』の分析から始めるべきなのです。
2. 『プラチナ』の少女はこちらを見ない
『プラチナ』は歌としてもOP映像としても、今でも色褪せることの無い素晴らしい魅力を秘めた作品だと強く思っているのですが、タイトルに示したとおり『カードキャプターさくら』の批評はこの『プラチナ』の分析・解釈から始めるべきだと考えています。なぜなら「少女の表象」という問題がこのOP映像に全て詰まっているからです。
ここで紹介したいのが、本ブログにおける一連の「魔法少女アニメ」分析のバックボーンとなっている須川亜紀子著『少女と魔法―ガールヒーローはいかに受容されたのか』(NTT出版、2013年)です。
本書は「魔法少女アニメ」を主に受容の面から学術的に考察した研究書であり、作品分析とオーディエンス調査の両面から「魔法少女アニメ」に迫っているのが特徴です。特にジェンダー論の視点からのアニメ批評の視座には大変感銘を受けました。(※1)()
筆者は本書の中で「少女」を「社会状況に応じて多様な表象がなされる」存在である一方、村瀬ひろみらの先行研究を踏まえながら「第三者(主に男性)に構築される客体」であるとしています。
このことを噛み砕いて説明しましょう。周囲から「少女」と目される女の子は自分自身のことを「少女」とは呼びません。「少女」とは常に誰かから呼ばれる・語られる・見られる存在であり、そこには「少女」と呼ぶ主体 vs. 「少女」と呼ばれる客体の間に、常に何らかの一方的な権力関係が存在する、と言えます。
そして、第三者は「少女」に「一回性で取り返せない思春期の女性の多様なイメージ」を投影し、「少女」には「無垢」「ナイーブ」「処女性」「夢想性」などの形容がなされるわけです。
さて、『少女と魔法』ではこの「少女」という概念の定義の後に、「少女」の主体性へと議論を移します。
周囲から構築される客体・「少女」の反撃として、「カワイイ」という絶対的価値基準の創出と、「カワイイ」を共有することで同質的な集団が形成されることを指摘します。そして、「魔法少女アニメ」は『少女』が表象される場である(=客体としての「少女」像)と同時に、『カワイイ』という価値基準で紐帯がなされた女の子たちによって行われる、規範のジェンダー規範を揺るがす場としても形成されてきたと「魔法少女アニメ」を定義づけます。
さて、この「魔法少女アニメ」の<定義>は<定理>なんじゃないかと個人的には思うわけで、もっと作品ジャンルとしての「魔法少女アニメ」の定義の在り方があるはずです。現に、本書では確か60年代~80年代を主な分析対象としていることを差し引いても、奇妙なほどに『カードキャプターさくら』が無視されています。誰がどう見ても『さくら』は「魔法少女アニメ」なので、これを看過するわけにはいきません。
なので、本論ではさらなる「魔法少女アニメ」の議論のために、『カードキャプターさくら』の分析を通して「少女とは見られる存在である」という主張を確認していきます。
さて、話を『プラチナ』に戻します。
数年前、友人と『プラチナ』の話になった際に、その友人が「さくらちゃんが一切笑顔を見せない」ということを指摘しました。
それに追加して、私は最近「さくらちゃんがこちら側(視聴者側)に殆ど視線を向けない」ということに気付きました。
『カードキャプターさくら』「プラチナ」(C) CLAMP・ST/講談社・NEP・NHK
『プラチナ』におけるさくらちゃんは、明らかに本編で描写される普段のさくらちゃん像と一線を画しています。「笑顔がない」のみならず、「物憂げ」「不安げ」「空っぽ」な表情を浮かべ、視線の焦点が空ろなさくらちゃんは、一般的な「少女」イメージに仮託するような「不確かさ」や「儚さ」を表象しているように思います。
I'm a dreamer ひそむパワー
私の世界
夢と恋と不安で出来てる
でも想像もしないもの 隠れてるはず
「プラチナ」作詞:岩里祐穂
『プラチナ』の歌詞においても、「儚さ」や「無垢さ」の「少女性」が描かれています。「夢見る少女」の世界にはまだまだ未知なものがあふれていること、そしてその未知に対して不安と期待がない交ぜになった感情が表現されています。
『カードキャプターさくら』「プラチナ」(C) CLAMP・ST/講談社・NEP・NHK
また、これらの不安げな表情とは対照的に、「安心したような表情」を見せるシーンも印象的なものとして生きてきます。両手でそっとさくらの花びらを受け止めるこのシーンでは、さくらの花びらはさくらちゃんの「思い」の比喩として描かれているのではないでしょうか。
みつけたいなあ かなえたいなあ
信じるそれだけで 越えられないものはない
歌うように 奇蹟のように
「思い」が全てを変えていくよ
きっと きっと 驚くくらい
『プラチナ』作詞:岩里祐穂
『カードキャプターさくら』「プラチナ」(C) CLAMP・ST/講談社・NEP・NHK
「少女」は大切に抱えたさくらの花びらを空へと放し、またその視線はぼんやりと上の方へと向かいます。
「思い」が世界を変革すること。「少女」がやがて成長し「少女」でなくなること。
このシーンはそのことを絵解きしているのではないかと解釈します。
このようにして、『プラチナ』には「少女性」がぎゅっと詰まっています。
そして、その表象される「少女性」というのは視聴側が一方的に「少女」に投影する「少女イメージ」であり、この映像においては「少女」は一方的に「見られる存在」としての役割を果たしています。ここに、「見る」と「見られる」の一方的な権力関係を読み込むことは妥当と言えるでしょう。
3. 見られる「少女」を見る「少女」
なぜ私がここまで「見る」と「見られる」に執着するのかというと、この『プラチナ』で描かれている「見る者」と「見られる者」という非対称的・一方的な権力関係しかり、「少女性」しかりが『カードキャプターさくら』本編においても重要なファクターになっていると感じているからです。
ほら、いるでしょう。本作においてさくらちゃんを一方的に「見る」キャラクターが。
『カードキャプターさくら「クリアカード編」』第1話。(C) CLAMP・ST/講談社・NEP・NHK
そう、知世ちゃんです。
実は、さくらちゃんを「規範的な魔法少女」たらしめているのは知世ちゃんです(タマガワヒロ「カードキャプターさくらは何を達成したのか」
『魔法少女アニメ45年史―『魔法使いサリー』から『まどか☆マギカ』まで』(STUDIO ZERO、2012年)所収。)
筆者は『カードキャプターさくら』を「メタ魔法少女アニメ」として位置付け、「魔法少女アニメ」としての『カードキャプターさくら』の異質性やその変容の在り方を論じるのですが、その中でも「さくらちゃんは『変身しない』魔法少女であり、魔法少女として彼女をドレスアップするのは視聴者のメタファーたる知世ちゃんである」という大変興味深い指摘を行っています。
ところで、『カードキャプターさくら』はジェンダー批評の観点からも先進的な作品であり、特に恋愛関係の描写はそれはそれは簡単に一言では語れない凄い表象を実現しているのですが、本論ではそれに少し触れるだけに留めておきます。
知世ちゃんはさくらちゃんが「大好き」であり、それは女友達としての「大好き」とは異なるレベルにある「大好き」と描写されています(端的に言ってしまえば知世ちゃんはレズビアンということになります)。
ですが、知世ちゃんは「好きな人が幸せであることが自分の幸せである」とさくらちゃんにも公言しており、「一番好きな人(=さくらちゃん)が自分と結ばれなくてもいい」とまで言っています。
その代わりに「魔法少女コスチュームを作成してさくらちゃんに着てもらい、さくらちゃんの超絶かわいい姿をビデオカメラに収めて自分一人で楽しむ」わけです。
『カードキャプターさくら「クリアカード編」』第2話。(C) CLAMP・ST/講談社・NEP・NHK
というわけで、私の『カードキャプターさくら』批評はこのようなジェンダー批評の方向性からやっていきたいと考えています。ジェンダーの問題が大変気になるからです。
(ここまで知世ちゃんが割を食うような書きぶりになってしまいましたが、本編全体を通してさくらちゃんは知世ちゃんを親友として認識しており、仲睦まじい描写はほっこりとさせます。その意味においては2人の関係を「非対称的な権力関係」と呼んでしまうのは明らかに誤った解釈なのですが、私は「見る」「見られる」という権力関係のみに焦点を絞った議論を展開したいため、このような解釈をとっています)
4. 終わりに~アニメ批評を、オタクではなく研究者として行う
言うまでもなく私は「アニメオタク」である(しかし守備範囲はそれほど広くない)わけですが、本ブログで展開していく「アニメを題材にした記事」は出来る限り「研究」の領域に位置づけたいと思って書いています。つまり、単なるいちアニメファンによるアニメ感想記事ではなく、文学研究に従事する大学院生のアニメ批評記事になっていればよいと考えているわけです。
この辺の信念を文章化すると冗長で退屈な文章になってしまいかねないので、ほどほどのところでやめておきたいですが、これは「文学研究」の認知の増加および研究領域の拡大と、今日の日本における「アニメ文化」の重要性の主張、という2つのレベルで重要性が高いと考えてやっている、ということは申しておきたいところです。
難しいことはさておき、
『カードキャプターさくら』、とにかく素晴らしい作品ですよね。
文化研究の対象として面白い研究ができればいいなと思う一方で、純粋にいちさくらファンとして「クリアカード編」をこのあとも楽しんでいきたいものです。
※1: とこのときは書きましたが、いずれこの本を超えていきたいものです。特に、意外と著者が曖昧に使っている「魔法少女アニメ」をきちんと定義してみせる必要があります。