<いま、ここ>に生きている実感――『宇宙よりも遠い場所』 | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

やっぱり、『宇宙よりも遠い場所』(2018. 1-3、以下『よりもい』)について何も書かないまま年は越せないなあって思ったので軽めに。

 

『宇宙よりも遠い場所』(C)YORIMOI PARTNERS. 

 

女子高生4人が南極を目指すという「女子高生南極青春グラフィティ」を謳う本作は、映像表現としても物語としても高い完成度を誇っており、間違いなく名作だと言える。

個人的に好きな作品は様々あるが、色々な要素を総合的に加味したらやはり2018年放送アニメの中で一番なのではないかと思っている。

 

 

本作は風景描写のみならず人間描写においても徹底してリアリティを追求しており、時には視聴に体力や気力を要する(第5話のめぐっちゃんとキマリのくだりとか)。それでも、本作では物語の緩急さえも徹底して計算されているので、挿話の最後には必ず清々しい気分にさせてくれる。疲れた時に何も考えずにぼーっと観られる気楽なアニメではないが、視聴中には強く心を揺さぶり、そして視聴後に必ず良い余韻を残してくれる作品であり、その点において本作は間違いなく物語としての高い強度を持ち合わせている。

 

 

本作の素晴らしさについてはもう語られつくされている感もあり(『Febri Vol.49 巻頭特集「宇宙よりも遠い場所」』などを参照)、自分が語る余地などもう何も残っていないように思える。しかし、もしかしたら自分が他の人とは少し違うところに感銘を受けたかもなあと思うところで、本記事で『よりもい』を語るにあたって第6話「ようこそドリアンショーへ」の挿話を採り上げたい。

 

 

 

いよいよ南極への一歩を踏み出した一行は、目的地・フリーマントルへの中継地としてまずはシンガポールへと向かう。

本挿話は乗り継ぎのためにたった1日しか滞在しない、最終目的地への始発点に向かうまでの中継地でしかないシンガポールの1日を、1話をかけて描いていく。

 

『宇宙よりも遠い場所』第6話「ようこそドリアンショーへ」(C)YORIMOI PARTNERS. 

 

本話数の主題系は、日向のパスポートが無くなってしまったというハプニングを通して描かれる個々人のパーソナリティの掘り下げ(真っ先に日向の様子がおかしいことに気がつく勘が鋭い結月、周囲に気を遣わせたくないと過度に気を遣う日向、それでもまっすぐに日向と向き合おうとして意地を張る報瀬)と、「何が何でも南極へ向かう」という報瀬の決意が「<4人で>南極へ向かう」と変化していることだと思うが、その主題系に移るまでに挿入された、シンガポールの夜景を眺めて物思いに耽る4人の会話が、私にとっては結構強く印象に残っている。

 

「なんかさ、すごいよね」
「何が?」
「明後日さ私たちがここから出発してもここの風景ってこのままでしょ?」
「それはそうよ」
「私たちが南極に向かっても日本に戻っても、ここには毎日船が来て街にはいっぱい人がいて……」
「学校行ったり仕事したり友達と遊んだり、みんなみんな普通に暮らしが続いていて」
「それ言ったら日本だってそうよ」
「今日もちゃんと学校もあって多分今頃晩御飯で」
「うん、私たちが見たことない所でも知らない場所でもいっぱいの人がいっぱいの生活してる。毎日毎日途切れることなく。それってすごい!」
「当たり前のことだけどね」
「でも分かる気がします」

 

第6話「ようこそドリアンショーへ」から引用

『宇宙よりも遠い場所』第6話「ようこそドリアンショーへ」(C)YORIMOI PARTNERS. 

 

こういうことをさも平然と言ってのけてみせるところにやっぱりキマリは主人公なのだなと強く実感させるやり取りなのであるが、このキマリの感慨は、「色々な場所で知らない人たちの日常が、自分にはあずかり知らないところで、毎日毎日続いていくんだなあ」に裏返しで保証される形で、「そんななかでも、<いま、ここ>に私は生きているんだなあ」と強く実感する幸福感と言い換えられるのではないかと思う。

 

 

南極へと向かうという目的のもとに集まった4人の友情の日々――南極へと向かうまでの準備・旅程・そして到着してからの日々――は、いつどこを切り取っても生の実感に満ち満ちており、日々の繰り返しとは全く異なる眩しい煌めきを讃えているのは疑いないが、この場面では特に「他でもないこの私が、どこでもないここで、かけがえのないみんなと一緒に、まさに今生きているんだ」という実感が強く打ち出されているように感じられる。

そして、その生の感覚なるものをより強く実感するのは、実は目的地に着いた時よりも目的地に向かっている途中なのではないかと思わせてくれた。

 

 

本作は、友情を筆頭に、目に見えないものや感慨をどうにかして言葉や形にすることを意識して物語が作られているが(その代表が「友達ってひらがな一文字だ!」であり、ラインの既読であり、そして3年分の未読メールの波である)、この場面でもその意識が強く働いている。他ではない<いま、ここ>に私が生きているという実感を感じられることは、インターネットなりSNSなりの発達によってどこまでも自己が細分化されていくような感覚のする現代においては結構純度の高い幸福感なのだと思うが、表現するには難しいこの感慨をシンガポールの夜景の綺麗な描写に託して端的に表現してみせるところに、本作の強度の高さを実感するのである。

 

 

というわけで、ニューヨーク・タイムズの「ベストTV 2018 インターナショナル部門」(https://www.nytimes.com/2018/12/03/arts/television/the-best-tv-shows.html)に選出されるという「お墨付き」も得た本作は、2018年にアニメオタクになってよかったなと心から思わせてくれる素晴らしい作品だった。

 

その選出評も読んでみたが、「本作はあらゆる年齢や文化の障壁を越えうる("should translate")面白くて感動的な成人物語("coming-of-age story")であり、決してお涙頂戴でも不自然でもなく、どのようにして友情が思春期の不安や苦悩を克服できるのかを、完璧な確かさでもって描いている」と激賞している。

 

「遠くへと行って帰る」「その過程で成長する」というのは古今東西の物語の王道のパターンであり、本作もその伝統を踏襲しているのは言うまでもないが、それに「女子高生×南極」という斬新な設定を持ち込み、キャラクターものとしても物語としても高い完成度を誇る本作は、深夜アニメの一つの到達点として語られ続ける作品になるのではないだろうか。

 

それにしても、そんな名作を2018年のリアルタイムで観ることができてつくづく幸福だった、と思うのである。