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李世福さんの北京でレコーディングしたインストゥメンタルのアルバム。
『我是中國人』
李さんが中国でのコンサート実現に懸けた思いや旅行の思い出を語ってくれたので掲載したいと思います。
李さん『きっかけは自分のチャイニーズ・ロックからいつか中国でコンサートができたらいいと思っていたんだぁ。家族に話したんだよ。するとお母さんが知り合いに話をしたらやれるよと話が盛り上がったんだよ。25年前かな。1990年頃。今と25年前とは中国は全然違うから。資料を用意して曲の内容とか詞の内容とかその他色々けっこう手間がかかったんだ。スムーズにはいかなかったんだよ。結局お流れになったんだよ。
まだ中国は難しいなぁと思ったよ。俺は中国でコンサートをやりたいと思っていたけど、旅行で行きたいとは思わなかったんだ。香港も台湾もね。俺のお父さんは台湾でお母さんは中国・福建省の厦門なんだ。厦門はお母さんの家があるしいつもお母さんから行こうと誘われていたんだ。どうも行く気になれなくて。でも一回くらい行ってもいいかなと思ってね。その前にシンガポールと香港の格安ツアーがあってね。お父さんからシンガポールはきれいでいいと聞いていた。じゃぁ行ってみようと。シンガポールは確かにきれいだったけどツアーで名所に行ったのは少なくて免税店が多かったんだ。お父さんに話したら『そんな格安ツアーで行くからだよ』と言われた。
シンガポールから香港に到着。行く前の香港の印象は人が多くて暑苦しいと自分で想像していたんだ。香港に到着してバスでホテルまで景色と人並みを眺めると確かに人が多いけど暑苦しい印象はなく熱くてパワーがあると感じたんだ。俺は元々熱いのが大好きだからね。一回でいいと思ったんだけど、また行きたくなったんだ。面白かったよ。ケント、また次回また厦門の話をしたいと思うから聞きたい?』
KENT『はい!』
李さんは旅行で初めて中国を訪れたのは1991年頃。
コンサートを初めて北京でやったのが1996年頃という事でした。
李さん『今度、中国に行った時の写真見せるよ!』
李さんが語るシリーズ
先日のある日、李世福さんと伊勢佐木町を歩るいていると急に色んな事を思い出されたらしく貴重なお話が聞けそうでしたのでお話を記録させてもらいそのまま掲載させて頂きました。
今回も初めて語る李さんの昔の横浜の思い出話です。
李さん『そういえばケント、今はパチンコ屋なんだけど、丸井だったんだよね。その手前は100円高島屋。全商品が100円と言っても当時の100円は高かったからね。

歩きながら思い出したけど初めてのエレキを買ったのはこの丸井でなんだ。俺が中学二年の冬だな、今でも覚えているよ。それまでもエレキはバリバリ弾いていたんだけど兄貴の知り合いから借りて弾いてたんだよね。
でもね、キャラバンと逃亡者は難しくて弾けなかったんだよね。
その後、グヤトーンの一万七千円のギターを買ったんだよね。1965年くらいだな。うちは喫茶店をやってたから分かるんだけど一時間アルバイトして80円の時代だよ。兄貴と一緒に行ってね、これがいいんしゃないの?と言うことでグヤトーンなんだ。他にも色んなギターがあったよ。エレクとかね。でも高くて手が届かなかったよ。フェンダーなんて雲の上の存在だったからね。それを買ってバリバリ弾きまくったね。ベンチャーズとか得意になって。
それで中二の時に三年生を送る会でバンドをやることになっていたんだけどね。その時に担任ではないんだけどギターが大好きな先生がいて『李、ギター教えてくれ』って来たんだよね。その先生も楽しみにしちゃってね。一生懸命練習したんだけど、教頭先生がエレキは不良のイメージを持っていて開催できなくて非常に残念だったんだ。そんな思い出がある。
もっとまっすぐ行ってみようか。ここ右側は野沢屋だったなぁ。

となりは松坂屋だったな。ここもよく来たよ。今でもFUJIYAはあるね。

FUJIYAは二件あってね。この通りにあったんだ。FUJIYAの思い出は俺が小さい頃に日曜日になるとお母さんとお母さんの知り合いとで買い物に付き合わされるんだけどそれがつまらなくてね。でも終わったら楽しみはFUJIYAに連れてってもらえるんだよ。そこでね、イチゴパフェを食べさせてもらえたりね。ケント、昔はシュークリームの形をした中はアイスのスイーツが美味しかったんだよ。今みたいにね、生クリームが当たり前かも知れないけど、昔はケーキと言ったらバタークリームだったんだよ。FUJIYAのショートケーキを食べたらうまいと思ったよ。クリスマスになると七面鳥を食べさせてもらってあれがうまかったんだよな。今じゃファミレスっぽいんだけど昔は上にレストラン。下の階はパフェだったんだ。豪華だったんだよ。ちゃんとしたシェフがやっていてね。今ではアルバイトがやってるみたいだけど。そんな思い出があるね。
そういえばFUJIYAの前辺りにユニクロがあるけど

昔はね、大丸だったんだよ。楽器屋さんがあったんだよ、ケント。店員さんの女性と仲良くなってこの人がまたとてもチャーミングな人でみんなに人気があったよね。
このとき店内にゴールデン・カップスのポスターが貼ってあったりレコードもかかっていたような気がするなぁ。楽器屋さん行ったらって何か買うわけではなく溜まり場に近かったな。バンドの話をしたりすごく楽しかったな。
ここの薬屋さんは昔はヤマハだったんだ。

俺はPXで知り合いからジミ・ヘンドリックスやクリームを買ってきてもらったんだけど、何しろここでジョンメイオールwithエリック・クラプトンのLPがあったんだよ。その時代は高くて1500円。1800円だったかな。でも喫茶店のアルバイトの時給が80円から100円になった時代ではあるけれどね。ジミヘンのエレクトリックレディランドも何度も視聴させてもらいながら何回か目に買ったんだ。LP一枚も簡単に買える時代ではなかったんだ。
さらにまっすぐ信号を渡ると映画館が一杯あったなぁ。今はドンキになっちゃったんだな。

ちょっと入ってみよう。ここは昔は松竹の映画館だったんだよ。
ここは日活映画館だったんだよね。

小林旭とか浅岡ルリ子、吉永さゆりとか思い出すね。
左側はね、東映映画館だった。

東映と言えば、ケント。チャンバラが好きだったんだ。お姉さんがつれてってくれたんだよ。今でも現役だけど里見光太郎とか、大友竜太郎、挙げればキリがない。でもその数年後は任侠モノの映画流行ってよく観に行ったよ。高倉健、菅原文太、よくいったなぁ。何せケント、昔映画館と言えば土日は座れないからね。
ちょっと戻り左側にいくと丸善楽器があってそこの親父さん仲良くなってさ、よく遊びにいったんだ。

そこで弦とか買いに行ったんだけど親父さんとよくバンドの話をしていたんだ。でそのならびに大映映画館があったんだ。
そこはその後、松竹になり野木信一さん(元パワーハウス)と『男はつらいよ』観に行ったよ。

それじゃケント戻りながらまっすぐ行ってみよう。
ここはピカデリーという映画館で洋画ばかりやってるんだけどそこで子供の頃、『北京の55日』という映画見たんだけど、ケント知らない?

大人になってからは『燃えよドラゴン』見たねぇ。『少林寺』も見たねぇ。
肝心なこと事忘れてた。そのピカデリーでビートルズの『ヤァヤァヤァ』を見たんだよ!俺が中学一年生の時。』
KENT『えっ!すごい!もっと聞かせてください。』
李さん『ドアを開ける前にすでにキャーキャーと女性の声援が聞こえたんだよね。入ったらスクリーンに向かってテープを投げたりまるで本人がいるかのように『ポール、ジョン』と叫びながら泣いているんだよ。俺は今でも印象的だなぁ。
ビートルズを見たときにとても髪が長いなぁと思ったんだ。頭洗うの大変だったんじゃないかなと思ったよ。
そうだ!『踊れサーフィン』という映画が同時上映だった。当時は必ず同時上映があったんだよ。
ピカデリーの先に行くと今は業務スーパーがあるけれど、
昔は第2東映だったんだよね。行きは親父と歩いていったんだよね。観終わったら帰りはタクシーだったんだ。大人になって聞いたら行きはワクワクしてるものだから歩いて帰りは見て疲れたからタクシーなんだと言ってた。
うちのお姉さんはちょっとリッチだったんでね、東映の映画見たときは行きも帰りもタクシーなんだ。
それではケント、戻りましょう。そういえばケント思い出した。ここはピーナッツというジャズ喫茶だったんだよ。

何でジャズ喫茶というんだろうねぇ。ジャズがかかってる訳ではないのにね。俺が中学を卒業して高校入学式の前の春休みに三つ年上の交際していた女性と
行ったんだなぁ。そのピーナッツで初めてジョー山中さんを見たんだよね。これって491だったのかな。でもその頃から高い声で良かったよね。
それじゃ食事でも行こう、ケント。どこに行きたい?
KENT『僕はあの元ゴールデンカップスの林恵文さんのお姉さんがやっているレストラン喫茶ぷらむに行きたいです。』
李さん『うん、行こう、行こう!』
先日のある日、李世福さんと伊勢佐木町を歩るいていると急に色んな事を思い出されたらしく貴重なお話が聞けそうでしたのでお話を記録させてもらいそのまま掲載させて頂きました。
今回も初めて語る李さんの昔の横浜の思い出話です。
李さん『そういえばケント、今はパチンコ屋なんだけど、丸井だったんだよね。その手前は100円高島屋。全商品が100円と言っても当時の100円は高かったからね。

歩きながら思い出したけど初めてのエレキを買ったのはこの丸井でなんだ。俺が中学二年の冬だな、今でも覚えているよ。それまでもエレキはバリバリ弾いていたんだけど兄貴の知り合いから借りて弾いてたんだよね。
でもね、キャラバンと逃亡者は難しくて弾けなかったんだよね。
その後、グヤトーンの一万七千円のギターを買ったんだよね。1965年くらいだな。うちは喫茶店をやってたから分かるんだけど一時間アルバイトして80円の時代だよ。兄貴と一緒に行ってね、これがいいんしゃないの?と言うことでグヤトーンなんだ。他にも色んなギターがあったよ。エレクとかね。でも高くて手が届かなかったよ。フェンダーなんて雲の上の存在だったからね。それを買ってバリバリ弾きまくったね。ベンチャーズとか得意になって。
それで中二の時に三年生を送る会でバンドをやることになっていたんだけどね。その時に担任ではないんだけどギターが大好きな先生がいて『李、ギター教えてくれ』って来たんだよね。その先生も楽しみにしちゃってね。一生懸命練習したんだけど、教頭先生がエレキは不良のイメージを持っていて開催できなくて非常に残念だったんだ。そんな思い出がある。
もっとまっすぐ行ってみようか。ここ右側は野沢屋だったなぁ。

となりは松坂屋だったな。ここもよく来たよ。今でもFUJIYAはあるね。

FUJIYAは二件あってね。この通りにあったんだ。FUJIYAの思い出は俺が小さい頃に日曜日になるとお母さんとお母さんの知り合いとで買い物に付き合わされるんだけどそれがつまらなくてね。でも終わったら楽しみはFUJIYAに連れてってもらえるんだよ。そこでね、イチゴパフェを食べさせてもらえたりね。ケント、昔はシュークリームの形をした中はアイスのスイーツが美味しかったんだよ。今みたいにね、生クリームが当たり前かも知れないけど、昔はケーキと言ったらバタークリームだったんだよ。FUJIYAのショートケーキを食べたらうまいと思ったよ。クリスマスになると七面鳥を食べさせてもらってあれがうまかったんだよな。今じゃファミレスっぽいんだけど昔は上にレストラン。下の階はパフェだったんだ。豪華だったんだよ。ちゃんとしたシェフがやっていてね。今ではアルバイトがやってるみたいだけど。そんな思い出があるね。
そういえばFUJIYAの前辺りにユニクロがあるけど

昔はね、大丸だったんだよ。楽器屋さんがあったんだよ、ケント。店員さんの女性と仲良くなってこの人がまたとてもチャーミングな人でみんなに人気があったよね。
このとき店内にゴールデン・カップスのポスターが貼ってあったりレコードもかかっていたような気がするなぁ。楽器屋さん行ったらって何か買うわけではなく溜まり場に近かったな。バンドの話をしたりすごく楽しかったな。
ここの薬屋さんは昔はヤマハだったんだ。

俺はPXで知り合いからジミ・ヘンドリックスやクリームを買ってきてもらったんだけど、何しろここでジョンメイオールwithエリック・クラプトンのLPがあったんだよ。その時代は高くて1500円。1800円だったかな。でも喫茶店のアルバイトの時給が80円から100円になった時代ではあるけれどね。ジミヘンのエレクトリックレディランドも何度も視聴させてもらいながら何回か目に買ったんだ。LP一枚も簡単に買える時代ではなかったんだ。
さらにまっすぐ信号を渡ると映画館が一杯あったなぁ。今はドンキになっちゃったんだな。

ちょっと入ってみよう。ここは昔は松竹の映画館だったんだよ。
ここは日活映画館だったんだよね。

小林旭とか浅岡ルリ子、吉永さゆりとか思い出すね。
左側はね、東映映画館だった。

東映と言えば、ケント。チャンバラが好きだったんだ。お姉さんがつれてってくれたんだよ。今でも現役だけど里見光太郎とか、大友竜太郎、挙げればキリがない。でもその数年後は任侠モノの映画流行ってよく観に行ったよ。高倉健、菅原文太、よくいったなぁ。何せケント、昔映画館と言えば土日は座れないからね。
ちょっと戻り左側にいくと丸善楽器があってそこの親父さん仲良くなってさ、よく遊びにいったんだ。

そこで弦とか買いに行ったんだけど親父さんとよくバンドの話をしていたんだ。でそのならびに大映映画館があったんだ。
そこはその後、松竹になり野木信一さん(元パワーハウス)と『男はつらいよ』観に行ったよ。

それじゃケント戻りながらまっすぐ行ってみよう。
ここはピカデリーという映画館で洋画ばかりやってるんだけどそこで子供の頃、『北京の55日』という映画見たんだけど、ケント知らない?

大人になってからは『燃えよドラゴン』見たねぇ。『少林寺』も見たねぇ。
肝心なこと事忘れてた。そのピカデリーでビートルズの『ヤァヤァヤァ』を見たんだよ!俺が中学一年生の時。』
KENT『えっ!すごい!もっと聞かせてください。』
李さん『ドアを開ける前にすでにキャーキャーと女性の声援が聞こえたんだよね。入ったらスクリーンに向かってテープを投げたりまるで本人がいるかのように『ポール、ジョン』と叫びながら泣いているんだよ。俺は今でも印象的だなぁ。
ビートルズを見たときにとても髪が長いなぁと思ったんだ。頭洗うの大変だったんじゃないかなと思ったよ。
そうだ!『踊れサーフィン』という映画が同時上映だった。当時は必ず同時上映があったんだよ。
ピカデリーの先に行くと今は業務スーパーがあるけれど、
昔は第2東映だったんだよね。行きは親父と歩いていったんだよね。観終わったら帰りはタクシーだったんだ。大人になって聞いたら行きはワクワクしてるものだから歩いて帰りは見て疲れたからタクシーなんだと言ってた。
うちのお姉さんはちょっとリッチだったんでね、東映の映画見たときは行きも帰りもタクシーなんだ。
それではケント、戻りましょう。そういえばケント思い出した。ここはピーナッツというジャズ喫茶だったんだよ。

何でジャズ喫茶というんだろうねぇ。ジャズがかかってる訳ではないのにね。俺が中学を卒業して高校入学式の前の春休みに三つ年上の交際していた女性と
行ったんだなぁ。そのピーナッツで初めてジョー山中さんを見たんだよね。これって491だったのかな。でもその頃から高い声で良かったよね。
それじゃ食事でも行こう、ケント。どこに行きたい?
KENT『僕はあの元ゴールデンカップスの林恵文さんのお姉さんがやっているレストラン喫茶ぷらむに行きたいです。』
李さん『うん、行こう、行こう!』
クリスマスはとっくにすぎてもう大晦日ですが慌ただしい年末の合間の時間にこのリンゴ・スターのクリスマス・アルバムを聴いていたりします。
このアルバムは久々に聞いたのでとても素敵なアルバムであることを思い出しまた僕自身の思い出が甦ったので24日から連日聞いています。
このアルバムは僕が中学3年生の時の12月に発売され確か受験先の高校の願書を取りに行った帰りに横浜駅西口のCD屋さんで買った個人的にも思い出深い一枚。
特に『ディア・サンタ』はとっても素敵なロッカ・バラードだと僕は思っています。
このアルバムが発売された1999年はビートルズが『イエローサブマリン・ソングトラック』を、ポールは『ラン・デヴィル・ラン』を発売した年でもありました。もちろんそれらも当時購入しワクワクしつつも励みにしながら受験勉強をしていた思い出が蘇ります。
来年にはリンゴ・スターもロックの殿堂入りが発表されました。クリスマスは過ぎたけど今日もリンゴのこのアルバムを聴いています。

13日の土曜日、李世福さんが横浜7thアベニューや平塚レインなどで活躍しているRANO BANDとスタジオに入りリハを行ったのだそうです。
一月の平塚レインのRANO BANDのライブで李さんがゲスト出演するためのリハだったのだとか。
久しぶりの競演でありリハが終わった後の李さんに会うなりとても興奮した様子で
「今日はとてもよいリハだったよ。本番が楽しみだ!今日の様子、思った事をKENTのブログでも紹介してくれないかな」とすぐにでも人に伝えたいんだという李さんでしたので(笑)李さんからの告知と思い出話などを紹介したいと思います。
下記 李世福さんからです。
『昨夜はRANOさんと来月のライブのリハをやりました。
関内のセルテの12階に行きましたが元はカーベルと言ってね、そこ初めて行ったのは45年前なんだよね。高校一年生くらいかな。ゴーゴーディスコだったんだよ。日本人バンドとフィリピン人バンドの4回ずつのステージで朝の4時くらいまでやっていたね。
あの時代はいつもお客さんがいっぱいだった。すごく広くてね。実は経営者は俺の親父の友達でした。すごく良くしてくれて俺がコンサートをするときなどスポンサーになってくれたりしたんです。自分もそのカーベルで演奏した事もあります。6ヶ月くらい。それで我々にまかないを出してくれてね。俺がハンバーグを好きなの知っているので沢山作ってくれたんだ。厨房も大きかったね。だからリハをした時思い出して楽しかったです。今はスタジオとライブハウスになっていました。リハではマネちゃん、早川さん、RANOさんと練習なのに気持ちよくノリノリでした。本番が楽しみです。ライブをやるお店の平塚レインは経営者が俺より4、5歳上で横浜の野外音楽堂で40年前に一緒に出演しました。小川さんと言ってブルースバンドをやっていて俺は李世福グループ。小川さんはシンガーでした。皆さん、来年1月10日平塚レインお待ちしております』
以上、李世福さんからのメッセージをKENTが代わって投稿させて頂きました!

一月の平塚レインのRANO BANDのライブで李さんがゲスト出演するためのリハだったのだとか。
久しぶりの競演でありリハが終わった後の李さんに会うなりとても興奮した様子で
「今日はとてもよいリハだったよ。本番が楽しみだ!今日の様子、思った事をKENTのブログでも紹介してくれないかな」とすぐにでも人に伝えたいんだという李さんでしたので(笑)李さんからの告知と思い出話などを紹介したいと思います。
下記 李世福さんからです。
『昨夜はRANOさんと来月のライブのリハをやりました。
関内のセルテの12階に行きましたが元はカーベルと言ってね、そこ初めて行ったのは45年前なんだよね。高校一年生くらいかな。ゴーゴーディスコだったんだよ。日本人バンドとフィリピン人バンドの4回ずつのステージで朝の4時くらいまでやっていたね。
あの時代はいつもお客さんがいっぱいだった。すごく広くてね。実は経営者は俺の親父の友達でした。すごく良くしてくれて俺がコンサートをするときなどスポンサーになってくれたりしたんです。自分もそのカーベルで演奏した事もあります。6ヶ月くらい。それで我々にまかないを出してくれてね。俺がハンバーグを好きなの知っているので沢山作ってくれたんだ。厨房も大きかったね。だからリハをした時思い出して楽しかったです。今はスタジオとライブハウスになっていました。リハではマネちゃん、早川さん、RANOさんと練習なのに気持ちよくノリノリでした。本番が楽しみです。ライブをやるお店の平塚レインは経営者が俺より4、5歳上で横浜の野外音楽堂で40年前に一緒に出演しました。小川さんと言ってブルースバンドをやっていて俺は李世福グループ。小川さんはシンガーでした。皆さん、来年1月10日平塚レインお待ちしております』
以上、李世福さんからのメッセージをKENTが代わって投稿させて頂きました!

李世福さんのお兄さんが経営する横浜・中華街にある中華料理店『金福楼』
惜しくも9月いっぱいで閉店するという。
李さんも昔からの音楽仲間やファンの人達と定期的に食事会を開催していたが、
今月でもうできないと言う事で李さんは自身の主催の食事会を4回開催する事になった。
またこの食事会に日程的に参加できなくてもぜひ個人的にも足を運んでほしいとの事でした。
李さんは町田westvoxによく出演していてそのオーナーさん、スタッフの方々を呼んで
小さな食事会を9月4日に開催したとの事です。
今回、この町田westvoxに懸ける李さんの想いをぜひ皆さんに聞いて欲しいという
李さんのご希望もありこちらにてインタビュー記事を掲載する事にしました。
KENT:今日は町田WESTVOXさんのミュージシャンの方、スタッフさんとお食事をされたとの事でしたけど、
どんな感じでしたか?
李さん:すごーく楽しかったよ。町田WESTVOXのみなさん、そしてTOSHIKOさん、メイグーさん。
俺が中心となって話をするんではなくてね、みんなで盛り上がったという感じなんだ。
俺はこれからも町田WESTVOXでやっていこうと改めて思ったし、出会い頭じゃないけど、
オーナーの西さんからラジオをお願いされてそしてそこでライブやるようにもなって早いもので
それから10年になるんだよね。これからももちろんやっていこうと思ったよ。俺はもちろんね、
横浜を中心に活動してきたし、老舗である7thアベニューも俺にとってはすごく大事。
これからも横浜と町田を行ったり来たりしてこの大事な二つのステージを俺は守って行きたい。
WESTVOXの西さんには本当にお世話になっていてね。最近では町田でトシメイグーをやる時は
西さんにサポートギターをお願いしているんだよね。とてもすばらしいので皆さんもぜひ
見に来てほしいな。西さんにはWESTVOX以外にもスケジュールが合えば町田以外でも
お願いしたいと思っているんだ。
最近はWESTVOXでやる時はまず西さんがアコギでやるんだ。ギターの演奏もしっかりしていて
歌声もすばらしい。高い声が出るんだよね。
その後、ゲストで古屋かおりさんが出演するんだ。かおりさんは自分で作詞作曲するアーティストでね。
俺が思うに楽曲はすごく和むんだよね。バリバリのロックをやっている人や聴いている人でも
古屋かおりさんの楽曲は馴染むと思うし親しみを持てると思うのでオススメです。
そして根強いファンがついていてね。歌や楽曲だけではなく人柄だと思うんだよね。
ファンの人達の前では必ず笑顔で対応する。当たり前のように思えてなかなか難しいことでも
あるんだよね。
これからも男性からも女性からも慕われるアーティストだと思うね。KENTどう思う?
KENT:そうですね、自分のカラーというか世界観がしっかりステージに出ていると思います。
李さん:そうだよね!
KENT:町田WESTVOXさんのスタッフの方全員が人柄も良いと思うので。なんと言うかアットホームで。
出演するミュージシャンも来店するお客さんも安心する所だと思います。また行きたくなるような
所ですよね。
李さん:そしてライブの演奏面でもタムタム(田村さん・PA担当)が俺の音を分かってくれているので、
非常に安心して演奏できるんだ。すごく俺は信頼している。
KENT:やはり信頼なんですよね。安定した信頼。
音楽の世界は特に最初は一緒にやろうぜ!って感じで盛り上がるんだけど2、3年で
何にもなかったかのように終わっちゃうということが多いじゃないですか。
李さん:それが普通なのかもしれない。
KENT:李さんは町田WESTVOXさんを信頼していて、町田WESTVOXさんは李さんを尊敬と
信頼しているから揺るがないですよね。これは。
李さん:そうだね、俺だってまだまだ発展途上だしもっともっと色々やりたい。
だから皆さんにもどんどん町田WESTVOXに足を運んでもらいたいよね。
あと9月いっぱいで金福楼は閉店します。みなさんぜひ足を運んでください。
惜しくも9月いっぱいで閉店するという。
李さんも昔からの音楽仲間やファンの人達と定期的に食事会を開催していたが、
今月でもうできないと言う事で李さんは自身の主催の食事会を4回開催する事になった。
またこの食事会に日程的に参加できなくてもぜひ個人的にも足を運んでほしいとの事でした。
李さんは町田westvoxによく出演していてそのオーナーさん、スタッフの方々を呼んで
小さな食事会を9月4日に開催したとの事です。
今回、この町田westvoxに懸ける李さんの想いをぜひ皆さんに聞いて欲しいという
李さんのご希望もありこちらにてインタビュー記事を掲載する事にしました。
KENT:今日は町田WESTVOXさんのミュージシャンの方、スタッフさんとお食事をされたとの事でしたけど、
どんな感じでしたか?
李さん:すごーく楽しかったよ。町田WESTVOXのみなさん、そしてTOSHIKOさん、メイグーさん。
俺が中心となって話をするんではなくてね、みんなで盛り上がったという感じなんだ。
俺はこれからも町田WESTVOXでやっていこうと改めて思ったし、出会い頭じゃないけど、
オーナーの西さんからラジオをお願いされてそしてそこでライブやるようにもなって早いもので
それから10年になるんだよね。これからももちろんやっていこうと思ったよ。俺はもちろんね、
横浜を中心に活動してきたし、老舗である7thアベニューも俺にとってはすごく大事。
これからも横浜と町田を行ったり来たりしてこの大事な二つのステージを俺は守って行きたい。
WESTVOXの西さんには本当にお世話になっていてね。最近では町田でトシメイグーをやる時は
西さんにサポートギターをお願いしているんだよね。とてもすばらしいので皆さんもぜひ
見に来てほしいな。西さんにはWESTVOX以外にもスケジュールが合えば町田以外でも
お願いしたいと思っているんだ。
最近はWESTVOXでやる時はまず西さんがアコギでやるんだ。ギターの演奏もしっかりしていて
歌声もすばらしい。高い声が出るんだよね。
その後、ゲストで古屋かおりさんが出演するんだ。かおりさんは自分で作詞作曲するアーティストでね。
俺が思うに楽曲はすごく和むんだよね。バリバリのロックをやっている人や聴いている人でも
古屋かおりさんの楽曲は馴染むと思うし親しみを持てると思うのでオススメです。
そして根強いファンがついていてね。歌や楽曲だけではなく人柄だと思うんだよね。
ファンの人達の前では必ず笑顔で対応する。当たり前のように思えてなかなか難しいことでも
あるんだよね。
これからも男性からも女性からも慕われるアーティストだと思うね。KENTどう思う?
KENT:そうですね、自分のカラーというか世界観がしっかりステージに出ていると思います。
李さん:そうだよね!
KENT:町田WESTVOXさんのスタッフの方全員が人柄も良いと思うので。なんと言うかアットホームで。
出演するミュージシャンも来店するお客さんも安心する所だと思います。また行きたくなるような
所ですよね。
李さん:そしてライブの演奏面でもタムタム(田村さん・PA担当)が俺の音を分かってくれているので、
非常に安心して演奏できるんだ。すごく俺は信頼している。
KENT:やはり信頼なんですよね。安定した信頼。
音楽の世界は特に最初は一緒にやろうぜ!って感じで盛り上がるんだけど2、3年で
何にもなかったかのように終わっちゃうということが多いじゃないですか。
李さん:それが普通なのかもしれない。
KENT:李さんは町田WESTVOXさんを信頼していて、町田WESTVOXさんは李さんを尊敬と
信頼しているから揺るがないですよね。これは。
李さん:そうだね、俺だってまだまだ発展途上だしもっともっと色々やりたい。
だから皆さんにもどんどん町田WESTVOXに足を運んでもらいたいよね。
あと9月いっぱいで金福楼は閉店します。みなさんぜひ足を運んでください。
李世福さんは今後、写真や文章、映像でこまめに記録を残していきたいと考えている。
また写真も活動記録の他に自分が色んなギターを持って撮影する
いわゆるアーティスト写真の構想も数年前からあった。
李さんはプロの有名なカメラマンよりも李さん自身に興味を持ってくれる
カメラマンの方が良いとのことで技術よりも気持ちを重視しているそうです。
それなら僕でもできるかな?と思いそこで先日こんな会話がありました。
KENT:李さん、ギターファッションモデルをやってくれませんか?
李さんと言えば、フライングVですけど、色んなギターを持って写真を撮りたいのです。
李さん:いいよ、喜んでやるよ。
kent:ギャラはどのくらいでやってくれますか?
李さん:KENTにポール・マッカートニーのコンサートを招待してもらったし、いつもマクドナルドの昼食を
ご馳走してもらっているし、(笑)それでギャラでいいよ。
KENT:え?それでいいんですか?
李さん:もちろんいいよ。でもどうしてギターモデルをKENTは思いついたの?
KENT:ロックシティー横浜イベントで第12回ですかね?
ポスターに李さんがモデルになってますよね?
あれを見てかっこいいと思いました。
それで写真を撮って見たいと思ったのです。
それに李さんご自身もアーティスト写真のかなりご興味があったじゃないですか。
李さん:あれは誰が選んだんだろう?
KENT:主催者の一人、君嶋さんだと思います。君嶋さんは選ぶセンスがあると思います。
あの写真は村松純子さんが撮ったんですよね?
李さん:そうだよ。村松純子さんが撮ってくれた写真はけっこういいのあるよ。
KENT:僕もいい写真取れるように頑張ります。
李さん:気持ち込めて撮れば大丈夫だよ。楽しみにしているよ。
KENT:ありがとうございます。
李さん、ギターテクニックの事を聞いてもいいですか?
李さん:もちろんいいよ。
KENT:あのミュージシャンはテクニックがあるとかないとか議論になる事がありますが・・。
例えば人によってはローリング・ストーンズはテクニックがないと言われる事もあって・・。
僕はストーンズはテクニシャンだと思います。
李さん:えっ!?そうかなぁー。ローリング・ストーンズはテクニシャンじゃないの?
俺はストーンズは昔から聞いているけど、あれだけ多くの人が感動するのはすばらしいよね。
俺はミュージシャンとは見方が違うかもしれないな。よくあのギターはテクニックがあるけど、
タメがないよなぁと人は言うけど、それをテクニックがある無いと言うのはおかしいよ。
たぶん速く弾けるのがいっぱいいるからテクニックって言葉を使うんだろうなぁ。
それは一つの技だよ。
10の早弾きやってもつまらないだろう。
KENT:僕もそう思います。僕はエリック・クラプトンが好きですから。
李さん:クラプトンのスローハンドはテクニックがないと弾けないよ。
ただ弾けばいいってもんじゃないよ。微妙なタッチとピッキングだよ。ギターリストと
ギターヴォーカルでは違いがあるし、KENTはギターヴォーカルだよな。
KENT:はい、そうです。僕はポール・マッカートニーが好きです。ギターではエリック・クラプトンが
好きなんですよね。
李さん:KENT、俺はね時々ギターに集中している時、歌心が欠けていると気づく。
それではダメなんだよ。俺はギターヴォーカルだから歌心がないとだめだね、俺の場合。
他のミュージシャンはまた別の考え方があると思うけど、まぁこれは俺の考え方だよ。
KENT:色々参考になりました。またいつかギターの事を聞いていいですか?
李さん:もちろんいつでもいいよ。
KENT:ありがとうございます。
それと昔大成功した人に対して腐っても鯛っていいますけど、どう思いますか?
李さん:腐ったら終わりだよ。食べ物だってどんなに高級でも腐ったら食べられないじゃないか。
でも誤解しないで。ある人は人気が落ちたからって意味ではないよ。だから腐ったら腐ったで
終わりだよ。何をやるにも気持ちを強く持たなければだめだよ。
KENT:李さんは強い気持ちを持ってとよく言いますからね。
李さん:それを言うのは俺自身の事を言っているのだよ。
俺は強い男になりたいと思っているから。
強い男って決して喧嘩の事ではないよ。もっと人に気配りができる事だよ。俺はいくつになっても
まだまだ人間ができてないから。これからもっと自分を磨いて人に気配りできるように
頑張らなくてはいけないんだ。俺は好きな事をできているので幸せでしょ?
KENT:はい。李さんの言うとおり幸せだと思います。
李さん:KENT、これからも自分の好きなことを思い切りやりなさい。
そして職場では貢献しないと。心からやれば人はちゃんと見てくれるよ。
KENT:はい、自分もそのつもりでいます。
李さん:KENTはみんなの人気者だから大丈夫だよ。
これからもいいことばかりあるわけではないよ。
何があっても強い気持ちでやれば大丈夫だよ。
KENT:はい、強い気持ちで前へ向かっていきます。
李さん:それと、色んな事があってもカッカしないこと。
悪い細胞が生まれるよ。これは本当だよ。命が縮まるよ。
長生きしたければ、カッカしない方がいいよ。それだけ。
KENT:分かりました。ありがとうございます。
またお話を聞かせてくださいね。
また写真も活動記録の他に自分が色んなギターを持って撮影する
いわゆるアーティスト写真の構想も数年前からあった。
李さんはプロの有名なカメラマンよりも李さん自身に興味を持ってくれる
カメラマンの方が良いとのことで技術よりも気持ちを重視しているそうです。
それなら僕でもできるかな?と思いそこで先日こんな会話がありました。
KENT:李さん、ギターファッションモデルをやってくれませんか?
李さんと言えば、フライングVですけど、色んなギターを持って写真を撮りたいのです。
李さん:いいよ、喜んでやるよ。
kent:ギャラはどのくらいでやってくれますか?
李さん:KENTにポール・マッカートニーのコンサートを招待してもらったし、いつもマクドナルドの昼食を
ご馳走してもらっているし、(笑)それでギャラでいいよ。
KENT:え?それでいいんですか?
李さん:もちろんいいよ。でもどうしてギターモデルをKENTは思いついたの?
KENT:ロックシティー横浜イベントで第12回ですかね?
ポスターに李さんがモデルになってますよね?
あれを見てかっこいいと思いました。
それで写真を撮って見たいと思ったのです。
それに李さんご自身もアーティスト写真のかなりご興味があったじゃないですか。
李さん:あれは誰が選んだんだろう?
KENT:主催者の一人、君嶋さんだと思います。君嶋さんは選ぶセンスがあると思います。
あの写真は村松純子さんが撮ったんですよね?
李さん:そうだよ。村松純子さんが撮ってくれた写真はけっこういいのあるよ。
KENT:僕もいい写真取れるように頑張ります。
李さん:気持ち込めて撮れば大丈夫だよ。楽しみにしているよ。
KENT:ありがとうございます。
李さん、ギターテクニックの事を聞いてもいいですか?
李さん:もちろんいいよ。
KENT:あのミュージシャンはテクニックがあるとかないとか議論になる事がありますが・・。
例えば人によってはローリング・ストーンズはテクニックがないと言われる事もあって・・。
僕はストーンズはテクニシャンだと思います。
李さん:えっ!?そうかなぁー。ローリング・ストーンズはテクニシャンじゃないの?
俺はストーンズは昔から聞いているけど、あれだけ多くの人が感動するのはすばらしいよね。
俺はミュージシャンとは見方が違うかもしれないな。よくあのギターはテクニックがあるけど、
タメがないよなぁと人は言うけど、それをテクニックがある無いと言うのはおかしいよ。
たぶん速く弾けるのがいっぱいいるからテクニックって言葉を使うんだろうなぁ。
それは一つの技だよ。
10の早弾きやってもつまらないだろう。
KENT:僕もそう思います。僕はエリック・クラプトンが好きですから。
李さん:クラプトンのスローハンドはテクニックがないと弾けないよ。
ただ弾けばいいってもんじゃないよ。微妙なタッチとピッキングだよ。ギターリストと
ギターヴォーカルでは違いがあるし、KENTはギターヴォーカルだよな。
KENT:はい、そうです。僕はポール・マッカートニーが好きです。ギターではエリック・クラプトンが
好きなんですよね。
李さん:KENT、俺はね時々ギターに集中している時、歌心が欠けていると気づく。
それではダメなんだよ。俺はギターヴォーカルだから歌心がないとだめだね、俺の場合。
他のミュージシャンはまた別の考え方があると思うけど、まぁこれは俺の考え方だよ。
KENT:色々参考になりました。またいつかギターの事を聞いていいですか?
李さん:もちろんいつでもいいよ。
KENT:ありがとうございます。
それと昔大成功した人に対して腐っても鯛っていいますけど、どう思いますか?
李さん:腐ったら終わりだよ。食べ物だってどんなに高級でも腐ったら食べられないじゃないか。
でも誤解しないで。ある人は人気が落ちたからって意味ではないよ。だから腐ったら腐ったで
終わりだよ。何をやるにも気持ちを強く持たなければだめだよ。
KENT:李さんは強い気持ちを持ってとよく言いますからね。
李さん:それを言うのは俺自身の事を言っているのだよ。
俺は強い男になりたいと思っているから。
強い男って決して喧嘩の事ではないよ。もっと人に気配りができる事だよ。俺はいくつになっても
まだまだ人間ができてないから。これからもっと自分を磨いて人に気配りできるように
頑張らなくてはいけないんだ。俺は好きな事をできているので幸せでしょ?
KENT:はい。李さんの言うとおり幸せだと思います。
李さん:KENT、これからも自分の好きなことを思い切りやりなさい。
そして職場では貢献しないと。心からやれば人はちゃんと見てくれるよ。
KENT:はい、自分もそのつもりでいます。
李さん:KENTはみんなの人気者だから大丈夫だよ。
これからもいいことばかりあるわけではないよ。
何があっても強い気持ちでやれば大丈夫だよ。
KENT:はい、強い気持ちで前へ向かっていきます。
李さん:それと、色んな事があってもカッカしないこと。
悪い細胞が生まれるよ。これは本当だよ。命が縮まるよ。
長生きしたければ、カッカしない方がいいよ。それだけ。
KENT:分かりました。ありがとうございます。
またお話を聞かせてくださいね。
李世福さん物語
チャイニーズ・ロッカー李世福さんにKENTがインタビューしながら回想してもらうシリーズです。インタビューというよりどちらかというと会話のような記事です。
KENT:まず李さんは現在はパフォーマンスロッカーとして主に活躍されておりますが、
李さんの小さい頃の一番古い記憶を教えてください。
李さん: 外国人の方が多く家に出入りしていたので車でPXに連れて行ってもらい、ストロベリーシェイクを飲んだのが忘れられない。
今ではマクドナルドでシェイクを食べられるが、それをこんなにうまいものがあるかと感動した。
またバターケーキも懐かしく感じている。
また外国人と親父の交流。ジャズなどのLPが綺麗に自宅の応接間に飾られており楽しんで聴いていた。
またその頃から歌モノが大好きだったのだろう。自分でもよく掛けていた覚えがある。
KENT:1951年の12月21日生まれ。昭和26年。団塊の世代とするならば、その中では後の世代ですね。
あと李さんのお父さんもかなりモダンな人ですね。
李さん:LPも親父が聞くというより外国人が置いていったんだよね。
20、30枚くらいあったかな。
KENT:李さんのルーツを教えてください。
李さん:親父は台湾からアモイへ行き、その後、満州へ行こうとしたところ知り合いの女性が「満州は寒い」と勧めなかったため、日本行きを決心。
アモイに立ち寄った際そこでも仕事をし、紹介によりお見合いをセッティングされ結婚をする事になる。
俺のおねぇさんは福建省のアモイで生まれる。その後、親父の生まれ故郷である台湾に戻り、そこで兄貴が生まれる。
実はおねぇさんの前に一人女の子がいたのだが、一歳位で亡くなってしまったんだ。
台湾も中国と同じ中華民国であるからそんなに外国という意識はなかったと思う。でも香港はイギリス領だからちょっと感覚は違うと思う。
親父はアモイでバスの車掌もした事があるのだとか。
台湾に家族を残し、日本に来た。そして生活の地盤を作り家族を日本に呼んだ。
KENT:今の時代の言葉で言うと実業家ですね。
李さん:いや商売を始めたという事かな。
日本に来るときはだいぶ日本語を覚えてきたようだよ
親父の家庭は貧乏でもないけど、裕福でもない。親父のお父さんは親父が16歳の頃亡くなったんだ。
親父は6人兄弟。弟が一人と上に四人おねえさんがいたんだ。
親父の弟は一度だけ日本に来たんだが、俺がまだ小さかったから。そして70歳くらいで亡くなったんだ。
KENT:李さんの幼少期はとても明るいイメージがありますね。
李さん:そうだね、意識はしたことないけど言われてみればそうかもしれない。
子供の頃から夢を持って生きていたかなぁ。。。
KENT:そしてお父さんが日本に来て初めての子供が李さんになるわけですね。
李さん:親父が言ってたけど、台湾にいた時、日本軍がいた関係で日本語が身近であったんだ。
映画『三丁目の夕日』なんかとは違う風景かな。元町、本牧、外人、黒人とよくすれ違ったものだよ。
でも横浜と言っても中区だからだよ。またせいぜい隣の西区や南区、磯子区あたりまでかな。
中華街というのは別世界だよね。港の見える丘公演とか、山下公園、元町、本牧は横浜のイメージ。中華街は異国の国のイメージ
中華街は中華街。横浜の代表とする必要はないのではないかな。
俺は日本の幼稚園でさくら幼稚園。今でもあるんだけどおかあさんの知り合いの付き合いでかえられちゃったんだよね。
かえられた先の幼稚園は中華系の幼稚園で中華学校に付属している幼稚園だと思われる。
入って少しして嫌な思い出がある。演劇か何かで王子様の役をやらされたのが嫌で嫌で仕方がなかった。
KENT:小さい男の子なら王子様の役はもってこいに思えますがね。
李さん:何が理由というより注目されるのが嫌だったんだ。
李世福コネクションというからいかんせ目立ちたがり屋のように誤解されるが、決してそうではなくステージ下りると
打ち上げで皆さんのところに行き話しを聞いている方がいい。
俺は人の話を聞いている方がいいね。そのほうが好きだよ。
桜幼稚園の方では幼稚園の運動会でパン食い競争などとても鮮明に覚えている。
モノを読んだりするより運動が得意だったかな。
運動会がとても印象的であったな。
幼稚園の送り迎えは当時お手伝いさんだったんだ。
俺は裕福と言われるかもしれないけど、
「福ちゃんんとこお金持ちだよね」と言われるのが嫌で嫌でしょうがなかった。
友達だったり、色んな人に。特別だと思われるのが、嫌で仕方がなかった。
みんなと同じようでありたかっただけなんだ。
一つのエピソードとして家に風呂があるのが、嫌だった。風呂屋に行けなかったから。
当時はランドセルではなかったんだ。
中華学校の授業は全部北京語。
日本の国語は習わなかったんだ。
50音順は自然の生活で習得した。ただ回りの人より読み書きがうまくなかったので、少し恥ずかしかった。
中華学校においてもあまり成績はよくなかった。後ろから4、5番目くらいからかな。
それで人一倍勉強しなくてはいけないのに、勉強せず日本の学校に進んでしまったんだ。
エディ藩さんの曲の中で『飯を食うならオリジナルジョーズなんて』という歌詞があるけど、当時ウチの裏にあったんだよね。
まだ5、6歳くらいの頃だったからまだ食べ物には興味がなかったんだよね。でもそういうところに連れてってもらうのが
嬉しくてね。大人になって聞いてみたんだけど、あそこはビフテキが厚くて美味しかったという。
俺は食べた記憶が無かったんだけど、親父が『お前は子供だったからハンバーグを食べさせたんだよ。』と言っていた。
そういえば、ピザってあったっけ?と聞いたらそんなものはないと言われたよ。オリジナルジョーズはピザで有名になったよね。
子供の頃、お母さんに喫茶店によく連れてってもらったんだよね。知り合いが喫茶店をやっていたからね。小さい頃から喫茶店に行くのがよくある事だったんだ。
そしてアイスクリームが食べられるのが嬉しくってねぇ。
中華街は飲食店ばからいでなくて喫茶店も多くあったんだ。あと外人バーも多くあった。
ある時、焼き鳥屋さんの所にいて外人バー勤めている女の人が『坊や、これを吸ったら20円あげるよ』
と言われ吸うというより吹かしたんだ。それで20円もらった。その日、眠る時すごく悪い事をしたような気分になった。
7、8歳くらいの時かな。
今思えば、中華街って不思議なとこだよなぁ。それで今でも住んでいるけれどね。
KENT:さらにまた細かく教えてください!
李さん:うん、いいよ、もちろんだよ!
続く
チャイニーズ・ロッカー李世福さんにKENTがインタビューしながら回想してもらうシリーズです。インタビューというよりどちらかというと会話のような記事です。
KENT:まず李さんは現在はパフォーマンスロッカーとして主に活躍されておりますが、
李さんの小さい頃の一番古い記憶を教えてください。
李さん: 外国人の方が多く家に出入りしていたので車でPXに連れて行ってもらい、ストロベリーシェイクを飲んだのが忘れられない。
今ではマクドナルドでシェイクを食べられるが、それをこんなにうまいものがあるかと感動した。
またバターケーキも懐かしく感じている。
また外国人と親父の交流。ジャズなどのLPが綺麗に自宅の応接間に飾られており楽しんで聴いていた。
またその頃から歌モノが大好きだったのだろう。自分でもよく掛けていた覚えがある。
KENT:1951年の12月21日生まれ。昭和26年。団塊の世代とするならば、その中では後の世代ですね。
あと李さんのお父さんもかなりモダンな人ですね。
李さん:LPも親父が聞くというより外国人が置いていったんだよね。
20、30枚くらいあったかな。
KENT:李さんのルーツを教えてください。
李さん:親父は台湾からアモイへ行き、その後、満州へ行こうとしたところ知り合いの女性が「満州は寒い」と勧めなかったため、日本行きを決心。
アモイに立ち寄った際そこでも仕事をし、紹介によりお見合いをセッティングされ結婚をする事になる。
俺のおねぇさんは福建省のアモイで生まれる。その後、親父の生まれ故郷である台湾に戻り、そこで兄貴が生まれる。
実はおねぇさんの前に一人女の子がいたのだが、一歳位で亡くなってしまったんだ。
台湾も中国と同じ中華民国であるからそんなに外国という意識はなかったと思う。でも香港はイギリス領だからちょっと感覚は違うと思う。
親父はアモイでバスの車掌もした事があるのだとか。
台湾に家族を残し、日本に来た。そして生活の地盤を作り家族を日本に呼んだ。
KENT:今の時代の言葉で言うと実業家ですね。
李さん:いや商売を始めたという事かな。
日本に来るときはだいぶ日本語を覚えてきたようだよ
親父の家庭は貧乏でもないけど、裕福でもない。親父のお父さんは親父が16歳の頃亡くなったんだ。
親父は6人兄弟。弟が一人と上に四人おねえさんがいたんだ。
親父の弟は一度だけ日本に来たんだが、俺がまだ小さかったから。そして70歳くらいで亡くなったんだ。
KENT:李さんの幼少期はとても明るいイメージがありますね。
李さん:そうだね、意識はしたことないけど言われてみればそうかもしれない。
子供の頃から夢を持って生きていたかなぁ。。。
KENT:そしてお父さんが日本に来て初めての子供が李さんになるわけですね。
李さん:親父が言ってたけど、台湾にいた時、日本軍がいた関係で日本語が身近であったんだ。
映画『三丁目の夕日』なんかとは違う風景かな。元町、本牧、外人、黒人とよくすれ違ったものだよ。
でも横浜と言っても中区だからだよ。またせいぜい隣の西区や南区、磯子区あたりまでかな。
中華街というのは別世界だよね。港の見える丘公演とか、山下公園、元町、本牧は横浜のイメージ。中華街は異国の国のイメージ
中華街は中華街。横浜の代表とする必要はないのではないかな。
俺は日本の幼稚園でさくら幼稚園。今でもあるんだけどおかあさんの知り合いの付き合いでかえられちゃったんだよね。
かえられた先の幼稚園は中華系の幼稚園で中華学校に付属している幼稚園だと思われる。
入って少しして嫌な思い出がある。演劇か何かで王子様の役をやらされたのが嫌で嫌で仕方がなかった。
KENT:小さい男の子なら王子様の役はもってこいに思えますがね。
李さん:何が理由というより注目されるのが嫌だったんだ。
李世福コネクションというからいかんせ目立ちたがり屋のように誤解されるが、決してそうではなくステージ下りると
打ち上げで皆さんのところに行き話しを聞いている方がいい。
俺は人の話を聞いている方がいいね。そのほうが好きだよ。
桜幼稚園の方では幼稚園の運動会でパン食い競争などとても鮮明に覚えている。
モノを読んだりするより運動が得意だったかな。
運動会がとても印象的であったな。
幼稚園の送り迎えは当時お手伝いさんだったんだ。
俺は裕福と言われるかもしれないけど、
「福ちゃんんとこお金持ちだよね」と言われるのが嫌で嫌でしょうがなかった。
友達だったり、色んな人に。特別だと思われるのが、嫌で仕方がなかった。
みんなと同じようでありたかっただけなんだ。
一つのエピソードとして家に風呂があるのが、嫌だった。風呂屋に行けなかったから。
当時はランドセルではなかったんだ。
中華学校の授業は全部北京語。
日本の国語は習わなかったんだ。
50音順は自然の生活で習得した。ただ回りの人より読み書きがうまくなかったので、少し恥ずかしかった。
中華学校においてもあまり成績はよくなかった。後ろから4、5番目くらいからかな。
それで人一倍勉強しなくてはいけないのに、勉強せず日本の学校に進んでしまったんだ。
エディ藩さんの曲の中で『飯を食うならオリジナルジョーズなんて』という歌詞があるけど、当時ウチの裏にあったんだよね。
まだ5、6歳くらいの頃だったからまだ食べ物には興味がなかったんだよね。でもそういうところに連れてってもらうのが
嬉しくてね。大人になって聞いてみたんだけど、あそこはビフテキが厚くて美味しかったという。
俺は食べた記憶が無かったんだけど、親父が『お前は子供だったからハンバーグを食べさせたんだよ。』と言っていた。
そういえば、ピザってあったっけ?と聞いたらそんなものはないと言われたよ。オリジナルジョーズはピザで有名になったよね。
子供の頃、お母さんに喫茶店によく連れてってもらったんだよね。知り合いが喫茶店をやっていたからね。小さい頃から喫茶店に行くのがよくある事だったんだ。
そしてアイスクリームが食べられるのが嬉しくってねぇ。
中華街は飲食店ばからいでなくて喫茶店も多くあったんだ。あと外人バーも多くあった。
ある時、焼き鳥屋さんの所にいて外人バー勤めている女の人が『坊や、これを吸ったら20円あげるよ』
と言われ吸うというより吹かしたんだ。それで20円もらった。その日、眠る時すごく悪い事をしたような気分になった。
7、8歳くらいの時かな。
今思えば、中華街って不思議なとこだよなぁ。それで今でも住んでいるけれどね。
KENT:さらにまた細かく教えてください!
李さん:うん、いいよ、もちろんだよ!
続く
今回、李世福さんが10代後半の頃、アメリカに渡米した時のエピソードをお伺いしました。かなり貴重な体験かつお話です。
李さん:『お姉さんが結婚して向こうに住んでいたから。高校を卒業してすぐ四月に行ったんだけど、
フィルモアとかそういうところに行ってジェスロタルとかアルバート・キング、BBキング、う~ん、
マイク・ブルームフィールドを、そうだスピリッツやポコなどその当時の向こうのブルース系の色んなミュージシャンを見たね。クラウズというのも見た。
でも何と言ってもジミ・ヘンドリックス!でもフィルモアではないんだよね。ジミヘンはね、
オークランドという所でうーん、劇場でやったんだけどね。そこの劇場でやるのはザ・フーとか、
レッド・ツェッペリンとかそのクラスの人達がやるところみたい。それで当日は入れ替え制だったね。
それでその当日にチケット買ったのに、一緒に行ってくれた俺のおねぇさんの旦那さんが
『前の席で観たいか?』と聞かれて『観たいよ!』と答えたら本当に前から五列目くらい
観る事ができたんだよね。本当に目の前と同じくらいの距離だったんだ。
忘れもしない1970年5月30日だったんだ。
もうヒット曲をバンバンやってくれて興奮したね。ストラトを何本も変えて演奏してたなぁ。でもレッドハウスという曲だけ黒のフライングVだったねぇ。俺のフライングVはアームがついているんだけど、その時ジミヘンが持っていた黒のフライングVはアームはなかったんだ。
でもストラトを使ってた時はアームをバンバン使っていたよ。唸るほどアームを使っていたよ。
ちょうど1970年のこの時、フィルモアでもそうだけど、この劇場でも入れ替え制だから外で待っていた
客も男も女もロングヘヤーのヒッピーが多かった。ちょうどこの70年に行けたから良かった。
もっと早かったらまた違っていただろうなぁ。
ちょっと余談になるけど、この時色んなアーティスト見たくて行ったんだけどその他の思い出はサンフランシスコは坂が多かったかな。あとはオレンジや蟹がとてもおいしかった。
その当時チキンバーガーではなくバスケットにチキンとロールパンが入っている
メニューをケンタッキーで食べた。これはうまかったなぁ。まだ日本にケンタッキーが上陸する前だよね。
ジミヘンが亡くなったのは九月くらいだったっけ?だからギリギリだよね。サンフランシスコでも
見逃していたら次の年まで観れないものだからね、アメリカは広いから。
その時のライブはジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスだったかな?解散したと思ってたんだけど、
ベースがビリー・コックス、それでドラムはミッチ・ミッチェルだったんだよね。
俺はすごく嬉しかったんだけど。ジミ・ヘンドリックスを見たという人は日本人では未だに
お会いした事はないね・・。
それはそうだよね、早くに亡くなっちゃったからねぇ・・。
KENT:李さんはもうすでに日本で高校生の頃からジミヘンには夢中だったわけですよね?
李さん:そうだよ、高校一年の時から。横浜と行っても中区に住んでいたから情報も早いし、兄貴やおねぇさんがアメリカンスクールに行っていたから米軍関係の人に買ってきてもらったり。
そういう環境だからゴールデンカップスの人達なんかは当然早いよね!
KENT:カップスも当時はヘイ・ジョーやっていましたもんね!
李さん:だから東京の人気グループの人達だって仕事終わったらわざわざ車で横浜に来て夜中、朝方まで
過ごしたりしていた。
KENT:ジミヘンを生で見れた経験はやはりすごく貴重ですよね!当時そこまで多くの外タレが来日している頃ではなかったですから。
李さん:ジェスロタルを見た時も4グループ出たんだよね。最初に登場したのはエマーソン、レイク&パーマーと同じ編成のクラウズ。ベースとハモンドとドラムだった。すごく良かったよね。ジャズっぽい曲もやったりマイナーな曲もやったりでも俺はすごく気に入ったんだよね。『スィウィング・スィウイング・スィウイング』もやったな。
ジャズロックという感じだったんだ。
それで二番目、三番目は落ち着いた普通のロック・バンド。(笑)結構知られたバンドだと思うんだけどね。まぁ四つくらい出てくるとお客さんも目当てのが見たくて、まだかまだかと思うだけど、一番目のバンドはすごく大事なんだよね。それからトリになってくるんだけど。
真ん中がどうでもいいという訳ではないんだけど、やはり頭のグループって大事だよね。
フィルモアは毎週行ったんだ。その週はマイク・ブルームフィールドが出たねぇ。その週も木金土日やったんだよね。木金土日は同じグループがでるんだよね
その週はブルースイメージというバンドだったかなぁ」。その当時は知られたバンドだったなぁ。
それでスピリッツやポコというバンドも出たなぁ。
その次の週はBBキング、アルバートキング、そしてもう一つはそこそこ知られたバンドだと思う。
フィルモアというのはでかい体育館みたいで中にカウンターバーがあるんだけど、そこに飲み物を買いに行ったらなんとアルバートキングが飲み物をもらいにきていたなぁ。すごくでかいという
イメージだった。
またその中ではみんなゴザを持ってきていてね。イスじゃないんだ。みんなロングヘヤーでいかにもバンドやっているという感じだった。
客はほとんどヒッピーで不思議なのは会場には警察も沢山居たんだけど、葉っぱ吸っている奴がいたんだよ。少し後ろに警察がいるのに吸っていた。警察もバンドの音にのっていたなぁ。
すごく臭うのにね。
これらのイベントで最初のバンドが肝心だと感じた。
俺はそれをすごく感じたから自分が学園祭やフェスティバルに呼ばれて一番目にやるというのは別にいやじゃないんだよね。むしろ一番目にやりたいかな。お客さんは「待ってました!」と
最初から待っているからね、当時は。
今みたいに自分のお目当てのバンドだけ見て他のバンド観たら帰るというのは当時はないからね。
今でもね、最初からお客さんが沢山入っていたら一番最初にやりたいんだよね。
最初にやるのが大好きだから。
KENT:李さんは当時アメリカに行った際、お姉さんがそちらで結婚して暮らしていたからというのもあったと思うんですが他に理由はあったんですか?例えば将来を考えるためとか
何か吸収したいとか何かを磨きたいとか・・。
李さん:もちろん!その何かを掴みたいというのがメインだよ。それでたまたまお姉さんがアメリカにいたからという事。もしいなかったらいけなかったんじゃないかな?
当時はもう何と言うか、サンフランシスコに行くという感覚ではないから。アメリカに行くという
感覚だよね。だから当時エアチケットで今みたいに便利ではなく一年オープンチケットで20万以上
したからねぇ。
貯金を使い、レスポールを売って。それでも行きたいと思ったから。
その当時の20何万と言ったら本当に大金だよね。高校卒業の初任給が三万円あるかないか。
でも俺達のようなバンドやっているともっと稼げた
だけど、ギターとそういうのはすごく高くて。
それでアメリカ行くなんていうのは当時の感覚では一生に一度行けるかどうかと思っていたから。
その当時は特に不安なんかなかったね。音楽でやっていきたいというか、バンドでやって行きたい
と思っていたからね。ミュージシャンという言葉もあまり使わなかったよね。バンドって言ってた。
だから俺は今でもミュージシャンというよりバンドをやるという感覚なんだよね。
KENT:確かに李さんのライブステージはバンドではありますが、ロックやバンドに拘っているわけではなくアートというようにも感じます。何と言うか芸事というか。
李さん:いやもともと俺はそんなにバンドやって金かせいでいい車にいい女にいい暮らしをしたいとは思わなかったんだよね。バンドやって好きな事をやっていたいと思っていたんだ。
何より音にしびれてやり始めたんだからね。今でも音にしびれ続けてやっているんだけどね(笑)
KENT:あとアメリカであるディスコに入った際、そこのバンドがレッド・ツェッペリンの曲をやっていてソロがアドリブなのに驚いたというエピソードもありましたね。当時の日本は完コピが一般的だとかで。当時はもちろんインターネットなんてない時代ですから貪欲に情報を得ようとしている姿が目に浮かびます。
それがきっかけで帰国してからバンドを組みオリジナル曲を演奏したという事ですね。フォークの人達はオリジナルがほとんどでしたが、当時の日本のロックバンドはコピーがほとんどという事ですが。
そして李さんは帰国して70年代頃は色んな学園祭やイベントに呼ばれて演奏活動をしていたという事です
よね?
李さん:そうだね、横浜野音とか市民ホールとか学園祭とか。横浜の学園祭は全部呼ばれたんじゃないかな。
まだ当時は学生運動の名残があったからね。その時はそんなにすごく激しくはなかったと思うけど。
kENT:80年代は李さんがアルバムを作りますね。1984年に。それまではレコードを作るというイメージはなかったんですか?
李さん:うん、あんまりレコードを作るという考えはなかったんだけど、ある時、関係者をエディ藩さんからも紹介を受けてそういう話になった時、その当時の担当者CBSだったかな。やるには日本語でやってくれと言われたんだ。ロックはやはり英語だし日本語じゃ嫌だなとなってそれでレコード出す時期を逃しちゃったというのもある。その頃は日本語で少しづつロックが歌われる時期だったんだろうねぇ。
だから俺がレコードを出したのは遅かったんだよね。まぁそれは今思えば自分では良かったと思っているよ。俺の年齢で言えば10年くらい遅かったよね。72、3年には出していればいいのに84年だからね。まぁそれでよかったのかな。作品としてもしっかりしたのが出せたから。
KENT:その少し前の1980年に李さんは松田優作さんと出会っていますね。これはエディ藩さんの紹介と言う事ですよね。
李さん:そうだよ。
KENT:ただ李さんはその少し前に『人間の証明』を観ていて松田優作さんを知っていたと。
李さん:それまでは松田優作さんは新人だと思っていた(笑)でもその前から活躍していたわけだけど。
だからすごく有名というのを知らなかったんだけど、それがよかったのかもしれない。
でもすごくいい役者さんだなと思ったけどね。
KENT:ここで松田優作さんの本があります。李さんもインタビュー受けています。
ここで李さんは当時の回想として『優作さんは相手はミュージシャンだからお願いしているという感覚があり俳優仲間とはちょっと違う扱いをしてくれた』というような事を言っていますが、
レコーディングだったり曲作りでは絶対に優作さんは妥協などはしなかったのではないでしょうか。
李さん:うん、しなかったねぇ。レコーディングの時は大変だったよね。ベースの奈良さんもすごく大変だったと思う。今日録音して気に入っても次の日になったらやっぱり良くないと言って録り直したり。
リズム録りの後のリフやアレンジは何度もやり直したね。
優作さんはシャッフルのリズムにチャイニーズ・メロディーを入れてくれと言われた時は俺も『ウソだろ』と思ったよね。すごく難しいと思ったけど優作さんだから妥協はしないし、何とかやってみたら入れられたんだよね。優作さんも気に入ってくれてさ。
でもこういう要望は優作さんがミュージシャンではなく俳優さんだからできる発想だよね。
だからよかったと思う。
KENT:優作さんの要望というのは抽象的でしたか?
李さん:いやそうではなかったね。ズバズバはっきりしていたよ。
例えばこの曲のタイトルは『ハートブレイククーニャン』だから中国っぽくとかね。
決して抽象的ではない。
頭抱えるほどではないけど、でもまいったね。頭ひねって。不思議と何とかできたんだけどね。
結果的には喜んでもらえたけどね。でも普通の他のギタリストだったら嫌がられたかもしれないな。
俺はそこが普通とは違うんだけどね。
他のギタリストならこんなんのやってられないよと思われたかもしれないよね。
だから俺はミュージシャンとかギタリストという枠に自分から入っていないというかそんな感覚なんだよね。
KENT:李さんが松田優作さんとやったツアーなども日程が記録されています。
そしてオールナイトフジに出演されたのが1987年5月3日というのも記録されています。
李さん:そうなんだね。それはロマーニッシェズ・カフェツアーだね。新宿の厚生年金会館で終わるんだけど、その後にまるで打ち上げのような感じでまた最初のカフェでやって終わるんだ。
その後は亡くなるまで連絡は取らなかったんだよね。また何かあれば連絡くれるだろうと思っていた。
でもその後、『ブラックレイン』とかやるというのは聞いていたからね。だから別の計画があるんだ
なと思っていたんだ。そしたら三年後に亡くなってしまったからね。。。
この時、優作さんはキーボードを演奏と言うかね、ポコポコ鳴らしていた場面もあったね。
KENT:李さんはしょっちゅう松田優作さんと一緒にいたわけではないじゃないですか。でも優作さんのキャリアのポイントポイントで関っているのでかなり面白いエピソードもありますよね
松田優作さんの歴史の中であまり李さんが出てこないということもありますが、僕はこの貴重なエピソード、証言を記録して行きたいと思っています。
李さん:あとこんな事もある。松田優作さんが『男でもチャーミングであってもいい』という事を言っていた。
そういう言葉を男に使うというのも優作さんのセンスというか面白いよね。
あと優作さんがツアー先の名古屋で急に「帰る」と言い出した事もあるとか・・。
覚えているよ。ホテルチェックインしてライブやる前に言い出したんだよ。自分の部屋も決まって
荷物置いてリハーサル終わってからかもしれないな。今日は帰るからと。名古屋は食い物がないからと
俺は良かったんだけどね。ただ名古屋くらいならホテルも取らずに帰れるんだけどね。
それで全部終わってからすぐ新幹線に乗って食堂車の向かっていったね。
それでね、その新幹線の中で偶然にもミッキー吉野に会ったんだ。それでちょっとしゃべってさ。
名古屋は泊まらなかったなぁ。部屋は決まっていたのにねぇ。
こんなエピソードもありました。
さっき横浜の中区は入ってくる音楽が早いというのがあったけど、親父の交関係で
しょっちゅう外人が家に出入りしていた。
外人が身近にいる事も色んな音楽が入ってくることも身近だったんだ。
俺はやっているのはチャイニーズ・ロックだったり、ハードロックだけど、子供の頃から歌番組を観るのは大好きだったんだよね。でもね、自分もその歌番組に出ている人達みたいに有名人になりたいとか芸能人になりたいとかそういう意識はなかったんだよね。
有名になりたいとか目立ちたいと思ってやっているわけではないし。
当時はバンドやっていてもお客さんがいて当たり前という時代だったから
今とは違って集客に心配もなかったよね。でも今は大変だよ、もう。笑
もちろん俺だけではなくてみなさんもそうだと思うよ。
でもね、苦労という言葉は使いたくないんだよね。むしろ苦労と思った事は一度もないんだよね。
大変な事が全然ないと言ったらウソになるけど、苦労とは思わない。好きなことやっているからさ。
KENT:李さんも今後も大きな活躍をされる事と思いますが、スタンスは今までと同じですよね?
李さん:うん、変わらないよ。これからも自分の事を自分で見ながら続けていくよ。
李さん:『お姉さんが結婚して向こうに住んでいたから。高校を卒業してすぐ四月に行ったんだけど、
フィルモアとかそういうところに行ってジェスロタルとかアルバート・キング、BBキング、う~ん、
マイク・ブルームフィールドを、そうだスピリッツやポコなどその当時の向こうのブルース系の色んなミュージシャンを見たね。クラウズというのも見た。
でも何と言ってもジミ・ヘンドリックス!でもフィルモアではないんだよね。ジミヘンはね、
オークランドという所でうーん、劇場でやったんだけどね。そこの劇場でやるのはザ・フーとか、
レッド・ツェッペリンとかそのクラスの人達がやるところみたい。それで当日は入れ替え制だったね。
それでその当日にチケット買ったのに、一緒に行ってくれた俺のおねぇさんの旦那さんが
『前の席で観たいか?』と聞かれて『観たいよ!』と答えたら本当に前から五列目くらい
観る事ができたんだよね。本当に目の前と同じくらいの距離だったんだ。
忘れもしない1970年5月30日だったんだ。
もうヒット曲をバンバンやってくれて興奮したね。ストラトを何本も変えて演奏してたなぁ。でもレッドハウスという曲だけ黒のフライングVだったねぇ。俺のフライングVはアームがついているんだけど、その時ジミヘンが持っていた黒のフライングVはアームはなかったんだ。
でもストラトを使ってた時はアームをバンバン使っていたよ。唸るほどアームを使っていたよ。
ちょうど1970年のこの時、フィルモアでもそうだけど、この劇場でも入れ替え制だから外で待っていた
客も男も女もロングヘヤーのヒッピーが多かった。ちょうどこの70年に行けたから良かった。
もっと早かったらまた違っていただろうなぁ。
ちょっと余談になるけど、この時色んなアーティスト見たくて行ったんだけどその他の思い出はサンフランシスコは坂が多かったかな。あとはオレンジや蟹がとてもおいしかった。
その当時チキンバーガーではなくバスケットにチキンとロールパンが入っている
メニューをケンタッキーで食べた。これはうまかったなぁ。まだ日本にケンタッキーが上陸する前だよね。
ジミヘンが亡くなったのは九月くらいだったっけ?だからギリギリだよね。サンフランシスコでも
見逃していたら次の年まで観れないものだからね、アメリカは広いから。
その時のライブはジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスだったかな?解散したと思ってたんだけど、
ベースがビリー・コックス、それでドラムはミッチ・ミッチェルだったんだよね。
俺はすごく嬉しかったんだけど。ジミ・ヘンドリックスを見たという人は日本人では未だに
お会いした事はないね・・。
それはそうだよね、早くに亡くなっちゃったからねぇ・・。
KENT:李さんはもうすでに日本で高校生の頃からジミヘンには夢中だったわけですよね?
李さん:そうだよ、高校一年の時から。横浜と行っても中区に住んでいたから情報も早いし、兄貴やおねぇさんがアメリカンスクールに行っていたから米軍関係の人に買ってきてもらったり。
そういう環境だからゴールデンカップスの人達なんかは当然早いよね!
KENT:カップスも当時はヘイ・ジョーやっていましたもんね!
李さん:だから東京の人気グループの人達だって仕事終わったらわざわざ車で横浜に来て夜中、朝方まで
過ごしたりしていた。
KENT:ジミヘンを生で見れた経験はやはりすごく貴重ですよね!当時そこまで多くの外タレが来日している頃ではなかったですから。
李さん:ジェスロタルを見た時も4グループ出たんだよね。最初に登場したのはエマーソン、レイク&パーマーと同じ編成のクラウズ。ベースとハモンドとドラムだった。すごく良かったよね。ジャズっぽい曲もやったりマイナーな曲もやったりでも俺はすごく気に入ったんだよね。『スィウィング・スィウイング・スィウイング』もやったな。
ジャズロックという感じだったんだ。
それで二番目、三番目は落ち着いた普通のロック・バンド。(笑)結構知られたバンドだと思うんだけどね。まぁ四つくらい出てくるとお客さんも目当てのが見たくて、まだかまだかと思うだけど、一番目のバンドはすごく大事なんだよね。それからトリになってくるんだけど。
真ん中がどうでもいいという訳ではないんだけど、やはり頭のグループって大事だよね。
フィルモアは毎週行ったんだ。その週はマイク・ブルームフィールドが出たねぇ。その週も木金土日やったんだよね。木金土日は同じグループがでるんだよね
その週はブルースイメージというバンドだったかなぁ」。その当時は知られたバンドだったなぁ。
それでスピリッツやポコというバンドも出たなぁ。
その次の週はBBキング、アルバートキング、そしてもう一つはそこそこ知られたバンドだと思う。
フィルモアというのはでかい体育館みたいで中にカウンターバーがあるんだけど、そこに飲み物を買いに行ったらなんとアルバートキングが飲み物をもらいにきていたなぁ。すごくでかいという
イメージだった。
またその中ではみんなゴザを持ってきていてね。イスじゃないんだ。みんなロングヘヤーでいかにもバンドやっているという感じだった。
客はほとんどヒッピーで不思議なのは会場には警察も沢山居たんだけど、葉っぱ吸っている奴がいたんだよ。少し後ろに警察がいるのに吸っていた。警察もバンドの音にのっていたなぁ。
すごく臭うのにね。
これらのイベントで最初のバンドが肝心だと感じた。
俺はそれをすごく感じたから自分が学園祭やフェスティバルに呼ばれて一番目にやるというのは別にいやじゃないんだよね。むしろ一番目にやりたいかな。お客さんは「待ってました!」と
最初から待っているからね、当時は。
今みたいに自分のお目当てのバンドだけ見て他のバンド観たら帰るというのは当時はないからね。
今でもね、最初からお客さんが沢山入っていたら一番最初にやりたいんだよね。
最初にやるのが大好きだから。
KENT:李さんは当時アメリカに行った際、お姉さんがそちらで結婚して暮らしていたからというのもあったと思うんですが他に理由はあったんですか?例えば将来を考えるためとか
何か吸収したいとか何かを磨きたいとか・・。
李さん:もちろん!その何かを掴みたいというのがメインだよ。それでたまたまお姉さんがアメリカにいたからという事。もしいなかったらいけなかったんじゃないかな?
当時はもう何と言うか、サンフランシスコに行くという感覚ではないから。アメリカに行くという
感覚だよね。だから当時エアチケットで今みたいに便利ではなく一年オープンチケットで20万以上
したからねぇ。
貯金を使い、レスポールを売って。それでも行きたいと思ったから。
その当時の20何万と言ったら本当に大金だよね。高校卒業の初任給が三万円あるかないか。
でも俺達のようなバンドやっているともっと稼げた
だけど、ギターとそういうのはすごく高くて。
それでアメリカ行くなんていうのは当時の感覚では一生に一度行けるかどうかと思っていたから。
その当時は特に不安なんかなかったね。音楽でやっていきたいというか、バンドでやって行きたい
と思っていたからね。ミュージシャンという言葉もあまり使わなかったよね。バンドって言ってた。
だから俺は今でもミュージシャンというよりバンドをやるという感覚なんだよね。
KENT:確かに李さんのライブステージはバンドではありますが、ロックやバンドに拘っているわけではなくアートというようにも感じます。何と言うか芸事というか。
李さん:いやもともと俺はそんなにバンドやって金かせいでいい車にいい女にいい暮らしをしたいとは思わなかったんだよね。バンドやって好きな事をやっていたいと思っていたんだ。
何より音にしびれてやり始めたんだからね。今でも音にしびれ続けてやっているんだけどね(笑)
KENT:あとアメリカであるディスコに入った際、そこのバンドがレッド・ツェッペリンの曲をやっていてソロがアドリブなのに驚いたというエピソードもありましたね。当時の日本は完コピが一般的だとかで。当時はもちろんインターネットなんてない時代ですから貪欲に情報を得ようとしている姿が目に浮かびます。
それがきっかけで帰国してからバンドを組みオリジナル曲を演奏したという事ですね。フォークの人達はオリジナルがほとんどでしたが、当時の日本のロックバンドはコピーがほとんどという事ですが。
そして李さんは帰国して70年代頃は色んな学園祭やイベントに呼ばれて演奏活動をしていたという事です
よね?
李さん:そうだね、横浜野音とか市民ホールとか学園祭とか。横浜の学園祭は全部呼ばれたんじゃないかな。
まだ当時は学生運動の名残があったからね。その時はそんなにすごく激しくはなかったと思うけど。
kENT:80年代は李さんがアルバムを作りますね。1984年に。それまではレコードを作るというイメージはなかったんですか?
李さん:うん、あんまりレコードを作るという考えはなかったんだけど、ある時、関係者をエディ藩さんからも紹介を受けてそういう話になった時、その当時の担当者CBSだったかな。やるには日本語でやってくれと言われたんだ。ロックはやはり英語だし日本語じゃ嫌だなとなってそれでレコード出す時期を逃しちゃったというのもある。その頃は日本語で少しづつロックが歌われる時期だったんだろうねぇ。
だから俺がレコードを出したのは遅かったんだよね。まぁそれは今思えば自分では良かったと思っているよ。俺の年齢で言えば10年くらい遅かったよね。72、3年には出していればいいのに84年だからね。まぁそれでよかったのかな。作品としてもしっかりしたのが出せたから。
KENT:その少し前の1980年に李さんは松田優作さんと出会っていますね。これはエディ藩さんの紹介と言う事ですよね。
李さん:そうだよ。
KENT:ただ李さんはその少し前に『人間の証明』を観ていて松田優作さんを知っていたと。
李さん:それまでは松田優作さんは新人だと思っていた(笑)でもその前から活躍していたわけだけど。
だからすごく有名というのを知らなかったんだけど、それがよかったのかもしれない。
でもすごくいい役者さんだなと思ったけどね。
KENT:ここで松田優作さんの本があります。李さんもインタビュー受けています。
ここで李さんは当時の回想として『優作さんは相手はミュージシャンだからお願いしているという感覚があり俳優仲間とはちょっと違う扱いをしてくれた』というような事を言っていますが、
レコーディングだったり曲作りでは絶対に優作さんは妥協などはしなかったのではないでしょうか。
李さん:うん、しなかったねぇ。レコーディングの時は大変だったよね。ベースの奈良さんもすごく大変だったと思う。今日録音して気に入っても次の日になったらやっぱり良くないと言って録り直したり。
リズム録りの後のリフやアレンジは何度もやり直したね。
優作さんはシャッフルのリズムにチャイニーズ・メロディーを入れてくれと言われた時は俺も『ウソだろ』と思ったよね。すごく難しいと思ったけど優作さんだから妥協はしないし、何とかやってみたら入れられたんだよね。優作さんも気に入ってくれてさ。
でもこういう要望は優作さんがミュージシャンではなく俳優さんだからできる発想だよね。
だからよかったと思う。
KENT:優作さんの要望というのは抽象的でしたか?
李さん:いやそうではなかったね。ズバズバはっきりしていたよ。
例えばこの曲のタイトルは『ハートブレイククーニャン』だから中国っぽくとかね。
決して抽象的ではない。
頭抱えるほどではないけど、でもまいったね。頭ひねって。不思議と何とかできたんだけどね。
結果的には喜んでもらえたけどね。でも普通の他のギタリストだったら嫌がられたかもしれないな。
俺はそこが普通とは違うんだけどね。
他のギタリストならこんなんのやってられないよと思われたかもしれないよね。
だから俺はミュージシャンとかギタリストという枠に自分から入っていないというかそんな感覚なんだよね。
KENT:李さんが松田優作さんとやったツアーなども日程が記録されています。
そしてオールナイトフジに出演されたのが1987年5月3日というのも記録されています。
李さん:そうなんだね。それはロマーニッシェズ・カフェツアーだね。新宿の厚生年金会館で終わるんだけど、その後にまるで打ち上げのような感じでまた最初のカフェでやって終わるんだ。
その後は亡くなるまで連絡は取らなかったんだよね。また何かあれば連絡くれるだろうと思っていた。
でもその後、『ブラックレイン』とかやるというのは聞いていたからね。だから別の計画があるんだ
なと思っていたんだ。そしたら三年後に亡くなってしまったからね。。。
この時、優作さんはキーボードを演奏と言うかね、ポコポコ鳴らしていた場面もあったね。
KENT:李さんはしょっちゅう松田優作さんと一緒にいたわけではないじゃないですか。でも優作さんのキャリアのポイントポイントで関っているのでかなり面白いエピソードもありますよね
松田優作さんの歴史の中であまり李さんが出てこないということもありますが、僕はこの貴重なエピソード、証言を記録して行きたいと思っています。
李さん:あとこんな事もある。松田優作さんが『男でもチャーミングであってもいい』という事を言っていた。
そういう言葉を男に使うというのも優作さんのセンスというか面白いよね。
あと優作さんがツアー先の名古屋で急に「帰る」と言い出した事もあるとか・・。
覚えているよ。ホテルチェックインしてライブやる前に言い出したんだよ。自分の部屋も決まって
荷物置いてリハーサル終わってからかもしれないな。今日は帰るからと。名古屋は食い物がないからと
俺は良かったんだけどね。ただ名古屋くらいならホテルも取らずに帰れるんだけどね。
それで全部終わってからすぐ新幹線に乗って食堂車の向かっていったね。
それでね、その新幹線の中で偶然にもミッキー吉野に会ったんだ。それでちょっとしゃべってさ。
名古屋は泊まらなかったなぁ。部屋は決まっていたのにねぇ。
こんなエピソードもありました。
さっき横浜の中区は入ってくる音楽が早いというのがあったけど、親父の交関係で
しょっちゅう外人が家に出入りしていた。
外人が身近にいる事も色んな音楽が入ってくることも身近だったんだ。
俺はやっているのはチャイニーズ・ロックだったり、ハードロックだけど、子供の頃から歌番組を観るのは大好きだったんだよね。でもね、自分もその歌番組に出ている人達みたいに有名人になりたいとか芸能人になりたいとかそういう意識はなかったんだよね。
有名になりたいとか目立ちたいと思ってやっているわけではないし。
当時はバンドやっていてもお客さんがいて当たり前という時代だったから
今とは違って集客に心配もなかったよね。でも今は大変だよ、もう。笑
もちろん俺だけではなくてみなさんもそうだと思うよ。
でもね、苦労という言葉は使いたくないんだよね。むしろ苦労と思った事は一度もないんだよね。
大変な事が全然ないと言ったらウソになるけど、苦労とは思わない。好きなことやっているからさ。
KENT:李さんも今後も大きな活躍をされる事と思いますが、スタンスは今までと同じですよね?
李さん:うん、変わらないよ。これからも自分の事を自分で見ながら続けていくよ。


