李世福さん物語
チャイニーズ・ロッカー李世福さんにKENTがインタビューしながら回想してもらうシリーズです。インタビューというよりどちらかというと会話のような記事です。
KENT:まず李さんは現在はパフォーマンスロッカーとして主に活躍されておりますが、
李さんの小さい頃の一番古い記憶を教えてください。
李さん: 外国人の方が多く家に出入りしていたので車でPXに連れて行ってもらい、ストロベリーシェイクを飲んだのが忘れられない。
今ではマクドナルドでシェイクを食べられるが、それをこんなにうまいものがあるかと感動した。
またバターケーキも懐かしく感じている。
また外国人と親父の交流。ジャズなどのLPが綺麗に自宅の応接間に飾られており楽しんで聴いていた。
またその頃から歌モノが大好きだったのだろう。自分でもよく掛けていた覚えがある。
KENT:1951年の12月21日生まれ。昭和26年。団塊の世代とするならば、その中では後の世代ですね。
あと李さんのお父さんもかなりモダンな人ですね。
李さん:LPも親父が聞くというより外国人が置いていったんだよね。
20、30枚くらいあったかな。
KENT:李さんのルーツを教えてください。
李さん:親父は台湾からアモイへ行き、その後、満州へ行こうとしたところ知り合いの女性が「満州は寒い」と勧めなかったため、日本行きを決心。
アモイに立ち寄った際そこでも仕事をし、紹介によりお見合いをセッティングされ結婚をする事になる。
俺のおねぇさんは福建省のアモイで生まれる。その後、親父の生まれ故郷である台湾に戻り、そこで兄貴が生まれる。
実はおねぇさんの前に一人女の子がいたのだが、一歳位で亡くなってしまったんだ。
台湾も中国と同じ中華民国であるからそんなに外国という意識はなかったと思う。でも香港はイギリス領だからちょっと感覚は違うと思う。
親父はアモイでバスの車掌もした事があるのだとか。
台湾に家族を残し、日本に来た。そして生活の地盤を作り家族を日本に呼んだ。
KENT:今の時代の言葉で言うと実業家ですね。
李さん:いや商売を始めたという事かな。
日本に来るときはだいぶ日本語を覚えてきたようだよ
親父の家庭は貧乏でもないけど、裕福でもない。親父のお父さんは親父が16歳の頃亡くなったんだ。
親父は6人兄弟。弟が一人と上に四人おねえさんがいたんだ。
親父の弟は一度だけ日本に来たんだが、俺がまだ小さかったから。そして70歳くらいで亡くなったんだ。
KENT:李さんの幼少期はとても明るいイメージがありますね。
李さん:そうだね、意識はしたことないけど言われてみればそうかもしれない。
子供の頃から夢を持って生きていたかなぁ。。。
KENT:そしてお父さんが日本に来て初めての子供が李さんになるわけですね。
李さん:親父が言ってたけど、台湾にいた時、日本軍がいた関係で日本語が身近であったんだ。
映画『三丁目の夕日』なんかとは違う風景かな。元町、本牧、外人、黒人とよくすれ違ったものだよ。
でも横浜と言っても中区だからだよ。またせいぜい隣の西区や南区、磯子区あたりまでかな。
中華街というのは別世界だよね。港の見える丘公演とか、山下公園、元町、本牧は横浜のイメージ。中華街は異国の国のイメージ
中華街は中華街。横浜の代表とする必要はないのではないかな。
俺は日本の幼稚園でさくら幼稚園。今でもあるんだけどおかあさんの知り合いの付き合いでかえられちゃったんだよね。
かえられた先の幼稚園は中華系の幼稚園で中華学校に付属している幼稚園だと思われる。
入って少しして嫌な思い出がある。演劇か何かで王子様の役をやらされたのが嫌で嫌で仕方がなかった。
KENT:小さい男の子なら王子様の役はもってこいに思えますがね。
李さん:何が理由というより注目されるのが嫌だったんだ。
李世福コネクションというからいかんせ目立ちたがり屋のように誤解されるが、決してそうではなくステージ下りると
打ち上げで皆さんのところに行き話しを聞いている方がいい。
俺は人の話を聞いている方がいいね。そのほうが好きだよ。
桜幼稚園の方では幼稚園の運動会でパン食い競争などとても鮮明に覚えている。
モノを読んだりするより運動が得意だったかな。
運動会がとても印象的であったな。
幼稚園の送り迎えは当時お手伝いさんだったんだ。
俺は裕福と言われるかもしれないけど、
「福ちゃんんとこお金持ちだよね」と言われるのが嫌で嫌でしょうがなかった。
友達だったり、色んな人に。特別だと思われるのが、嫌で仕方がなかった。
みんなと同じようでありたかっただけなんだ。
一つのエピソードとして家に風呂があるのが、嫌だった。風呂屋に行けなかったから。
当時はランドセルではなかったんだ。
中華学校の授業は全部北京語。
日本の国語は習わなかったんだ。
50音順は自然の生活で習得した。ただ回りの人より読み書きがうまくなかったので、少し恥ずかしかった。
中華学校においてもあまり成績はよくなかった。後ろから4、5番目くらいからかな。
それで人一倍勉強しなくてはいけないのに、勉強せず日本の学校に進んでしまったんだ。
エディ藩さんの曲の中で『飯を食うならオリジナルジョーズなんて』という歌詞があるけど、当時ウチの裏にあったんだよね。
まだ5、6歳くらいの頃だったからまだ食べ物には興味がなかったんだよね。でもそういうところに連れてってもらうのが
嬉しくてね。大人になって聞いてみたんだけど、あそこはビフテキが厚くて美味しかったという。
俺は食べた記憶が無かったんだけど、親父が『お前は子供だったからハンバーグを食べさせたんだよ。』と言っていた。
そういえば、ピザってあったっけ?と聞いたらそんなものはないと言われたよ。オリジナルジョーズはピザで有名になったよね。
子供の頃、お母さんに喫茶店によく連れてってもらったんだよね。知り合いが喫茶店をやっていたからね。小さい頃から喫茶店に行くのがよくある事だったんだ。
そしてアイスクリームが食べられるのが嬉しくってねぇ。
中華街は飲食店ばからいでなくて喫茶店も多くあったんだ。あと外人バーも多くあった。
ある時、焼き鳥屋さんの所にいて外人バー勤めている女の人が『坊や、これを吸ったら20円あげるよ』
と言われ吸うというより吹かしたんだ。それで20円もらった。その日、眠る時すごく悪い事をしたような気分になった。
7、8歳くらいの時かな。
今思えば、中華街って不思議なとこだよなぁ。それで今でも住んでいるけれどね。
KENT:さらにまた細かく教えてください!
李さん:うん、いいよ、もちろんだよ!
続く
チャイニーズ・ロッカー李世福さんにKENTがインタビューしながら回想してもらうシリーズです。インタビューというよりどちらかというと会話のような記事です。
KENT:まず李さんは現在はパフォーマンスロッカーとして主に活躍されておりますが、
李さんの小さい頃の一番古い記憶を教えてください。
李さん: 外国人の方が多く家に出入りしていたので車でPXに連れて行ってもらい、ストロベリーシェイクを飲んだのが忘れられない。
今ではマクドナルドでシェイクを食べられるが、それをこんなにうまいものがあるかと感動した。
またバターケーキも懐かしく感じている。
また外国人と親父の交流。ジャズなどのLPが綺麗に自宅の応接間に飾られており楽しんで聴いていた。
またその頃から歌モノが大好きだったのだろう。自分でもよく掛けていた覚えがある。
KENT:1951年の12月21日生まれ。昭和26年。団塊の世代とするならば、その中では後の世代ですね。
あと李さんのお父さんもかなりモダンな人ですね。
李さん:LPも親父が聞くというより外国人が置いていったんだよね。
20、30枚くらいあったかな。
KENT:李さんのルーツを教えてください。
李さん:親父は台湾からアモイへ行き、その後、満州へ行こうとしたところ知り合いの女性が「満州は寒い」と勧めなかったため、日本行きを決心。
アモイに立ち寄った際そこでも仕事をし、紹介によりお見合いをセッティングされ結婚をする事になる。
俺のおねぇさんは福建省のアモイで生まれる。その後、親父の生まれ故郷である台湾に戻り、そこで兄貴が生まれる。
実はおねぇさんの前に一人女の子がいたのだが、一歳位で亡くなってしまったんだ。
台湾も中国と同じ中華民国であるからそんなに外国という意識はなかったと思う。でも香港はイギリス領だからちょっと感覚は違うと思う。
親父はアモイでバスの車掌もした事があるのだとか。
台湾に家族を残し、日本に来た。そして生活の地盤を作り家族を日本に呼んだ。
KENT:今の時代の言葉で言うと実業家ですね。
李さん:いや商売を始めたという事かな。
日本に来るときはだいぶ日本語を覚えてきたようだよ
親父の家庭は貧乏でもないけど、裕福でもない。親父のお父さんは親父が16歳の頃亡くなったんだ。
親父は6人兄弟。弟が一人と上に四人おねえさんがいたんだ。
親父の弟は一度だけ日本に来たんだが、俺がまだ小さかったから。そして70歳くらいで亡くなったんだ。
KENT:李さんの幼少期はとても明るいイメージがありますね。
李さん:そうだね、意識はしたことないけど言われてみればそうかもしれない。
子供の頃から夢を持って生きていたかなぁ。。。
KENT:そしてお父さんが日本に来て初めての子供が李さんになるわけですね。
李さん:親父が言ってたけど、台湾にいた時、日本軍がいた関係で日本語が身近であったんだ。
映画『三丁目の夕日』なんかとは違う風景かな。元町、本牧、外人、黒人とよくすれ違ったものだよ。
でも横浜と言っても中区だからだよ。またせいぜい隣の西区や南区、磯子区あたりまでかな。
中華街というのは別世界だよね。港の見える丘公演とか、山下公園、元町、本牧は横浜のイメージ。中華街は異国の国のイメージ
中華街は中華街。横浜の代表とする必要はないのではないかな。
俺は日本の幼稚園でさくら幼稚園。今でもあるんだけどおかあさんの知り合いの付き合いでかえられちゃったんだよね。
かえられた先の幼稚園は中華系の幼稚園で中華学校に付属している幼稚園だと思われる。
入って少しして嫌な思い出がある。演劇か何かで王子様の役をやらされたのが嫌で嫌で仕方がなかった。
KENT:小さい男の子なら王子様の役はもってこいに思えますがね。
李さん:何が理由というより注目されるのが嫌だったんだ。
李世福コネクションというからいかんせ目立ちたがり屋のように誤解されるが、決してそうではなくステージ下りると
打ち上げで皆さんのところに行き話しを聞いている方がいい。
俺は人の話を聞いている方がいいね。そのほうが好きだよ。
桜幼稚園の方では幼稚園の運動会でパン食い競争などとても鮮明に覚えている。
モノを読んだりするより運動が得意だったかな。
運動会がとても印象的であったな。
幼稚園の送り迎えは当時お手伝いさんだったんだ。
俺は裕福と言われるかもしれないけど、
「福ちゃんんとこお金持ちだよね」と言われるのが嫌で嫌でしょうがなかった。
友達だったり、色んな人に。特別だと思われるのが、嫌で仕方がなかった。
みんなと同じようでありたかっただけなんだ。
一つのエピソードとして家に風呂があるのが、嫌だった。風呂屋に行けなかったから。
当時はランドセルではなかったんだ。
中華学校の授業は全部北京語。
日本の国語は習わなかったんだ。
50音順は自然の生活で習得した。ただ回りの人より読み書きがうまくなかったので、少し恥ずかしかった。
中華学校においてもあまり成績はよくなかった。後ろから4、5番目くらいからかな。
それで人一倍勉強しなくてはいけないのに、勉強せず日本の学校に進んでしまったんだ。
エディ藩さんの曲の中で『飯を食うならオリジナルジョーズなんて』という歌詞があるけど、当時ウチの裏にあったんだよね。
まだ5、6歳くらいの頃だったからまだ食べ物には興味がなかったんだよね。でもそういうところに連れてってもらうのが
嬉しくてね。大人になって聞いてみたんだけど、あそこはビフテキが厚くて美味しかったという。
俺は食べた記憶が無かったんだけど、親父が『お前は子供だったからハンバーグを食べさせたんだよ。』と言っていた。
そういえば、ピザってあったっけ?と聞いたらそんなものはないと言われたよ。オリジナルジョーズはピザで有名になったよね。
子供の頃、お母さんに喫茶店によく連れてってもらったんだよね。知り合いが喫茶店をやっていたからね。小さい頃から喫茶店に行くのがよくある事だったんだ。
そしてアイスクリームが食べられるのが嬉しくってねぇ。
中華街は飲食店ばからいでなくて喫茶店も多くあったんだ。あと外人バーも多くあった。
ある時、焼き鳥屋さんの所にいて外人バー勤めている女の人が『坊や、これを吸ったら20円あげるよ』
と言われ吸うというより吹かしたんだ。それで20円もらった。その日、眠る時すごく悪い事をしたような気分になった。
7、8歳くらいの時かな。
今思えば、中華街って不思議なとこだよなぁ。それで今でも住んでいるけれどね。
KENT:さらにまた細かく教えてください!
李さん:うん、いいよ、もちろんだよ!
続く