今回、李世福さんが10代後半の頃、アメリカに渡米した時のエピソードをお伺いしました。かなり貴重な体験かつお話です。
李さん:『お姉さんが結婚して向こうに住んでいたから。高校を卒業してすぐ四月に行ったんだけど、
フィルモアとかそういうところに行ってジェスロタルとかアルバート・キング、BBキング、う~ん、
マイク・ブルームフィールドを、そうだスピリッツやポコなどその当時の向こうのブルース系の色んなミュージシャンを見たね。クラウズというのも見た。
でも何と言ってもジミ・ヘンドリックス!でもフィルモアではないんだよね。ジミヘンはね、
オークランドという所でうーん、劇場でやったんだけどね。そこの劇場でやるのはザ・フーとか、
レッド・ツェッペリンとかそのクラスの人達がやるところみたい。それで当日は入れ替え制だったね。
それでその当日にチケット買ったのに、一緒に行ってくれた俺のおねぇさんの旦那さんが
『前の席で観たいか?』と聞かれて『観たいよ!』と答えたら本当に前から五列目くらい
観る事ができたんだよね。本当に目の前と同じくらいの距離だったんだ。
忘れもしない1970年5月30日だったんだ。
もうヒット曲をバンバンやってくれて興奮したね。ストラトを何本も変えて演奏してたなぁ。でもレッドハウスという曲だけ黒のフライングVだったねぇ。俺のフライングVはアームがついているんだけど、その時ジミヘンが持っていた黒のフライングVはアームはなかったんだ。
でもストラトを使ってた時はアームをバンバン使っていたよ。唸るほどアームを使っていたよ。
ちょうど1970年のこの時、フィルモアでもそうだけど、この劇場でも入れ替え制だから外で待っていた
客も男も女もロングヘヤーのヒッピーが多かった。ちょうどこの70年に行けたから良かった。
もっと早かったらまた違っていただろうなぁ。
ちょっと余談になるけど、この時色んなアーティスト見たくて行ったんだけどその他の思い出はサンフランシスコは坂が多かったかな。あとはオレンジや蟹がとてもおいしかった。
その当時チキンバーガーではなくバスケットにチキンとロールパンが入っている
メニューをケンタッキーで食べた。これはうまかったなぁ。まだ日本にケンタッキーが上陸する前だよね。
ジミヘンが亡くなったのは九月くらいだったっけ?だからギリギリだよね。サンフランシスコでも
見逃していたら次の年まで観れないものだからね、アメリカは広いから。
その時のライブはジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスだったかな?解散したと思ってたんだけど、
ベースがビリー・コックス、それでドラムはミッチ・ミッチェルだったんだよね。
俺はすごく嬉しかったんだけど。ジミ・ヘンドリックスを見たという人は日本人では未だに
お会いした事はないね・・。
それはそうだよね、早くに亡くなっちゃったからねぇ・・。
KENT:李さんはもうすでに日本で高校生の頃からジミヘンには夢中だったわけですよね?
李さん:そうだよ、高校一年の時から。横浜と行っても中区に住んでいたから情報も早いし、兄貴やおねぇさんがアメリカンスクールに行っていたから米軍関係の人に買ってきてもらったり。
そういう環境だからゴールデンカップスの人達なんかは当然早いよね!
KENT:カップスも当時はヘイ・ジョーやっていましたもんね!
李さん:だから東京の人気グループの人達だって仕事終わったらわざわざ車で横浜に来て夜中、朝方まで
過ごしたりしていた。
KENT:ジミヘンを生で見れた経験はやはりすごく貴重ですよね!当時そこまで多くの外タレが来日している頃ではなかったですから。
李さん:ジェスロタルを見た時も4グループ出たんだよね。最初に登場したのはエマーソン、レイク&パーマーと同じ編成のクラウズ。ベースとハモンドとドラムだった。すごく良かったよね。ジャズっぽい曲もやったりマイナーな曲もやったりでも俺はすごく気に入ったんだよね。『スィウィング・スィウイング・スィウイング』もやったな。
ジャズロックという感じだったんだ。
それで二番目、三番目は落ち着いた普通のロック・バンド。(笑)結構知られたバンドだと思うんだけどね。まぁ四つくらい出てくるとお客さんも目当てのが見たくて、まだかまだかと思うだけど、一番目のバンドはすごく大事なんだよね。それからトリになってくるんだけど。
真ん中がどうでもいいという訳ではないんだけど、やはり頭のグループって大事だよね。
フィルモアは毎週行ったんだ。その週はマイク・ブルームフィールドが出たねぇ。その週も木金土日やったんだよね。木金土日は同じグループがでるんだよね
その週はブルースイメージというバンドだったかなぁ」。その当時は知られたバンドだったなぁ。
それでスピリッツやポコというバンドも出たなぁ。
その次の週はBBキング、アルバートキング、そしてもう一つはそこそこ知られたバンドだと思う。
フィルモアというのはでかい体育館みたいで中にカウンターバーがあるんだけど、そこに飲み物を買いに行ったらなんとアルバートキングが飲み物をもらいにきていたなぁ。すごくでかいという
イメージだった。
またその中ではみんなゴザを持ってきていてね。イスじゃないんだ。みんなロングヘヤーでいかにもバンドやっているという感じだった。
客はほとんどヒッピーで不思議なのは会場には警察も沢山居たんだけど、葉っぱ吸っている奴がいたんだよ。少し後ろに警察がいるのに吸っていた。警察もバンドの音にのっていたなぁ。
すごく臭うのにね。
これらのイベントで最初のバンドが肝心だと感じた。
俺はそれをすごく感じたから自分が学園祭やフェスティバルに呼ばれて一番目にやるというのは別にいやじゃないんだよね。むしろ一番目にやりたいかな。お客さんは「待ってました!」と
最初から待っているからね、当時は。
今みたいに自分のお目当てのバンドだけ見て他のバンド観たら帰るというのは当時はないからね。
今でもね、最初からお客さんが沢山入っていたら一番最初にやりたいんだよね。
最初にやるのが大好きだから。
KENT:李さんは当時アメリカに行った際、お姉さんがそちらで結婚して暮らしていたからというのもあったと思うんですが他に理由はあったんですか?例えば将来を考えるためとか
何か吸収したいとか何かを磨きたいとか・・。
李さん:もちろん!その何かを掴みたいというのがメインだよ。それでたまたまお姉さんがアメリカにいたからという事。もしいなかったらいけなかったんじゃないかな?
当時はもう何と言うか、サンフランシスコに行くという感覚ではないから。アメリカに行くという
感覚だよね。だから当時エアチケットで今みたいに便利ではなく一年オープンチケットで20万以上
したからねぇ。
貯金を使い、レスポールを売って。それでも行きたいと思ったから。
その当時の20何万と言ったら本当に大金だよね。高校卒業の初任給が三万円あるかないか。
でも俺達のようなバンドやっているともっと稼げた
だけど、ギターとそういうのはすごく高くて。
それでアメリカ行くなんていうのは当時の感覚では一生に一度行けるかどうかと思っていたから。
その当時は特に不安なんかなかったね。音楽でやっていきたいというか、バンドでやって行きたい
と思っていたからね。ミュージシャンという言葉もあまり使わなかったよね。バンドって言ってた。
だから俺は今でもミュージシャンというよりバンドをやるという感覚なんだよね。
KENT:確かに李さんのライブステージはバンドではありますが、ロックやバンドに拘っているわけではなくアートというようにも感じます。何と言うか芸事というか。
李さん:いやもともと俺はそんなにバンドやって金かせいでいい車にいい女にいい暮らしをしたいとは思わなかったんだよね。バンドやって好きな事をやっていたいと思っていたんだ。
何より音にしびれてやり始めたんだからね。今でも音にしびれ続けてやっているんだけどね(笑)
KENT:あとアメリカであるディスコに入った際、そこのバンドがレッド・ツェッペリンの曲をやっていてソロがアドリブなのに驚いたというエピソードもありましたね。当時の日本は完コピが一般的だとかで。当時はもちろんインターネットなんてない時代ですから貪欲に情報を得ようとしている姿が目に浮かびます。
それがきっかけで帰国してからバンドを組みオリジナル曲を演奏したという事ですね。フォークの人達はオリジナルがほとんどでしたが、当時の日本のロックバンドはコピーがほとんどという事ですが。
そして李さんは帰国して70年代頃は色んな学園祭やイベントに呼ばれて演奏活動をしていたという事です
よね?
李さん:そうだね、横浜野音とか市民ホールとか学園祭とか。横浜の学園祭は全部呼ばれたんじゃないかな。
まだ当時は学生運動の名残があったからね。その時はそんなにすごく激しくはなかったと思うけど。
kENT:80年代は李さんがアルバムを作りますね。1984年に。それまではレコードを作るというイメージはなかったんですか?
李さん:うん、あんまりレコードを作るという考えはなかったんだけど、ある時、関係者をエディ藩さんからも紹介を受けてそういう話になった時、その当時の担当者CBSだったかな。やるには日本語でやってくれと言われたんだ。ロックはやはり英語だし日本語じゃ嫌だなとなってそれでレコード出す時期を逃しちゃったというのもある。その頃は日本語で少しづつロックが歌われる時期だったんだろうねぇ。
だから俺がレコードを出したのは遅かったんだよね。まぁそれは今思えば自分では良かったと思っているよ。俺の年齢で言えば10年くらい遅かったよね。72、3年には出していればいいのに84年だからね。まぁそれでよかったのかな。作品としてもしっかりしたのが出せたから。
KENT:その少し前の1980年に李さんは松田優作さんと出会っていますね。これはエディ藩さんの紹介と言う事ですよね。
李さん:そうだよ。
KENT:ただ李さんはその少し前に『人間の証明』を観ていて松田優作さんを知っていたと。
李さん:それまでは松田優作さんは新人だと思っていた(笑)でもその前から活躍していたわけだけど。
だからすごく有名というのを知らなかったんだけど、それがよかったのかもしれない。
でもすごくいい役者さんだなと思ったけどね。
KENT:ここで松田優作さんの本があります。李さんもインタビュー受けています。
ここで李さんは当時の回想として『優作さんは相手はミュージシャンだからお願いしているという感覚があり俳優仲間とはちょっと違う扱いをしてくれた』というような事を言っていますが、
レコーディングだったり曲作りでは絶対に優作さんは妥協などはしなかったのではないでしょうか。
李さん:うん、しなかったねぇ。レコーディングの時は大変だったよね。ベースの奈良さんもすごく大変だったと思う。今日録音して気に入っても次の日になったらやっぱり良くないと言って録り直したり。
リズム録りの後のリフやアレンジは何度もやり直したね。
優作さんはシャッフルのリズムにチャイニーズ・メロディーを入れてくれと言われた時は俺も『ウソだろ』と思ったよね。すごく難しいと思ったけど優作さんだから妥協はしないし、何とかやってみたら入れられたんだよね。優作さんも気に入ってくれてさ。
でもこういう要望は優作さんがミュージシャンではなく俳優さんだからできる発想だよね。
だからよかったと思う。
KENT:優作さんの要望というのは抽象的でしたか?
李さん:いやそうではなかったね。ズバズバはっきりしていたよ。
例えばこの曲のタイトルは『ハートブレイククーニャン』だから中国っぽくとかね。
決して抽象的ではない。
頭抱えるほどではないけど、でもまいったね。頭ひねって。不思議と何とかできたんだけどね。
結果的には喜んでもらえたけどね。でも普通の他のギタリストだったら嫌がられたかもしれないな。
俺はそこが普通とは違うんだけどね。
他のギタリストならこんなんのやってられないよと思われたかもしれないよね。
だから俺はミュージシャンとかギタリストという枠に自分から入っていないというかそんな感覚なんだよね。
KENT:李さんが松田優作さんとやったツアーなども日程が記録されています。
そしてオールナイトフジに出演されたのが1987年5月3日というのも記録されています。
李さん:そうなんだね。それはロマーニッシェズ・カフェツアーだね。新宿の厚生年金会館で終わるんだけど、その後にまるで打ち上げのような感じでまた最初のカフェでやって終わるんだ。
その後は亡くなるまで連絡は取らなかったんだよね。また何かあれば連絡くれるだろうと思っていた。
でもその後、『ブラックレイン』とかやるというのは聞いていたからね。だから別の計画があるんだ
なと思っていたんだ。そしたら三年後に亡くなってしまったからね。。。
この時、優作さんはキーボードを演奏と言うかね、ポコポコ鳴らしていた場面もあったね。
KENT:李さんはしょっちゅう松田優作さんと一緒にいたわけではないじゃないですか。でも優作さんのキャリアのポイントポイントで関っているのでかなり面白いエピソードもありますよね
松田優作さんの歴史の中であまり李さんが出てこないということもありますが、僕はこの貴重なエピソード、証言を記録して行きたいと思っています。
李さん:あとこんな事もある。松田優作さんが『男でもチャーミングであってもいい』という事を言っていた。
そういう言葉を男に使うというのも優作さんのセンスというか面白いよね。
あと優作さんがツアー先の名古屋で急に「帰る」と言い出した事もあるとか・・。
覚えているよ。ホテルチェックインしてライブやる前に言い出したんだよ。自分の部屋も決まって
荷物置いてリハーサル終わってからかもしれないな。今日は帰るからと。名古屋は食い物がないからと
俺は良かったんだけどね。ただ名古屋くらいならホテルも取らずに帰れるんだけどね。
それで全部終わってからすぐ新幹線に乗って食堂車の向かっていったね。
それでね、その新幹線の中で偶然にもミッキー吉野に会ったんだ。それでちょっとしゃべってさ。
名古屋は泊まらなかったなぁ。部屋は決まっていたのにねぇ。
こんなエピソードもありました。
さっき横浜の中区は入ってくる音楽が早いというのがあったけど、親父の交関係で
しょっちゅう外人が家に出入りしていた。
外人が身近にいる事も色んな音楽が入ってくることも身近だったんだ。
俺はやっているのはチャイニーズ・ロックだったり、ハードロックだけど、子供の頃から歌番組を観るのは大好きだったんだよね。でもね、自分もその歌番組に出ている人達みたいに有名人になりたいとか芸能人になりたいとかそういう意識はなかったんだよね。
有名になりたいとか目立ちたいと思ってやっているわけではないし。
当時はバンドやっていてもお客さんがいて当たり前という時代だったから
今とは違って集客に心配もなかったよね。でも今は大変だよ、もう。笑
もちろん俺だけではなくてみなさんもそうだと思うよ。
でもね、苦労という言葉は使いたくないんだよね。むしろ苦労と思った事は一度もないんだよね。
大変な事が全然ないと言ったらウソになるけど、苦労とは思わない。好きなことやっているからさ。
KENT:李さんも今後も大きな活躍をされる事と思いますが、スタンスは今までと同じですよね?
李さん:うん、変わらないよ。これからも自分の事を自分で見ながら続けていくよ。
李さん:『お姉さんが結婚して向こうに住んでいたから。高校を卒業してすぐ四月に行ったんだけど、
フィルモアとかそういうところに行ってジェスロタルとかアルバート・キング、BBキング、う~ん、
マイク・ブルームフィールドを、そうだスピリッツやポコなどその当時の向こうのブルース系の色んなミュージシャンを見たね。クラウズというのも見た。
でも何と言ってもジミ・ヘンドリックス!でもフィルモアではないんだよね。ジミヘンはね、
オークランドという所でうーん、劇場でやったんだけどね。そこの劇場でやるのはザ・フーとか、
レッド・ツェッペリンとかそのクラスの人達がやるところみたい。それで当日は入れ替え制だったね。
それでその当日にチケット買ったのに、一緒に行ってくれた俺のおねぇさんの旦那さんが
『前の席で観たいか?』と聞かれて『観たいよ!』と答えたら本当に前から五列目くらい
観る事ができたんだよね。本当に目の前と同じくらいの距離だったんだ。
忘れもしない1970年5月30日だったんだ。
もうヒット曲をバンバンやってくれて興奮したね。ストラトを何本も変えて演奏してたなぁ。でもレッドハウスという曲だけ黒のフライングVだったねぇ。俺のフライングVはアームがついているんだけど、その時ジミヘンが持っていた黒のフライングVはアームはなかったんだ。
でもストラトを使ってた時はアームをバンバン使っていたよ。唸るほどアームを使っていたよ。
ちょうど1970年のこの時、フィルモアでもそうだけど、この劇場でも入れ替え制だから外で待っていた
客も男も女もロングヘヤーのヒッピーが多かった。ちょうどこの70年に行けたから良かった。
もっと早かったらまた違っていただろうなぁ。
ちょっと余談になるけど、この時色んなアーティスト見たくて行ったんだけどその他の思い出はサンフランシスコは坂が多かったかな。あとはオレンジや蟹がとてもおいしかった。
その当時チキンバーガーではなくバスケットにチキンとロールパンが入っている
メニューをケンタッキーで食べた。これはうまかったなぁ。まだ日本にケンタッキーが上陸する前だよね。
ジミヘンが亡くなったのは九月くらいだったっけ?だからギリギリだよね。サンフランシスコでも
見逃していたら次の年まで観れないものだからね、アメリカは広いから。
その時のライブはジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスだったかな?解散したと思ってたんだけど、
ベースがビリー・コックス、それでドラムはミッチ・ミッチェルだったんだよね。
俺はすごく嬉しかったんだけど。ジミ・ヘンドリックスを見たという人は日本人では未だに
お会いした事はないね・・。
それはそうだよね、早くに亡くなっちゃったからねぇ・・。
KENT:李さんはもうすでに日本で高校生の頃からジミヘンには夢中だったわけですよね?
李さん:そうだよ、高校一年の時から。横浜と行っても中区に住んでいたから情報も早いし、兄貴やおねぇさんがアメリカンスクールに行っていたから米軍関係の人に買ってきてもらったり。
そういう環境だからゴールデンカップスの人達なんかは当然早いよね!
KENT:カップスも当時はヘイ・ジョーやっていましたもんね!
李さん:だから東京の人気グループの人達だって仕事終わったらわざわざ車で横浜に来て夜中、朝方まで
過ごしたりしていた。
KENT:ジミヘンを生で見れた経験はやはりすごく貴重ですよね!当時そこまで多くの外タレが来日している頃ではなかったですから。
李さん:ジェスロタルを見た時も4グループ出たんだよね。最初に登場したのはエマーソン、レイク&パーマーと同じ編成のクラウズ。ベースとハモンドとドラムだった。すごく良かったよね。ジャズっぽい曲もやったりマイナーな曲もやったりでも俺はすごく気に入ったんだよね。『スィウィング・スィウイング・スィウイング』もやったな。
ジャズロックという感じだったんだ。
それで二番目、三番目は落ち着いた普通のロック・バンド。(笑)結構知られたバンドだと思うんだけどね。まぁ四つくらい出てくるとお客さんも目当てのが見たくて、まだかまだかと思うだけど、一番目のバンドはすごく大事なんだよね。それからトリになってくるんだけど。
真ん中がどうでもいいという訳ではないんだけど、やはり頭のグループって大事だよね。
フィルモアは毎週行ったんだ。その週はマイク・ブルームフィールドが出たねぇ。その週も木金土日やったんだよね。木金土日は同じグループがでるんだよね
その週はブルースイメージというバンドだったかなぁ」。その当時は知られたバンドだったなぁ。
それでスピリッツやポコというバンドも出たなぁ。
その次の週はBBキング、アルバートキング、そしてもう一つはそこそこ知られたバンドだと思う。
フィルモアというのはでかい体育館みたいで中にカウンターバーがあるんだけど、そこに飲み物を買いに行ったらなんとアルバートキングが飲み物をもらいにきていたなぁ。すごくでかいという
イメージだった。
またその中ではみんなゴザを持ってきていてね。イスじゃないんだ。みんなロングヘヤーでいかにもバンドやっているという感じだった。
客はほとんどヒッピーで不思議なのは会場には警察も沢山居たんだけど、葉っぱ吸っている奴がいたんだよ。少し後ろに警察がいるのに吸っていた。警察もバンドの音にのっていたなぁ。
すごく臭うのにね。
これらのイベントで最初のバンドが肝心だと感じた。
俺はそれをすごく感じたから自分が学園祭やフェスティバルに呼ばれて一番目にやるというのは別にいやじゃないんだよね。むしろ一番目にやりたいかな。お客さんは「待ってました!」と
最初から待っているからね、当時は。
今みたいに自分のお目当てのバンドだけ見て他のバンド観たら帰るというのは当時はないからね。
今でもね、最初からお客さんが沢山入っていたら一番最初にやりたいんだよね。
最初にやるのが大好きだから。
KENT:李さんは当時アメリカに行った際、お姉さんがそちらで結婚して暮らしていたからというのもあったと思うんですが他に理由はあったんですか?例えば将来を考えるためとか
何か吸収したいとか何かを磨きたいとか・・。
李さん:もちろん!その何かを掴みたいというのがメインだよ。それでたまたまお姉さんがアメリカにいたからという事。もしいなかったらいけなかったんじゃないかな?
当時はもう何と言うか、サンフランシスコに行くという感覚ではないから。アメリカに行くという
感覚だよね。だから当時エアチケットで今みたいに便利ではなく一年オープンチケットで20万以上
したからねぇ。
貯金を使い、レスポールを売って。それでも行きたいと思ったから。
その当時の20何万と言ったら本当に大金だよね。高校卒業の初任給が三万円あるかないか。
でも俺達のようなバンドやっているともっと稼げた
だけど、ギターとそういうのはすごく高くて。
それでアメリカ行くなんていうのは当時の感覚では一生に一度行けるかどうかと思っていたから。
その当時は特に不安なんかなかったね。音楽でやっていきたいというか、バンドでやって行きたい
と思っていたからね。ミュージシャンという言葉もあまり使わなかったよね。バンドって言ってた。
だから俺は今でもミュージシャンというよりバンドをやるという感覚なんだよね。
KENT:確かに李さんのライブステージはバンドではありますが、ロックやバンドに拘っているわけではなくアートというようにも感じます。何と言うか芸事というか。
李さん:いやもともと俺はそんなにバンドやって金かせいでいい車にいい女にいい暮らしをしたいとは思わなかったんだよね。バンドやって好きな事をやっていたいと思っていたんだ。
何より音にしびれてやり始めたんだからね。今でも音にしびれ続けてやっているんだけどね(笑)
KENT:あとアメリカであるディスコに入った際、そこのバンドがレッド・ツェッペリンの曲をやっていてソロがアドリブなのに驚いたというエピソードもありましたね。当時の日本は完コピが一般的だとかで。当時はもちろんインターネットなんてない時代ですから貪欲に情報を得ようとしている姿が目に浮かびます。
それがきっかけで帰国してからバンドを組みオリジナル曲を演奏したという事ですね。フォークの人達はオリジナルがほとんどでしたが、当時の日本のロックバンドはコピーがほとんどという事ですが。
そして李さんは帰国して70年代頃は色んな学園祭やイベントに呼ばれて演奏活動をしていたという事です
よね?
李さん:そうだね、横浜野音とか市民ホールとか学園祭とか。横浜の学園祭は全部呼ばれたんじゃないかな。
まだ当時は学生運動の名残があったからね。その時はそんなにすごく激しくはなかったと思うけど。
kENT:80年代は李さんがアルバムを作りますね。1984年に。それまではレコードを作るというイメージはなかったんですか?
李さん:うん、あんまりレコードを作るという考えはなかったんだけど、ある時、関係者をエディ藩さんからも紹介を受けてそういう話になった時、その当時の担当者CBSだったかな。やるには日本語でやってくれと言われたんだ。ロックはやはり英語だし日本語じゃ嫌だなとなってそれでレコード出す時期を逃しちゃったというのもある。その頃は日本語で少しづつロックが歌われる時期だったんだろうねぇ。
だから俺がレコードを出したのは遅かったんだよね。まぁそれは今思えば自分では良かったと思っているよ。俺の年齢で言えば10年くらい遅かったよね。72、3年には出していればいいのに84年だからね。まぁそれでよかったのかな。作品としてもしっかりしたのが出せたから。
KENT:その少し前の1980年に李さんは松田優作さんと出会っていますね。これはエディ藩さんの紹介と言う事ですよね。
李さん:そうだよ。
KENT:ただ李さんはその少し前に『人間の証明』を観ていて松田優作さんを知っていたと。
李さん:それまでは松田優作さんは新人だと思っていた(笑)でもその前から活躍していたわけだけど。
だからすごく有名というのを知らなかったんだけど、それがよかったのかもしれない。
でもすごくいい役者さんだなと思ったけどね。
KENT:ここで松田優作さんの本があります。李さんもインタビュー受けています。
ここで李さんは当時の回想として『優作さんは相手はミュージシャンだからお願いしているという感覚があり俳優仲間とはちょっと違う扱いをしてくれた』というような事を言っていますが、
レコーディングだったり曲作りでは絶対に優作さんは妥協などはしなかったのではないでしょうか。
李さん:うん、しなかったねぇ。レコーディングの時は大変だったよね。ベースの奈良さんもすごく大変だったと思う。今日録音して気に入っても次の日になったらやっぱり良くないと言って録り直したり。
リズム録りの後のリフやアレンジは何度もやり直したね。
優作さんはシャッフルのリズムにチャイニーズ・メロディーを入れてくれと言われた時は俺も『ウソだろ』と思ったよね。すごく難しいと思ったけど優作さんだから妥協はしないし、何とかやってみたら入れられたんだよね。優作さんも気に入ってくれてさ。
でもこういう要望は優作さんがミュージシャンではなく俳優さんだからできる発想だよね。
だからよかったと思う。
KENT:優作さんの要望というのは抽象的でしたか?
李さん:いやそうではなかったね。ズバズバはっきりしていたよ。
例えばこの曲のタイトルは『ハートブレイククーニャン』だから中国っぽくとかね。
決して抽象的ではない。
頭抱えるほどではないけど、でもまいったね。頭ひねって。不思議と何とかできたんだけどね。
結果的には喜んでもらえたけどね。でも普通の他のギタリストだったら嫌がられたかもしれないな。
俺はそこが普通とは違うんだけどね。
他のギタリストならこんなんのやってられないよと思われたかもしれないよね。
だから俺はミュージシャンとかギタリストという枠に自分から入っていないというかそんな感覚なんだよね。
KENT:李さんが松田優作さんとやったツアーなども日程が記録されています。
そしてオールナイトフジに出演されたのが1987年5月3日というのも記録されています。
李さん:そうなんだね。それはロマーニッシェズ・カフェツアーだね。新宿の厚生年金会館で終わるんだけど、その後にまるで打ち上げのような感じでまた最初のカフェでやって終わるんだ。
その後は亡くなるまで連絡は取らなかったんだよね。また何かあれば連絡くれるだろうと思っていた。
でもその後、『ブラックレイン』とかやるというのは聞いていたからね。だから別の計画があるんだ
なと思っていたんだ。そしたら三年後に亡くなってしまったからね。。。
この時、優作さんはキーボードを演奏と言うかね、ポコポコ鳴らしていた場面もあったね。
KENT:李さんはしょっちゅう松田優作さんと一緒にいたわけではないじゃないですか。でも優作さんのキャリアのポイントポイントで関っているのでかなり面白いエピソードもありますよね
松田優作さんの歴史の中であまり李さんが出てこないということもありますが、僕はこの貴重なエピソード、証言を記録して行きたいと思っています。
李さん:あとこんな事もある。松田優作さんが『男でもチャーミングであってもいい』という事を言っていた。
そういう言葉を男に使うというのも優作さんのセンスというか面白いよね。
あと優作さんがツアー先の名古屋で急に「帰る」と言い出した事もあるとか・・。
覚えているよ。ホテルチェックインしてライブやる前に言い出したんだよ。自分の部屋も決まって
荷物置いてリハーサル終わってからかもしれないな。今日は帰るからと。名古屋は食い物がないからと
俺は良かったんだけどね。ただ名古屋くらいならホテルも取らずに帰れるんだけどね。
それで全部終わってからすぐ新幹線に乗って食堂車の向かっていったね。
それでね、その新幹線の中で偶然にもミッキー吉野に会ったんだ。それでちょっとしゃべってさ。
名古屋は泊まらなかったなぁ。部屋は決まっていたのにねぇ。
こんなエピソードもありました。
さっき横浜の中区は入ってくる音楽が早いというのがあったけど、親父の交関係で
しょっちゅう外人が家に出入りしていた。
外人が身近にいる事も色んな音楽が入ってくることも身近だったんだ。
俺はやっているのはチャイニーズ・ロックだったり、ハードロックだけど、子供の頃から歌番組を観るのは大好きだったんだよね。でもね、自分もその歌番組に出ている人達みたいに有名人になりたいとか芸能人になりたいとかそういう意識はなかったんだよね。
有名になりたいとか目立ちたいと思ってやっているわけではないし。
当時はバンドやっていてもお客さんがいて当たり前という時代だったから
今とは違って集客に心配もなかったよね。でも今は大変だよ、もう。笑
もちろん俺だけではなくてみなさんもそうだと思うよ。
でもね、苦労という言葉は使いたくないんだよね。むしろ苦労と思った事は一度もないんだよね。
大変な事が全然ないと言ったらウソになるけど、苦労とは思わない。好きなことやっているからさ。
KENT:李さんも今後も大きな活躍をされる事と思いますが、スタンスは今までと同じですよね?
李さん:うん、変わらないよ。これからも自分の事を自分で見ながら続けていくよ。