◆ 火吹く人たちの神 ~52






今で本書のおよそ3/5ほど進めました。

毎日とは言わずとも度々
日々の記事作成に本書より引用しておりましたが、
通しで読み進めるのはおよそ15年ぶり。

あらためて…
本書から得た「衝撃」と「知識」とに満ちていたことを感じさせられます。

あの頃が懐かしい…

本書で得たことから
急いで関わる神社へ向かった…

こんなことも多々ありましたが、
今回もそれが該当する記事となります。




第二部 古代社会の原像をもとめて
第一章 垂仁帝の皇子たち



■ 垂仁帝の苗裔・遊部とは何か

垂仁天皇には妾腹の王子であるという円目王(ツブラメノミコ)がいます。この王もまた金属精錬に関係があると谷川健一氏は述べています。



◎円目王と「比自支」

記紀に事蹟は記されないものの、「令集解」に以下の記述が見えます。
━━遊部は大和国高市郡、生目天皇(垂仁天皇)の苗裔なり。遊部を負う所以は、生目天皇の蘖子(庶子)円目王、伊賀の比自支和気の女を娶りて妻となす。およそ天皇の崩ずるときは、比自支和気等は殯所にいたり。その事に供奉す。よってその氏二人を取りて、名を禰義余此(ネギヨシ)と称するなり。禰義は刀を負いならびに戈を持つ。余此は酒食を持ち、ならびに刀を負う。ならびて内に入りて供奉するなり。ただ禰義等の申す辞は、すなわち人に知らしめざるなり。後に長谷天皇(雄略天皇)の崩ずるときにおよび、比自支和気を●く(かく*)に依りて、七日七夜御食(みけ)を奉らず。これによりて荒びたまいき。そのとき諸国にその氏人を求めたまう。ある人いう。円目王には比自支和気の女を娶りて妻となす。この王に問うべしという。よりて召問す。答えていう。然るなり。その妻を召して問う。答えていう。わが氏人に絶え、妻一人在るのみ。すなわちその事を指負わす。女もうして云う。女は兵(刀)を負いて供奉するに便ならず、と。仍りてその事を以て、その夫の円目王に移す。すなわちその夫、その妻にかわりてその事に供奉す。これによりて(荒び魂)は和平み(なごみ)たまうなり━━

*「●く(かく*)」の字はこの写真の通り。

第11代垂仁天皇の妾腹の王子が第21代雄略天皇の頃まで生きていたとは辻褄が合いません。従ってこれは、民間の伝説中の人物であったことを窺わせるが…と谷川健一氏はみています。
それにしてもなぜ円目と、ことさらに「目」を強調する名前が付けられたのだろうか?それは父の垂仁帝が活目入彦五十狭茅天皇(イクメイリヒコイサチノスメラミコ)と称したことと関係がないだろうか?としています。

ここからが谷川健一氏の推理。
比自支和気というのは「死者の魂を鎮める役割を職業とした…」とあります。この「比自支」の名は、紀の持統天皇元年八月条に出てきます。天武天皇の殯宮に直会を奉りましたが、それを「御青飯(あほきもの)」というとあります。「大系」(「神道大系」または「国史大系」の何れかと思われる)の註には、一説に青飯とは菜飯のこととするが未詳として、他方「ひじき」とも訓ませることを述べているとしています。それは比自支和気が殯所で食物を奉るからというもの。
ここで谷川健一氏の推理が働きます。
「青」は野菜の色というよりは、むしろ死者の色を指すのであろうか…と。死者に捧げる食物だから「青飯」と呼んだのであると解したい…と。

伊賀の比自支氏の本拠が東大寺の康平七年(1064年)の文書には、「火食村(ひじきむら)」とという名前であらわれているとのこと。
「火食」というのは、死者と一つかまどで共食するという意味であろうかと。そうした者は二度と現世に還ることはできないという古くからの伝承を挙げています。それは記に言う「黄泉戸喫(よもつへぐひ)」であるとみています。

比自支和気の本貫地である「比自支」という地名は今も、伊賀国伊賀郡に残ります。そこには比自支神社が鎮座します。この地は垂仁帝皇子の一人、息速別命(オキハヤワケノミコト・イコハヤワケノミコト)の由縁の地の青山町「阿保」から一里しか離れていません。

[伊賀国伊賀郡] 比自支神社



◎「遊部」

先の「令集解」の記事は「遊部」に就いて書かれたもの。さらに「遊部は幽顕の境を隔だてて兇癘(きょうれい*)の魂を鎮むるの氏なり」とあり、その他に仕事というものがなかったので「遊部」というと付記されています。
*「兇癘(きょうれい)」とは、疫病を流行させ死をもたらすなど、邪悪で荒ぶる死者の霊のこと。

これは本義とはかけ離れていると谷川健一氏はみています。死者の魂を慰めながら、その傍らで歌ったり踊ったりするのを「遊ぶ」といったと。

このことは記の葦原中国平定神話にみえる、天若日子が亡くなった時に、父や妻が「喪屋を作りて、河鴈(かはがり)を岐佐理持(きさりもち)と為(し)、鷺を掃持(はきもち)と為、翠鳥(そにどり)を御食人(みけびと)と為、雀を碓女(うすめ)と為、雉(きぎし)を哭女(なきめ)と為、如此(かく)行ひ定めて、日八日夜八夜(ひやかよやよ)を遊びき」というものから窺えます。

[美濃国不破郡] 喪山古墳(伝天若日子墓)

天若日子の葬儀に訪れた阿遅志貴高彦根命が怒って、喪屋を蹴り飛ばしたが、それが落ちて来たところと伝わる。




◎「碓女」とは

天若日子の神話に出てくる「碓女(うすめ)」というのを、天鈿女命(アメノウヅメノミコト)のことであると谷川健一氏は解釈しています。


天鈿女命は猿女君氏の祖。天岩戸の前で歌舞したという挿話は、日蝕とか冬至の日の太陽の復活を願う民俗行事であると受けとめられるもの。
宮廷鎮魂祭の際に、巫女が桶を伏せてその上に立って鉾をつく行事は今も続きますが、これは元々猿女の伝えた「魂振り」行事。
「臼を搗く(つく、舂く)」ことは生殖または生産の呪術であり、これにより魂の甦りを求めたのであろうと松前健氏等は述べていますが、さすれば天鈿女の本来の意義から「天臼女」としなければならない、つまり「臼女」(碓女)であると。

紀には「舂女(ツキメ)」として登場します。つまり「臼を舂く(つく)」動作をして魂の甦りを願ったのが天鈿女命であり、それを受け継いだのが猿女君であったということかと。


「岐佐理持(きさりもち)」というのは、葬送の際に死者の食物を手に持って行く人だと言われているようです。従って「御食人(みけびと)」と同じような役。紀では烏を「宍人(ししびと)」としたとありますが、これもまた死者に食物を供える役。何れも遊部の比自支和気が殯所で食物を奉るのと同じことを表していると分かります。


大和国高市郡「遊部郷」には、イザナミ神が亡くなった時にイザナギ神が涙したという哭沢女神を祀る哭沢女神社(畝尾都多本神社)が鎮座しています。







今回はここまで。

次回は「遊部」の新たな展開が語られます。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。
*一部の許可している方を除き写真・文章の無断使用や転載を禁止致します。リブログ等にてお願いします。