◆ 「真の持統女帝」顕彰
~反骨と苦悩の生涯~ (31)
今回より「藤原京」に遷都してからの
持統天皇の執政となります。
◎持統天皇八年(694年)冬十二月九日~九年一月十六日
━━冬十二月九日、百官が拝朝した━━
━━冬十二月十二日、公卿大夫(まへつきみ)に宴を賜った━━
━━冬一月七日、公卿大夫(まへつきみ)に内裏で宴を賜った━━
━━冬一月十六日、百官
(つかさつかさ)に宴を賜った━━
一月七日の宴は後の「白馬の節会(せちえ)」に繋がるものかと思われます。天武天皇の時代から毎年正月七日に恒例となっていたもの。
一月十六日の宴は「蹈歌(とうか、あられはあしり)の節会」。こちらは持統天皇七年より毎年正月十六日に恒例となっていたもの。
前回の記事にて記したように、「藤原京」遷都があったものの何ら特別なことは行われていません。新しい「藤原宮」で行われるのは格別なものであったでしょうが。
◎持統天皇九年春潤二月八日・三月十二日
━━吉野宮へ行幸した━━
◎持統天皇九年夏四月九日
◎持統天皇九年夏五月十三日・二十一日
━━五月十三日、隼人大隅に宴を賜った━━
━━二十一日、隼人が相撲を取るのを西の槻の下で観覧した━━
「大隅隼人(大住隼人)」については、天武天皇十一年(683年)に相撲を行ったことが記されます。おそらくその前後に移住したものと考えられています。
私的な考えに於いては、朝廷に対して厄介な彼等を上級冠位を与える厚待遇を以て移住させることで懐柔策を取った。また天孫降臨地を彼等の聖地に設定することで一層持ち上げた…と。
ただしこれだけで収まるような彼等はではなかったようで、文武天皇四年(700年)の反乱未遂事件に始まり、大宝二年(702年)と和同六年(713年)、養老四年(720年)に反乱があったと続紀に記されます。
察するに、記紀に載せられる話が、聞いていた内容と違う…ということではなかったか?我々が天孫降臨にほとんど関わっていない!我々の聖地を天孫族の聖地にしてしまった!…このようなことではないかと。
大隅隼人を移住させて懐柔策を取ったのは、持統天皇による画策ではないかと考えています。天武天皇崩御後の持統天皇の御世にも、「ご機嫌取り」が行われていたのでしょう。
でも…「隼人舞」(復元)を目の当たりにして思うことは(舞者のレベルは低過ぎたが…*)、「芸能」という観点からは大変に面白いもの。
「ご機嫌取り」が目的ではあったと思うのですが、相撲にしろ舞にしろ、持統天皇を始め観覧者皆がお酒も相まって大いに愉しんだのではないかと想像します。
*「大住隼人舞」に関しては、継承保存を第一として、敢えて精神的にも未熟な少年少女たちに演舞させているように思います。現状はレベルの低いものですが、彼等彼女等なりに精一杯頑張っているよう見受けられますし、温かく見守りたいと思っております。また末長く継承して頂きたいと切に願います。
◎持統天皇九年夏六月十八日~二十六日
━━吉野宮へ行幸した━━
◎持統天皇九年秋七月二十三日
◎持統天皇九年八月二十四日~三十日
━━吉野宮へ行幸した━━
ちょっと「吉野宮」へ向かう頻度が増していますが、涼を求めて避暑地へ…だったのかもしれません。現代はどこも暑くて、「避暑地」など死語となりつつありますが…当ブログを御覧の方々は年齢お高めと察しますので…ピン!ときますよね?
◎持統天皇九年冬十月十一日~十二日
━━菟田の吉隠(よなばり)へ行幸した━━
「吉隠」とは現在の桜井市の東端、宇陀市に隣接した山村地。当時は菟田に属しているとしていますが、令国制では城上郡に属します。
「隠口(隠国、こもりく)」とも称され、「幽界」の入口、「葬りの地」とも言われることも。
なぜこちらへ向かったのか、どんな目的があり何をしたのか書かれていません。
なぜこの一文を取り上げたのか…「吉隠」とはおよそ天皇が行幸する地としてはおよそ相応しくない土地だから。ましてや日帰りで行けるはずが一泊までしています。これはまったく不可解なこと。
「國學院大學デジタルミュージアム」が引用する「万葉神事語辞典」は以下を掲載しています。
━━吉隠を通る古道は、遠く伊賀、伊勢へとつづく旧伊勢街道(青越道)。聖地につづく街道であり、また「道」とは、山にあっても山に属せず、人の世界にあっても人に属さない異界であるために神祭りが行われる場所であり(祝詞道饗祭他)、聖・邪が発生する場所でもある。吉隠の「ヨ」は吉事や賀詞の意、また「ナバリ」または「ナバル」は隠れるという意であり、「単に隠れる事でなく、人に見られまいとして内に籠る容子を言ふ語」(折口信夫)とある。山に隠れた聖なる場所、山のあいだにある聖地であったと考えられる━━
この行幸の目的に関して、何とか辛うじて絞り出されるのは2点。
先ず1点は、壬申の乱の際に経由した地点であった可能性があること。
「吉野宮」を脱出した大海人皇子軍は、「菟田吾城(あき)」(阿騎野)に到着。続いて「大野」(室生口大野)へ進んでいます。これだとおそらく「吉隠」は通過していないことに。もし経由したのであれば、記載があっても良さそうなもの。しかも時間的な観点からも一行はとにかく急いでいたと思われます。従って経由していないのではないかと。
可能性としては、「吉隠」の山手から一行が通った道を見渡し感慨に耽ったということでしょうか。
或いは「吉隠」の地が現在よりも広範囲で、一行の通過点をも含んでいたのでしょうか。
もう1点は、天武天皇の第5皇子である穂積皇子と但馬皇女が密通したと万葉歌から推測されます。皇女は「吉隠」に葬られ(詳細地は不明)、穂積皇子が詠んだ万葉歌が残されています。ただし薨じたのは和銅元年(708年)とまだまだ先のこと。密通があったとしても、この時に起こっていたのかどうかも分かりません。なお夫は天武天皇が寵愛し、持統朝では太政大臣であった高市皇子ではないかとも言われています。
いずれにしても何とか辛うじて絞り出した理由に他なりませんが。


「吉隠」の神社の参拝途中に撮った写真。
◎持統天皇九年十二月五日~十三日
今回はここまで。
あともう少しでこのシリーズも終わってしまうな…。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。