☆ 垂仁天皇皇子 五十瓊敷入彦命 宇度墓

(淡輪ニサンザイ古墳)

(イニシキイリヒコノミコト うどはか たんのわ)




和泉国日根郡

大阪府泉南郡岬町淡輪

(P無し、近隣停め置き不可)




■形状

前方後円墳

*南北2箇所の造出有り


■全長

全長173m(築造時は約180m)

二重の周濠有り(現存は一重目のみ)


■築造時期
5世紀中~後半頃(440~460年頃)

■埋葬施設
(不明)

■出土品
家形・楯形・蓋形・鳥形等の埴輪列

■周辺の状況
(下部に記載)

■被葬者

五十瓊敷入彦命の「宇度墓」に治定

*紀小弓・紀船守説有り



第11代垂仁天皇皇子 五十瓊敷入彦命の治定される巨大前方後円墳。


和泉国(大阪府)の最南西端、和泉山脈を隔てて紀伊国と接する地「淡輪(たんのわ)」。丘陵裾の平地、海岸からはおよそ700~800mほどに築かれています。


五十瓊敷入彦命は垂仁紀三十五年に、勅命により「高石池」「茅渟池」「狹城池」「迹見池」を造ったとあります。うち「茅渟池」が当地近辺と考えられています。

また垂仁紀三十九年に、「茅渟」の「菟砥川上宮」にて大刀一千口を作ったとあります。これは石上神宮の「天神庫(あめのほくら)」に移され、御神体となったもの。「菟砥川上宮」の推定地は5kmほど東。


「延喜式」諸寮陵に於いて、五十瓊敷入彦命の墓は和泉国日根郡に「宇度墓」と記され、東西三町 南北三町 守戸(保守を担った部民)三烟とあります。

これを信用するなら、当古墳もしくは南西500mほどに隣接する西陵古墳のいずれか。少なくとも編纂時(延長五年・927年)にはそのような認識があったということが窺えます。


問題は本当に五十瓊敷入彦命の墓であるのか?ということ。


◎先ず五十瓊敷入彦命の時代とズレがあることが挙げられます。自説では3世紀末~4世紀前半頃の人物(神)ではないかと考えています。


◎次に晩年に朝敵となっていたことが挙げられます。そのような者がこのような葬られ方をするのか?ということ。


美濃国にて伊奈波神社の社伝では、当社にて五十瓊敷入彦命を祀るとします。

「美濃国第三宮因幡写本縁起」に於いては、陸奥の金石を得るため日本武尊が派遣されるも失敗例、続いて派遣された五十瓊敷入彦命は陸奥を平定。ところがその功を妬んだ陸奥守豊益の讒言により朝敵に。そして伊奈波神社の地で討たれたとあるようです。


これを史実に近いものとするなら、美濃国の伊奈波神社の御神体山である「金華山」に、秘かに葬られているのではないかと考えます。


五十瓊敷入彦命以外に候補として挙げられているのが、紀小弓と紀船守。紀船守は奈良時代の人物であり論外。


紀小弓は雄略天皇の御宇に活躍した人物(神)。紀氏(紀朝臣系)の当主。

雄略天皇九年(465年)勅命により蘇我韓子、大伴談、小鹿火宿禰(オカヒノスクネ、角臣小鹿火)とともに新羅討伐に派遣されています。この頃の新羅は国力を増し、高句麗の配下から脱却しようとしていました。百済に進出して対馬海域を抑えて、高句麗と倭国との交易を阻害しようとしたことなどが原因。

紀小弓は新羅王を追い詰めるまでに活躍するも病死しています。そして大伴室屋の助言により葬られたのが「田身輪邑(たむわのむら)(現在の淡輪)


これは大伴氏と紀氏(紀朝臣系)の本拠地が隣り合っていることから(紀伊国)、接する地として当地が選ばれたとあります。


紀氏(紀朝臣系)は武内宿禰を祖とする氏族。武内宿禰の母は紀伊国造家。大伴氏は当ブログにおいて紀伊国造家と同族と考えています。


出土した埴輪の一部が「淡輪式」のものとされます。「淡輪式」とは粘土で成型した埴輪を台から移動させる際、台からくっつかずスムーズに外れるよう、最下部を木製枠で囲ったもの。その囲った部分が窪んでいます。この「淡輪式」は紀伊国名草郡の木ノ本古墳群(車駕之古址古墳等)でも見られます。そちらは紀伊国造家の墓と考えられています。


築造年代とも概ね合致するものであり、以上から当古墳に葬られたのではないかと考えます。西陵古墳は当古墳に先立った5世紀前半頃とされ、紀小弓とはわずかにズレがあるかと思います。



◎2014年の「造出」調査のニュース









宇度墓古墳4号陪塚。陪塚は全7基、現存は6基。



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