◆ 「祝詞新講」 次田閏著 (~12)







「神社検定2級」合格に向けて
鋭意勉強中ですが…


既にお話していたように、
仏教や修験道の内容がかなり含まれています。

何で神社の検定に
仏教とかいう新興外来宗教が要るねん!

仏教とかの内容さえ問題に出なければ
合格に向けての勉強なんぞほとんどせんで済むのに…(ブツブツ)


仏教などというものは
神社(神道)にとっては「穢れ」であり、

重要な国家祭事には
仏教まみれの身体から3日間の「潔斎」をせねばならない…と、さらっとだけテキストには書かれています。

「大嘗祭」は1ヶ月
斎宮ともなると1年、斎王は3年も。

さらっとだけ…。

もっとちゃんと書けぃ!


この日本から仏教が排除されることを
心より願います。



そのような中、

ザ・神道とも言える「祝詞」の勉強ができるのはオアシスみたいなもの。



独りよがりの記事ですが

お読み頂く方もおられるでしょうから、


なるべく平易にしてみます。





過去記事一覧を作成しました。
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延喜式卷第八 神祈八

■ 「祈年祭」 ~2

前回の記事に於いて、いくつかの文献に「祈年祭」の起源が示されているものの、信憑性に欠けるものもあり不詳であるとしています。

その中で次田潤氏は、続記に見える文武天皇 慶雲三年(706年)の記述を元に、その時よりそう古くはないであろうと推論しています。



◎「祈年祭」定着への推移

文武天皇 慶雲三年(706年)には、「甲斐信濃越中但馬土佐等の國19社に、初めて祈年幣帛が奉られた」(大意)とあります。以降を示していきます。

*「類聚国史」 巻十
「桓武天皇 延暦十七年(798年)、祈年の幣帛を
奉るべき神社を定めた」(大意)
こちらには範囲や数等の記載無し。

*「太政官符」 宇多天皇 寛平五年(893年)
「二月祈年、六月十二月月次、十一月新嘗祭の頒幣に預る神社を京畿諸國の大小社を通計して五百五十八社」(大意)

*「延喜式」 四時祭の条
祈年祭神総数 … 3132座
神祈官が祭る社 … 737座
幣を案上に奠する大社(案上官幣) … 304座

幣を案上に奠しない小社(案下官幣) … 433座

国司が祭る大社(國幣大社) … 188座

国司が祭る小社(國幣小社) … 2207座


敢えてアラビア数字にしてみました。

私の方から補足を加えておきます。

「案」とは幣物を載せるための台のようなもの。ここでは祭壇といった類いのものを設けて、そこに載せたと思われます。

「奠する」とは「供える」という意味。

「官幣」と「國幣」の違いは…
本来は祭事に合わせて齋主を務める「祝部(はふりべ)」が都に、幣帛を授かりに参上することになっていたものの、遠隔地など次第に来ない者が増えてきたため、国司を通じて授けることとなり、それが「國幣社」。「官幣社」は「祝部」が都に參向する神社のこと。
「官幣大社」は畿内に限らない、「官幣小社」は畿内のみ。

また明治以降の「旧社格」(近代社格制度)は、「官幣」「國幣」ともにそれぞれ大・中・小があります。

[紀伊国名草郡] 竈山神社
旧社格制度に於いては「官幣大社」、平安時代の社格(「延喜式神名帳」による)は「國幣小社」。


[備前国邑久郡] 安仁神社
旧社格に於いての「國幣中社」




◎「祈年祭」当日の祭儀及び祭料

「貞観儀式」(清和天皇)、「延喜式」(醍醐天皇)によって明らかにされています。

*斎戒
「散齋(あらいみ)」三日、「致齋(まいみ)」一日の規定があります。

こちらも補足をしておくなら、祭祀は「大祀」(1ヶ月)・「中祀」(3日)・小祀(1日)に分けられます。この日数は「潔斎」を行わねばならない日にちのこと。

「大祀」は「大嘗祭」のみ、「中祀」は特に重要な祭に対してのみ。「祈年祭」はこの「中祀」に該当します。

「潔斎」には「散齋(あらいみ)」・「致齋(まいみ)」があり、「散齋」では日常を離れてただ祭祀のことのみに専念すると規定されています。
平易に言うなら主に仏教の「穢れ」を祓うということ。

*調度
祭日の十五日前に、忌部八人及び鍛工木工等をして、供神の調度を作ることが規定されています。

*供進
京畿から白鶏一隻、近江国から白猪一頭が貢献されることになっていました。白猪白鶏は白馬と共に、特に御年神に献るものと規定。神馬は伊勢の両宮を始め、御年神・高御魂神・大宮女神、及び山口神水分神等の二十二社に献るものでした。


その他供進の料物には、御酒織物楯戈弓海山川の物等種々。

*祭祀の様子
原文より引用します。
━━斯くて祭日には早朝に、神祈官の齋院に幣物を案上竝に案下に奠する。やがて神祈官人は御巫(みかんなぎ、現在の「巫女」のこと、男性の場合もある)等を率ゐて、西舎の座に就き、諸王大臣參議を始め諸司は北門から入つて北廳(北庁)の座に就き、式部は命によつて群官を率ゐて南門から入つて南舎の座に就く。此の時御巫は降つて庭の座に就き、左右馬寮は各神馬十一頭を牽いて、所定の位置に立て、神祈官掌は祝部等を率ゐて西舎の南に立つ。此の時大臣以下百官は、降つて舎前の座に就き、中臣が進んで祈年祭の祝詞を宣し、大臣以下諸司の拍手があつて後、各本座に復する。次で忌部は神祈伯の命によつて、幣帛を祝等に頒ち、大臣以下諸司の退出を以つて祭儀を終るのである━━

*全国諸社からの「祝」召集の問題
上記の「官幣」「國幣」で記したように、怠慢をする「祝」が増えていたようです。都に參集した者の中には、幣物を私物化して奉らないといった者も。また「祝」が外出した隙を狙って、市人が集まって幣物を売買してしまったりなどもあったようです。

そこで政府はたびたび官符を下し、神官の緩怠を戒め、或いは国司を督励してこれを監察させたり、遠隔地はその國の幣物を奉らせたりなどの策を取るも効果はなかったとされます。

要するに、全国諸社の「祝」を召集して幣帛を受けさせるという制度そのものに問題があったということであろうとしています。

*衰微
武家の時代となり皇室の式微とともに、「祈年祭」も衰微し、「応仁の大乱」後は廃絶してしまったようです。

*再興
敬神崇祖に御心を注いだという明治天皇が「祈年祭」等を再興、神官を始め全国の官國幣社に幣帛を供進せしめたとのこと。
さらに大正時代には府縣(県)社以下の神社に対しても、「祈年祭」「新嘗祭」の両大祭に奉幣せしめられることになったと。

祭日は「皇靈殿(こうれいでん)」で行われるのを二月四日、「賢所神殿(かしこどころしんでん)」で行われるのを二月十七日とすることに改められました。また神宮へ勅使を差遣わせるのを十七日と定められました。

*「宣命式」

既に第6回目の記事(祝詞の沿革)において記しましたが、「祝詞」には「宣命(せんみょう)式」と「奏上式」の2種類があります。


・「宣命式」 … 天皇の御詞を勅使が神主祝部等に読み聞かせるもの。文末は「~宣る(のる)」。

・「奏上式」 … 神に直接申し上げるもの。文末は「~申す」。


「祈年祭」は「宣命式」の「祝詞」であり、神に対して直接何かを申し上げることはありません。

ただし単に神主祝部等に読み聞かせる事を目的とするのではなく、当日神祗官に於いて祀る天神地祗の前で奏する詞を神職に聞かせるもの。従って各節の冒頭が「皇神(すめがみ)等の前に白さく(もうさく)…」であって、文末尾が「…と宣る」となっています。

祭儀のために奉幣使が幣物とともに神社へ向かう様子(本書の裏表紙より)




今回はここまで。

次回よりホントにホントに紛れもなく
「祈年祭」の訳文に進みます。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。