[常陸国] 大洗崎神社 *画像はWikiより
この海中の鳥居に大国主命と少彦名命が降臨したという






【古事記神話】本文 
(~その81少名毘古名神の登場)






遂に大国主命が「国作り」を始めます。

ところが…
波に乗って小さな見たこともない神が現れたのです。



【読み下し文】
故 大國主神 出雲の御大の御前に坐す時 波穗自り天之羅麻船に乘り 而して鵝の皮を内剥ぎて衣服に爲し 歸り來る神有り 爾に其の名を問わすと雖も答へず 且つ所從の諸神に問わすと雖も 皆知らずと白しき 爾に多邇具久白して言ふ [多自り下以て音] 此れは久延毘古 必ず之を知りたらむ 卽ち久延毘古を召し問ひたまひし時に答へて白さく 此れは神產巢日神の御子 少名毘古名神なり [毘自り下三字以て音] 故に爾に神產巢日御祖命に白し上げしかば 答へて告る 此れは實に我が子也 子の中に於ひて 我が手俣自り久岐斯子也 [久自り三字以て音] 故に汝 葦原色許男と兄弟と爲し 而して其の國を作り堅めよ 


【大意】
大国主神が出雲の「美保岬」に坐した時、「天之蘿摩船(あめのかがみのふね)」に乗り波の頂から、鵝(ひむし、ガチョウ)の皮を剥いで衣服にし、帰り来る神がいました。名前を尋ねても答えません。また配下の諸神に尋ねても皆知らないと言います。すると多邇具久(たにぐく、=ヒキガエル)が「久延毘古が必ずや知るはずです」と。すぐに久延毘古を召し、問うてみると「神産巢日神の子、少名毘古名神(少彦名命)です」と言う。そこで神産巢日御祖神に申し上げると「実に我が子だ。多くの子のうち、我が手よりこぼれ落ちた子だ。だから汝は葦原色許男と兄弟となって国作りをしなさい」と答えたのです。


【補足】
◎出雲の「御大の御前」
「美保岬」(美保関)のこと。この地を殊更崇め立てています。

これについて「島根県古代文化センター」の松尾充晶専門研究員は、「美保関は古代から、異世界に通じるような、遠隔地交流の窓口だったと考えられる」としています。

非常に明確で興味深いものなのでリンクを貼っておきます。


◎「天之蘿摩船(あめのかがみのふね)
ガガイモの船のこと。ガガイモはツル性の多年草。ガガイモの中国名が「蘿摩」であり、「ガガイモ」は山口県に、「カガミ」は熊本県玉名市の方言として残っているようです(Wikiより)。

◎「多邇具久(タニグク)

ヒキガエルのこと。この後、久延毘古(山田之曾富騰)は世の中のことを何でも知っている神と記されます。ヒキガエルも地を這い回り、物事をよく知っているという意味もあるとか。


━━大国主が天孫降臨に先行しておこなった「国づくり」に関わる谷蟆(ヒキガエル)を引き合いに出すことで、天皇への地上の支配権の献上についてが念頭にあることが示されている━━など、これだけで一記事ですら収まらなそうな勢いですが、ここまでで留め置きます。


久延毘古については、昨日上げた記事に詳細を書きましたので、そちらをご参照下さいませ。

◎少名毘古名神については下部にて。


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[大和国城上郡] 大神神社 
主祭神は大物主櫛甕玉命(公式では大国主命と同神)、配祀神は少彦名命。




【読み下し文】

故に爾自り大穴牟遲と少名毘古名 二柱の神相並び此の國を作り堅めき 然りて後 其の少名毘古名神は常世の國に度りましき也 故に少名毘古名神 顕はし白しし 所謂 久延毘古は今は山田之曾富騰也 此の神は足は行かねと雖も 天下の事を盡に知れる神也



【大意】

大穴牟遲と少名毘古名、二柱の神は相並んで国作りをした後、少名毘古名神は常世の国に行きました。少名毘古名神であると言い表した久延毘古は「山田之曾富騰(ヤマダノソホド)」です。この神は歩くことはできないが、世の中のことを何でも知っている神なのです。



【補足】

◎少名毘古名神(少彦名命)ですが…さてどうしましょうか。まだ私自身の中に落ちて来ていない神。適当なことを書くわけにはいきませんし。

ここでは記紀等文献上に見えることに、少々付加する程度に留めます。


登場シーンから順に追っていきます。

*「天之蘿摩船(あめのかがみのふね)」に乗り波の頂からやって来た。

*鵝(ひむし、ガチョウ)の皮を剥いだ服を着ていた。

*名を聞いても答えない。

*神産巢日神の子であり、手俣からこぼれ落ちた神である。

*神産巢日神から、葦原色許男(大国主命)と兄弟となって「国作り」をするよう命じられる。

*「国作り」を終えると常世の国に帰った。


ガガイモの船、鵝の服(紀ではミソサザイの服)、神産巢日神の手俣からこぼれ落ちることから、小人(こびと)であることが分かります。


名を聞いても答えないということは、話すことができない…つまり聾唖者である可能性があります。ということは製鉄従事者ではないかと想定されます。

後裔は鳥取氏。出雲の荒神谷遺跡で大量に出土した鉄剣にも関わっていたとするのが、近年の有力な見解。また少彦名命は、鳥取氏が祖神と崇める天湯河板挙命の子とする伝承も。鳥取氏が明らかに製鉄鍛冶氏族であることからも裏付けられます。

神産巢日神の子と記されますが、紀では高皇産霊神の子と記されます。同様の例は他にもみられ、案外適当なものなのか、或いは意図して使い分けられているのか。


大国主命と相並んで「国作り」を行いました。「大」と「小」の対比がなされているようです。紀の方では「少彦名命」と記されています。

「国作り」を終えると「常世の国」へ渡ります。帰ってきたとは記されていないため、「常世の国」からやって来たのか、或いは神産巢日神がいる高天原からやって来たのかは、見解が分かれるところ。

紀の八段一書では未完成のまま「常世の国」に帰ったとあり、別伝として粟の茎に登ったところ弾かれて「常世の国」に飛ばされたとあります。また「伯耆国風土記」には、国作りを終えた少彦名命が「粟島」から「常世の国」へ向かったという記述がみられます。そして紀伊国名草郡の粟嶋神社に鎮まります。

その他、さまざまな神格を有する神として記されています。

*紀には大国主命と少彦名命が、人民と家畜のために病気の治療法を、鳥獣と昆虫の災いを祓うためにまじないを定めたとあります。

*仲哀記には、息長帯日売命が太子(応神天皇)に酒を奉る際に詠んだ歌に、「須久那美迦微(スクナミカミ)」の名で記されており、酒の神であると考えられます。
*上記、紀の八段一書から「粟」を神格化した神であるとする説も。さらに展延させて、稲作以前の焼畑耕作文化における粟作りの穀物神と捉えるといった説も。

*「出雲国風土記」では稲種を落としたとあり、多禰郡の地名由来で紹介されています。

*たびたび「神農」という中国神話に登場する三皇の一人、農耕・医薬・交易の神と習合されます。
*温泉を守護する神、開拓した神などとして出雲や道後、別府、有馬など各地で祀られています。



[駿河国] 飽波神社 
少彦名命を祀る





今回はここまで。

なんだかんだと少彦名命について、
いろいろと書いてしまいました。

これでもかなり抑え目にしたつもりなのですが。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。