◆ 「真の持統女帝」顕彰
~反骨と苦悩の生涯~ (22)






前回の記事にて、「大津皇子事件」の真祖を突き止める作業を行いました。

あくまでも数多存在する諸説の一つに過ぎないのでしょうが、自身では大いに自信を持っています。

(過信家…?)

これで鸕野讚良への疑いを晴らせたのではないか…などとも考えています。

私個人的な中では、やれやれ大仕事を終えた!などとも感じていますが…

例え姉を失おうとも、父を失おうとも、夫を失おうとも、甥を失おうとも、鸕野讚良は常に前を向きます。


大いなる野望へ向かって。



■ 天武天皇の葬送

異常とも言える長い「殯(もがり)」の期間を経て、遂に天武天皇の亡骸は葬送されることとなりました。



大内陵の築造と葬送

━━持統天皇元年十月二十二日、草壁皇子は公卿・百寮(臣下や役人)、諸国の国司・国造、百姓の男女が大内陵を築き始めた━━

いよいよですね…。

━━持統天皇二年十一月十一日、布勢朝臣御主人(フセノアソミミヌシ)・大伴宿禰御行(オオトモノスクネミユキ)は進んで誄(しのびごと、=死者への弔辞)しました。直廣肆(*)の當麻眞人智徳(タギマノマヒトチトコ)は、皇祖等の謄極(*)の次第を誄して奉りました。これは礼式通り。古くは日嗣と言いました。これを終えてから大内陵に葬った━━

*「直広肆(じきこうし)
天武天皇十四年(685年)に制定された、「冠位四十八階」の16番目の冠位。

*「謄極(ひつぎ)
「古くは日嗣と言いました」とありました。前後を見ると、「皇祖等之謄極次第」を「奉誄」したと。
「皇祖」が「等」と複数形になっています。「謄極」は即位するということ。「次第」は順序と捉えるべきでしょうか。そうすると歴代天皇を読み上げ「誄」し「奉った」ということとなり、それには多少の事蹟も付加していたのではないかと考えます。

およそ一年をかけて築造された大内陵。遂に天武天皇はここに葬られました。

現在との感覚の違いはどうなのでしょうか。

崩御から二年もの間、皇族や官人を始め、海外からの使節や百姓に至るまで、何度も何度も「誄」や「慟哭」が行われました。鸕野讚良は常時「殯宮」の側に寄り添っていたと考えれば、そのほとんどに立ち会っていることとなります。

夫を失った哀しみは二年ほどでは解消されるはずはずなく、例え二年経とうが現在と同様に哀しみにくれたものと思います。



■ 新政権構築へ

いつまでも哀しみに暮れているわけにはいきません。葬送が終われば新政権を構築していかねばなりません。




慌ただしく業務を済ませ、持統天皇三年一月十八日に鸕野讚良は「吉野宮」(宮瀧遺跡)へと行幸します。

目的等は記されませんが、このタイミングで…となると何らかの誓いを立てに向かったのでしょう。もちろん天武天皇との重要な思い出の地。感慨深いものがあったであろうことは容易に察せられます。


「吉野宮」があった宮瀧遺跡と背後の霊峰「象山(きさやま)」。



◎草壁皇子が…。

四月十三日、皇太子の草壁皇子が薨去。たった一行、この一文のみが記されます。死因は病死。

これは日本史上、大変な出来事となります。間もなく天皇として即位予定であったとされる草壁皇子。「皇太子」ですから。天武天皇の「喪主」も務めていましたし。
鸕野讚良が後ろから支えて…と、着々と準備を進めてきたはず?

ただし「吉野の盟約」「臨朝称制(みかどまつりごときこしめす)といった記事でも記したように、鸕野讚良は自らが天皇となり、草壁皇子を摂政としようとしていたのではないかと。

いずれにしても、鸕野讚良は大変な哀しみを背負うことになりました。

5歳で祖父が自害。
母も同時?に亡くなる。
23歳に姉が亡くなる。
28歳に父が亡くなる。
42歳に夫が亡くなる。
45歳に息子に先立たれる。

そして肉親は誰も残らず…。

それでも鸕野讚良は
近親からの支え一切無しに、力強く立ち上がるのです。




今回はここまで。



奈文研 藤原京跡資料館に展示の持統天皇像


*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。