「百人一首之内 持統天皇」 *画像はWikiより






◆ 「真の持統女帝」顕彰 
~反骨と苦悩の生涯~ (18)






■ 持統天皇の出自・経歴

◎天武天皇の崩御と鸕野讚良の動向

朱鳥元年(686年)九月九日、天武天皇は崩御しました。
すぐに次代天皇を…というわけではなく、古代においては先ず「殯(もがり)を行います。」

「殯」については
→ 前回の記事をご参照下さいませ。


あまりに偉大な天皇であったからでしょうか、基本的に一年未満の「殯」が、およそ二年間も続けられました。

この間、鸕野讚良は喪に服していたと思われ、事蹟がまったく記されていません。皇太子 草壁皇子も「発哭(みねたてまつり)」(詳細は → 前回の記事にて)をしたのは翌一月一日。以降も鸕野讚良が「発哭」を行っていません。ひたすら天武天皇の御遺体に寄り添っていたのでしょう。



◎鸕野讚良の出自・経歴

出自・経歴については既にこのテーマ記事内で記してきました。
第1回目の記事 … プロフィール 1

第2回目の記事 … プロフィール 2
第3回目の記事 … 出生~父天智天皇崩御
以降は一連の「壬申の乱」、天武天皇即位と執政について、じっくりと記事を上げてきました。

再度、取り上げるつもりはありませんが、こちらでは紀の編纂者の鸕野讚良(持統天皇)に対するやや主観的とも言える「印象」を取り上げたいと思います。
紀はもちろん「正史」であるため個人的な感情の入り込む余地などありませんが、チョイスした言葉から、窺い知ることが可能かと思います。

以下、持統朝紀の冒頭より。

━━高天原廣野姫天皇(タカアマハラ ヒロノヒメノ スメラミコト)、幼少時の名 鸕野讚良皇女(ウノノサララノヒメミコ)は天命開別天皇(アメミコト ヒラカスワケ スメラミコト、=天智天皇)の第二皇女である。母は遠智娘(オチノイラツメ)、別名を美濃津子娘(ミノツコノイラツメ)と言う━━

まだ本人と父母の名だけですが(笑)
書きたいことは多くあれど、一点だけに絞ります(既に書いていることなのですが)。

「高天原廣野姫天皇」なのです。
これはもう「天照大神」なのです。
つまり「天照大神の再来」的な天皇であったということなのです。

これは「和風諡号」であり、崩御後にその天皇を評して名付けられた名。
他にも「大倭根子天之廣野日女尊」という和風諡号があります。意味としては大差のないものですが、「高天原」とあることでよりくっきりと「天照大神」を意識させられます。

この名を冒頭に持ってきたのか~!というところ。
持統天皇を語る上で、もっとも重要な点ではないかと考えています。

━━持統天皇は深沈(しめやか)で大度(おおきなるのり)があった。天豊財重日足姫天皇(アメトヨタカライカシヒ タラシヒメノ スメラミコト、=斉明天皇)三年に天渟中原瀛真人天皇(アメノヌナカハラ オキノマヒトノ スメラミコト、=天武天皇)の妃となる。帝王(天智天皇)の皇女と雖も礼を好み節倹で母儀の徳がある━━

「深沈」「大度」「礼を好み」「節倹」「母儀の徳がある」といった表現がなされています。

*「深沈」 … 人柄に深みと落ち着きとがある
*「大度」 … 広くて大きい度量
*「節倹」 … 節約
*「母儀の徳がある」 … 母道(母たるものの手本)の品性がある

この後「壬申の乱」の記述があり、それに勝利したことが簡潔に綴られます。



◎鸕野讚良の不穏な行動

━━(天智天皇)二年、(鸕野讚良は)皇后となる。当初よりずっと(天武)天皇を支え、天下を定めた。皇后として仕えている間は、政事(まつりごと)の進言に及び、支えて補うこと多し━━

最後の一行はかなり意訳したので原文を載せておきます。
━━皇后 從始迄今佐天皇定天下 毎於侍執之際 輙言及政事 多所毗補━━

「輙」は「容易く(たやすく)」という意。
「毗」は「補佐する」という意。

目に留まったのは「輙言及政事」。つまり進言していたと書かれています。例え夫であるとはいえ、後に天皇に即位したとはいえ、天皇に対して進言するなどとは畏れ多いこと。これをはっきりと記しているということに、紀の編纂者には天武天皇よりも鸕野讚良(持統天皇)の方を少々上に見ているような気がするのですが。


━━朱鳥元年(686年)九月九日、天渟中原瀛真人天皇が崩御。皇后は臨朝称制(みかどまつりごときこしめす)した━━

「臨朝称制」についてですが…
「称制」とは、「君主が死亡した後、次代の君主となる者や先の君主の后が、即位せずに政務を執ること」(Wikiより)。「臨朝」とは執政するといったような意味。

大変に不穏な行動なのです。
既に草壁皇子が立太子しており、順当にそのまま即位する流れとなるはず。ところが鸕野讚良が「臨朝称制」しているのです。

第12回目の記事(吉野の盟約)にて示しましたが、既にこの時点で鸕野讚良が皇位を継承しようと図ったのではないかと。もしそうであるなら翻って、「臨朝称制」の方が順当な流れとなるのです。

「臨朝称制」したとはいえ、鸕野讚良の事蹟はほとんど記されません。大きな事件が2つありましたが…。必要に応じて、おおよそ事務的なものといった程度の事蹟のみ。おそらく喪に服していたものと思います。本格的に動き始めるのは3年後のこととなります。





今回はここまで。

次回はいよいよ、あの大事件に触れていきます。




*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。