◆ 「真の持統女帝」顕彰 
~反骨と苦悩の生涯~ (17)






このテーマ記事も17回目を迎えました。

遂に今回で天武天皇は崩御します。

時代を駆け抜けた偉才の最期はどのようなものだったのでしょうか。

壬申の乱から即位、慌ただしい日々であったと思われますが…。



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「集古十種」より「天武帝御影」(矢田金剛寺蔵)
*画像はWikiより



■ 天皇の病

いつから天武天皇の病が始まったのかは定かではありません。度々病についての記述が散見されます。

どのような病状であったのか、その都度完治していたのかも記述はなく、即位後はあまり健康ではなかったのかもしれません。

以下、即位十四年以降の記述を抽出していきます。病に関わるのではないかと思われるものも挙げておきます。



*十四年九月二十四日
━━天皇は不豫の體(体)となる。大官大寺・川原寺・飛鳥寺に於いて経を誦んだ。三寺にそれぞれ稲を納めた━━

*十月十日
要人を信濃に派遣し行宮を造らせていますが、これは「束間温湯」に向かおうとしたのではないかと記されています。

*十五年四月八日
「侍医」(おもとくすし、=かかりつけ医)を「直廣肆(じきこうし)」という冠位にしています。

*五月二十四日
━━初めて発熱があった。川原寺に於いて薬師経を説かせ、宮中で「安居」(あんご、=講説)させた━━

*五月二十九日
天下を「大赦」。囚獄は空となりました。

*六月十日
天皇の病を卜うと「草薙剣」が祟りをなしていることが分かりました。即日、熱田社へ草薙剣を送り置きました。

*六月十八日
━━伊勢王及び官人たちを飛鳥寺に遣わし、衆僧に勅して曰く、「近頃、朕の身は思わしくない。願わくば三宝の威に頼り、身体が安和になることを欲す。これを以て僧正・僧都及び衆僧は誓願に応じなさい」と。そして珍宝を三宝として奉った━━

*七月
━━この月に諸王臣たちは天皇のために観世音像を造り、大官大寺において観世音経を説いた━━

*八月一日
━━天皇のために八十名の僧を出家させた━━

*八月二日
━━僧尼併せて百名を出家させた。宮中に百体の菩薩を座し、観世音経二百巻を読ませた━━

*八月九日
━━天皇の身体が不予のため神祇に祈った━━

*八月十三日~十五日
各皇子それぞれに封(へひと)を加増した

*八月二十一日~二十三日
各寺院にそれぞれ封を行った

*九月四日
━━親王以下、諸臣まで悉く川原寺に集まり、天皇の平癒を誓願した━━



神に仏に三宝に…
ありとあらゆるものにすがっています。

また「大赦」を行ったり、「侍医」への冠位を授けたり、皇子すべてに封を加増したり…と、「終活」まで行っています。

壬申の乱においての寵臣たちは次々と逝去していきました。天武天皇はどんな思いで過ごしてきたのでしょうか。

「草薙剣」の所在も注目されるところですが、本題から逸れるためこちらでは触れません。


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■ 天武天皇の崩御

1400年近くを経た現代にまで、その聖蹟が大きな影響力を及ぼし続ける稀代の奇才の歴史は幕を閉じます。

━━九月九日、天皇の病は治癒せず正宮にて崩御した━━



◎「殯」と「発哭」

天武天皇の「殯(もがり)」はおよそ2年間も続けられました。基本的に1年以内とされ、2年間というのは異例のこと。生前の影響力の大きさ故のことかと思われます。



*「殯(もがり・あらき)」


先ず「殯」の意味についてWikiより。

━━古代に行われていた葬送儀礼。死者を埋葬するまでの長い期間、遺体を納棺して仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも、遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること━━


「殯」は記紀においては「もがり」、万葉集においては「あらき」と訓まれます。他に「名義抄」は「はふる」と訓んでいます。


藤原行成の「権記」(寛弘元年・1004年)に「此くのごとき処 皆 荒る」とあります。本居宣長は「あらき(荒城)」の荒は、「鏷璞(あらかねあらたま)などの阿羅なり」とし、魂が激しく活発化する状態だとしています。「城」は「墓(おくつき)」のこと。


「もがり」については本居宣長が、「喪」が「上がる」というのを語源であるとしています。


「はふる」は「葬る(はぶる)」からか。




*「殯」の起源


「殯」の起源は古く、イザナギ神がイザナミ神の遺骸を見たいと思い「殯の斂(死体を納めるところ)の処に至った…」とあり、また天稚彦の「殯の喪屋を造った…」なども。


どこまでが史実であるのかは分かりかねますが、史実だとするなら神代から行われていたということになります。


「魏志」倭人伝には、

━━…その死には棺あれど槨なし。土を封じて家を作る。始め死するや停め喪すること十余日。時にあたりて肉を食せず。喪主は哭泣し他人は就いて歌舞飲食す━━とあります。


「殯」の言葉すら見えねど、その様子ははっきりと記されています。少なくとも3世紀、弥生時代末期には既に行われていたことが分かります。


この「殯」という喪葬儀礼が「完成」した時期については、和田萃氏は第27代安閑天皇からではないかとしています。これは陵墓における横穴式石室の採用と時期が一致するため。


ところが異論も多く、飛鳥時代以降とする説が趨勢。こちらでは主題から逸れるため触れませんが、どうやら中国的儀礼の積極的な導入がなされた7世紀以降ではないかと思われます。


なお「隋書」倭国伝には、

━━死者を斂る(おさめる)に棺槨を以てし、親賓は屍に就きて歌舞し、妻子兄弟は白布を以て服を製す━━とあります。


あくまでも個人的な見解としては、「魏志」倭人伝に記される「殯風習俗」と、記紀や「隋書」倭国伝に記されるものとに大きな隔たりはなく、始まりを弥生末期以前としたいと思います。そこに多少の中国的儀礼の要素が加味されたと。


現在の多くの学者たちが唱える、「殯」の始まりは7世紀以降とすることに大いに反論します。


学術的見地から細部に目がゆき過ぎて、大局的な見地を見落としているように思うのです。確かに7世紀以降に中国的儀礼が導入され、儀礼様式が完成されたのでしょうが。


「魏志」倭人伝に、「殯」と何ら変わりないことが

なされていたとちゃんと書かれてますやん!!!






*「発哭」

「みねたてまつり」と訓みます。中国から伝わってきたとされ、死者のため泣き声をあげる礼の一つ。

「魏志」倭人伝にある「喪主は哭泣し…」というのが「発哭」の起源に関わるものと考えます。これが人の感情として自然になったものか、儀礼の一つとして行われたものか、意見の分かれるところ。文脈から察するに儀礼の一つとして行われたと捉えます。

以下、天武天皇の「殯」の様子を紀から抽出します。持統天皇の段の記述も抽出します。

*九月十一日
━━初めて発哭をした。殯宮を南庭に設けた━━

*九月二十四日
━━南庭にて殯を行った。この時、大津皇子は皇太子(草壁皇子)に謀反をした━━

*九月二十七日
━━午前四時、諸僧尼は殯庭にて発哭して退出した。この日に初めて奠(みけ、=供え物)を供進し誄(しのびごと、=死者への弔辞)をした。第一に大海宿禰荒蒲(オオアマノスクネアラカマ)は壬生(みぶ、=皇子の養育)の事を誄した。次に淨廣肆 河内王が左右の大舍人の事を誄した。次に直大参 當麻眞人国見が左右兵衛の事を誄した。次に直大肆 采女朝臣竺羅が…(中略)。次に直廣肆 紀朝臣眞人が…(中略)━━

*九月二十八日
━━諸僧尼がまた殯庭にて哭をした。この日、直大参 布勢朝臣御主人が太政官の事を誄した。次に直廣参 石上朝臣麻呂が…(中略)。次に直大肆 大三輪朝臣高市麻呂が…(中略)。次に直廣参 大伴宿禰安麻呂が…(中略)。次に直大肆 藤原朝臣大嶋が…(中略)━━

*九月二十九日
━━僧尼がまた発哀(「発哭」と同じ)した。この日、直廣肆 阿倍久努朝臣麻呂が…(中略)。次に直廣肆 紀朝臣弓張が…(中略)。次に直廣肆 穗積朝臣蟲麻呂が…(中略)。次に大隅・阿多隼人及び倭・河内馬飼部造が…(中略)━━

*九月三十日
━━僧尼がまた発哀した。この日、百済王 良虞が百済王 善光に代わり誄をした。次に各地の国造等が、隨参し誄をした。そして種々の歌舞を奏上した━━

*持統天皇元年一月一日
━━皇太子は公卿・百寮を率いて殯宮に向かい、慟哭(「発哭」と同じ)した。納言 布勢朝臣御主人が禮(礼)を誄した。誄を終え衆庶が発哀した。次に梵衆が発哀した。奉膳 紀朝臣眞人等が奠(みけ)を奉った。奠を終え、膳部采女等が発哀した。楽官が楽(うたまい)を奏上した━━

*一月五日

皇太子は公卿・百寮人等を率いて殯宮に向かい慟哭した。梵衆(ほうしどの)は随伴して発哀した━━


*三月二十日

━━花縵(はなかづら)を殯宮に供進した。これを御蔭という。この日、丹比眞人麻呂が禮を誄した━━


*五月二十二日

━━皇太子は公卿・百寮人等を率いて殯宮に向かい慟哭した。大隅・阿多の隼人の魁帥はそれぞれ衆を連れて進み誄をした━━


*八月五日
━━殯宮で嘗(なふらひたてまつる)を行った。これを御青飯(あおきおもの)という━━

*八月六日
━━京城に耆老男女が皆臨んで橋の西から慟哭した━━

*九月九日
━━国忌斎(こきのいつき、=一周忌の斎)を京師(=都)の諸寺で行った━━

*九月十日
━━殯宮で斎を行った━━

*九月二十三日
━━(新羅の王子 金霜林等使者が来朝)霜林等は皆、喪服を着て東を向き三拝三発哭した━━

*十月二十二日
━━皇太子が公卿・百寮等、さらに諸国の国司・国造及び百姓男女が大内陵の築造を開始した━━

*持統天皇二年一月一日
━━皇太子は公卿・百寮人等を率いて殯宮に向かい慟哭した━━

*一月二日
━━梵衆が殯宮で発哀した━━

*一月二十三日
━━天皇崩御を新羅の金霜林等に奉り宣る。霜林等は三度発哭した━━

*二月十六日
━━詔して曰く「今より以降、国忌の日には必ず斎すること」と━━

*三月二十一日
━━花縵を殯宮に供進した。藤原朝臣大嶋が誄をした━━

*八月十日
━━殯宮で嘗を行い慟哭をした。大伴宿禰安麻呂が誄をした━━

*八月十一日
━━浄大肆 伊勢王に命じて、葬儀を宣り奉らせた━━

*十一月四日
━━皇太子は公卿・百寮等と諸藩の客人を率いて殯宮に向かい慟哭した。奠を奉り楯節舞を奏じた。諸臣はそれぞれ己が仕える状況を挙げて、互いに進み誄をした━━

*十一月五日
━━蝦夷百九十人余りが調賦を背負い誄した━━

*十一月十一日
━━布施朝臣御主人と大伴宿禰御行は互いに進んで誄したした。直廣肆 當麻眞人智徳は皇祖たちの騰極の次第(即位の順序、つまり系譜的なもの)を誄した。古に云う日嗣である。それが終わると大内陵に葬った━━


以上が紀に記される「殯」関係の記述を網羅したもの。崩御に起因すると思われる位階の昇進や、囚人赦免、宴会等の記述は省いています。

以下、注目点をいくつか挙げておきます。

*およそ2年余りにかけて「殯」が続けられた。
大内陵は崩御後の翌月より築造が始まった。
*幾度にも渡る「誄」儀礼が行われ、その最後に「日嗣」が奏上された。
*「隼人」が2度も「誄」を行っている(後述)。

*この一連の「殯」の儀式の中でもっとも注目したいのは、「発哭」は皇太子、臣下、海外の客人から庶民に至るまで行ったこと。

当時の庶民には天皇などあまりに遠すぎる存在で、まったくの無縁なもの。天武天皇があまねく国土を統治していたということをしろしめすためであったかと思われます。

またここには后妃等の「発哭」の記述がありません。これは「殯宮」に籠っていたためと思われます。また皇太子が初めて「殯宮」に向かったのは翌年一月一日のことであり、年が明けるまでは喪主として葬送儀礼に携わっていたと思われます。


山城国綴喜郡 式内大社 月読神社


*「隼人」の発哭について

「隼人」の記述がことさら目立ちます。これは「隼人」たちの大和朝廷への帰順の現れであると考えられます。

「隼人」たちがいつ帰順したのかについては、それらしき記述が記紀にいくつか見受けられ、さまざまに論じられています。
個人的な「推し」としては、天武天皇十一年(682年)の「朝貢」記事。この直前に帰順し、その証しとして朝貢したのではないかと。

かねがね天孫降臨神話が「高千穂峯」だとされ、「阿多」や「笠沙」を経て神話が進んでいくことに違和感を感じています。これらはすべて「隼人」たちの主要拠点。

おそらくは「隼人」たちが大和朝廷に服属してくれたことに対して、天孫降臨神話の舞台が「隼人」たちの拠点として設定、造作されたものであると考えます。
また山城国綴喜郡の月読神社、大和国宇智郡の阿陀比売神社などは、この頃に彼らが移住させられそこで氏神とした社であろうと思われます。

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*持統天皇の動向

2年余りに渡る「殯」の期間中の持統天皇の事蹟は、ほとんど何も記されません。上述の通り、喪に服していたため。

既に天武天皇の在位中より影で政治を動かしていたのでしょうが、「殯」期間中は思索を行う時間に溢れていたと思います。ただ哀悼に費やし、漫然と過ごした…などとは考えられません。


次回以降よりいよいよ、持統天皇が即位します。



哭澤女神を祀る大和国十市郡の畝尾都多本神社



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