大津皇子の霊魂が鎮まるという「二上山」。
(大和国葛下郡 「千股池」より)








◆ 「真の持統女帝」顕彰
~反骨と苦悩の生涯~ (19)







この企画物のテーマ記事を開始したのが2022年3月末のこと。もうすぐまる2年が経過。

そもそもこの時代はといえば…
自身が得意とする時代からは遥かに後のこと。少々苦手意識があったりも。

大和国の橿原の地(高市郡)で生まれ…
古代史バカになったきっかけは、この時代のことを見て触れたから。

原点に戻れということなのか…
はたまた…自身が活動を進めていくなかで、この時代の重要さをもっと知れ!ということなのか…

この企画をやり遂げた後に
見えるものは何なのか…

それを見てみたいと思っている
もう一人の自分がいます。



■ 大津皇子の事件

日本人なら誰もが知る事件?
悲劇のヒーロー&ヒロインを挙げろといえば、この大津皇子が筆頭格として出てきます。

通説では…
持統天皇(この時点ではまだ鸕野讚良)により無実の罪を着せられ自害。

事件の詳細部分に関して諸説あるものの、「鸕野讚良の意向によるもの」という全体的に関わることに関してはほとんど疑われることはありません。

果たしてホントにそうなのか?
生粋のあまのじゃくさんは、そこを疑ってみたい!

浅学極まりない愚人が、一つやらかしてみてやろうと企んでいます。



◎紀の記述

先ずは「原文」から載せましょう。
九月九日に天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)が崩御、鸕野讚良皇后が「臨朝称制(みかどまつりごときこしめす)」を行った記述(→ 前回の記事参照)に続いてのもの。

━━冬十月戊辰朔己巳 皇子大津謀反發覺 逮捕皇子大津 幷捕爲皇子大津所詿誤 直廣肆八口朝臣音橿 小山下壹伎連博德與 大舍人中臣朝臣臣麻呂 巨勢朝臣多益須 新羅沙門行心及帳內礪杵道作等 卅餘人 
庚午 賜死皇子大津於譯語田舍 時年廿四 妃皇女山邊 被髮徒跣 奔赴殉焉 見者皆歔欷 皇子大津 天渟中原瀛眞人天皇第三子也 容止墻岸 音辭俊朗 爲天命開別天皇所愛 及長辨有才學 尤愛文筆 詩賦之興 自大津始也
丙申詔曰 皇子大津謀反 詿誤吏民帳內不得已 今皇子大津已滅 從者當坐皇子大津者皆赦之 但礪杵道作流伊豆 又詔曰 新羅沙門行心 與皇子大津謀反 朕不忍加法 徙飛騨国伽藍━━

続いて「読み下し文」を。
いつも通り素人による解読であることを御了承下さいませ。

━━冬十月戊辰朔己巳 皇子大津謀反(みかどかたぶけむ)と發覺(あらは)れぬ 皇子大津逮捕(からめ)て 幷びに皇子大津が爲に詿誤かれ(あざむかれ)たる所の直廣肆八口朝臣音橿(ヂキクワウシヤクチノアソミオトカシ) 小山下壹伎連博德與(セウセンゲイキノムラジハカトコ) 大舍人中臣朝臣臣麻呂(オホトネリナカトミノアソミオミマロ) 巨勢朝臣多益須(コセノアソミタヤカス) 新羅の沙門行心(ホフシギヤウジン)及び帳內礪杵道作等卅餘人(トネリトキノミチツクリ)を捕ふ
庚午 皇子大津譯語田の舍(おさだのいへ)に於ひて死を賜はる 時に年廿四 妃皇女山邊 髮を被(くだしみし)て徒跣し(かちはだし)赴り奔きて(はしりゆきて)殉(ともにしぬ)や 見し者皆歔欷きし(なげきし) 皇子大津 天渟中原瀛眞人天皇第三子也 容止墻く(みかほたかく)岸しく(さがしく)して 音辭(みこどば)俊れ(すぐれ)朗か(あきらか)なり 天命開別天皇爲(アメノミコトヒラワケノスメラミコト)に愛まれし所なり 長きに及び辨しく(わきわきしく)才學(がど)有りし 尤も文筆を愛したまふ 詩賦之興り(おこり)大津自り始まりし也
丙申詔して曰く 皇子大津謀反けむ(みかどかたぶけむ)とす 詿誤かれし(あざむかれし)吏民(つかさひと)帳內(とねり)は已む(やむ)を得ず 今皇子大津已に(すでに)滅びぬ 當に(まさに)皇子大津の從者に坐れば皆之を赦せ(ゆるせ) 但礪杵道作(トキノミチツクリ)は伊豆に流せ 又詔して曰く 新羅の沙門行心(ホフシギヤウジン) 皇子大津謀反に與すれど(くみすれど) 朕加法(つみする)に忍ばず 飛騨国伽藍に徙せ(うつせ)━━

さらに「大意」を。
こちらも素人による…です。

━━朱鳥元年(686年)冬十月二日、大津皇子の謀反が発覚。大津皇子は逮捕され、彼に欺かれた直廣肆八口朝臣音橿(ヂキクワウシヤクチノアソミオトカシ) 小山下壹伎連博德與(セウセンゲイキノムラジハカトコ) 大舍人中臣朝臣臣麻呂(オホトネリナカトミノアソミオミマロ) 巨勢朝臣多益須(コセノアソミタヤカス) 新羅の沙門行心(ホフシギヤウジン)及び帳內礪杵道作(トネリトキノミチツクリ)等の三十人余りが捕えられました。 
十月三日、大津皇子は訳語田宮(おさだのみや)にて死を言い渡されました。時に24歳。妃の山邊皇女は髪を振り乱し平伏、死の知らせを走って行いました。見る者は皆嘆きむせび泣きました。大津皇子は天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)の第三子です。眉目秀麗、頭脳明晰。天命開別天皇(天智天皇)に寵愛されていました。大人になると分明であり才学がありました。もっとも文筆を愛しなされました。詩賦の興りは大津皇子より始まったものです。
十月二十九日、鸕野讚良は詔して言いました。「大津皇子は謀反を起こそうとした。欺かれた役人たちはやむを得ない。皇子は既に滅びた、従者であれば皆はこれを許してやれ。但礪杵道作(トキノミチツクリ)は伊豆に流せ」と。さらに「新羅の沙門行心(ホフシギヤウジン)は大津皇子に与したが、朕は罪を課すつもりはない。飛騨国の寺にやれ」と詔しました━━

補足を少々入れておきます。

*「被髮徒跣」
「徒跣」は「かちはだし」と読み、「死喪の礼のこと」とされます(一般には「徒跣」は「とせん」と読むようですが、この時代の訓読みの習慣に従い「かちはだし」を採ります)。「魏志 倭人伝」にも倭人の「徒跣」の記述があります。

また「被髮徒跣」は「敗れて降伏する」時にも使用されるとも言われ、こちらではその説を採ります。
その後に続く「奔赴殉焉」を含めて、一般になされている解釈とは異なると思います。

*大津皇子は第三子?
紀では高市皇子、草壁皇子に次ぐ第三子。ところが「懐風藻」では長子となっています。完成年代は天平勝宝三年(751年)。紀からわずかな期間、大津皇子の生誕は663年。なぜこのような違いが出てしまうのでしょうか…。

訳語田宮(おさだのみや)の推定地は、大和国十市郡に鎮座する春日神社の地。こちらは敏達天皇の「訳語田幸玉宮」であったともされ、後に大津皇子が邸宅を構えたとされます。


さてさて…

当方は事件の解明、真相究明を行いたいものの…共犯者(従者)の逮捕、逮捕後の事後処理ばかりが記されるのみ。
肝心の「謀反」の詳細については、「発覚した」とあるのみで他は一切明らかにされていません。

事件の手掛かりとなるものを、探偵気取りで挙げていきましょうか。
「名探偵☆天地悠久」(笑)


■■■手掛かり(1)■■■
事件は天武天皇の崩御後、わずか1ヶ月で起こった。

鸕野讚良、大津皇子ともに「今がチャンス」…と思ったとも考えられる。もちろんいたとすれば別の黒幕も。

■■■手掛かり(2)■■■
ことさらに大津皇子を持ち上げる表現がなされている。

無実の罪を着せた際によくありがちなことですが…。

■■■手掛かり(3)■■■
共犯者への処分がぬるい?

気のせいか…?
普通は悉く極刑または重刑に処すように思うのですが。


まだまだ見ていきましょう。
沙門行心を飛騨国の寺にやった、その次に記される記事。読み下し文から。

━━十一月丁酉朔壬子 奉伊勢神祠皇女大來 還至京師━━

続いて現代語訳を。

━━十一月十六日、伊勢神祠(伊勢神宮の前身ということか)に奉祀していた大来皇女を京の都(飛鳥京)へ還らせました━━


■■■手掛かり(4)■■■
同母姉の大来皇女が、斎王の任務から解かれ帰って来させた。

たった一人の同母兄弟。歳も近く(2つ違いか)、幼い頃より仲も良かったのでしょう。
手掛かりとなるのかどうかは分かりませんが。大来皇女の大津皇子に対する万葉歌6首は手掛かりにもなりますし。


今回はもう一つ紹介しておきます。
大来皇女帰還の記事に続くもの。

━━十一月十七日、地震があった━━

帰還の翌日のこと。他にも地震の記事は起こる度に記されてはいます。偶然にもこの日に起こっただけ、何ら関連もクソもないのかもしれませんが…。

あくまでもちっちゃな手掛かりも見逃さない
「名探偵☆天地悠久」です(笑)

ここでもし畏れをなした…などといったことを匂わそうものなら…
明らかに無実の罪をでっち上げたことがバレバレ。書くわけもありません。もちろんでっち上げたのが鸕野讚良なのか、果たして別の黒幕なのか分かりません。それこそ大津皇子が本当に謀反を企てていたのかもしれませんし。

■■■手掛かり(5)■■■
大津皇子の死から1ヶ月後に地震があったことを日本書紀は記す。



「二上山」山頂にある大津皇子 二上山墓
*治定墓ではあるが、実際は鳥谷口古墳ではないかとされる



今回はここまで。
次回も引き続きこのネタを。


*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。