在原業平 *画像はWikiより






◆ 丹後の原像
【75.「丹後史料叢書」 ~「丹後舊事記」 20】 






今回より「巻之貳」に突入!

ところが内容は…
丹後の古代に関わることではありません。

飛ばしてしまいたい気持ちもありますが、全文翻訳しようと決めた以上はやりきろうかと決意を新たに!

ガンコなO型男子です(笑)


卷之貳
任國之人之事竝びに軍記之事

一、在原棟梁
陽成天皇に奉り仕へし在原業平朝臣の子也 當國に任ぜられ下向し與佐郡田原里に住みき 古今の和歌集榮華物語も當國に詠めると言葉書きあり
 春立てと 山も匂わぬ 山里は
  物うかる音に 鶯の鳴く
一説に棟梁は任國にあらず左迁して與佐に有りけると傳ふ 宮津府誌にも其の趣かきしるしけれど 棟梁左迁の事 六史にも見えず 榮華物語 古今集にあげし歌の述解の體なる故 かくいへるかしらず 紹運禄に平城天皇の孫 阿保親王見へるに依りて大枝姓 在原姓出る


【大意】
巻之弐
任国の人事並びに軍記の事

一、在原棟梁(アリワラノムネハリ)
第57代陽成天皇に奉仕した在原業平の子です。丹後国に任ぜられ下向し、與謝郡「田原里」に住んでいました。「古今和歌集」や「栄華物語」も当地にて詠んだと言葉書きがあります。
 春立てと 山も匂わぬ 山里は
  物うかる音に 鶯の鳴く
(春はきたのに梅の花も匂わない山里では、鶯も物憂げに鳴いていることよ)
一説に棟梁は赴任せず左遷して與佐に居たとも伝えられています。「宮津府誌」にもそのように記されていますが、棟梁が左遷されたことは「六国史」には見えません。「栄華物語」や「古今和歌集」に挙げられた歌の述解の体(てい)であるため、このように言われるのかもしれません。「紹運禄」に、平城天皇の孫(実際は子)である阿保親王から大枝姓や在原姓が出ています。


【補足】
平安時代ともなるとまったくの専門外であり門外漢。「歴男」が書いとるレベルやな~ぐらいに思って頂ければさいわいです。

しかも今回は敬うべき「神」は登場せず、「人間」のみの登場。「現人神(あらひとがみ)」でもありません。ラフにやってみます。

◎在原業平については詳しく触れずとも大丈夫でしょうか。
━━「伊勢物語」の主人公、光源氏のモデルとして名を馳せる在原業平。「体貌閑麗 善作倭歌」と評されるように、平安貴族きってのプレイボーイであり三十六歌仙の一人━━

…などと在原神社の記事には書きました。

空前絶後の超絶☆イケメン男子、モテ男☆彡
清和天皇の女御候補であった藤原高子に手を出したり…神の妻である伊勢斎宮恬子(ヤスコ)と一夜をともにしたり…とんでもない破天荒ぶり。手を出した女性は三千人以上…

このへんで留めましょうか。どこまでが史実かは分かりかねますが。

◎その在原業平の第五子が在原棟梁。
在原業平は父である阿保親王が「薬子の変」に連座したため臣籍降下。業平ももちろんエリートから外れてしまいました。だからってわけでもないでしょうが。いや…だからか…。

藤原薬子と言えば…ゲス不倫の大悪女(笑)
10歳以上も年下で、娘婿である安殿親王(平城天皇)をたぶらかし、公然のごとくロマンスを重ねていた…

生々しいお話ばかり(笑)

病弱であり、まだ幼い子供しかいなかった平城天皇が譲位し上皇となります。そして同母弟の嵯峨天皇が即位しますが…
統治系統が2つもあるとロクなことにならん!もめるもと!
結局対立してしまい平城上皇は出家。薬子らは自害にて決着したという事件。

病弱なはずの平城天皇が薬子お姉さまと…
(笑)(笑)(笑)

天皇は務まらんが、
薬子お姉さまのお相手なら務まる?

◎棟梁が丹後に居たというのは、知り得る限りの国史等有力な史書には記されていません。丹後内のわずかな古文書のみ (「丹哥府志」他)。
官歴を辿っても到底丹後に赴任されるような余地は無く(筑前守にはなっている)、また没したのも丹後ではなさそうです。どこからこのような伝承が生まれたのでしょうか。

文中に引用された「古今和歌集」の歌は、「丹哥府志」も丹後で詠まれたとしていますが、丹後所縁の文言もありません。

◎與佐郡「田原里」というのは、現在の宮津市「田原」の辺り。
丹後に向かえばほぼ毎度参拝に訪れる宇良神社への通り道として、たびたび通る道沿いにある地ですが…残念ながら一度も村内のお社を参拝したことがありません。



(赤の破線囲みが現在の「田原」)



◎あくまでも想像となりますが…

峯緒王という人物がいました。伊勢斎宮恬子に仕えていました。業平が恬子と密通した際に子供が生まれてしまい、これを峯緒王が養子として引き取ることになります。その子は師直と名付けられ跡取りに。つまり「隠し子」。

そして峯緒王は「高階」姓を名乗ることとなります。この一連のことが「伊勢物語」に記されています。この高階師直が棟梁などとごちゃ混ぜになっているのではないかと。

◎棟梁には娘がありました。名前は不詳、本康親王皇女(廉子女王、=藤原時平の妻)とする説も(「尊卑分脈」による)。時平と言えば…「北野天神縁起絵巻」で極悪人と描かれる人物。

(参照記事)


その棟梁の娘の子に藤原敦忠がいます。この敦忠がやっちゃいました~(笑)
斎宮であった雅子内親王と恋仲に。DNAはしっかりと受け継がれてた?

ちなみに業平の斎宮ロマンス事件は、本当だったのかどうかはさておき、当時はちゃんと認識されています。
ですから私が思うように、「業平の血を引くからな~」と当時の皆が思った!

◎「古今和歌集」には4首の棟梁の和歌が載せられています。ところが「栄華物語」には見られません。お粗末な記述と言わざるを得ません。

◎「大枝」姓を名乗ったのは土師諸上。第50代桓武天皇の時に、天皇の生母である高野新笠の一周忌に伴い、同じ系統であるとして「土師(ハジ)」姓から「大枝」姓へと改姓したもの。さらに孫の音人の時に「大江」姓へと改姓。

つまり天穂日命を始祖とする氏族。野見宿禰の時に「土師」姓を授かっています。これは垂仁天皇皇后 日葉酢媛の葬儀の際に、それまでの殉死を止めて代わりに埴輪を以て行うことを進言したという功によるもの。

その後、菅原氏(菅原道真など)・秋篠氏(秋篠安人など)・大江氏(大江匡房や大江広元など)に分かれています。


従って「大枝」氏は、阿保親王とは無関係、時代も異なります。どこからこのような間違った情報が出てきたのでしょうか。

なお鬼退治で知られる丹後の「大江山」は、音人が丹後国司として赴任してからの呼称。それまでは「大山」。



大和国添上郡 在原神社


*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。