(画像はWikiより)





◆ 丹後の原像
【60.「大江山」の3つの鬼退治伝説】





「丹後史料叢書」の翻訳に取り掛かっている最中ですが、私にとってはタイムリーなネタがあり(いずれ記事にしたいと思っていた)

またその翻訳が終わるのは何年先のことか分からない…なので途中に記事を挟みます。


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丹後の「大江山」には3時代に渡る鬼退治伝説があります。

日子坐王による土蜘蛛 陸耳御笠追討
◎麻呂子親王による鬼(土くも)退治
◎源頼光による酒呑童子退治


「大江山」とは「大江山連峰」のこと。
*「千丈ヶ嶽」(標高832.5m)
*「鍋塚山」(763m)
*「鳩ヶ峰」(746m)
*「赤石ヶ嶽」(736m)

福知山市、与謝郡与謝野町、宮津市に跨がっています。

この「大江山」一帯で鬼退治が繰り広げられました。連峰内の各地に多くの伝承があるようです。


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日子坐王による土蜘蛛 陸耳御笠追討

記には崇神天皇の御宇、日子坐王が旦波(丹波、当時は丹後国が分離独立していない)に派遣され、玖賀耳之御笠(陸耳御笠)を討ったとだけ記されています。

「丹後國風土記」殘缺や「但馬故事記」に、詳細に渡り記されています。ところが「但馬故事記」には「大江山」に関する記述はありません(ただし「蟻道川」まで追ったという記述は有り)。


(「由良川」河口)



━━川守と称される所以は往昔、日子坐王が土蜘蛛である陸耳御笠を追討し「蟻道郷」の「血原」にやって来ました。先ず土蜘蛛である匹女を殺しました。だからその地を「血原」と言います。陸耳御笠は脱出しようとした時、日本得玉命が下流より追討して来ました。陸耳御笠は急いで川を越え遁走しようとしたので、官軍は楯を並べて川を守り、矢を次々と放ったが当たって流れ去る者も多くいました。だからその地を「川守(こうもり)」と言います。官軍が駐屯した所を「川守楯原」と言います。
その時、舟が一艘突然現れ (十三字虫食い) その川に降り立ち土蜘蛛を駆逐しました。遂に「由良港」に到り、土蜘蛛の行方は分からなくなりました。そして日子坐王は陸で瓦礫を拾って占いました。結果は陸耳御笠は「餘佐大山」(大江山のこと)に登ったと。だからその地を「石占」と言います。また戦いに使った舟を「楯原」に祀り、舟戸神と称えました。(三行虫食い)━━(大意)

長々と引用しましたが、下部に「餘佐大山」に登ったと、これが「大江山」のこと。

「大江山」の後のことは「丹後國風土記」殘缺では分かりませんが、それを補っているのが「但馬故事記」。その後は但馬国へ向かっています。そもそも当時は但馬国もまだ丹波国から独立分離していなかったので。

陸耳御笠は「土蜘蛛」などとされていますが、そもそもはこの地方の大王だったのだろうと考えています。

争いはなかなか決着が着いていませんし、支配地は後の丹後国を中心に但馬国・丹波国・一部若狭国までと広範囲。つまりこれほどの広域を治めていた「大王」だったのではないかと。


(鬼嶽稲荷神社)



「大江山連峰」の最高峰、「千丈ヶ嶽」の八合目辺りに鬼嶽稲荷神社が鎮座します(後ほど記事UPします)。

こちらは日子坐王陸耳御笠追討の旧跡に、御子の丹波道主命が神祠を建てたと伝わっています。かつては山頂に鎮座していたとも。


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麻呂子親王ゆかりの地、京丹後市の「立岩」



◎麻呂子親王による鬼(土くも)退治

丹後を訪れると麻呂子親王の名が度々登場します。しかも広範囲に渡って。多少は創られた話もあるのでしょうが、概ね史実を基に盛られた話なのだろうと思います。

麻呂子親王について。
*第31代用明天皇の第3皇子
*当麻皇子(タイマノミコ)とも
*574~586年に出生、薨去時期は不明
*妃 … 舎人皇女(欽明天皇皇女)
*兄弟姉妹 … 聖徳太子、来目皇子、酢香手姫皇女など
*征新羅将軍

記紀にはこれ以上の記述は無く、丹後へ遠征したなどというのは丹後にのみ存在する伝承なのです。


(「立岩」近くに立つ穴穂部間人皇女と聖徳太子の母子像)



ただし異母弟の聖徳太子の母は、穴穂部間人皇女(アナホベハシヒトノヒメミコ、欽明天皇皇女)。母の名にある「間人(はしひと)」は京丹後市の「間人(たいざ)」のことであろうとされています。「間人カニ」で有名な所ですね。どうやら丹後とは繋がりが深いようです。


「加悦町誌」には以下のように記されます。

━━大江山に土くもという山賊が住み、この地域を荒していた。土くもとは、穴の中に住み、しばしば朝廷の命に服さない未開の民であった。用明天皇第二王子(第三皇子の間違い)、麻呂子親王は、この山賊を退治するため丹後へ征討に向った。親王は、温江(あつえ)から大江山に登り、途中「サガネ」で休憩、その時カブトをとり、ある岩に置く、その後この岩を〝カブト岩〝と称し、現にその地名が残っている。その「サガネ」から「横百合」という土地を経て、休み石のある場所に着いた時、首に鏡を掛けた犬が現われて、山賊の住む巌窟に案内をした。こうして土くもは滅ぼされ、大江山がもとの姿になった。犬の現われた場所を〝犬つく〝といっている━━

「土くも」「山賊」などとバラバラに記されていますが同じもの。「鬼」とは記されていません。

「温江」は与謝郡与謝野町「温江」のことで、「大江山」の北側。式内名神大社 大虫神社が鎮座します。どうやらこちらから追討に向かったようです。

日子坐王による土蜘蛛 陸耳御笠追討にしろ、麻呂子親王による鬼(土くも)退治にしろ、いずれも「鉄」を巡る争いだったのだろうと思います。



(式内名神大社 大虫神社)



「網野町誌」は以下のように記しています。

━━麿古親王(麻呂子親王のこと)が三上山(大江山のこと)の賊を退治に来た時、一人の老翁が頭に鏡を頂いた白毛の犬を献上して道案内をさせたので、鏡に賊の姿が写ってたちどころにそのありかがわかって誅せられたという話があり、加悦かやの温江あつえにある式内名神大社 大虫神社の境内には犬鏡大明神を祀り、鏡山という地名も残っている━━


他にも山のように麻呂子親王の鬼退治の資料はあるのですが、キリがないのでこの辺で。


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(画像はWikiより)



◎源頼光による酒呑童子退治

「大江山の鬼退治」と言えば、これを指すことが多く、誰でも知ってる?レベルなのかな?少なくとも「酒呑童子(しゅてんどうじ)」という名くらいは周知のことと思います。

多くの文献に著わされ、能や歌舞伎といった伝統芸能でも演じられています。


(「大江山絵詞」 *画像はWikiより)



現存するもっとも古いものは「大江山絵詞」で、
源頼光(948~1021年)と藤原保昌等が討伐に向かったとしており、後の御伽草子などでは源頼光と頼光四天王(渡辺綱、坂田金時など)が向かったとされています。

「酒呑童子」という鬼(妖怪)は、酒好きであったことから手下にそのように呼ばれていたとされます。たびたび京の都に訪れては、貴族の姫君を連れ去ったり、生のまま食ってしまったりと悪行を働いていたとされます。

中には赤い生き血を飲んでいたなどというものも。このことから実は舶来のワインを飲む異邦人がモデルになったという説などもあるようです。

また朝鮮半島から渡って来た酒造一族というものや、祖霊や地霊が鬼と考えられていた時代もあることから、神に近い存在の鬼が基になっているなどというものも。

あまりに多岐に及んでいるため、また専門とする時代とは離れているため、これ以上は避けますが。


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福知山市もようやく(今頃?)、
「鬼の町」として全国的にPR活動を始めたようです。鬼滅の刃?なんかわけの分からんものともコラボしてるとか…。。。

我々の年代以上の者なら誰でも知っているような「酒呑童子」も、今時の若者は知らないのかも。

丹後をこよなく愛する者としては、
今ぐらいのまま滅びず注目され過ぎず…そして変わらず!がいいんですけどね~

勝手なことを考えてますが。