◆ 徐福 (方士が見た理想郷) ~8 (三河地方編)
国内各地に伝わる徐福伝承を紹介していくところに突入していますが、
今回以降はほとんど訪れたことの無い地ばかり。
今回のお社は予定通りなら、先月には参拝していたはずなのですが、
年末年始に続いた体調不良が原因で…。
神社等のことを語る上で、自身が大事にしていることの一つ、「地理的条件」が欠乏することとなります。
その土地を目で見て、感じて、その上でまた地図を見て。どうしてここにこのお社(古墳・史跡)が存在するのだろう…
そのような情報が欠乏したまま進めていきます。
◎菟足神社
「熊野からさらに東へ進んだ徐福は、遠州灘に沿って駿河湾へ入った」としています。
これは新宮を出て熊野市波田須を出てさらに…ということ。
地理的な順番から言うとそういうことになります。
豊橋市宝飯郡(参河国寶飫郡)に鎮座する菟足神社(未参拝)が徐福と関わりがあると言われているようです。
当書所載の「小坂井町史」の「県社昇格記念碑」の項に以下があるようです。
━━菟足神社は延喜式内の旧社にして、祭神菟上足尼命(ウナカミノスクネノミコト)は孝元天皇の御裔、葛城襲津彦命四世の御孫にましませり。雄略天皇の御世、穂の国造に任せられ給いて治民の功多かりしかば、平井なる柏木浜に宮造りして斎いまつりしを、天武の白鳳十五年四月十一日、神の御悔(おしえ)のまにまに、秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給いしなり━━
直接徐福とは関係ないものの、まず「穂国造」について触れておきます。
「穂国造」について記述があるのは記と「先代旧事本紀」。ところが両書で食い違いが見られます。
*記の記述
開化天皇の条に、「(朝廷別王が)参河の穂の別の祖ぞ」と記されています。
朝廷別王(ミカドワケオウ)は丹波道主命の御子であり、いわゆる「丹後王国」の5代目国王。丹後国の海部氏と尾張国の尾張氏とは天火明命を始祖とする同族であり、隣国の穂国と関わりがあっても不思議ではないところ。
*「先代旧事本紀」の「天孫本紀」の記述
雄略天皇朝に「葛城襲津彦命四世孫、菟上足尼を穂国の国造に任じた」とあります。
上記の「小坂井町史」はこれを受けてのもの。
そもそも雄略天皇朝に国造任命というのは無く、国造任命は成務天皇朝のこと。
雄略天皇の御宇に穂国で、国造交替があったのではないかと見られています。
次に秦石勝。
秦河勝の子。秦河勝は秦氏の族長的な存在とされ、聖徳太子に重用された人物。石勝の目立った事蹟は特に知られていません。
◎秦氏と徐福
菟足神社が徐福と関わりがあるとしている一番の理由は、秦石勝が遷座に携わったということからだろうと思われます。
また町内には「秦」をはじめ、「羽田」「羽田野」姓を名乗る者が数十軒もあり、絹織物やそれに従事する者が多いという事例を上げています。
問題は秦氏と徐福の関連。
秦氏は「新撰姓氏録」にも「秦始皇帝の末裔」であると記されます。確かに徐福は秦始皇帝に仕えていたわけで、秦氏が徐福を奉っていたとも言えそうです。
だからといって秦氏が奉斎した神社をすべて、徐福と結び付けるのは早計かと思います。そしてもっとも大きな問題は、秦氏は百済系の氏族だったのではないかということ。
紀の応神天皇十四年に、始祖である弓月君(ユヅキノキミ)が百済よりやって来て帰化したとあります。「弓月」は朝鮮語で訓みは「クンダル」。これは「百済(クダラ)」のことではないのかとも。
秦氏の出自に関しては謎となっており、「新撰姓氏録」の記述と、「秦(しん)」と「秦(はた)」と共通の漢字が宛てられていることのみで、秦氏と徐福を結び付けるのは難があります。
◎銅鐸と徐福
小坂井町を始め宝井郡、渥美郡から多くの銅鐸が発見されています。そして「秦人の伝説と銅鐸との関係は離れないものがある」と書かれています。
小坂井町で出土した銅鐸は「三遠式」のもの。これは「三河」と「遠江」で出土することからの名称。「信濃」までを範囲としています。
比較的大きな銅鐸で、製作時期は弥生時代中期から後期のもの。1世紀末以降の製作とされます。
つまり徐福の渡来からは150年ほど後、またはそれ以降のこと。
また銅鐸を用いていたのは三輪氏、或いは三輪氏と政治連合体をもった物部氏とで象徴的に用いられたという説があります。
銅鐸は紀元前2世紀から使用されており、これは徐福の渡来前のこと。
残念ながら銅鐸は秦氏とも徐福とも関連がないようです。
*画像はWikiより
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。