咋岡神社 (京丹後市峰山町赤坂)


丹後国丹波郡
京都府京丹後市峰山町赤坂529
(駐車は下部写真にて)

■延喜式神名帳
咋岡神社の比定社

■旧社格
村社

■祭神
保食神


京丹後市峰山町の北部郊外、丘陵農村地帯の「赤坂」に鎮座する社。
◎当社はかつて豊宇賀能売命が降臨したという「比治山」の二つの候補地の一、「久次岳」(かつては「咋石嶽」)の山頂に鎮座する社であったとされます。
◎「峰山郷土誌」より直接関係ない箇所を略し、原文そのままを上げます。
━━宝暦三年(峯山明細記) 篠箸大明神 
文化七年(丹後舊事記) 吾歌佐歌村、祭神 篠箸大明神、豊宇賀能売命
咋岡神社は、むかし久次村の咋石嶽にまつっていた豊宇気持命であったが、一色の武臣飯田越前が神領や神殿の破却するのを惜んで、峯山に遷し、その後赤坂村にまつった。宇気持ノ神の化身が豊宇賀能メ命である。一説に、この遷宮は天正年中で…(以下略)
(注)「丹後舊事記」の別本によると、久次村を「比治の真奈為原」に、破却を惜みて…の次に「祭日を替えて、同体の神なりと赤阪村に祭る…」とあり、どちらかを誰かが添作したものと思われる。
天保十二年「丹哥府志」は、「久次村は咋(くい)がなまって久次(くじ)となり、今久次(ひさつぎ)と読む」と村名を解説し、咋岡神社は、「この久次村の久次ヶ嶽にあったが、応仁の頃(1466~67)一色義直の臣、飯田越前が赤阪村にうつしてまつり、そのわけはしらない。今は篠箸大明神といい、峯山家中の産砂神で、祭は九月九日である」として、天正年間(1573~83)以前に久次から直接赤阪に移したように書いている。
天正十年、吉原城主一色五郎義清の頃、赤坂砦を守っていたのは飯田越前であるが、約百年前の応仁年間といえば、おそらく飯田越前の父祖にあたる。
慶応四年「社寺奉行書上」 篠箸大明神二坐、保食命、草野姫命(御霊は二柱とも実幣)、「延喜式神名帳」にのっている咋岡神社はこれである。
「社記」咋石嶽の頂にあって、年数を経たので、神殿がたいへん荒れていたのを、天正年間、一色義直の家臣飯田越前が神徳を尊敬し、吉原ノ荘山祇山の艮(東北)の林に移し、神舎を建ててまつっていたが、その後峯山県(慶応四年四月から十一月まで)の主が、陣営をはじめて造営した時、さしつかえることがあって、今の地へうつしたのである。
(注)峯山県の主とは、初代高通の元和八年(1622)造営をいう。また天正頃は一色義直でなく義道であろう。
明治二年(峯山旧記) 祭祖 篠箸大明神、豊宇賀能売命。応仁年間、吉原城主一色四郎義遠(後、四郎義清と改める)の家臣飯田越前が、咋石嶽から勧請して、吉原城鎮護の神として、一色、細川、代々産土神にまつったが、京極家が入国して、元和八年十月、社と付近にあった民家を赤阪村に移して…(以下略)
いずれにしても、一色義直(応仁)、義道(天正)は、丹後一色党の宗家であって、吉原山城との直接関係はない。「峯山旧記」は、応仁説に従って、一色義遠(四郎義清)をとりあげて、時代を合わせたものであろう。
また、「丹波、丹後式内神社取調書」から「咋岡」の由来をしらべてみると、引例の中に、久次嶽の頂に二間四面の平な大岩があり、その岩の面に人の死んだ形があるのを、宇気持神の死んだお姿であるとして、この霊石を御神体におまつりしたもので、奇霊石岡(くいしおか)神社の意であるといっている。
明治十七年(府・神社明細帳) 祭神 保食大神
この「明細帳」によると、咋岡神社は奇井嵩(くしいだけ)の麓の神所段(苗代近く)にあったといっている━━
◎原始に「久次岳」山頂の霊石(「鏡岩」とも)を御神体として奉斎していたことが窺えます。いつしか社殿が設けられ、「神所段」(峯山、吉原ノ荘山祇山の艮、吉原城付近)に遷され、さらに現社地へと遷されたと思われます。
◎この霊石について同じく「峰山郷土誌」は、
━━神の死形があるという大岩(高十二尺、縦十八尺、横十三尺)は、登山路の中腹、杉林の中にあり、山腹から転落したもので、死形は岩が転倒したため下面となってみることはできない。この山は、久次農家の草刈場で、山頂まで牛を飼いに上ることもあり、頂は平地で、日本海の眺望がよい。
咋(くい)石(クシ)は奇石で、大きな岩が九個あるから、九石(くしい)の名がもとであるともいわれ、熊野郡では石(いし)が嶽とよんでいる。大石を神としてあがめたものであろう━━としています。
「久次岳(ひさつぎだけ)」の本来の訓みは「くじだけ」かと思われます。こちらでは九個あるから「九石」で「クシ」としていますが、定石通りに「奇(クシ)」と考えるのが妥当ではないかと。「霊妙である、神秘的である」といったところかと。
◎また「神所段(じんじょだん)」という地について、同じく「峰山郷土誌」は以下のように記しています。
━━苗代部落・近く神所段という所があり、その付近に「神主(かじ)やしき」、「お燈明田(とうみょうだ)」の地名が残っている。「大日本地名辞書」によると、赤坂の咋岡神社(祭神豊受大神)は、古代は比治山のふもとである神所段というところの山にあったが、天正年中に峰山の山祇山(やまずみやま)に移し、元和年中、今の赤坂村に移し、京極氏の氏神と崇め-とある。
また、古老の語るところでは、神所段は真名井大明神の故地で、雄略天皇は二十二年の七月七日(479)勅使大佐々に命じて、豊受大神の神霊をこの地から伊勢の度会にお迎えして(九月に伊勢着)外宮としてまつられたが、その跡に分霊をとどめておかれたのを、後、咋岡神社跡(久次部落の西北裏山の中腹)の上に移し(一説、大宮屋)、さらに、現在の社地に移したという。
咋岡と真名井の関係は全く複雑であるが、祭神が豊受大神(一名豊宇賀能売命)であることは変わらない━━
◎「真名井大明神」とは豊宇賀能売命(豊受大神、保食神)のこと。この地から伊勢外宮に遷されたのかどうかは諸説あり不明。
「苗代部落」というのは、現在の峰山町「二箇」に「苗代公民館」があるので、その辺りと思われます。こちらには豊受大神が苗代に籾を浸し撒いたという「月の輪田」と「清水戸」という史跡が残されています。比沼麻奈爲神社は西方奥地600~700mほど。こちらは「久次村」。また同じ「二箇」内には丹波道主命の居館跡で、娘の八乙女が豊受大神を奉斎していたという「船岡山」
◎以上の由緒等から、「比治眞名井」の候補の一つとしてもいいのではないかと考えます。比定されたのは比沼麻奈爲神社。争論に敗れ比定されなかったのは藤社神社ですが。

現在はそれらの故地とは少々離れた所に鎮座。ただしこちらにも弥生時代後期末の赤坂今井墳墓という、「丹後王国」黎明期の王墓がある地。また「赤坂」という地名からは水銀採鉱も考えられ、しかるべき地に遷されたという思いも。


車はこのように一の鳥居前に。民家の隣なので配慮は必要かと思います。


昭和二年の丹後大震災で社殿倒壊、七年に再建されたとのこと。









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