(大鳥大社境内 日本武尊像)





◆ 「土蜘蛛」 十三顧 (陸奥国 八槻の土蜘蛛)





記紀に表される「土蜘蛛」の記述を一通り終えました。漏れ無く抽出したつもりではいますが…。


そして今回からは、
諸国の風土記等に見える「土蜘蛛」を取り上げていきたいと思います。

時代は多少前後しますが、北から順に取り上げていきます。

今回は「陸奥国風土記」逸文より。


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「陸奥国風土記」は現存しません。
後の時代の文献に一部が載せられている、いわゆる「逸文」のみが残されています。こちらは「大善院舊記」より。

━━「陸奥国風土記」曰く「八槻」という地名の所以は、景行天皇の御宇、日本武尊が東夷を征伐しようと此の地に至り、八目の鳴鏑(矢)を賊に射て倒し、その矢が落下し着地した処である。正倉(穀物の保管蔵)が有り、神亀三年(726年)に「八槻」と改めた。

古老が伝えて曰く、昔此の地に八人の土蜘蛛がいた。「黒鷲」「神衣媛」「草野灰」「保保吉灰」「阿邪尔媛」「栲猪」「神石萱」「狭磯名」の八人。それぞれに一族を有し、八ヶ所の石室を拠点としていた。この八ヶ所は皆、要害の地であった。因って上からの命に従わなかった。国造が敗走した後は百姓が捕虜にされることが止まなかった。景行天皇の御宇、日本武尊が土蜘蛛征討の詔を受け派遣された。土蜘蛛は力を合わせ防御、そして津軽の蝦夷と共謀、たくさんの鹿や猪を射る弓矢を石の城柵に連ねて張り、官軍を射た。官兵は進むことができず歩みを止めた。日本武尊は槻弓槻矢を執り七発八発と射た。すると七発の矢は雷電を響かせ蝦夷の徒を追い散らし、八発の矢は土蜘蛛を射貫き立ったまま倒された。その土蜘蛛を射た矢には、悉く芽が生え槻の木と成った。それで「八槻郷」と云う(正倉が有る)。「神衣媛」と「神石萱」の子孫は会赦されて(許されて)郷中にいる。今に云う綾戸がそれである━━


◎長々と克明に記されています(訳文作成が大変でした…)。記紀の土蜘蛛とは大違い。

八人の土蜘蛛がいます。整理してみましょう。

*八人のうち二人だけ「神」が付されており、子孫は許されています。「神衣媛」と「神石萱」。射殺直前に服従を誓ったのでしょうか。原文では最後に「神衣媛與神石萱」となっています。この「與」が意味するところは…夫婦だった?

*女性首長(土蜘蛛)が二人います。「神衣媛」と「阿邪尔媛」。いわゆる巫女(シャーマン)だったと思われます。

*「灰」の付されるのが二人います。「草野灰」と「保保吉灰」。兄弟だった?と考えてみたくはなります。


◎「土蜘蛛」と「蝦夷」が明確に区分されています。ヤマト王権にとっては多少違えども同じ括りのはずですが。
いろんな考え方があるでしょうが、陸奥国に住む人を「土蜘蛛」とし、津軽(平安末期までは陸奥国に含まれない)に住む人を「蝦夷」と扱っていたのではないかと。


◎興味を引くのが陸奥国造は逃げ出し、日本武尊は征討に成功したと。しかもなにやら雷電を響かせて…などかなり盛られています。日本武尊の英雄譚の一つとみるべきでしょうか。


◎「八槻」の比定地は福島県東白川郡棚倉町八槻であるとのこと。この地には都々古別神社が鎮座します。
式内名神大社の論社で、もう一社の論社である同名社がすぐ近くに鎮座します(いずれも未参拝)。両社ともに日本武尊を祭神の一柱とし、尊の当地での活躍により創祀されたと伝わります。




八槻の都々古別神社(画像はWikiより)