景行天皇の九州巡幸の際に祀られたという、肥後国玉名郡の疋野神社(画像はWikiより)。





◆ 「土蜘蛛」 十二顧 (弟熊・津頰 )





記紀その他文献に「土蜘蛛」などとして、ヤマト王権に「まつろわぬ者」たちとして誅された「賊」たち。

その「土蜘蛛」等に焦点を当て、顧みようという企画もの。今回で十二回目の記事となりました。


前回の記事に引き続き、景行天皇の九州遠征中に起こった「土蜘蛛」征伐を。

今回はその遠征の最終回となります。


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◎日向を出立し、都へ戻ろうとしていた景行天皇。紀に「土蜘蛛」らしき記述が見られます。

景行天皇十八年夏四月、「熊縣」に至ります。そこには熊津彦という2人の兄弟がいました。天皇は先に兄熊の元に使いを送りましたが、使者に従い天皇の元へ詣でてきました。次に弟熊の元へ使いを送りますが、来なかったため兵を派遣し誅しました。

記述はあっさりとしたもので、兵を派遣し誅したとだけ。どのような人物であったのか、どのようなことをしていたのか、等々一切記されていません。

「熊縣」の比定地は、肥後国球麻郡(熊本県の南東端部)。日向に近い所。

神武東征時の「兄猾・弟猾」にしろ…
同じく「兄磯城・弟磯城」にしろ…
出雲神宝事件の「出雲振根・飯入根」にしろ…

常に兄が従わず、弟が従うというパターン。
ところがここだけ唯一?逆のパターン。

これを理解するにはとても困難ですが、おそらく鍵となるのは当時の「末子相続制」。

長兄が祭祀というもっとも重責を担い、末子は祭祀により授かった教えを実行するという立場。長兄は自らの命を差し出してでも守らねばならないことがあるのです。結局は守られてはいないのですが…。

本題に戻します。

一ヶ月前の三月に筑紫から都に戻ろうとしていた天皇ですが、なぜか「熊縣」へ南下しています。順序が入れ替わっているのかもしれませんね。日向→熊縣→筑紫の順ではなかったかと。



◎六月の記述には相手は「土蜘蛛」と明記されています。

景行天皇十八年六月、「高来縣」から「玉杵名邑」へ渡りました。そこにいる土蜘蛛 津頰(ツツラ)を殺しました。

あっさりし過ぎ!何も伝わっていなかったのでしょうが、これでは土蜘蛛も浮かばれない!

「高来縣」は肥前国高来郡(長崎県北高来郡・南高来郡)に比定、「玉杵名邑」は肥後国玉名郡(熊本県玉名市)に比定。




今回は「土蜘蛛」、らしき者とで2者。
顧みるほどにはならなかったですが…。




大和国城上郡の景行天皇陵