天武天皇・持統天皇が足繁く行幸を重ねた「吉野離宮」があった「宮瀧遺跡」(「吉野歴史資料館」より)。





◆ 「真の持統女帝」顕彰 
~反骨と苦悩の生涯~ (2)





前回の記事にて持統天皇のごく簡単なプロフィールを紹介したのですが…
「諱」を敢えて紹介せずに終わりました。

意図があり敢えてそうしたのですが、その意図したことを忘れてしまった…。


O型男子なんてこんなものです。
決して信用しちゃいけません。

今回もプロフィールの続きです。

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■過去記事
* (序)
* ~(1)
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■諱
鸕野讚良(ウノノササラ、ウノノサララ)

何と美しい名前でしょうか。娑羅羅馬飼造の下で育てられたからのようです。


■父母
父 … 天智天皇
母 … 遠智娘

遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘。蘇我氏の宗家は「乙巳の変」で没しましたが、こちらは傍系。「乙巳の変」にも加担しています。


■祖父
蘇我倉山田石川麻呂


■子
草壁皇子

27歳の若さで旅立った皇子。この皇子を即位させるために鸕野讚良は苦心したのです。かなり先のことですが触れていくことになります。


■兄弟姉妹
同母姉 … 大田皇女
同母弟 … 建皇子

大田皇女は大海人皇子(後の天武天皇)の妃。大海人皇子が即位前に薨去しています。大來皇女と大津皇子が生まれています。

既定路線でいけば、大田皇女が天武天皇の皇后となるはずだったのです。ところが即位前に薨去したため鸕野讚良(持統天皇)が皇后となったのです。

周知の通り大津皇子は持統天皇により嵌められて自害したのです。持統天皇が自分の子である草壁皇子を皇位につけたかったため。

姉の子ですよ!
こんなことがあり得るのか?

当時はあり得たのです。

建皇子は話すことができない皇子でした。血が濃すぎるのか…或いは谷川健一氏が提唱する水銀中毒なのか…(→【古事記神話】もの言わぬホムチワケ皇子のためならの記事参照)

この時代ならやはり血が濃すぎるからでしょうか。


■孫
軽皇子(第42代文武天皇)
氷高皇女(第44代元正天皇)
吉備内親王

第40代が天武天皇、第41代が持統天皇、第43代が元明天皇。
草壁皇子は阿陪皇女(元明天皇)と婚姻し上記の三子女が生まれています。皇子と結婚したのは即位前のこと。

持統天皇に触れる場合はこの皇統がとても大事になってきます。

なお曾孫に第45代聖武天皇らがいます。




今回もこの辺までにしておきましょうか。
ちょびちょびとやっていきます。